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第一章
第一章 ~『命乞い ★美蘭視点』~
しおりを挟む~『美蘭視点』~
夜の闇が深まり、静まり返った街を、美蘭はふらつく足取りで歩いていた。彼女の手には安酒の瓶が握られており、すでに半分以上が空になっている。
酒の匂いを漂わせる美蘭は不安定な足取りで、人気のない路地裏を進む。時折、体が揺れては壁に手をつきながら、バランスを取っていた。
「私はお金持ちになれるはずだったのに……」
美蘭の唇から酒に酔った呟きが漏れる。かつて思い描いた未来の自分は、卿士婦人として屋敷で暮らし、美しい衣装に身を包みながら、周囲から羨ましがられる存在だった。
だが美蘭の夢は趙炎の無能が原因で崩れ去った。あんな男に人生を賭けた自分が愚かだったと、腹立たしい気持ちで一杯になっていく。
「誰か私を幸せにしなさいよ~」
酔っ払いながら、美蘭は路地裏で叫ぶ。すると、その声に反応したように、人影が近づいてくる。
美蘭は酔いのせいで気づくのに遅れたが、視界にいたのは絶世の美女だった。
月明かりに照らされた姿は、どこか妖しげだが、服装から上流階級の出自だと推察できる。護衛も連れずに路地裏に一人でいることに疑問を抱いていると、彼女は音もなく美蘭に歩み寄ってくる。
「ここにいたのね」
「……あんた、誰よ?」
「私は妲己。雪華の親友よ」
美蘭をここまで追い詰めた元凶の名を耳にして、美蘭の酔いが吹き飛ぶ。鋭い視線を向けると、妲己は歪な笑みを返した。
「反省の色がないようね」
「私は悪くないもの! 悪いのはぜ~んぶ、趙炎の奴よ!」
「でも雪華の命を奪う計画は、あなたの発案でしょう?」
「だったらどうだって言うのよ! 私を警吏にでも突き出すつもり?」
「歯には歯を。目には目を。命を奪おうとしたあなたには、死を以て報いとするわ」
妲己の言葉は底冷えするような冷酷さを秘めていた。危機に直面していると理解した美蘭は、懐から刃物を取り出す。
「わ、私はね、戦場で娼婦をしていたのよ。命の危機にもその都度、対処してきた。そんな私をやれるとでも?」
「ふふ、声が震えているわよ」
「――ッ……私は……怯えてなんて……」
冷静に考えれば、負ける理由はない。二人の体格に大きな違いはなく、美蘭の手には刃物も握られている。
だが理屈ではなく、動物的な直感が妲己の危険性を告げていた。説明できない恐怖が心中に渦巻いていく。目の前に立つ彼女が普通の人間ではないと肌で感じ取ったからこそ、本能が声を震わせていた。
「この姿に戻るのは何年ぶりかしらね……」
妲己の声が低く響く。美蘭がその言葉の意味を理解する間もなく、妲己の体に異変が起こり始める。彼女の姿が徐々に変化し、その輪郭が歪み始めたのだ。
妲己の美しい姿は徐々に変貌を遂げ、巨大な狐の化け物となる。大きな九本の尻尾が揺れ、生き物のように空を切っていた。目は鋭く光り、毛並みは金色に輝いている。美蘭の目の前に現れたのは、伝説の怪物――九尾の狐そのものだった。
「――――ッ」
美蘭は化け物と叫びそうになるのをグッと堪える。相手は美蘭の命を容易に奪える存在だ。不興を買うわけにはいかない。
「わ、私が悪かったわ。謝るから。どうか許して……」
美蘭は膝をつき、妲己の足元で顔を伏せる。命乞いする声は震えており、一切の強がりも残っていなかった。
「雪華にも二度と近づかないと誓うわ。だからどうか命だけは……」
美蘭は涙を流しながら、必死に懇願する。だが返ってきたのは思いも寄らない反応だった。
「冥土の土産に面白い話を聞かせてあげる。私には一人娘がいてね。先代皇帝との間に生まれた愛娘なの……もっとも後宮の権力争いから遠ざけるために秘密裏に養子にしたから私が母だと知らないけどね」
「一人娘……」
「あ、もちろん狐じゃないのよ。私より夫の血の方が濃かったのか、動物と話せる力以外は普通の人間と変わらないから。でもね、世界でたった一人の私の大切な家族なの」
「その娘は……まさか……」
「言わなくても、もう分かるわよね。だから私はあなたを許さないの」
巨大な九尾の狐が足を振り上げる。美蘭はその足がゆっくりと自分の背中に降ってくるのを感じながら悲鳴を漏らす。
「待って! 許してください! 何でもしますから!」
美蘭は恐怖で足が絡まり、身動きが取れずにいた。全身を硬直させながら、絶望のままに叫ぶが、降ってくる脅威は止まらない。
このままでは命がない。そう察した美蘭は頭を回転させ、ある結論へと辿り着く。
「わ、私は雪華にとって有益な情報を持っているわ!」
美蘭の悲鳴混じりの声が静かな夜空に響く。その結果、妲己の動きがピタリと止まる。話だけは聞いてやる。その意図を感じ取った美蘭は慌てて口を開く。
「せ、雪華には行方不明の弟がいるでしょう。命を救ってくれるなら、居場所を教えるわ!」
「どうして、あなたが知っているの?」
「偶然、戦場で知り合ったの。事故に遭い、記憶を失っていたけれど、あの男が雪華の弟だと趙炎が口にしていたから間違いないわ……!」
妲己の瞳に不信と疑念が交錯する。その視線は美蘭を貫くように向けられ、彼女が嘘をついているかどうかを判断しようとする意思が込められていた。
「本人に雪華の弟だと伝えなかったの?」
「彼がもし領地に戻れば、次の卿士の立場を奪われるもの。教えるわけにはいかなかったの」
自己中心的な美蘭の考えに嫌悪を覚えるが、その情報が妲己にとって有益なのは事実だった。
「価値ある情報に免じて、命だけは助けてあげる」
「あ、ありがとうございます! 本当に……ありがとうございます!」
命を拾った安堵で美蘭は感謝を繰り返す。一方の妲己は笑みを零す。
「私なら失った記憶を取り戻せるわ。そうすれば、雪華は領主の責務から解放される。私と一緒にいられる時間も増やせるわね」
独り言のように呟くと、その言葉に希望を感じ取ったのか、美蘭は瞳を輝かせて安堵する。
「それじゃあ、私はこれで……」
「待ちなさい」
「まだなにか?」
「私は命を救うと約束したわ。でも罰を下さないとは一言も口にしてないわよね」
妲己の声は冷たく、場を凍らせる。そして九尾の狐の尾が鋭く動き、美蘭の顔に触れると、青い炎が彼女の肌に広がっていった。
「な、なに……!? 顔が……熱い!」
美蘭は絶叫し、両手で顔を押さえる。しかし、触れた皮膚の感触は滑らかさを失い、粗く歪んだものへと変貌していく。これまで彼女が誇っていた美貌は跡形もなく消え失せ、醜悪な皺が深く刻まれたのだ。
「女を武器にして生きてきたあなたには、これほど重い罰はないでしょう」
妲己の声は冷酷で、冷たい刃のように美蘭の心を貫く。彼女は崩れ落ちると、泣きながら醜い顔を覆った。
「こんな……こんなの、酷すぎる……!」
妲己は冷ややかな瞳で美蘭を見下ろすと、冷静に言い放つ。
「後悔しながら生きなさい」
その言葉を最後に、妲己は踵を返して、闇の中へと消えていく。その背中には、雪華のためなら何でもすると、確固たる決意が漂っているのだった。
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