47 / 67
第九章 八月の長い夜
糠に釘、豆腐にかすがい(2)
しおりを挟む
『せんせぇー!』
扉を閉めに行こうとする八瀬青年から、確かに一瞬、舌打ちが聞こえた。
珍しい。
少なくとも外面、もとり表面上は人当たりのいい八瀬青年が、こうも苛立ちを見せるとは。
顔見知りになって数日とは言え、菜穂子でもそこはちょっと意外に思った。
『せんせぇー! おうたー! さっちゃんのうた、うたってくれるってゆったー‼』
『…………さっちゃん』
それ以上は、八瀬青年がピシャリと扉を閉めてしまったので、言葉ではなく音としてでしか子どもの声が捉えられなくなった。
『すみません、騒がしくしてしまって。すぐにここの官吏に賽の河原に戻させますので』
『あ……でも、もうちょっと聞きたかった……かも?』
ただ、条件反射のようにうっかりとそう口にしてしまい、祖父母と八瀬青年の視線が不思議そうにこちらを向いた。
『どないしたん、菜穂子』
そう声をかけてきたのは、祖母だ。
『あの子のことは、菜穂子は気にせんでもええよ』
もしかしたら、皆があの子に意識を向けているからと、拗ねているように見えたのかも知れない。
気にしなくてもいいと言いながら、私の頭の上にふわりと手を乗せてくれる。
やっぱり直接は触れないみたいだけど、それでも柔らかい何かが髪に触れたのは感じたような気がした。
『歌はあとでちゃんと歌ってくるさかいに』
『なんでやねん』
ただ菜穂子が何か答えるよりも早く、秒で祖父が祖母に対してツッコミを入れていた。
漫才でもないのに。
どう見ても素の表情で、祖父はいかにも「気に入らない」と言った感じに、両腕を組んでそっぽを向いていた。
『放っといたらええやろう。そんなんやったら、ちょっとゴネたら志緒が言うこと聞いてくれるて、いらん知恵つけよるやないか』
それは、一見すると祖母が子どもにばかりかまけていることへの嫉妬のようで、よくよく聞けば子育ての真理とも言える。
そこは八瀬青年も『あぁ……』と、妙に納得の表情を浮かべていた。
祖母だけが、ちょっと困ったかのように微笑んでいる。
『まあ……生きてたらそうかも知れへんけど、もう死んでしもてるさかいに……それが心残りや言うんやったら、出来る限りのことをしてあげたいのも本当やしねぇ……』
『……っ』
激昂しての反論ではないだけに、祖父も、そして八瀬青年も強くは出れずにいるようだった。
菜穂子としても、当の子どもの気持ちを思うとピシャリとはねつけるのもどうかと思ってしまうので、ここはちょっと子どもの話を広げてみることにした。
この際祖父を折れさせるには、何の話題でも喰いついてみようと思ったからだ。
『おばあちゃん。あの子「さっちゃん」の歌を歌てくれ言うてさっき叫んでたけど、やっぱり名前が「サチコ」やからとか、そんなんで?』
――そして、その後続けられた祖母の言葉に、菜穂子は驚愕をすることになる。
『そうや。あの頃は「サチコ」とか「カズコ」とか「ヨウコ」とかが、女の子で多い名前の代表格みたいなもんやったさかいにな。声がしてるあの子も確かに「サチコ」や。辰巳幸子。ああ、苗字までは別に言わんでよかったな』
『え……辰巳幸子⁉』
既に部屋の扉は閉められていたので、声のほとんどは外には洩れなかっただろうけど、それでも相応の声はその部屋に響いたに違いなかった。
『そうや。そのまんま「さっちゃん」やろう?』
『…………わぁ』
この時点では、他に言いようがなかったかも知れない。
思わぬところで耳にしたその名前に、菜穂子はとっさに次の言葉が吐けなくなってしまっていた。
『なんや、おまえ。あの子ども知っとんのか。いや、生きてるうちに逢うてたらおかしいわな』
ほな、子どもとか孫とかか……? などと祖父がぶつぶつ言ってるのが聞こえるが、菜穂子自身まだハッキリとはさっきの話を頭の中でまとめ切れていない。
『んー……』
菜穂子は、何と説明したものかと指でこめかみをグリグリ揉み解す仕種を受かべて見せた。
扉を閉めに行こうとする八瀬青年から、確かに一瞬、舌打ちが聞こえた。
珍しい。
少なくとも外面、もとり表面上は人当たりのいい八瀬青年が、こうも苛立ちを見せるとは。
顔見知りになって数日とは言え、菜穂子でもそこはちょっと意外に思った。
『せんせぇー! おうたー! さっちゃんのうた、うたってくれるってゆったー‼』
『…………さっちゃん』
それ以上は、八瀬青年がピシャリと扉を閉めてしまったので、言葉ではなく音としてでしか子どもの声が捉えられなくなった。
『すみません、騒がしくしてしまって。すぐにここの官吏に賽の河原に戻させますので』
『あ……でも、もうちょっと聞きたかった……かも?』
ただ、条件反射のようにうっかりとそう口にしてしまい、祖父母と八瀬青年の視線が不思議そうにこちらを向いた。
『どないしたん、菜穂子』
そう声をかけてきたのは、祖母だ。
『あの子のことは、菜穂子は気にせんでもええよ』
もしかしたら、皆があの子に意識を向けているからと、拗ねているように見えたのかも知れない。
気にしなくてもいいと言いながら、私の頭の上にふわりと手を乗せてくれる。
やっぱり直接は触れないみたいだけど、それでも柔らかい何かが髪に触れたのは感じたような気がした。
『歌はあとでちゃんと歌ってくるさかいに』
『なんでやねん』
ただ菜穂子が何か答えるよりも早く、秒で祖父が祖母に対してツッコミを入れていた。
漫才でもないのに。
どう見ても素の表情で、祖父はいかにも「気に入らない」と言った感じに、両腕を組んでそっぽを向いていた。
『放っといたらええやろう。そんなんやったら、ちょっとゴネたら志緒が言うこと聞いてくれるて、いらん知恵つけよるやないか』
それは、一見すると祖母が子どもにばかりかまけていることへの嫉妬のようで、よくよく聞けば子育ての真理とも言える。
そこは八瀬青年も『あぁ……』と、妙に納得の表情を浮かべていた。
祖母だけが、ちょっと困ったかのように微笑んでいる。
『まあ……生きてたらそうかも知れへんけど、もう死んでしもてるさかいに……それが心残りや言うんやったら、出来る限りのことをしてあげたいのも本当やしねぇ……』
『……っ』
激昂しての反論ではないだけに、祖父も、そして八瀬青年も強くは出れずにいるようだった。
菜穂子としても、当の子どもの気持ちを思うとピシャリとはねつけるのもどうかと思ってしまうので、ここはちょっと子どもの話を広げてみることにした。
この際祖父を折れさせるには、何の話題でも喰いついてみようと思ったからだ。
『おばあちゃん。あの子「さっちゃん」の歌を歌てくれ言うてさっき叫んでたけど、やっぱり名前が「サチコ」やからとか、そんなんで?』
――そして、その後続けられた祖母の言葉に、菜穂子は驚愕をすることになる。
『そうや。あの頃は「サチコ」とか「カズコ」とか「ヨウコ」とかが、女の子で多い名前の代表格みたいなもんやったさかいにな。声がしてるあの子も確かに「サチコ」や。辰巳幸子。ああ、苗字までは別に言わんでよかったな』
『え……辰巳幸子⁉』
既に部屋の扉は閉められていたので、声のほとんどは外には洩れなかっただろうけど、それでも相応の声はその部屋に響いたに違いなかった。
『そうや。そのまんま「さっちゃん」やろう?』
『…………わぁ』
この時点では、他に言いようがなかったかも知れない。
思わぬところで耳にしたその名前に、菜穂子はとっさに次の言葉が吐けなくなってしまっていた。
『なんや、おまえ。あの子ども知っとんのか。いや、生きてるうちに逢うてたらおかしいわな』
ほな、子どもとか孫とかか……? などと祖父がぶつぶつ言ってるのが聞こえるが、菜穂子自身まだハッキリとはさっきの話を頭の中でまとめ切れていない。
『んー……』
菜穂子は、何と説明したものかと指でこめかみをグリグリ揉み解す仕種を受かべて見せた。
3
あなたにおすすめの小説
【完結】奇跡のおくすり~追放された薬師、実は王家の隠し子でした~
いっぺいちゃん
ファンタジー
薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。
地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。
「――もう、草とだけ暮らせればいい」
絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。
やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる――
「あなたの薬に、国を救ってほしい」
導かれるように再び王都へと向かうレイナ。
医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。
薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える――
これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
追放された味見係、【神の舌】で冷徹皇帝と聖獣の胃袋を掴んで溺愛される
水凪しおん
BL
「無能」と罵られ、故郷の王宮を追放された「味見係」のリオ。
行き場を失った彼を拾ったのは、氷のような美貌を持つ隣国の冷徹皇帝アレスだった。
「聖獣に何か食わせろ」という無理難題に対し、リオが作ったのは素朴な野菜スープ。しかしその料理には、食べた者を癒やす伝説のスキル【神の舌】の力が宿っていた!
聖獣を元気にし、皇帝の凍てついた心をも溶かしていくリオ。
「君は俺の宝だ」
冷酷だと思われていた皇帝からの、不器用で真っ直ぐな溺愛。
これは、捨てられた料理人が温かいご飯で居場所を作り、最高にハッピーになる物語。
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
巻き込まれて異世界召喚? よくわからないけど頑張ります。 〜JKヒロインにおばさん呼ばわりされたけど、28才はお姉さんです〜
トイダノリコ
ファンタジー
会社帰りにJKと一緒に異世界へ――!?
婚活のために「料理の基本」本を買った帰り道、28歳の篠原亜子は、通りすがりの女子高生・星野美咲とともに突然まぶしい光に包まれる。
気がつけばそこは、海と神殿の国〈アズーリア王国〉。
美咲は「聖乙女」として大歓迎される一方、亜子は「予定外に混ざった人」として放置されてしまう。
けれど世界意識(※神?)からのお詫びとして特殊能力を授かった。
食材や魔物の食用可否、毒の有無、調理法までわかるスキル――〈料理眼〉!
「よし、こうなったら食堂でも開いて生きていくしかない!」
港町の小さな店〈潮風亭〉を拠点に、亜子は料理修行と新生活をスタート。
気のいい夫婦、誠実な騎士、皮肉屋の魔法使い、王子様や留学生、眼帯の怪しい男……そして、彼女を慕う男爵令嬢など個性豊かな仲間たちに囲まれて、"聖乙女イベントの裏側”で、静かに、そしてたくましく人生を切り拓く異世界スローライフ開幕。
――はい。静かに、ひっそり生きていこうと思っていたんです。私も.....(アコ談)
*AIと一緒に書いています*
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる