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1 ある幼猫
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階段を登りかけたところで、菜箸を持ったままなのに気付いた呉谷美子は、ため息をひとつついてキッチンに戻った。
テーブルには焦げだらけの玉子焼きと、冷凍もののコロッケにミニトマトが数個。
おまけのポテトサラダは昨夕、近所のスーパーで買っておいたものだ。
ワンパターンだね、と夫の幸治に言われたことも数知れず。
しかし主婦だって朝は忙しい。
のそのそと起きてきた家族が出かける頃には、簡素ながらも弁当ができあがっていなくてはならない。
衛生面を考えて全てのおかずを加熱して、殺菌防腐のために梅干を用意する。
単純に見えて気を遣うポイントはいくらでもあるのだから、少しくらい評価してほしいと思う美子だが、レパートリーの貧相さを突かれると反論できない。
「ちょっと、ミサキ! いつまで寝てんの!」
起こされるまで起きない娘には毎朝イライラさせられっぱなしだ。
もう中学2年生。早い子はすでに将来を見据えて進学先の選定や受験勉強にとりかかっているというのに、彼女はどこ吹く風といった様子である。
学校での態度はまじめで得意教科も苦手教科もなく、成績も良いとも悪いともいえないから親としても言及しづらい。
焦る美子に担任は、偏りがないのは良いことですよ、と社交辞令で慰めたが、これは光るものは何もないと言われているのと同義だ。
「そろそろ自分で起きるようになりなさい!」
午前7時20分。
今日もいつもどおりの一日だった。
階下でいくら怒鳴ったところで、ミサキの耳には届かない。
このあと、冷ましたおかずを弁当箱に詰め、今度はミサキの部屋に乗り込むことになる。
「行方不明の子、見つかったのか」
そんな母子のやりとりを尻目に、幸治は新聞片手にパンをかじっている。
インターネットではとうに出回っている情報を、半日遅れで入手するのは効率的じゃないとミサキに言われた彼だが、紙のほうが読みやすいからという理由で一蹴している。
「ああ、その子。ひょっこり帰ってきたらしいわね」
流し台で洗い物をしながら美子が言う。
「誰かに連れ去られたけど、騒ぎが大きくなって怖くなった犯人がこっそり現場に戻したんじゃないかって」
「ふうん。だとしたら根性のない犯人だな。昔は誘拐すれば身代金を要求するのが相場だったのに」
「なんてこと言うのよ。最近じゃ行方不明の子は殺されて公園や山奥に棄てられるケースが多いのよ。無事でよかったじゃない」
犯人に根性を出せと言わんばかりの幸治の発言に、美子は呆れ顔で返した。
「外では言わないでちょうだいよ?」
そもそも仕事柄、彼がそんなことを言えば、それだけで不謹慎だと吊るし上げに遭うかもしれない。
区の“ちいき課”に勤務する幸治は、常日頃から区民の安全と生活利便の向上に努めなければならない。
ちいき、という言葉の響きは住民との密接なつながりを感じさせるが、その実は適切な部署が存在しないがゆえの何でも屋だ。
公園の看板の文字が薄くなっているとか、ゴミ捨て場のカラスを何とかしろとか、隣家の騒音を何とかしてくれとか。
いくつかは警察に相談すべき内容だが、相談しやすいのかたいていの問題はちいき課に持ち込まれる。
数字に追われない分だけ楽だと幸治は思っているが、業務の内容にばらつきが大きく、成果が見えづらい点には不満もあった。
「言わないよ。公私はきっちり分けるのが仕事だからな」
新聞をたたんだ彼は大きく伸びをすると、かばんを肩にかついだ。
どうせ作業着で仕事をするのだが、区民の目があるからと出勤時はスーツでと決められていた。
作業着のまま出勤できればこんな大きな荷物は必要なくなるのに、役所はそれを認めてはくれない。
公の者が薄汚れた服装で登庁するなんてけしからん、という苦情が寄せられたらしい。
しかも受け付けたのが件のちいき課だったから、無視するワケにもいかない。
「じゃあ行ってくる」
忙しいこともあり、朝の夫婦のやりとりは素っ気ない。
「気をつけてね」
幸治を見送った美子は、入れ替わるようにして降りてきたミサキを認めた。
「ちょっとは進歩したわね」
部屋までお迎えにあがろうと思っていた彼女は、皮肉を込めて言う。
「あたしも中2だよ? もう大人なんだから」
そう言うミサキの目は半分開いていない。
「中2はまだまだ子どもなの。顔を洗ってきなさい」
自分が娘くらいの頃はどうだったかと思いながら、美子は弁当を用意した。
(少なくとも、おかずはもうちょっと豪華だったわね……)
不足ない母になるために料理のバリエーションを増やそうと彼女は思った。
ほどなくしてミサキが戻ってきた。彼女はいつの間にか制服に着替えている。
やや栗色がかった黒のショートボブだから手入れに時間はかからない。
おまけにズボラに見えて身の回りの整理はしっかりできているから、すぐにでも登校できる準備はできている。
「イチゴジャムのほうがよかったのにな」
美子が焼いておいたトーストに文句を垂れつつ、彼女はそれをココアで流し込んだ。
「朝にオレンジジャムを食べると体に良いのよ。それに血糖値が上がって記憶力や集中力が向上するってデータもあるんだから」
「血糖値なんて何食べても上がるじゃん。お母さん、テレビの観過ぎだよ」
「そんなことないわよ。提唱したのだってK大学の――」
「だいたいさ、体に悪い食べ物なんてないでしょ。どこの博士だか教授だか知らないけどさ、いくら健康に良いからって、そればかり食べてたらかえって調子悪くなっちゃうんじゃないの?」
美子の健康志向にミサキはうんざりしていた。
健康とダイエットは主婦層をターゲットにしたテレビ番組では切り離せないテーマだ。
権威に弱い視聴者は、高名な研究家や教授が推奨するものを無批判に受け入れる。
特にこれを食べれば痩せる、これをすれば病気にならない、という類は時代を経ても一定の需要があるらしい。
パートタイマーに出ている昼間に録画しておいたものを、帰宅してから観るのが美子の日課になっていた。
「いいからさっさと食べちゃいなさいよ。遅刻しても知らないわよ」
「いいもん、まだ時間あるし」
ミサキはスマホ片手にニュースを一読した。
朝食時に情報を仕入れるのは父親の影響もあろうが、彼女が見ているのは芸能関係を中心としたエンタメと分類されるものばかりだ。
「あ、そうそう。明日の親子面談、ちょっと遅くしてもいいかしら?」
「何かあるの?」
「シフトの関係でね。私が入らなくちゃいけなくなったの」
「またあのドタさん?」
「そうなのよ、いつも何を考えてるんだか」
美子は大息した。
彼女が隣町のスーパーで働くようになって1年が経つ。
当初はその性格や適性からレジ打ち担当だったが、店長の提案で在庫管理や品出しをやってみたところ、実に手際がよいとの評価を得た。
以来、レジ打ちを主としながら、人手が足りないときは別業務を兼任することになった。
疎漏なく、手抜かりもないということで待遇も他のパートタイマーより若干だが優遇されている。
ミサキが言ったドタさんとは、在庫管理部にいる女性のことだ。
本名は土田つちだだが、当日や前日に欠勤の連絡をすることが多いため、職場ではドタキャンにかけて、土田の字をドタと読んで揶揄されている。
「クビにしちゃえばいいのに。できないの?」
「そんな権限、私にはないわよ。店長が黙認してるんじゃ、しょうがないわ」
「大人って大変だね」
スマホをかばんにしまいながらミサキが言った。
「そう、大変なの。だから子どものうちにいっぱい遊んでおきなさい。大人になったら遊びたくても遊べないんだから」
今のはなかなか深いことを言った、と美子は手応えを感じたが、
「じゃあ寝坊するのもいいでしょ? 子どものうちしかできないんだから」
ミサキには伝わらなかったようだ。
「それは別。規則正しい生活習慣は今から身につけなさい」
屁理屈を退けて、美子は弁当箱を彼女に手渡した。
念のためにと、娘の服装も確認する。
紺色のブレザーにもスカートにも、しわや汚れはない。
「よし、じゃあ行ってらっしゃい」
パンと手を叩いて、ミサキを送り出す。
「行ってきまーす!」
娘の後ろ姿が見えなくなるまで玄関口に立って見守るのが、母としての務めだ。
ミサキは少なくとも両親が思う、よい子に育っている。
成績も悪くはなく、これといった特技はないが、花や小動物を愛でる優しい子だ。
そろそろ反抗期が来てもよさそうなのに、たまに軽口を叩くことはあっても、暴言や暴力で親を傷つけたりもしない。
品性のよろしくない悪友とつるんで深夜まで遊び回ることなど、彼女には無縁だ。
そういう意味では、美子はミサキを信頼しているし安心もしている。
秀でた才がなくても、恙無く成長していく姿を眺められるのは、母としては当たり前のようで実は稀有な幸福ではないかと美子は思う。
「さて、とりあえず掃除と洗濯……」
美子はつい最近、買ったばかりの掃除機を嬉しそうに引っ張り出した。
テレビは朝のニュース番組をつけておく。
政治、エンタメとひととおりの情報を取り上げてはくれるが、出演者の顔ぶれがよくない。
「どうして真面目な話題なのに茶化すのかしらねえ」
今は某知事の政治資金不正使用の是非がテーマになっている。
公用車で自宅と別荘を往復していたとか、年に200回以上も同じ温泉地を視察したとか、週刊誌の敏腕記者と内部告発によって不祥事が次々と明るみに出ている。
番組は構成上、それを効果音をつけたりして面白おかしく伝えているが、出演者が怒りながらもつまらない横槍を入れることで、いまひとつ真剣さが伝わってこない。
「もっと報道しなきゃいけないことがあるでしょうに」
美子には政治はよく分からない。
彼女が政府に望むのはシンプルに、消費税率を下げることくらいだ。
仮に実現してその穴埋めに別の税目で増税があったとしても、彼女が気付くには相当な時間がかかるだろう。
芸能ニュースにも同様に興味はない。他人同士の〈熱愛発覚〉と〈電撃入籍〉には何の値打ちもないし、どうせすぐに〈突然の破局〉が報じられて、〈暴露本出版〉の流れに行きつくのだ。
そんなワケだから家事の合間にテレビをつけているのは、もっぱら作業時のBGMのようなものである。
今日は天気が良いから、洗濯物はすぐに乾く。
掃除も風呂場以外はあらかた済ませ、美子はソファに腰かけて一息ついた。
時刻は11時を少し過ぎたころ。
美子は幸治がたたんで置いていた新聞に目を通す。
まずは番組欄をひととおりチェックし、それから最初の数ページを斜め読みする。
国際、経済、株価ははじめから眼中にない。
それ以外は見出しと冒頭の数行を読み流して理解したことにする。
そうこうしているうちに陽はさらに昇って正午。
「もうこんな時間」
わざとらしく呟いて、美子は洗濯物を素早く取り込む。
服を着替えて、お世辞程度の化粧をする。
人前に出るのだから、誰に見られても恥ずかしくないように最低限の装いは必要だ。
「電気も消してる……プラグも抜いた……」
少し前に近所で火事があり、その原因が留守中の漏電だと分かってから、外出時の点検は怠らないようにしている。
年頃になればミサキにも部屋が必要だろうと、数年前に市営から戸建てに引っ越してきたばかりだ。
まだまだローンの残っている家が、帰ってきたらきれいに無くなっていた、では笑い話にもならない。
テーブルには焦げだらけの玉子焼きと、冷凍もののコロッケにミニトマトが数個。
おまけのポテトサラダは昨夕、近所のスーパーで買っておいたものだ。
ワンパターンだね、と夫の幸治に言われたことも数知れず。
しかし主婦だって朝は忙しい。
のそのそと起きてきた家族が出かける頃には、簡素ながらも弁当ができあがっていなくてはならない。
衛生面を考えて全てのおかずを加熱して、殺菌防腐のために梅干を用意する。
単純に見えて気を遣うポイントはいくらでもあるのだから、少しくらい評価してほしいと思う美子だが、レパートリーの貧相さを突かれると反論できない。
「ちょっと、ミサキ! いつまで寝てんの!」
起こされるまで起きない娘には毎朝イライラさせられっぱなしだ。
もう中学2年生。早い子はすでに将来を見据えて進学先の選定や受験勉強にとりかかっているというのに、彼女はどこ吹く風といった様子である。
学校での態度はまじめで得意教科も苦手教科もなく、成績も良いとも悪いともいえないから親としても言及しづらい。
焦る美子に担任は、偏りがないのは良いことですよ、と社交辞令で慰めたが、これは光るものは何もないと言われているのと同義だ。
「そろそろ自分で起きるようになりなさい!」
午前7時20分。
今日もいつもどおりの一日だった。
階下でいくら怒鳴ったところで、ミサキの耳には届かない。
このあと、冷ましたおかずを弁当箱に詰め、今度はミサキの部屋に乗り込むことになる。
「行方不明の子、見つかったのか」
そんな母子のやりとりを尻目に、幸治は新聞片手にパンをかじっている。
インターネットではとうに出回っている情報を、半日遅れで入手するのは効率的じゃないとミサキに言われた彼だが、紙のほうが読みやすいからという理由で一蹴している。
「ああ、その子。ひょっこり帰ってきたらしいわね」
流し台で洗い物をしながら美子が言う。
「誰かに連れ去られたけど、騒ぎが大きくなって怖くなった犯人がこっそり現場に戻したんじゃないかって」
「ふうん。だとしたら根性のない犯人だな。昔は誘拐すれば身代金を要求するのが相場だったのに」
「なんてこと言うのよ。最近じゃ行方不明の子は殺されて公園や山奥に棄てられるケースが多いのよ。無事でよかったじゃない」
犯人に根性を出せと言わんばかりの幸治の発言に、美子は呆れ顔で返した。
「外では言わないでちょうだいよ?」
そもそも仕事柄、彼がそんなことを言えば、それだけで不謹慎だと吊るし上げに遭うかもしれない。
区の“ちいき課”に勤務する幸治は、常日頃から区民の安全と生活利便の向上に努めなければならない。
ちいき、という言葉の響きは住民との密接なつながりを感じさせるが、その実は適切な部署が存在しないがゆえの何でも屋だ。
公園の看板の文字が薄くなっているとか、ゴミ捨て場のカラスを何とかしろとか、隣家の騒音を何とかしてくれとか。
いくつかは警察に相談すべき内容だが、相談しやすいのかたいていの問題はちいき課に持ち込まれる。
数字に追われない分だけ楽だと幸治は思っているが、業務の内容にばらつきが大きく、成果が見えづらい点には不満もあった。
「言わないよ。公私はきっちり分けるのが仕事だからな」
新聞をたたんだ彼は大きく伸びをすると、かばんを肩にかついだ。
どうせ作業着で仕事をするのだが、区民の目があるからと出勤時はスーツでと決められていた。
作業着のまま出勤できればこんな大きな荷物は必要なくなるのに、役所はそれを認めてはくれない。
公の者が薄汚れた服装で登庁するなんてけしからん、という苦情が寄せられたらしい。
しかも受け付けたのが件のちいき課だったから、無視するワケにもいかない。
「じゃあ行ってくる」
忙しいこともあり、朝の夫婦のやりとりは素っ気ない。
「気をつけてね」
幸治を見送った美子は、入れ替わるようにして降りてきたミサキを認めた。
「ちょっとは進歩したわね」
部屋までお迎えにあがろうと思っていた彼女は、皮肉を込めて言う。
「あたしも中2だよ? もう大人なんだから」
そう言うミサキの目は半分開いていない。
「中2はまだまだ子どもなの。顔を洗ってきなさい」
自分が娘くらいの頃はどうだったかと思いながら、美子は弁当を用意した。
(少なくとも、おかずはもうちょっと豪華だったわね……)
不足ない母になるために料理のバリエーションを増やそうと彼女は思った。
ほどなくしてミサキが戻ってきた。彼女はいつの間にか制服に着替えている。
やや栗色がかった黒のショートボブだから手入れに時間はかからない。
おまけにズボラに見えて身の回りの整理はしっかりできているから、すぐにでも登校できる準備はできている。
「イチゴジャムのほうがよかったのにな」
美子が焼いておいたトーストに文句を垂れつつ、彼女はそれをココアで流し込んだ。
「朝にオレンジジャムを食べると体に良いのよ。それに血糖値が上がって記憶力や集中力が向上するってデータもあるんだから」
「血糖値なんて何食べても上がるじゃん。お母さん、テレビの観過ぎだよ」
「そんなことないわよ。提唱したのだってK大学の――」
「だいたいさ、体に悪い食べ物なんてないでしょ。どこの博士だか教授だか知らないけどさ、いくら健康に良いからって、そればかり食べてたらかえって調子悪くなっちゃうんじゃないの?」
美子の健康志向にミサキはうんざりしていた。
健康とダイエットは主婦層をターゲットにしたテレビ番組では切り離せないテーマだ。
権威に弱い視聴者は、高名な研究家や教授が推奨するものを無批判に受け入れる。
特にこれを食べれば痩せる、これをすれば病気にならない、という類は時代を経ても一定の需要があるらしい。
パートタイマーに出ている昼間に録画しておいたものを、帰宅してから観るのが美子の日課になっていた。
「いいからさっさと食べちゃいなさいよ。遅刻しても知らないわよ」
「いいもん、まだ時間あるし」
ミサキはスマホ片手にニュースを一読した。
朝食時に情報を仕入れるのは父親の影響もあろうが、彼女が見ているのは芸能関係を中心としたエンタメと分類されるものばかりだ。
「あ、そうそう。明日の親子面談、ちょっと遅くしてもいいかしら?」
「何かあるの?」
「シフトの関係でね。私が入らなくちゃいけなくなったの」
「またあのドタさん?」
「そうなのよ、いつも何を考えてるんだか」
美子は大息した。
彼女が隣町のスーパーで働くようになって1年が経つ。
当初はその性格や適性からレジ打ち担当だったが、店長の提案で在庫管理や品出しをやってみたところ、実に手際がよいとの評価を得た。
以来、レジ打ちを主としながら、人手が足りないときは別業務を兼任することになった。
疎漏なく、手抜かりもないということで待遇も他のパートタイマーより若干だが優遇されている。
ミサキが言ったドタさんとは、在庫管理部にいる女性のことだ。
本名は土田つちだだが、当日や前日に欠勤の連絡をすることが多いため、職場ではドタキャンにかけて、土田の字をドタと読んで揶揄されている。
「クビにしちゃえばいいのに。できないの?」
「そんな権限、私にはないわよ。店長が黙認してるんじゃ、しょうがないわ」
「大人って大変だね」
スマホをかばんにしまいながらミサキが言った。
「そう、大変なの。だから子どものうちにいっぱい遊んでおきなさい。大人になったら遊びたくても遊べないんだから」
今のはなかなか深いことを言った、と美子は手応えを感じたが、
「じゃあ寝坊するのもいいでしょ? 子どものうちしかできないんだから」
ミサキには伝わらなかったようだ。
「それは別。規則正しい生活習慣は今から身につけなさい」
屁理屈を退けて、美子は弁当箱を彼女に手渡した。
念のためにと、娘の服装も確認する。
紺色のブレザーにもスカートにも、しわや汚れはない。
「よし、じゃあ行ってらっしゃい」
パンと手を叩いて、ミサキを送り出す。
「行ってきまーす!」
娘の後ろ姿が見えなくなるまで玄関口に立って見守るのが、母としての務めだ。
ミサキは少なくとも両親が思う、よい子に育っている。
成績も悪くはなく、これといった特技はないが、花や小動物を愛でる優しい子だ。
そろそろ反抗期が来てもよさそうなのに、たまに軽口を叩くことはあっても、暴言や暴力で親を傷つけたりもしない。
品性のよろしくない悪友とつるんで深夜まで遊び回ることなど、彼女には無縁だ。
そういう意味では、美子はミサキを信頼しているし安心もしている。
秀でた才がなくても、恙無く成長していく姿を眺められるのは、母としては当たり前のようで実は稀有な幸福ではないかと美子は思う。
「さて、とりあえず掃除と洗濯……」
美子はつい最近、買ったばかりの掃除機を嬉しそうに引っ張り出した。
テレビは朝のニュース番組をつけておく。
政治、エンタメとひととおりの情報を取り上げてはくれるが、出演者の顔ぶれがよくない。
「どうして真面目な話題なのに茶化すのかしらねえ」
今は某知事の政治資金不正使用の是非がテーマになっている。
公用車で自宅と別荘を往復していたとか、年に200回以上も同じ温泉地を視察したとか、週刊誌の敏腕記者と内部告発によって不祥事が次々と明るみに出ている。
番組は構成上、それを効果音をつけたりして面白おかしく伝えているが、出演者が怒りながらもつまらない横槍を入れることで、いまひとつ真剣さが伝わってこない。
「もっと報道しなきゃいけないことがあるでしょうに」
美子には政治はよく分からない。
彼女が政府に望むのはシンプルに、消費税率を下げることくらいだ。
仮に実現してその穴埋めに別の税目で増税があったとしても、彼女が気付くには相当な時間がかかるだろう。
芸能ニュースにも同様に興味はない。他人同士の〈熱愛発覚〉と〈電撃入籍〉には何の値打ちもないし、どうせすぐに〈突然の破局〉が報じられて、〈暴露本出版〉の流れに行きつくのだ。
そんなワケだから家事の合間にテレビをつけているのは、もっぱら作業時のBGMのようなものである。
今日は天気が良いから、洗濯物はすぐに乾く。
掃除も風呂場以外はあらかた済ませ、美子はソファに腰かけて一息ついた。
時刻は11時を少し過ぎたころ。
美子は幸治がたたんで置いていた新聞に目を通す。
まずは番組欄をひととおりチェックし、それから最初の数ページを斜め読みする。
国際、経済、株価ははじめから眼中にない。
それ以外は見出しと冒頭の数行を読み流して理解したことにする。
そうこうしているうちに陽はさらに昇って正午。
「もうこんな時間」
わざとらしく呟いて、美子は洗濯物を素早く取り込む。
服を着替えて、お世辞程度の化粧をする。
人前に出るのだから、誰に見られても恥ずかしくないように最低限の装いは必要だ。
「電気も消してる……プラグも抜いた……」
少し前に近所で火事があり、その原因が留守中の漏電だと分かってから、外出時の点検は怠らないようにしている。
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