31 / 67
第六章 遠い音楽
赤い紙
しおりを挟む
『だって、おじいちゃん。おばあちゃんと、ちゃんと話したことある?』
まあ「昭和の男」どころか「大正の男」な祖父に、あまり期待は出来ないのだが。
『今さら何をちゃんと話せえ言うんや』
案の定、祖父は眉を顰めている。
『え、だってさ、小学校の先生やろ? 今みたいに大学で教員免許取るんと違って、女子高等師範学校とか言うところに行かんと取れへん資格やったって聞いてるけど』
そもそも両親の時代くらいまでは、高卒で就職する道の方が、大学に行くそれよりも広い道だったと聞いている。
父も母も高校卒業後、今ではそれなりに名の知れた旅行会社に就職していて、そこでの職場恋愛から結婚している。
大学における教員養成が科目として必須になったのは、戦後の教育改革以後の話だと言う。
田舎で兄弟姉妹の多い家庭に生まれた祖母は、実家の家計を助ける意味でも手に職をつけねばと考え、自分が憧れた小学校の先生を目指したようなのだ。
当時の師範学校というところは、男女共に学費は無料、全寮制で衣食住に関わるほとんどが支給されていたらしい。
だからある意味、菜穂子の「東京一人暮らし」に関しても、祖母自身は過保護な反対をしなかったくらいだ。
そうして程々の年齢になり、祖母の姉妹が皆嫁ぎ先を決めたところで、親が顔見知りだった縁で、祖父との婚約が成立している。
寿退職の準備をしなくては――となっていたところに赤紙招集があり、退職の話はいったん保留。
終戦後に祖父が帰還してくるまで、再び「先生」を続けていたのだ。
『……そうや。家のために苦労して資格を取って、学費タダやから言うて実家に仕送りもして。朝から晩まで働き通しやったって志緒の親は言うてたわ。はよ嫁にして貰て、実家のことはもう考えんでええように、幸せにしてやってくれって』
祖父の側から聞く初めての結婚にまつわる話に、菜穂子どころか八瀬青年もちょっと興味深げだった。
なるほど、と呟いている声が菜穂子の耳にも届いていた。
どちらにしても古い時代の男性らしく、かなり俺様要素が強い。ただ、強いとは思うが祖父は祖父なりの想いがあったと言うことなんだろう。
『そやけど、俺が赤紙なんぞ受け取ってしもたさかいに、結婚が先送りになった。お国の為に頑張ってきて下さい言うて送り出されはしたけど、俺はその頃区役所に就職して間なしやったから、何とはなしに世間の報道程に日本が有利やない言うのは察せられとった。もしかしたら一緒になれへんかも知れん――俺もそうやったけど、深町の家も高辻の家も、口には出さんなりに思てたとは思う』
それでも国からの強制命令である以上はどうしようもない。
いつかは帰る、必ず帰ると、信じて東南アジアの戦地を移動していたらしい。
『まあ、結果的に敗戦間近での出征やったんは、運が良かったんかもしれん。こんなこと言うたら、同じ戦地で命を落とした同胞には申し訳がたたんのやけど』
そうポツリと言葉を洩らした祖父の表情は、一瞬せつなげに歪んでいた。
『そやけど、俺は日本に戻れた。戻れたから、いの一番に志緒の所へ行った。それは、そうやろう。俺の婚約者や。俺が幸せにしてやるて高辻のご両親にも誓うたんや。戦地にいた分、倍以上に幸せにしてやらなと思たんや』
『おじいちゃん……』
『言うても、戦後復興期言うのは思てた以上に大変やった。本当は兄貴がおって、深町の家を継ぐはずやったのに、兄貴は出征から戻って来んかった。気楽な次男の嫁のはずが、いきなり深町本家の嫁にならなあかんようになったし、俺も深町の家を支えられるだけの稼ぎを得られるよう、役所での仕事を増やさなあかんかった』
そう言えば、と菜穂子は祖父母宅の仏壇の上に飾られている遺影を思い起こした。
祖父のお兄さん、と祖母に教わった写真があったような気がする。
おじいちゃん、本当はこの家の跡取りやなかったんよ――とも確かに聞いた気がする。
曾祖父だけはギリギリ菜穂子の記憶にあるものの、それ以外の血縁関係者は既に故人としての認識で、あまりハッキリとは覚えていなかったのだが。
『しかも俺が死ぬ直前は、透析や。週に何度も病院に付き添わなあかんようになって、そのうち自分の足も悪くしてた。ロクに旅行にも連れて行ってやれんかった。菜穂子らが家族旅行や言うてどこなと出かけてるのは、俺は本当は心苦しかった』
ああ……と、菜穂子は胸がキリリと締め付けられた。
旅行会社勤務の両親は、確かに小さい頃から菜穂子を時々旅行に連れて行ってくれた。
おじいちゃんの透析がある、おばあちゃんの足のこともある――と、祖母は笑って「行ってらっしゃい」と言ってくれていたけれど。
また、どっか行くんか。仕方ない奴やなぁ――と、祖父も苦笑いで見送っていたけど。
その度に、祖父の胸には後悔とやるせなさが降り積もっていたのか。
『そやからな。三途の川を渡ったんなら、もうええやろうと思たんや。もう何もせんでええ。極楽浄土とやらでのんびり過ごしたらええ。行く資格がない言うなら、俺が何を引き受けてでも作ってやる。もうこれ以上志緒を働かすな。おまえは、そう思わへんのか。おばあちゃんに、ゆっくりして欲しないんか』
『……それは……』
口惜しいことに、菜穂子はすぐに反論することが出来なかった。
まあ「昭和の男」どころか「大正の男」な祖父に、あまり期待は出来ないのだが。
『今さら何をちゃんと話せえ言うんや』
案の定、祖父は眉を顰めている。
『え、だってさ、小学校の先生やろ? 今みたいに大学で教員免許取るんと違って、女子高等師範学校とか言うところに行かんと取れへん資格やったって聞いてるけど』
そもそも両親の時代くらいまでは、高卒で就職する道の方が、大学に行くそれよりも広い道だったと聞いている。
父も母も高校卒業後、今ではそれなりに名の知れた旅行会社に就職していて、そこでの職場恋愛から結婚している。
大学における教員養成が科目として必須になったのは、戦後の教育改革以後の話だと言う。
田舎で兄弟姉妹の多い家庭に生まれた祖母は、実家の家計を助ける意味でも手に職をつけねばと考え、自分が憧れた小学校の先生を目指したようなのだ。
当時の師範学校というところは、男女共に学費は無料、全寮制で衣食住に関わるほとんどが支給されていたらしい。
だからある意味、菜穂子の「東京一人暮らし」に関しても、祖母自身は過保護な反対をしなかったくらいだ。
そうして程々の年齢になり、祖母の姉妹が皆嫁ぎ先を決めたところで、親が顔見知りだった縁で、祖父との婚約が成立している。
寿退職の準備をしなくては――となっていたところに赤紙招集があり、退職の話はいったん保留。
終戦後に祖父が帰還してくるまで、再び「先生」を続けていたのだ。
『……そうや。家のために苦労して資格を取って、学費タダやから言うて実家に仕送りもして。朝から晩まで働き通しやったって志緒の親は言うてたわ。はよ嫁にして貰て、実家のことはもう考えんでええように、幸せにしてやってくれって』
祖父の側から聞く初めての結婚にまつわる話に、菜穂子どころか八瀬青年もちょっと興味深げだった。
なるほど、と呟いている声が菜穂子の耳にも届いていた。
どちらにしても古い時代の男性らしく、かなり俺様要素が強い。ただ、強いとは思うが祖父は祖父なりの想いがあったと言うことなんだろう。
『そやけど、俺が赤紙なんぞ受け取ってしもたさかいに、結婚が先送りになった。お国の為に頑張ってきて下さい言うて送り出されはしたけど、俺はその頃区役所に就職して間なしやったから、何とはなしに世間の報道程に日本が有利やない言うのは察せられとった。もしかしたら一緒になれへんかも知れん――俺もそうやったけど、深町の家も高辻の家も、口には出さんなりに思てたとは思う』
それでも国からの強制命令である以上はどうしようもない。
いつかは帰る、必ず帰ると、信じて東南アジアの戦地を移動していたらしい。
『まあ、結果的に敗戦間近での出征やったんは、運が良かったんかもしれん。こんなこと言うたら、同じ戦地で命を落とした同胞には申し訳がたたんのやけど』
そうポツリと言葉を洩らした祖父の表情は、一瞬せつなげに歪んでいた。
『そやけど、俺は日本に戻れた。戻れたから、いの一番に志緒の所へ行った。それは、そうやろう。俺の婚約者や。俺が幸せにしてやるて高辻のご両親にも誓うたんや。戦地にいた分、倍以上に幸せにしてやらなと思たんや』
『おじいちゃん……』
『言うても、戦後復興期言うのは思てた以上に大変やった。本当は兄貴がおって、深町の家を継ぐはずやったのに、兄貴は出征から戻って来んかった。気楽な次男の嫁のはずが、いきなり深町本家の嫁にならなあかんようになったし、俺も深町の家を支えられるだけの稼ぎを得られるよう、役所での仕事を増やさなあかんかった』
そう言えば、と菜穂子は祖父母宅の仏壇の上に飾られている遺影を思い起こした。
祖父のお兄さん、と祖母に教わった写真があったような気がする。
おじいちゃん、本当はこの家の跡取りやなかったんよ――とも確かに聞いた気がする。
曾祖父だけはギリギリ菜穂子の記憶にあるものの、それ以外の血縁関係者は既に故人としての認識で、あまりハッキリとは覚えていなかったのだが。
『しかも俺が死ぬ直前は、透析や。週に何度も病院に付き添わなあかんようになって、そのうち自分の足も悪くしてた。ロクに旅行にも連れて行ってやれんかった。菜穂子らが家族旅行や言うてどこなと出かけてるのは、俺は本当は心苦しかった』
ああ……と、菜穂子は胸がキリリと締め付けられた。
旅行会社勤務の両親は、確かに小さい頃から菜穂子を時々旅行に連れて行ってくれた。
おじいちゃんの透析がある、おばあちゃんの足のこともある――と、祖母は笑って「行ってらっしゃい」と言ってくれていたけれど。
また、どっか行くんか。仕方ない奴やなぁ――と、祖父も苦笑いで見送っていたけど。
その度に、祖父の胸には後悔とやるせなさが降り積もっていたのか。
『そやからな。三途の川を渡ったんなら、もうええやろうと思たんや。もう何もせんでええ。極楽浄土とやらでのんびり過ごしたらええ。行く資格がない言うなら、俺が何を引き受けてでも作ってやる。もうこれ以上志緒を働かすな。おまえは、そう思わへんのか。おばあちゃんに、ゆっくりして欲しないんか』
『……それは……』
口惜しいことに、菜穂子はすぐに反論することが出来なかった。
3
あなたにおすすめの小説
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
【完結】奇跡のおくすり~追放された薬師、実は王家の隠し子でした~
いっぺいちゃん
ファンタジー
薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。
地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。
「――もう、草とだけ暮らせればいい」
絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。
やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる――
「あなたの薬に、国を救ってほしい」
導かれるように再び王都へと向かうレイナ。
医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。
薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える――
これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる