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第二章
第二章 ~『理不尽と権力者』~
しおりを挟む雪華は後宮の静かな回廊を進んでいた。薄暗い道の先にある礼房の扉を見つめ、彼女は心に僅かな緊張を感じる。
礼房の前に立つと、雪華は深呼吸をしてから扉を開ける。すると彼女の到着を待っていたかのように、見慣れない男が控えており、にやりと薄笑いを浮かべた。
「話は聞いている。婚姻届けを提出しに来た雪華だな」
「あなたは?」
「司礼の張狂だ。今日から貴様の担当になる。よろしくな」
その言葉には不愉快な響きが込められており、雪華は心にひっかかりを覚える。彼が一筋縄ではいかない人物であることが感じ取れた。
「こちらが婚姻届けです。受け取ってくれますね?」
雪華は懐から書類を取り出す。それは李明との婚姻届けだ。
当初、兄に近しい立場の彼からは、同世代と結ばれて欲しいと婚姻を断られていた。
しかし呂晃の登場により、事態は急変した。もし彼が新しい領主になれば、雪華だけでなく、領民たちも苦しむことになる。そのような状況を脱するためにも、李明は雪華との婚姻に同意したのだ。
(ただ根回しされているとのことでしたから、この婚姻届けが通るかどうか……)
呂晃からは無駄だと聞かされているが、本当にそうかは確認してみないと分からない。だからこそ李明との婚姻届けを提出しに来たのだが、急に担当が張狂になったことからも悪い予感を覚えていた。
「残念だが、これは受け取れんな」
張狂は手渡された書類を面白がるような仕草で見つめ、小馬鹿にするように笑う。
「どうしてですか?」
「この李明という男、領主経験がないではないかっ」
「ですが優秀な方です」
「平民の中ではそうなのかもな。だが我ら後宮はより相応しい者を用意してある」
「……呂晃様ですか?」
「知っていたのなら話が早い。呂晃は卿士の家系で生まれ、領主代行の経験もある。後宮としてはより相応しい者が、領地を運営すべきだと判断したのだ」
「そんな横暴な……」
張狂の無茶な言い分に雪華は眉を顰める。救いを求めるように礼房を見渡すが目当ての人物は見つからない。
「静慧様はいらっしゃらないのですか?」
「……どうしてあいつの名前が出てくる?」
張狂の声には苛立ちが含まれていた。逆鱗に触れたのだと分かるが、雪華は怯まない。
「静慧様なら私の言い分を理解してくれるはずですから」
張狂の目つきが冷たくなり、苛立ちを隠さなくなっていた。静かな空気の中で、二人の視線が鋭く交わり、まるで火花が散るかのように張り詰めた雰囲気が漂う。
「あいつは不在だ。それに、本件の担当は俺だ。その俺の判断が不服だというのなら、いくらでも不満を口にすればいい。この決定は後宮全体の総意だから覆ることはない」
雪華の反論を一蹴する彼の声には、あくまで自分の決定が絶対だと言わんばかりの断定的な響きが込められていた。
その言葉に雪華が反論しようとした時、礼房の扉が開かれる。空気に緊張が漂い、宦官たちはすぐさま背筋を伸ばして、頭を下げる。
雪華も振り返ると、そこにいたのは太妃の立場にある妲己だった。
妲己は華麗な衣装を纏い、ゆっくりとした歩みで雪華へと歩み寄る。その優雅な佇まいは、ただその場にいるだけで花が咲いたようだった。
「話は聞いていたわ。それで、、雪華の望む結婚をさせないのが後宮の総意とはどういうことかしら?」
「そ、それは、その……」
言い淀む張狂に対し、妲己は底冷えするような視線を向ける。答えが返ってこないと分かったのか、すぐに視線を張狂から外す。
「司礼長はいるかしら!」
「は、はい」
礼房の奥から老人の宦官が姿を現す。背を低く曲げ、足取りはやや覚束ないが、礼を尽くす姿勢で、妲己に向かって深々と頭を下げている。小柄な体と縮こまった姿勢が、長年の後宮勤めで培った謙虚さと従順さを物語っていた。
「太妃様、このような場所にお越しいただいて恐れ入ります……それで本日はどのような御用で?」
「雪華が礼房に来ていると聞いたから顔を出したのよ。そしたら、この男が職権を乱用しているのを目にしたの……彼は後宮に相応しくない人物よ。即刻、クビにする手続きを進めなさい」
その言葉を受けた張狂は、動揺を隠しきれないまま顔を真っ青にする。彼は慌てて弁明しようとするが、妲己の冷たい視線が彼の言い訳を封じ込めるかのように鋭く突き刺さっていた。
「あ、あの、その……」
唇を震わせる張狂は言い訳が通用しないと悟っていた。どうにか許しを請うしかないと覚悟を決めて、両膝をついて土下座する。
「どうかお許しください、 太妃様!」
だが謝罪に妲己の心は揺るがない。
「私に謝るの?」
冷ややかな対応に、張狂はさらに身を縮める。彼女は本当に謝罪すべき相手は別にいると暗に告げていた。
張狂は仕方なく雪華の方に向き直ると、屈辱に耐えるように顔を歪めて再び頭を下げた。
「大変なご無礼をお許しください。どうか、この愚か者に寛大なお心を!」
雪華は張狂の姿を冷静に見つめ、しばらくの間、沈黙を保っていた。自尊心を打ち砕かれた彼の姿が、雪華の心にわずかな憐れみを生んだからだ。
「もう結構です。あなたを許します」
雪華は張狂の謝罪を受け入れると、妲己に深く礼をする。
「妲己様に助けられましたね。おかげで呂晃様との婚姻を避けられそうです」
「役に立てたなら何よりね……それと、この件に関して実はあなたに朗報があるの。焦って結婚しなくても良くなる方法を見つけたの」
付いてきて欲しいと妲己に促され、雪華は背中を追う。やがて太妃宮にたどり着くと、その一室へと通される。
扉の奥の部屋は柔らかな光に包まれて、香が漂っていた。そして室内には、一人の若い男が佇んでおり、雪華は彼に心当たりがあった。
「華凌……ですか?」
「久しぶりだね、姉さん」
幼い頃の面影を残しつつも、その姿は記憶よりも一層たくましく成長していた。
鍛え抜かれた筋肉質な肉体に加え、背も高くなっている。聡明な顔つきは変わらず、端正な目元には知性が宿っていた。
「心配したのですよ……っ……」
雪華はその場に立ち尽くし、夢か現実かわからない思いで彼を見つめた。再会の瞬間が訪れたことに心を揺さぶられ、抑えきれない感情が溢れ出してくる。目尻には僅かに涙が浮かんでいた。
「今までどこで何をしていたのですか?」
「しばらく記憶を失っていてね。戦場にいたんだ……でも太妃様のおかげで、こうして無事に戻ってこれた。もう姉さんが重責を背負う必要もなくなったんだ」
事情は妲己から聞いているのだろう。彼はすべてを知っているとでも言わんばかりに柔和な笑みを浮かべる。
「僕が領主になる。だから無理に結婚相手を探す必要もない。これからはすべて僕に任せて欲しい」
華凌は頼りがいのある言葉を告げると、雪華の手をそっと握る。その温かい手が彼女の心を癒し、今まで感じていた重圧から解放される。
「これで、問題解決ね」
妲己が微笑みながら、静かに言葉を添える。彼女が取り計らってくれたからこそ弟と再会できたのだ。雪華は深く感謝の念を抱き、頭を下げる。
「妲己様、弟を見つけていただいて、本当にありがとうございました」
「私と雪華の仲だもの。これくらい、お安い御用よ」
妲己の視線は柔らかく、雪華を見つめる目には慈しみが宿っている。雪華はその優しさを感じ取り、再び妲己に向かって礼を返すのだった。
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