小さな命たち

JEDI_tkms1984

文字の大きさ
13 / 34
6 障害

6-1

しおりを挟む
 荷が重い。
そして気が重い。
幸治は今朝起きてから、今までについたため息の数をかぞえようとしたがキリがないのでやめた。
野良猫に餌付けしている奴がいるから、今すぐやめさせろ。
この強権的なミッションをついに遂行しなければならなくなったのだ。
ちいき課に寄せられる要望、苦情の9割がこの件で占められたため、対応しないわけにはいかない、というのが課長の出した結論だ。
「同じ奴のをカウントするなよ。毎日毎日、嫌がらせみたいに電話してきやがって」
同僚の野瀬康隆が舌打ちして言った。
自分ひとりでは手に負えないから、と幸治が援護を頼んだのだが、今から会う住民にこんな態度をとりはしないか、と彼は気を揉んだ。
野瀬は良く言えば行動的、悪く言えば浅慮で、考えるよりも先に体が動いてしまうタイプだ。
フットワークが軽いということで多くの案件を抱える課の功労者であるが、かえってトラブルに発展した例もある。
そういうときは傷が浅いうちに幸治か、もうひとりの同僚の田沢が間に入ることで事なきを得た。
「まあまあ、それだけ不満を持っている、ってことなんだから……」
お前が上手く相手の怒りを収めてくれ、という意味で幸治が言った。
「そんな暇があるなら、自分で言えばいいだろうに」
「とりあえずあまり熱くならないでくれよ。ここまできたら先方さんもカンカンなんだからな」
件の住人の家は目と鼻の先だ。
着くまでに同僚のほうの怒りを鎮めなければならない幸治は、今からすでに疲労がピークに達していた。
「失礼します。ちいき課の呉谷と申します」
モニター越しに頭を下げると、玄関ドアが荒々しく開いて女性が出てきた。
「遅いじゃないの! 誰の税金で食べてると思ってるのよ、まったく!」
インターホンを押したのが自分でよかった、と彼は思った。
第一声がこの言い草である。
これが野瀬だったらケンカが始まっているところだ。
「たいへん失礼しました。なにぶん、他の皆様からもご指摘を頂いていたもので、こちらに伺うのが遅くなりまして」
「こっちを優先しなさいよ。どうせ他の用事なんてつまらないものなんでしょ」
「……あんたのもな」
幸治の後ろで野瀬が小声で言った。
「どうもすみません。それで、お電話くださった木部さん……ですよね? たしか男性の方かと」
「主人も電話してたの。いつまで経ってもあんたたちが来ないから」
なんで僕がここまで怒られなくちゃならないんだ。
幸治はそう思うが彼の性格上、言葉にすることはできなかった。
「……苦情の内容は、野良猫への餌やりをやめさせてほしい、ということですね。詳しい話を聞かせていただけますか」
ここで野瀬を前に出す。
彼が話し役となって、幸治は半歩退いた位置でメモをとる係を受け持つ。
「ちいき課の野瀬です。まずは経緯から――」
「経緯どころじゃないわよ。斜向かいに公園があるでしょ? あそこでずっと餌付けしてる女の人がいるのよ。それをやめさせろ、って言ってんの」
ずいぶん気が強い女だな、と野瀬は思った。
「あの公園は餌やりが禁止されている場所ではないですし、我々ちいき課としても、禁止されていないことをする人にお願いはできても、やめろとまでは言えないんですよ」
野瀬は精一杯、申し訳なさそうに言った。
だがその程度では木部は引き下がらない。
「それじゃ困るのよ。ちょっと見てよ、これ」
木部が庭を指差した。
囲いの中に赤や白の花が点々と生えている。
脇には大小のプランターに肥料も用意されており、彼女はガーデニングを楽しんでいるようである。
「せっかく植えたのにボロボロにされて、トイレ代わりにまでされてるのよ」
野瀬が身を乗り出した。
たしかにいくつかの花は根から倒れていて、周囲には掘り返した跡もある。
「なるほど、これは困ったものですね」
「ああ、あの、木部さん」
後ろでメモとりに徹していた幸治がおずおずと切り出した。
「この周りに並べているペットボトル、やめたほうがいいですよ。中の水がレンズ代わりになって火災になった例もありますから」
「うるさいわね、分かってるわよ。気休めよ、そんなもの」
「……そうですか」
幸治はまたメモ役に戻った。
「この前は植木鉢をひっくり返されたし、もう散々なのよ。外で餌やるんなら家の中で飼いなさいよ」
木部は歯ぎしりした。
「分かりました。我々のほうでその人に話をしてみます」
これ以上は話しても木部がヒステリックになるだけだと思い、野瀬はこのあたりで引き上げようとした。
「何人かで行ったほうがいいわよ! その人、最近仲間を増やしたから。ガンと言ってやらないと丸め込まれるわよ」
「話してみないことには何とも……。その間も猫被害があるでしょう。いくつか対処法がありますよ。たしか柑橘系の匂いが苦手なので、そういう成分のスプレーなど吹きかければ寄り付かなくなります」
「なんで私がそんな面倒くさいことしなくちゃいけないのよ! 餌付けするから猫が居着くんでしょ? 今までダメにされた分、弁償させたいくらいよ」
無茶苦茶だ、と幸治は思った。
もちろん木部の言い分も理解できる。
彼女は相当な期間悩まされていたようで、怒りが溜まりに溜まっているのだろう。
こういう時、当事者同士だと過熱して話し合いにならないことが多いが、かといってちいき課にも無理やり収束させる権限はない。
できるのはせいぜい間に入って両者の言い分を聞き、妥協点を見つけることくらいだ。
「とにかくやめさせてちょうだい!」
木部は最後にはそれしか言わなくなったので、2人は逃げるようにしてその場から離れた。
「根が深いな」
幸治はまたため息をついた。
こんな感じになるだろう、とはだいたい予想していた。
「餌付けか……どっちの奴なんだろうな」
野瀬が言った。
「どっち、って?」
「二種類いるんだ。餌をやった後はちゃんと片付けて管理するのと、通りすがりにただばら撒くだけの奴。前者だって餌付けって言えばそれまでだけど、捕獲して手術を受けさせる、真っ当な地域猫活動の一環ってケースもある」
「野瀬、詳しいな」
「最近よくニュースでやってるだろ」
「ああ……」
幸治は微苦笑した。
毎朝新聞を読んでいる彼がニュースに触れていないハズがないのだが、動物嫌いゆえにその手の記事は意識的に読み飛ばしていた。
「呉谷、今日はこの1件だけだったよな?」
「ああ、最優先事項だって言われてるからな。他の細々した仕事は田沢が引き受けてくれたよ」
「よし、ついでだからこの辺りの人からも話を聞いてみるか」
早くも彼の行動力が発揮された。
問題の公園を中心に無作為に選んだ数十軒を訪問する。
ちいき課自体を知らないのか、2人を怪しがってとりあわない家人もいたが、区民の声としてはまずまずのサンプルを手に入れることができた。
「どうにかしてほしい、ってのは2割くらいか」
偏りなどを考慮しない、単純な計算結果である。
その2割の内訳としては植木鉢などにいたずらされること、庭をトイレにされることへの不満が目立つ。
家族が猫アレルギーだから対応してほしい、という理由も1件あった。
「これ見ると、敷地内に入ってくるだけなら別にかまわないんだよな」
幸治の手には聞き取り結果をまとめた紙がある。
即席だが上手くまとめられていて読みやすい。
「実害があって初めて不快に思うんだろ。猫が嫌いな奴だって生まれた時からそうじゃない。何かされたり悪い思い出があったりするからそうなるんだ」
「そういうものなのか……」
「まあ、でもあの木部って人以外にも、困ってる人がいるのは分かったぜ。苦情入れるほどじゃないみたいだけどな」
野瀬は笑った。
彼にとってこの案件は、過去のどの仕事よりも簡単だった。
苦情の内容も、相手も、対処法もはっきりと分かっている。
「餌やってる人はほぼ毎日、決まった時間に来るらしいから、来週にでも公園に行って待っていようぜ」
好戦的な印象のある野瀬だが、今の幸治には彼だけが頼りである。
「ああ」
だから彼が苦手とする、他者との衝突は避けられる。
ずるいようだがこの件だけは野瀬に出張ってもらおう。
そう考えているからこそ生まれた余裕が、幸治に別の苦悩を運んできた。
(なにか引っかかる……)
木部の家を立ち去った直後から、この瞬間までの。
聞き取りの中、野瀬との会話、歩いてきた道。
そのどれかに違和感があった。
彼が長いこと忘れていた何かが、記憶の奥の底から呼び起こされるような。
奇妙な感覚だった。
何かを思い出しそうなのだ。
彼はもちろん、何を忘れているのかさえ理解していない。
しかし今の自分を作り出した、決定的な出来事であるという確信はあった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...