後宮画師はモフモフに愛される ~白い結婚で浮気された私は離縁を決意しました~

上下左右

文字の大きさ
32 / 39
第四章

第四章 ~『蹴られた趙炎』~

しおりを挟む

 事件から数日が経過し、いつもの日常が戻ってきた。朝露に包まれる中庭では木々の葉が風に揺れ、時折、鳥の囀りや女官たちの談笑の声が聞こえてくる。

黒羽くろは様の件が無事解決したので、心も晴れやかですね)

 結局、事件はただのイタズラとして処理されたため、黒羽くろはにお咎めはなかった。

 もちろん公的な罰がなかっただけで、ペナルティが何もないわけではない。友人たちからの評価は悪化しただろうし、悪い噂は流れるだろう。

 それもあってか黒羽くろはは以前のような堂々とした態度を取らなくなった。目を合わせることを避けるように視線が下がり、威圧的な雰囲気も影を潜めるようになった。

 もう二度と雪華せっかを罠に嵌めようとはしないだろう。それほど黒羽くろはの態度には反省が浮かんでいた。

紫蘭しらん様は今日こそ画房に来ているでしょうか……)

 ここ数日、紫蘭しらんは姿を現さなかった。無事であることを祈りながら、画房に到着した雪華せっかは扉を開ける。

 いつものように墨の香りが出迎えてくれるが、紫蘭しらんの姿はどこにもない。静まり返り、机には微かに埃が積もり始めていた。

(もしかして病気でしょうか……)

 心配になった雪華せっかは画房を後にして、早足で来た道を戻る。廊下を進む度に、胸のざわめきは強くなり、冷たい汗が背筋を伝った。

紫蘭しらん様の部屋は確か……ここですね)

 以前、教えてもらった記憶を頼りに部屋の前まで辿り着くと、雪華せっかは扉を軽く叩く。音が廊下に響いた後、部屋の中の反応を伺っていると、ようやく微かな足音が聞こえてきた。

 軋む音と共に扉が開かれ、紫蘭しらんが姿を現す。顔色は優れず、目の下には薄い影が落ちており、服の袖にも皺が目立った。

雪華せっか……どうしてここに?」
「長らく姿を現さないので、病気なのではと心配になりまして……」
「あなたは本当に優しいわね……廊下で話をするのも何だし、中に入りましょうか」

 紫蘭しらんに招き入れられて、雪華せっかは室内に足を踏み入れる。

 部屋は広く、天井近くに設置された採光用の窓から光が差し込んでいる。壁際には書棚や寝台が並び、中央には大きな机が置かれている。その上には開封済みの手紙が山のように積まれていた。

「もしかして、体調不良の原因はこの手紙ですか?」
「さすが、雪華せっか。なんでもお見通しね。でもどうして分かったの?」
「机の傍のゴミ箱に、怒りをぶつけたように丸めた手紙が捨てられていますから」

 だからこそストレスの発生源は手紙であると、雪華せっかは瞬時に見抜いたのだ。それを認めた紫蘭しらんは、観念したように口を開く。

「実はね、この手紙は故郷の村長から送られてきたの……後宮務めなら儲かっているだろうからと、給金をこちらにも渡せと要求してきたの……」
「……故郷の村は困窮しているのですか?」
「まさか。ここ数年は豊作続きだもの」
「ならどうして?」
「ようするに遊ぶ金が欲しいのよ。贅沢するにはお金がいくらあっても足りないもの」

 紫蘭しらんの声には苛立ちが含まれていた。理不尽な要求が体調を崩すほどの怒りを生んだのだ。

「それは苦労しましたね……私にできることがあれば、いつでも頼ってくださいね」
「ありがとう。その優しさで救われるわ」

 紫蘭しらんの目元が少し柔らかくなり、笑みが浮かぶ。そして意を決したように言葉を重ねる。

「明日からきちんと職場に行くわ」
「約束ですよ」
「ええ、約束よ」

 それから二人は他愛のない会話を重ね、雪華せっかは宿舎を後にする。紫蘭しらんの無事を確認できたため、その足取りは軽かった。

 画廊までの回廊は穏やかな空気が流れていた。

 だが静けさを壊すように遠くから荒っぽい声が届く。

 低く怒鳴るような声と、時折響いてくる笑い声を耳にして、雪華せっかの眉が僅かに寄る。

 音の正体を確かめるために足を向けると、数人の宦官が集まり、倒れ込んでいる男性を蹴り上げている光景を目撃する。

(あれは、趙炎様っ)

 地面に蹲る趙炎の服には泥がつき、髪も乱れている。周囲の宦官たちは嘲笑を浮かべながら彼を足蹴にしていた。

「待ちなさい!」

 雪華せっかの鋭い声が響く。それに反応した宦官たちは驚いたように振り向いた。

「弱い者虐めは止めなさい」

 雪華が力強い言葉で忠告すると、宦官たちは嘲笑を深める。

「俺たちは無能に指導していただけだ」
「暴力を振るっていたではありませんか!」
「こいつが口で言っても聞かないからだ」

 宦官たちのリーダーと思われる男が肩をすくめて、薄笑いを浮かべる。続くように別の宦官が口を開く。

「もしかして趙炎の恋人だったりしてな」
「まさか。ただの知り合いです」
「なら口出しするんじゃねぇよ」
「いえ、私は理不尽な行いが嫌いですから。これ以上続けるようなら、あなたたちの上司に報告させていただきますよ」

 雪華せっかの一言に宦官たちの表情が強張る。だがその内の一人は怯むことなく、怒りに駆られて雪華せっかに向かってくる。

「生意気な女だな」
「よく言われます。ですが、生き方を変えるつもりはありません」
「……ならお前も指導してやる!」

 宦官が怒りに任せて拳を振り上げる。だが仲間の宦官が慌てて口を開いた。

「ま、待て! こいつ画師の雪華せっかだ! 上層部にもファンがいる。揉めるのはまずい!」

 それを聞いた宦官は雪華の名前を知っていたのか、バツが悪そうに拳を引っ込める。

「ふん、女に助けられたな」

 それだけ言い残して、宦官たちは去っていく。その背中を見送ってから、雪華せっかは趙炎に手を差し出す。

 だが趙炎はそれを無視して、自力で立ち上がる。土を払いながら、険しい顔で雪華せっかを睨みつける。

「俺を助けて、恩を売ったつもりか?」
「恩を仇で返す人にわざわざそんなことしません。不快だったから助けた。それ以上でも以下でもありません」
「うぐっ……」

 趙炎は雪華せっかを正面から見据える。彼の瞳には怒りと悔しさが渦巻いていた。

「お、俺は出世のために耐えていただけで、いつでも奴らを倒せるんだ。だから俺は……クソッ!」

 趙炎は拳を握りしめると、顔を隠すように壁に手をつく。その肩は小さく震え、涙が頬を伝っているのが見えた。

「どうして……こんなことに……」

 低く漏れる声を聞いて、雪華せっかはその場から静かに離れる。現状を後悔しながら、彼は涙を流すのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。

夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。 辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。 側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。 ※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。

地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに

reva
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。 選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。 地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。 失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。 「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」 彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。 そして、私は彼の正妃として王都へ……

追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する

3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
 婚約者である王太子からの突然の断罪!  それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。  しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。  味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。 「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」  エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。  そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。 「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」  義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。

断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる

葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。 アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。 アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。 市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。

悪役令嬢、記憶をなくして辺境でカフェを開きます〜お忍びで通ってくる元婚約者の王子様、私はあなたのことなど知りません〜

咲月ねむと
恋愛
王子の婚約者だった公爵令嬢セレスティーナは、断罪イベントの最中、興奮のあまり階段から転げ落ち、頭を打ってしまう。目覚めた彼女は、なんと「悪役令嬢として生きてきた数年間」の記憶をすっぽりと失い、動物を愛する心優しくおっとりした本来の性格に戻っていた。 もはや王宮に居場所はないと、自ら婚約破棄を申し出て辺境の領地へ。そこで動物たちに異常に好かれる体質を活かし、もふもふの聖獣たちが集まるカフェを開店し、穏やかな日々を送り始める。 一方、セレスティーナの豹変ぶりが気になって仕方ない元婚約者の王子・アルフレッドは、身分を隠してお忍びでカフェを訪れる。別人になったかのような彼女に戸惑いながらも、次第に本当の彼女に惹かれていくが、セレスティーナは彼のことを全く覚えておらず…? ※これはかなり人を選ぶ作品です。 感想欄にもある通り、私自身も再度読み返してみて、皆様のおっしゃる通りもう少しプロットをしっかりしてればと。 それでも大丈夫って方は、ぜひ。

婚約破棄されたので聖獣育てて田舎に帰ったら、なぜか世界の中心になっていました

かしおり
恋愛
「アメリア・ヴァルディア。君との婚約は、ここで破棄する」 王太子ロウェルの冷酷な言葉と共に、彼は“平民出身の聖女”ノエルの手を取った。 だが侯爵令嬢アメリアは、悲しむどころか—— 「では、実家に帰らせていただきますね」 そう言い残し、静かにその場を後にした。 向かった先は、聖獣たちが棲まう辺境の地。 かつて彼女が命を救った聖獣“ヴィル”が待つ、誰も知らぬ聖域だった。 魔物の侵攻、暴走する偽聖女、崩壊寸前の王都—— そして頼る者すらいなくなった王太子が頭を垂れたとき、 アメリアは静かに告げる。 「もう遅いわ。今さら後悔しても……ヴィルが許してくれないもの」 聖獣たちと共に、新たな居場所で幸せに生きようとする彼女に、 世界の運命すら引き寄せられていく—— ざまぁもふもふ癒し満載! 婚約破棄から始まる、爽快&優しい異世界スローライフファンタジー!

地味だと婚約破棄されましたが、私の作る"お弁当"が、冷徹公爵様やもふもふ聖獣たちの胃袋を掴んだようです〜隣国の冷徹公爵様に拾われ幸せ!〜

咲月ねむと
恋愛
伯爵令嬢のエリアーナは、婚約者である王太子から「地味でつまらない」と、大勢の前で婚約破棄を言い渡されてしまう。 全てを失い途方に暮れる彼女を拾ったのは、隣国からやって来た『氷の悪魔』と恐れられる冷徹公爵ヴィンセントだった。 ​「お前から、腹の減る匂いがする」 ​空腹で倒れかけていた彼に、前世の記憶を頼りに作ったささやかな料理を渡したのが、彼女の運命を変えるきっかけとなる。 ​公爵領で待っていたのは、気難しい最強の聖獣フェンリルや、屈強な騎士団。しかし彼らは皆、エリアーナの作る温かく美味しい「お弁当」の虜になってしまう! ​これは、地味だと虐げられた令嬢が、愛情たっぷりのお弁当で人々の胃袋と心を掴み、最高の幸せを手に入れる、お腹も心も満たされる、ほっこり甘いシンデレラストーリー。 元婚約者への、美味しいざまぁもあります。

処理中です...