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しおりを挟む「あ! お勤めお疲れ様でーす!」
ーー……は?
風邪を引きそうなくらい、寒気がした。
六十里の心境と、能天気なナツメの声色の温度差に、身震いがした。
スーパーを通り過ぎて直ぐの信号機に引っかかったのだ。それを計算していたかの様に、そこに立っていたナツメが声をかけて来た。
「……どちら様ですか?」
昼間仕事場を訪問したであろうナツメに会っていなかった六十里。
きっと彼は昼間からこんな感じだったのだろう。
ーームカつく。ムカつく。ムカつく!!
一人で感傷に浸り、身勝手に温度差を生んだ自覚があった彼女。
自業自得と言えど、理不尽と言われようと。僅かながらも抵抗を見せようと嫌味を吐いた。
「やだな~! どう見ても、ナツメのなっちゃんじゃないですか~!」
「……昨日とは別人だったもので」
「またまた~! そんな事言っても、今日は何も奢りませんよ!」
「……褒めた覚えはないですけど」
「褒められたなんて一言も言って無いですけどぉー!?」
「…………」
「何々? 昨日とは別人みたいにカッコよく粧し込んだこの僕が別人に見えた、その心は~??」
「…………なんかムカつく」
「えええ~っ!?」
今日、仕事場で交わした数回の会話を思い出す。
『まあ、カッコいい子だったしね』
『昨日入ったカッコいいお兄さん辞めちゃうカラー』
『あー、これね。昨日入ったイケメンからのヤツだから』
六十里以外が、このナツメと遭遇していたのだろう。今思えば、不自然な程に皆が口にしていた。
ーー確かに。これはイケメンだ。
作業着姿でも充分に整っていると感じていたナツメが、今日は背広姿だった。
昨日は櫛を通しただけに見えた髪も、男性の割には長めで、綺麗だと感じさせた。
その黒髪は更に磨きがかかって、艶やかだった。
隠れていた耳と額が覗き、表情もしっかりわかる。清潔感ある髪型でセットされていた。
昨日縮めた距離も虚しく、その姿に圧倒される。
乱暴に突き放してやりたいのに、緊張して言葉が堅苦しくなる現状が、もどかしかった。
*****
そのまま立ち去ろとするも虚しく。一回り大きいナツメに、自転車ごと捕らえられてしまった。
昨日と同様、駐輪場に連れて来られた。
今日も今日とて。昨日と同じ時間帯の駐輪場は、2人の貸切状態だった。
程よい人気のなさと静けさが漂っていて、心地よさを感じ始めている2人がいた。
「仕事、辞めたんですね。」
「ハナビさんには靴箱に別で用意しといたんですけど、気付いてくれました?」
「仕事辞めた人間と、どうやって“これからも仲良く”しろと?」
「甘いもの好きだと思って~。結構有名店の……フィ……フィッシュみたいな名前の奴、美味しかったですか?」
「ええ、フィナンシェ、とーーーっても、美味しかったです!! で、仕事辞めちゃって、どーするつもりなんですか!?」
「んー……仕事仲間以外? てか、それ以上の関係になれば良くないですかー?」
「それ以上って……私との事じゃなくて!! 生活、大丈夫何ですか!?」
六十里の言葉を話半分に、噛み合わない会話が続いて行く。
「あ! 例えば~……秘密を共有する、とか」
「はあっ?? ひ、秘密っ?」
「昨日言ったじゃないですか~、話聞くって」
「それは、その……仕事辞める理由には直結しないんじゃ無いですか?!
辞めた理由……お、教えられないわけ!?」
余裕のある、全てを見透かした様な薄い笑み。細くなった瞳。また、飲み込まれそうになる感覚が彼女を襲う。
ーーまた、あの顔だ。
閉ざされ唇の端がつり上がるも、直ぐに口は開く。
言葉が吐き出され始めると、あの表情の彼は消えた。
「あの仕事場に行く目的が果たせたから。
新たに目的が出来たけど、あの仕事場にいる必要がないから、です」
「目的、って?」
「僕ばっかり情報出させるんですかー?」
「ごめん。でも、私は何教えたら良いか……」
「”時を止める能力“について、教えてくださいよ」
「ああ……あれ。ははは、咄嗟についた、嘘だよ」
ーー今が、嘘だった。
先程消えたと思った薄い笑みの彼が、また顔を出す。
「僕も似たような力があるって言ったら、話してくれる?」
「……え。本当?」
「うん、本当に本当。話してくれたら、話す。信じられない?」
「……わかった」
ーー時を、止める。
こう言ったら言葉足らずと言うか、意味が違って来るのかもしれない。
自分以外のすべての物の時間が止まり、自分の時間だけが流れる。
その場から移動する事は出来ない。
地面に着いた足の裏が、離れない感覚。移動が出来ないだけで、それ以外は動かす事が出来る。
目も見える。呼吸も出来る。声も出せる。しかし、回りに認知させることは出来ない。
手も動かせるし、立ったり座ったりする事も出来るが、足が張り付いていると同様なので、スクワット状態になり……正直、辛い。
あまり動こうとは思わせない空間。
手が届く距離にある物や人に触る事は出来るが、それを動かす事は出来ない。
身につけた服は自分の体として動かせるが、手に持っていた物は時を止めたその位置から動かす事が出来なかった。
時間が止まった状態で手に持っていた携帯から手を離すと、宙に浮いたまま動かせなくなった事があった。
勿論携帯としての役目は機能しておらず、使えなかった。
時の流れを戻す前に、携帯の下に手を添えて置く。
元の状態戻すと携帯は重力したがって手の中に落ちてきて、正常に起動していた。
その光景は、記憶に新しい。
結局の所、自分だけが違う時間の流れの空間に行く事が出来る、とでも言ったら良いのだろうか。
フィクションの世界の様に、他人を巻き込んだり、何かに影響を与える様な事は出来なかった。
「手首のこれ。君には見え無い……よね?」
六十里は裾をまくり、白い右手首を見せた。手のひらの下辺りを、円を書く様に、もう片方の手の指でなぞって見せた。
「血管、ですか?」
「ハハハ……私には、刺青みたいのが見えてるんだよね。
数字が無くて、針が一本の時計みたいなヤツ」
その針は、時を止め、解除した後は、必ず変化している。針が動いているのだ。
ーー時間が増えている。それとも、減っている……とでも言うのだろうか。
能力を使った量を、表しているのかも知れない。
「いつの間にか動いてる時もあるから、基準がわからないんだよね……」
「それ、寝てる時も無意識に使ってるんじゃ無いですか?」
「寝てる時?」
「僕にもあるって言った、似たような能力の話ですけど……時間が止まったのを認識出来るんです」
「認識? それって……私の現象と関係あるの?」
「まあ、憶測なんですけどね。」
そう前置き、ナツメは話出した。
現象が起き始めた当初。
ナツメにとっては、『自分以外の時間が止まった』と言う認識では無く、不意に襲う金縛か、発作か何かと思っていた。
年単位の付き合いになって来てやっと、その現象の本質に気付いたのだ。
その場から移動出来ないだけで、体には一切害は無い。病気では無い何かである事がわかってきた。
ーー本当に、体に害は無いのだ。
何度そう回りに訴えても、聞き入れて貰えなかった。
謎の現象から解放された、と言う事実を認識出来ない人間にとっては、突然話が噛み合わなくなるナツメと居合わせた事になる。
ナツメの事を思うが故、回りの人間はナツメを精神面で心配した。
元々住んでいた環境のストレスが原因だろう、と勝手に推測されたナツメは、引っ越しを余儀なくされ、引っ越した。
引っ越し後の、ここ一年前位からだった。
とある物を基準に、その現象が来るのが予測出来る様になったのだ。
「それが、ハナビさんのいた会社のチャイムなんです」
「……!!」
六十里の勤める会社は、お昼休み開始時間に特徴があった。
11時50分、12時、12時10分ーー規則性は無く、変化する。
その日の仕事の進み具合や、社食の到着時間が影響している。
それによって終業時間、残業時間も影響していた。
「ハナビさん、仕事場で仮眠取ってるじゃ無いですか。それやり始めたの、一年前くらいからじゃ無いですか?」
「確かに……そうだけど。私、それ話たっけ?」
「仕事場の電気が遅くまで点いてた日。残業があった日って、家に帰って気を失うほどの眠気とか襲いませんか? 最近だと先週の金曜日です」
「確かに……その日は帰って直ぐ寝落ちしたけど」
「意識して寝る夜は、大丈夫なんでしょうけど……疲れてて沢山寝たいって時、無意識で能力使ってるんじゃ無いですかね?」
ーーあの空間で眠って、現実の時間より多く睡眠時間を取ってた……って事?
「もしかして、昨日会社で昼休みに私に話しかける前も……」
「そうです。作業場に向かう途中で……時間が、止まりました」
「そうだったんだ……」
「週末とか、昼休みとか。社会人には共通の疲れてる時間の現象だったんで、最初は自分の能力で時間を止めてるんだ! ……って、勘違いしましたよ」
『いつの間にか動いてる時もあるから』
ーー手首の時計の針が動いている。そう感じたのは、寝て目覚めた時だった。
ナツメに話しかけられる直前もそうだ。
日頃から感じていた、良く眠れた感覚と、チャイムが鳴ってからの時間経過の違和感は、勘違いではなかったのだ。
ーーピースがどんどん繋がって、埋まっていく。
「会社にいる時。移動途中って事は……。
時が止まってる時の私に、接触してないんだよね?」
六十里の声は震えた。その言葉の意味がナツメにもわかっているのか、何かを言おうとするが、一度飲み込んだ様子だった。
「ハナビさんの名前って、植物の花に、美しい、って漢字で合ってますよね?」
見当違いな返答。質問で返されたそれに返事をしようにも、言葉が詰まる。
ナツメはその様子を見て、スマホを弄る。何かを画面に準備し、見せられる状態にすると、続けた。
「ハナビって。花に火……打ち上げ花火の花火じゃ、無いですよね?」
その質問の意味が、分かった気がした。
次に出て来るであろう名前も、何となく予想がついてしまった。
「何で……そんな事聞くの?」
「ハナビさんは、この現象についてネットや本で調べたりしなかったですか?
僕は、結構調べたんです」
「それと、私の名前なんかに、何の関係が……」
「カオル……草冠の“カオル”の字です。この文章と人物に、身に覚えは無いですか?」
ーーカオル。薫。
曖昧な説明にも関わらず、六十里の脳内には直ぐにその漢字が思い浮かんだ。
六十里花美を“花火”と呼ぶ、薫と名乗るその人物。
その男を、六十里は知っていた。
ナツメの見せたスマホ画面は、日記を書き公開出来るサイトの、記事のページだった。
【 花火 ゴメン。 】
ーータイトル横に書かれた作者名は、『薫』の一文字だった。
書かれた日付は、10年前。すぐに分かった。作者の名前も、言葉も、日付も。
全てに身に覚えがある。
六十里にとって、忘れたくも忘れられない日付けだった。
忘れるにも、同じ数字が並ぶゾロ目。特徴的な日付で、頭にこびりついた。
ーー忘れられなかった。
「何で……それ、君が書いたの?」
「違います。実は……僕にこの現象が起き始めたの、この日付辺りなんです」
察しが付いていても、とぼけ続けてしまった。
ーー認めたく無かった。受け入れたく、無かった。
XX月XX日。ゾロ目のその日付には、幾つかの薄っぺらい記念日があり、世間がそれを理由に浮かれる中、六十里は違った。
誰にも理解されないXday。それが、今日終わろうとしているのか。
それとも、始まろうとしているのか。
「君はその日記、読んだ?」
「読みました。でも、これ……もしかすると、エッセイ風小説かもしれないんです」
「その日記。読んでも良いかな? ……きっとね、知ってる人のだと思う」
「だ、誰なんですか?! 連絡取れないんですか?! そしたら……」
「死んじゃった」
ナツメは口を閉ざす。六十里の言葉を待った。
ーーもう隠す必要なんて……曖昧にする必要なんて、無い。
「私の……好きな人。好きだった人なの。私のせいで、死んじゃった」
誰にも言えずにいた罪を、初めて口に出した代償は、大きかった。
言葉にならない声と大粒の涙が溢れて止まらなくなる。
崩れ落ちそうな六十里をナツメが抱え込んだ。六十里の涙は彼のシャツ下の胸まで濡らす。
ーー新品同然のスーツが、躊躇させた。
そのまま強く抱きしめたい気持ちを、機動性の悪いスーツは抑制した。
六十里が強く握りしめた腕に、皺が寄る。
そこに視線を落とすと、ハッとした六十里は手の力を緩めて離れようとした。
ーー邪魔、するなよ。
他の者には悟られない様に。彼女の声を溢れ漏らさない様に。
逃げようとした彼女を、強く。
ナツメは強く抱きしめた。
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