後宮画師はモフモフに愛される ~白い結婚で浮気された私は離縁を決意しました~

上下左右

文字の大きさ
9 / 39
第二章

第二章 ~『離縁と無礼者』~

しおりを挟む


 雪華せっかは後宮にある礼房れいぼうを訪れていた。ここは公的な手続きを行う場所であり、過去に婚姻届けを提出した時以来の訪問だった。

 礼房れいぼうの一角には、木製の長机がいくつも並べられ、宦官たちが筆を手にしている。彼らは無表情のまま、文面を確認したり、朱印を押したりする作業を続けている。机の脇には籠が置かれ、そこには受理された書類が積まれていた。

 香炉から漂う淡い香りが、役所特有の厳粛さをさらに引き立てており、宦官たちは淡々とした手つきで公務を進めている。

 雪華せっかは目当ての人物を探すため、室内を見渡す。すると、机の奥で朱印を押していた一人の宦官が、ふと顔を上げた。

「おや、雪華せっか礼房れいぼうに来るとは珍しいな」

 静慧せいけいは懐かしげに微笑む。痩せた体に墨染めの衣を纏い、背筋を伸ばした理知的な佇まいを持つ宦官で、その薄い眉と細長い黒い瞳は冷静な印象を与えている。雪華せっかにとっては旧知の間柄でもあった。

「……もしかして駄目だったか?」

 何がとは口にしない。静慧せいけい雪華せっかの身に何が置きたかを察していたからだ。

「浮気されてしまいまして……」
「趙炎だからな。あいつは男の俺から見ても駄目な奴だった」
「結婚したら変わると期待したんですけどね……」
「人は悪い方に変わるのは簡単でも、良くなる方に変わるのは困難だからな。趙炎のような欲に流されやすい奴だと特にな……でもまぁ、良かったんじゃないか。あの一年があったから、今の雪華せっかがある。だろう?」
「認めるのは癪ですがね……」

 趙炎が消えた一年は雪華せっかを大きく成長させた。それは領主としての能力だけでなく、画師としてもそうだ。

 趙炎への怒りが芸術に昇華され、後宮に画師として招かれるほどの実力に達したのだ。不本意ではあるが、彼の不貞がなければ、今の雪華せっかはいなかった。

「実際、雪華せっかの絵の評判は凄くてな。礼房れいぼうの壁に飾ってある暴れ馬の絵があるだろ。その絵を売ってくれと頼まれたことが何度もあるほどだ」

 静慧せいけいの視線の先に飾られた水墨画は、前脚を高く上げ、今にも駆け出しそうな勢いで暴れ馬が描かれている。

 墨の濃淡が絶妙に使い分けられ、馬の躍動感がいっぱいに広がっている。瞳は怒りに満ちて見開かれ、口元からは荒い息を吐き出しながら、たてがみが風に逆立つ様が生き生きと表現されていた。

「この絵は私の中でも挑戦的な作品だったので、褒められると嬉しいですね」
雪華せっかの作品は繊細さを売りにした絵が多いものな」
「でも、この馬の力強さは、作品に残したいと思えるほどに魅力的でした。その分、じゃじゃ馬でしたが……」

 雪華せっかは絵に描かれた馬を思い出しながら、小さく微笑む。すると静慧せいけいも懐かしそうに目を細める。

「あれは手強かったな……でも、雪華せっかがその馬を大人しくさせてくれた。あれは見事だったよ」

 それは雪華せっかの動物と話せる異能のおかげで解決した事件の一つだった。馬とのコミュニケーションの結果、暴れているのは、毎日の食事が少ないからだと分かり、量を増やす代わりに大人しくするようにと交渉したのである。

「昔話はこれくらいにして。離縁届けを受け取ろうか」
「ではこちらをお願いします」

 雪華せっかは懐から取り出した書類を丁寧に両手で差し出す。静慧せいけいはそれを受け取り、机の上で静かに広げると、内容を確認して、しっかりと朱印を押す。印を押す音が、趙炎との関係を終わらせたことを実感させた。

「これで無事に独身だな。次の縁談はどうするんだ」
「まだ決まっていません。なにせ別れたばかりですから」
「候補もいないのか? ほら、例えば、家令の男がいたよな」
「李明様は有力候補なのですが、最後の手段にして欲しいと断られてしまって……」

 李明は雪華せっかに好意的だ。だがそれは恋人というより、兄が妹に向けるような感情に近い。

 大切な人だからこそ、幸せになるなら同世代の人と結ばれて欲しいというのが、李明の望みだった。

「なので結婚相手はこれからじっくり探そうと思っています」
「いいや、それはマズイな」
「どうしてですか?」
「領地を治める卿士は、原則的に男である必要がある。雪華せっかがこの一年、領主代行を務めていたのは、趙炎が戦争に招集されたから特別に許されていただけだ」
「つまりすぐに跡継ぎとなる縁談相手を探さなければならないと?」
「三ヶ月以内だな。もしそれを超えたら、雪華せっかの意思を無視して、縁談相手があてがわれる可能性もある」
「それは避けたいですね……」

 健全に領地が運営されることは国家にとって重要だ。そのため、正式な領主が必要な理屈も理解できる。

 ただそうなると雪華せっかの感情は無視される。家柄や経験などから国家にとって最も都合の良い相手が割り当てられ、そこに拒否権はない。最悪の場合、趙炎のような浮気癖の強い男が婚姻相手になる可能性さえある。

「良い男を紹介してやりたいが、雪華せっかは離縁したばかりだからな……難しいかもしれないが、頑張って探してみるよ」
「素敵な殿方を期待しています」
「期待はほどほどで頼む。ちなみに理想はあるのか?」
「浮気しない人がいいですね」
「そればかりは保証できないな。ただ真面目で優しい男を探してみるつもりだ」
「お願いします」

 雪華せっかが礼儀正しく一礼すると、後ろから聞き慣れない声が割り込んできた。

「話は聞かせてもらったぞ」

 雪華せっかが振り返ると、そこには見覚えのない中年男性がいた。黒い短髪が無造作に伸びており、荒れた浅黒い肌や粗雑な身なりが印象を悪くしている。不遜な笑みを浮かべる彼に、雪華せっかは目を細めた。

「あなたは?」
「俺は呂晃りょこう。丁度、離縁したばかりでな。再婚相手を探していたのだ」

 呂晃りょこうと名乗った男は、まるで獲物を狙う猛禽類のように、鋭い目で雪華せっかを上から下まで観察する。その口元には薄っすらと嘲笑が浮かんでいた。

「顔は整っていて、悪くない。色気はないが、そこは我慢してやる。俺との縁談を喜んでいいぞ」

 呂晃りょこうは不遜な笑みを浮かべ、軽く肩をすくめる。そのあまりの無礼さに、雪華せっかは眉をひそめた。

(こんなに失礼な人が世の中にはいるのですね)

 趙炎とは違ったタイプの最低な人種だった。雪華せっかは冷たい視線に軽蔑を込めるが、呂晃りょこうは気にも留めていない。

雪華せっか、この男は止めておけ」

 隣で一部始終を見ていた静慧せいけいが、呆れたように小さくため息をつく。

「二度も浮気をして離縁されてるような奴だ。間違いなく、三度目もある」
「あの二回の浮気は俺が悪いわけじゃない。俺を満足させられなかった妻たちが悪いのだ」
「ほらみろ、こういう奴だ」

 静慧せいけいの助言を聞くまでもない。雪華せっかの中で答えは決まっていた。

「縁談はお断りします」

 雪華せっかの言葉に呂晃りょこうの笑みが消える。険しい顔つきになり、不機嫌そうに唇を結んだ。

「生意気な女だな。貰い手がいないのも納得だ」
「その言葉、そっくりそのまま、自分にも当て嵌まると気づいていますか?」
「うるさい! 貴様は俺の言う事に黙って従っていればいいんだ!」

 呂晃りょこうは苛立ちを爆発させ、雪華せっかの腕を掴もうと手を伸ばす。その手は大きく、力強い。礼房れいぼうの空気が一瞬にして張り詰めた。

 だが雪華せっかは動じない。彼の手が触れる前に、素早くその腕を掴み、体重を巧みに預けたのだ。

「なにっ!」

 次の瞬間、呂晃りょこうの大柄な体が宙に舞う。素早い動きで投げ飛ばされた彼の体は、空中で回転し、礼房れいぼうの床に激しく叩きつけられる。

 呂晃りょこうは床を転がり、背中を押さえながらうめき声を漏らす。

「いったい何が……」
「私が投げました」
「なんだとっ!」

 非力な雪華せっかに投げられたことに驚いていると、静慧せいけいが笑いを堪えて肩を揺らす。

雪華せっかは職業柄、危険な動物を相手にする機会も多いからな。その護身術の腕前は並の男よりも上だ。相手が悪かったな」

 対話できるとはいえ、それが失敗すれば、暴れる馬や狼に襲われることもある。動物を描く画師だからこそ、雪華せっかは暴力に対して身を守る術を会得していたのだ。

「クソッ、覚えていろよ!」

 呂晃りょこうは立ち上がると、捨て台詞を吐いて、礼房れいぼうの出口へよろよろと向かう。その背中を見送りながら、雪華せっかは微かにため息をついた。

「最低の人でしたね」
「だが三ヶ月以内に相手が見つからない場合、ああいう男と婚姻を結ばされる可能性がある」

 最悪のケースを想定して、雪華せっかはゴクリと息を飲む。幸せな結婚を手に入れるためにも、必ず相手を見つけてみせると、決意を新たにするのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。

夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。 辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。 側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。 ※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。

地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに

reva
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。 選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。 地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。 失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。 「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」 彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。 そして、私は彼の正妃として王都へ……

追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する

3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
 婚約者である王太子からの突然の断罪!  それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。  しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。  味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。 「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」  エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。  そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。 「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」  義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。

断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる

葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。 アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。 アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。 市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。

悪役令嬢、記憶をなくして辺境でカフェを開きます〜お忍びで通ってくる元婚約者の王子様、私はあなたのことなど知りません〜

咲月ねむと
恋愛
王子の婚約者だった公爵令嬢セレスティーナは、断罪イベントの最中、興奮のあまり階段から転げ落ち、頭を打ってしまう。目覚めた彼女は、なんと「悪役令嬢として生きてきた数年間」の記憶をすっぽりと失い、動物を愛する心優しくおっとりした本来の性格に戻っていた。 もはや王宮に居場所はないと、自ら婚約破棄を申し出て辺境の領地へ。そこで動物たちに異常に好かれる体質を活かし、もふもふの聖獣たちが集まるカフェを開店し、穏やかな日々を送り始める。 一方、セレスティーナの豹変ぶりが気になって仕方ない元婚約者の王子・アルフレッドは、身分を隠してお忍びでカフェを訪れる。別人になったかのような彼女に戸惑いながらも、次第に本当の彼女に惹かれていくが、セレスティーナは彼のことを全く覚えておらず…? ※これはかなり人を選ぶ作品です。 感想欄にもある通り、私自身も再度読み返してみて、皆様のおっしゃる通りもう少しプロットをしっかりしてればと。 それでも大丈夫って方は、ぜひ。

婚約破棄されたので聖獣育てて田舎に帰ったら、なぜか世界の中心になっていました

かしおり
恋愛
「アメリア・ヴァルディア。君との婚約は、ここで破棄する」 王太子ロウェルの冷酷な言葉と共に、彼は“平民出身の聖女”ノエルの手を取った。 だが侯爵令嬢アメリアは、悲しむどころか—— 「では、実家に帰らせていただきますね」 そう言い残し、静かにその場を後にした。 向かった先は、聖獣たちが棲まう辺境の地。 かつて彼女が命を救った聖獣“ヴィル”が待つ、誰も知らぬ聖域だった。 魔物の侵攻、暴走する偽聖女、崩壊寸前の王都—— そして頼る者すらいなくなった王太子が頭を垂れたとき、 アメリアは静かに告げる。 「もう遅いわ。今さら後悔しても……ヴィルが許してくれないもの」 聖獣たちと共に、新たな居場所で幸せに生きようとする彼女に、 世界の運命すら引き寄せられていく—— ざまぁもふもふ癒し満載! 婚約破棄から始まる、爽快&優しい異世界スローライフファンタジー!

地味だと婚約破棄されましたが、私の作る"お弁当"が、冷徹公爵様やもふもふ聖獣たちの胃袋を掴んだようです〜隣国の冷徹公爵様に拾われ幸せ!〜

咲月ねむと
恋愛
伯爵令嬢のエリアーナは、婚約者である王太子から「地味でつまらない」と、大勢の前で婚約破棄を言い渡されてしまう。 全てを失い途方に暮れる彼女を拾ったのは、隣国からやって来た『氷の悪魔』と恐れられる冷徹公爵ヴィンセントだった。 ​「お前から、腹の減る匂いがする」 ​空腹で倒れかけていた彼に、前世の記憶を頼りに作ったささやかな料理を渡したのが、彼女の運命を変えるきっかけとなる。 ​公爵領で待っていたのは、気難しい最強の聖獣フェンリルや、屈強な騎士団。しかし彼らは皆、エリアーナの作る温かく美味しい「お弁当」の虜になってしまう! ​これは、地味だと虐げられた令嬢が、愛情たっぷりのお弁当で人々の胃袋と心を掴み、最高の幸せを手に入れる、お腹も心も満たされる、ほっこり甘いシンデレラストーリー。 元婚約者への、美味しいざまぁもあります。

処理中です...