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第二章
第二章 ~『承徳との出会い』~
しおりを挟む行方不明になっていた華凌と再開してから数十日が経過した。この短い間にも彼は新しい領主として辣腕を振るい、領民たちからの評価を高めている。
『新しい領主は若いのに優秀だ』
『華凌様のおかげで、領地が活気づいている』
『将来は安泰だな』
そのような声があちこちから聞こえてきた。
以前から聡明な弟であったが、それに加えて、冷静で的確な判断力が伴うようになっていた。領民たちの彼に対する信頼の声を耳にするたびに、雪華は誇りと安堵を感じていた。
(華凌がいれば私はお役目御免ですね)
代行として一年間、領地を治めてきたがもう必要ない。さらに華凌が正式な領主となってくれたおかげで、雪華が無理に結婚する理由もなくなったのだ。
(自由になれたのですね……)
重責から解放された雪華は、心が軽くなったのを実感していた。これからは自分の人生を謳歌できる。結婚相手も家のためではなく、本気で愛した人を選べるようになったのだ。
(でも恋愛は当分、遠慮したいですね……今は何よりも絵に集中したいですから)
雪華の画師としての実力はまだまだ発展途上だ。だがいつかは国で最も優れた画師になる。それこそが彼女の叶えたい望みだった。
(そのためにも日々、精進あるのみですね)
絵を描き続けた先に夢の実現が待っている。そう信じる彼女は、いつものように妲己からの依頼を受けて、後宮を訪れていた。
太妃宮の私室に足を運ぶと、炉から漂う香りが出迎えてくれる。妲己もまた雪華の訪問を歓迎するように微笑み、その姿はそれだけで絵になっていた。
「よく来てくれたわね」
「妲己様のご依頼であればいつでも参りますとも」
「今日はね、この子の絵を描いて欲しいの」
妲己はふわふわとした毛並みの子猫を腕に抱えていた。柔らかな茶と白の毛色を持ち、小さな足と丸い瞳がなんとも愛らしい。腕の中でおとなしく身を任せ、穏やかな表情で雪華を見つめている。
「とても可愛い子猫ですね。妲己様が飼われているのですか?」
「宮女の一人が世話している子猫を借りたの。大人しい子だから、私にもすぐに懐いてくれて……きっと雪華も気に入るはずよ」
雪華はジッと子猫を見つめる。軽く頭を撫でると、「にゃー」と愛らしい声が返ってくる。その反応を受けて、彼女の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「分かりました。今日はこの子を描かせていただきますね」
「可愛い絵を期待しているわね」
「任せてください」
雪華は動物と話せる力がある。モデルにするため、大人しくしていて欲しいと優しい口調で語りかけると、「にゃにゃ」と鳴き声を返してくれる。
了承を得られたことを確認した雪華は筆を手に取って、軽やかに動かし始める。小さな肉球やふわふわの毛、愛らしく揺れる尻尾など、その姿を細部まで丁寧に描き写す。
時折、子猫が退屈そうにしていると、雪華は筆を止めて対話を楽しむ。妲己もその光景を優しい目で見守り、時間は緩やかに過ぎていった。
「完成しました」
雪華は慎重に筆を置き、描き上げたばかりの水墨画を妲己に差し出す。絵の中の子猫は、まるで生きているかのように愛らしく、柔らかそうな毛並みまで丁寧に描き込まれていた。
妲己はその絵をじっと見つめ、穏やかな微笑みを浮かべた。
「上手ね。子猫の可愛らしさが本当によく表現されているわ」
「ご期待に答えられたようで何よりです」
「雪華は画師としてますます成長しているわ。その才能をもっと磨きたいと思わない?」
妲己の問いの真意は読み取れない。だがその言葉の響きで、これが大切な話だとは理解できた。雪華は、続く言葉を待つ。
「現在の雪華は客人よ。絵を描くたびに報酬を支払う短期契約になっているわ」
このような契約なのは、雪華が領主代行との兼業で多忙であり、時間の調整を付きやすくするためだ。
「でも雪華は領主代行の役目から開放された……画師の仕事に集中できる時間を得られたはずよ。だからこそ提案するわね。正式な女官になって、私の下で働いてくれないかしら?」
その提案に雪華の心が揺れる。正式な女官となれば多くの利点があるからだ。
まず後宮との繋がりを強化できる。その人脈は卿士として領地を治める弟の助けになるだろう。
次に画師としての費用の心配がなくなるのも利点だ。活動をするには画材などが欠かせない。正式な女官となれば、予算も下りるし、画房も用意される。
(ただ正式な女官となると、住み込みで働くことになりますから。屋敷の皆さんと離れてしまいますね……)
帰ろうと思えばいつでも帰れるとはいえ、離れて暮らすことに不安がないわけではない。
その心中を見抜いたかのように妲己は言葉を重ねる。
「雪華なら画師に専念すれば、きっと大成できるわ。歴史に名を刻むことだって夢じゃないはずよ」
妲己の説得に雪華の心が揺れる。傾きつつあるものの、正式な女官となることを決断できずにいたのは、脳裏に家族の顔がちらつくからだ。
「……少しだけ考えさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「私の下で働くのが嫌?」
「そういうわけではありません。ですが、領内には大切な人たちがいますから……しっかりと考えて結論を出したいんです」
その答えに納得したのか、妲己は柔和に微笑む。その優しげな反応に、雪華は深い感謝を抱いた。
「無理強いするつもりはないから、雪華の本心からの答えを待っているわね」
妲己の提案に頭を下げると、雪華は部屋を後にする。
留めてある馬車の元へ向かうため、庭園に敷かれた石畳の道を歩いていると、ふと、子犬の鳴き声が耳に届く。
その音に自然と足が止まり、あたりを見渡していると、少し離れたところで犬を抱きかかえている青年が目に入る。
その人物は異彩を放っていた。黄金を溶かしたような金髪が陽光に照らされて輝いており、風に揺れながらきらめく髪は幻想的であった。
顔立ちも端正で、青い瞳は空のように澄んでおり、自然と見る者を引きつける魅力を放っている。
(異国の人でしょうか……とても綺麗な男性ですね……)
雪華は心の中で呟く。もし彼が女性であったならば、妲己に匹敵するほどの美しさを誇ったに違いない。
青年は微笑みながら子犬の頭を優しく撫でている。その仕草には穏やかさが漂い、彼の内面が表れているかのようだった。
ふと、その青年が雪華の存在に気づき、縋るような目を向ける。どこか助けを求めるような気配を感じとり、雪華は彼の元へと駆け寄る。
「どうかしましたか?」
「君は動物に詳しいかな?」
「どうしてそのように思われたのですか?」
雪華の外見から動物好きかどうかを見分けられるはずもない。そう問いかけると、彼は思い出すように微笑む。
「以前、君が小鳥の世話をしているのを見かけてね。もしかしたら困りごとを解決できるんじゃないかと思ってね」
「困りごとですか?」
「この子の元気がないようなんだ。原因が分かったりしないかな?」
雪華は柔らかく微笑み、子犬をじっと見つめた。小さな鳴き声から、その意図を読み取る。
「お腹が空いているみたいですね」
「本当かい?」
「動物とのコミュニケーションが特技ですので。間違いありません」
自信を持って答えると、青年は感心したのか目を見開く。
「それはすごい……私も動物が好きで、彼らと心を通わせようとするんだが、どうも上手くいかなくてね……」
「こればっかりは慣れもありますから」
「私ももっと動物と触れ合わないとね」
青年は子犬の頭をそっと撫でながら、ふと、思い出したように雪華を見つめる。
「そういえば名前を聞いていなかったね」
「私は雪華です。あなたは?」
「私は承徳だ」
「この国の名前なのですね」
「母が異国の生まれだが、父はこの国の生まれだからね」
名前が異国風に染まっていないのもそのためだと、承徳は続ける。そう口にする彼の表情には複雑な感情が浮かんでいた。
「そういえば、雪華は何か悩み事でもあるのかい?」
その問いに、雪華は驚き、内心の戸惑いを隠せずにいた。
「どうして分かるんですか?」
「人間とたくさん接してきたからこその慣れだね。君が動物とのコミュニケーションが得意なのと同じさ」
「なら見抜かれたのも仕方がありませんね……実は、女官にならないかと誘われているんですが、受けるかどうかを悩んでいるのです」
誰かに相談したいと思っていたため、承徳の問いは渡りに船だった。
雪華は妲己に誘われていることや、住み込みで働くために慣れ親しんだ実家と離れて暮らさなければならないことを伝えると、承徳は一瞬考えたあと、確信に満ちた声で伝える。
「決められないなら、私が決めてあげよう。君は、女官になるべきだ」
「断言するのですね……」
「色々なタイプの女官を見てきたからね。その私が保証する。君は後宮で輝ける人材だとね」
「でも、話してまだ数分ですよ?」
「それでもわかるんだ。人を見る目だけは、誰にも負けない自信があるからね」
承徳の言葉は、雪華の背中を押してくれた。心の迷いが少しずつ消えていくのを感じて、口元も緩み始める。
(悩んでいたのが馬鹿らしいですね)
叶えたい夢があるのだ。そのための最短の道を進むことに迷う余地はない。
「ありがとうございます。私は画師として成功するために、女官になる道を選びます」
雪華は深く息を吸い、力強く言葉を発するのだった。
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