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6 障害
6-2
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「顔色悪くない? 大丈夫なの?」
同僚の細野が不安そうに問うたが、その心配は半分は自身のためだ。
今日は客数が多いから、早退されると残った者の負担が大きい。
「そう? 平気よ」
美子は笑みを浮かべるも、その表情には固さが残る。
仕事とプライベートは分けるべきだが、彼女にはそれを隠し通せるほどの器用さがない。
「無理しないで店長に言って早退させてもらったら?」
と慮ってくれるが、それを素直に受ければ職場に迷惑がかかる。
それにあと1時間もすれば退勤時刻だ。
美子は接客向けの笑顔を作って、残りの時間を乗り切った。
猫殺しの犯人はまだ見つかっていない。
奈緒によれば野良猫が1匹殺されたくらいでは誰も動かない、という。
不審死が相次ぐとか、メディアに取り上げられて世間の注目が集まれば、捜査も積極的に行われるだろう。
(悔しいわね……)
動物と人間の命には瞭然とした差があると思っていた彼女だが、毎日のように猫に触れ、ミサキの見解を思い返すうちに、その距離は縮まっていた。
今となっては、たとえ猫1匹でも非道な殺猫犯だから捕まえてほしいという想いがある。
着替えを終え、いつものように薬局でキャットフードを調達する。
この流れも日課になっていたから、薬局の店員も美子の顔を覚えていて、いつも買う銘柄が品切れになりそうになると確保してくれる。
「あら、待っててくれたの?」
顔を覚えているのは人間だけではない。
時間を決めていることもあるだろうが、何匹かは公園に向かう美子の姿を認めて先回りしている。
食べ物目当てだと分かっていても、植え込みの辺りでおとなしく座っている猫たちを見ると、美子の表情はみるみる弛んでいく。
特に小さな声で甘えたように鳴かれると、連れて帰りたくもなる。
しかしそこは猫のほうも線引きしているようで、触ろうとした途端に身を翻して離れてしまう。
この距離感を良しとするか否かで、彼らとの接し方は変わってくる。
「ちょっと待っててね」
小皿を並べる間も、猫たちは様々な反応で待っている。
(この子たちだけでも平穏に過ごしてほしいわ)
いわゆる野良猫の寿命は長くはない。
家で飼われている猫とちがい、病気や怪我をすぐに診てもらうワケにはいかず、また衛生的にも良い環境とはいえないため、わずかな傷病が死につながることもある。
屋外を住処にしていることで交通事故に遭う確率も高く、10年も生きられないのが大半だ。
奈緒からそう聞いた美子は、この小さな命を愛おしく思うようになった。
もっと長命であるか、不幸な死因が稀であれば、ここまで心を動かされることはなかっただろう。
一代かぎり、という大前提がある地域猫活動は思いのほか短いのかもしれない、と彼女は思った。
「相変わらず早いわね」
奈緒がやって来た。
こうなると猫たちの行動は面白い。
2人が持っている餌は種類が異なるから、好みによってどちらかに分かれることになる。
さながら人気投票のようなもので、やはり味に慣れ親しんでいるせいか、奈緒に寄り添う猫のほうが多い。
少し前までの美子なら、その様子をただ眺めているだけだった。
が、意識が変われば視点も変わる。
奈緒の元に集まる猫たちを後ろから観察し、異常がないかを確かめるようになっていた。
「特におかしなところはないみたい」
素人判断ではあるが、そう言っておく。
自身もネットで調べたりはするが、猫に関する知識は奈緒に及ばない。
実際に飼っているだけあり、健康管理や抱き方、動物病院選びのコツまで、その多くは奈緒頼みということになる。
「それなら安心ね」
彼女がどこまで美子の観察眼を信頼しているかは分からない。
そもそも被毛に覆われている動物を、触らずに見るだけで判断するのは医師でもしないことだ。
とはいえこれまで一人で活動していたこともあり、たとえ未熟であろうと美子が飽きずに来てくれるのは、それだけで心強かった。
「あ、いたいた!」
少女が小走りでやって来たので、猫たちは何事かと一斉に距離をおいた。
「あら、どうしたのよ?」
ミサキだった。
授業が終わるなり来たようで、制服姿のままだった。
「お母さんがどんなことしてるのか見にね」
言ってからミサキは奈緒にぺこりと頭を下げた。
「娘さん?」
「そう、ミサキっていうの。中学も2年生になるっていうのに、まだまだ落ち着きがなくて……」
「大きなお世話! おばさんが及川さん?」
「ええ、そうよ」
「呉谷ミサキです。母がいつもお世話になってます」
ミサキは丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそ。しっかりした子じゃない」
「いつもこうだといいんだけどね」
美子は謙遜のつもりで言ったが、初対面の相手にきちんとした挨拶ができる我が子の成長ぶりに驚いていた。
こうした場面に出くわすことは滅多にないが、娘は常識的な子に育っているようだ。
「ここにいるのがお母さんがいつも言ってる猫?」
ぱらぱらと戻ってきた猫を撫でようと、ミサキは手を伸ばした。
だが警戒を解いていない彼らは近寄ろうとはしない。
「そうよ、かわいいでしょ」
「うん。名前とかあるの?」
「名前? そういえば、そうねえ……」
答えに困った美子は奈緒を見た。
「名前はないわね。考えたこともなかったわ」
「付けないんですか?」
「付けないようにしてるのよ。愛着が湧くから」
ミサキは首をかしげた。
「この子たちはね、寿命が短いの。最期を看取れないことも普通なの。かわいいのはかわいいけど、お別れする度に悲しい想いをしたくないのよ」
だから名付けもしないし、特定の子を贔屓することもしない、と彼女は言う。
これは奈緒が冷淡だからではない。
むしろ思い入れが深いからこそ、繰り返す死別の痛みから逃れるために、彼女がとった苦肉の防衛策だった。
数日前に猫が惨殺された時、美子ほど悲嘆に暮れずに済んだのも、この心構えに徹していたおかげだった。
この考え方はまだミサキには理解できないものだった。
かわいいと思うなら、愛情を注ぐのは当たり前ではないのか。
どんな命にも終わりがあるのだから、死に別れるのがつらいという理由で愛でられないのなら、永遠にかわいがることなどできないのではないか。
「そういうものなんですか……」
ミサキが取り敢えず分かったふりをしようとした時、何かが飛んできた。
それは美子たちのすぐ後ろをかすめ、掃除用具を入れていた倉庫にぶつかった。
突然の大きな音に猫たちは驚いて走り去る。
「あぶないっ!」
公園の外に走り出た1匹に、自動車が迫った。
視界に飛び込んできた猫に気付いたドライバーが、クラクションを鳴らしながら減速する。
猫はすんでのところで道路の反対側の茂みに飛び込んだ。
倉庫の前をバウンドし、転がっていくバレーボールをミサキは目で追った。
公園の中ほどに女の子が3人いた。
こちらを見てニヤニヤと笑っている。
彼女たちがわざとボールをぶつけたのだとミサキは思った。
「あんたたち、なに考えてんのよ! 危ないじゃない!」
正義感の強いミサキは強い口調で抗議した。
集団相手にも食ってかかる度胸は中々のものだが、相手は動じていない様子だ。
「あー、手がすべったー」
そのうちのひとり――内出光が面倒くさそうにボールを拾い上げる。
「ちょっと! 何とか言ったらどうなのよ?」
今にも掴みかからん勢いでミサキが詰める。
「うるせえなあ。手がすべった、って言ってんだろ」
光も負けてはいない。
「わざとぶつけたでしょ! 分かってるのよ!」
「証拠はあんのかよ?」
なんて乱暴な子なんだ、と美子は思った。
(女の子なのに下品な言葉遣いだわ。それに常識もない。親の顔が見てみたいわね)
美子は光をキッと睨みつけた。
「汚ねえ野良猫に餌やりやがってさ。そんな猫を養うより人間を養えよ」
「何ですって……?」
過熱するようならミサキを止めるつもりだった美子だが、これには堪らず反論したくなった。
「あなた、小学生? 親に養ってもらってる身分でよく言えたわね!」
あり得ないが、もしミサキがこんなことを言おうものなら、すぐさま平手打ちが飛んだだろう。
「なんだよ、ばばあ。てめえには関係ないだろ」
「ばばあ……」
美子はあやうく手を出しそうになった。
が、どうにか抑え、代わりに出たのは、
「税金も納めてないくせに。あなたが学校に行けるのも、この公園で遊べるのも誰のおかげだと思ってるのかしらね!」
という、大人げない反論だった。
「ああ、もう、ウザいんだよ! 死ねよ!」
光がひときわ甲高い声でそう叫んだ時、一台のバイクが公園の前に停まった。
「あいつだ!」
後ろで女の子たちが言うや光の腕をつかみ、反対側の出口に走って逃げた。
入れ替わるようにやって来たのは警官の末藤一だった。
「私が通報したの」
奈緒が美子に耳打ちした。
「通報をくれたのは及川さんですね? 何があったか――は聞くまでもないみたいですけど……」
末藤は不愛想にならない程度に呟いた。
「また例の子たちですか?」
奈緒が頷いた。
「さっきの子、知ってるんですか?」
「札付きのワルですよ。僕も何度、注意したか」
美子の問いに末藤は呆れたように言った。
「おまわりさん。あの子たち、ボールをわざとあの倉庫にぶつけたんです。それで大きな音がして猫が飛び出して――」
相手が警官でもミサキは物怖じしない。
この胆力はどこで培ったのだろう、と美子は我が子ながらに思った。
「音に驚いて飛び出した猫が車に轢かれても、残念だけど事故という扱いにしかならないんだよ」
ミサキが何を訴えようとしているのかを悟った末藤は、言葉を選びながら事実を伝えた。
「だけどこの公園は元々ボールの使用が禁止されているからね。その件での注意や指導ならできるよ」
少し離れたところに光たちが拾い損ねたボールが落ちていた。
「取り締まりとかできないんですか」
対応に不満があるようで、ミサキは不服そうに言った。
末藤は困ったように奈緒を見やる。
「通報があれば僕か、手すきの者が駆けつけるよ。ただ、現状は口頭注意くらいしかできないんだ」
奈緒はかぶりを振った。
「あの、前に何かあったの? あの子たちと……」
その仕草に諦念を感じた美子が問うた。
奈緒と末藤は互いに顔を見合わせた。
「事故があったんですよ」
言葉にしたがらない奈緒に代わって、末藤が言う。
「さっきの――あの女の子と他の数名の児童がここで遊んでいましてね。爆竹を使っていたんです」
「爆竹……?」
「ええ。その時もちょうど地域猫活動をしている人がいたのですが、爆竹の音に驚いたのでしょうね。飛び出した猫が車に撥ねられたんです」
「及川さんが……?」
「いいえ、ちがうわ。その時には私の他にも活動してた人がいたの。あの日、私はたまたま用事があったから、その人が給餌してたんだけどね」
タイミングが悪かった、と奈緒は漏らした。
「地域猫とはいえ野良猫という扱いで所有者もおらず、子どものしたことだから、と厳重注意で終わったんです」
末藤は淡々と言ったが、表情には悔恨が見てとれる。
「そんなの、ひどい!」
ミサキが激昂した。
「悪いことをして動物が死んでるのに、なんでそれで済むの? 死んだのが人じゃなくて猫だからいいの?」
「及川さん、その人はどうしてるの?」
美子が訊いた。
「しばらくして辞めたわ。以前からもいろいろと嫌がらせを受けてたから。世話をしてた猫が目の前で死ぬのを見て、つらくなったんでしょうね」
言葉のわりに奈緒は淡々と話した。
感情を挟んではいけないと思っているのか、彼女は顔色ひとつ変えない。
(名前を付けないって、こういうことなのね……)
ミサキと光が言い争っていた時、奈緒が一言も発しなかったのも、これが理由なのかもしれないと美子は思った。
その場に居合わせなかったとはいえ、事故死の原因を作った光に対しては、怒りがあっただろう。
だからといって安易にミサキに加勢すれば、激情に駆られて何を言ってしまうか分からない。
それに表立って抗議の声を上げれば、相手は後ろめたさの欠片も感じていないような連中である。
どのような報復をされるかを考えただけでおそろしい。
「――及川さん」
末藤は申し訳なさそうに言った。
「活動の場所を変えることはできませんか? この環境はたしかに猫たちにもいいと思いますが、人目につきすぎる場所でもあります。数日前にも虐待された猫が見つかったでしょう? 犯人に目をつけられているのかもしれません」
なら犯人を捕まえるのが先では、と美子は言いたかった。
「そう、ですね……」
奈緒は曖昧に頷いた。
彼女の考えとしては、それでは何の解決にもならない。
内出光は別としても、虐待死させた犯人を捕まえなければ、どこで活動をしても同じことだ。
それにしばしばテレビ等で報道されているように、猫がいなくなれば標的を他の生き物――最終的には人間――に変更するおそれもある。
「考え方がいいかもしれませんね。これ以上、続くようなら……」
そう言って一応の理解を示す奈緒だが、ここ以上の環境が整っている場所を探すのは簡単ではない。
周囲は交通量が多く、公園のようなスペースがない。
給餌だけなら数メートル四方あればいいが、そういう場所は民家が密集しているところにしかない。
「あの、おまわりさん。そんなにいろいろ私たちに喋って大丈夫なんですか?」
美子は申し訳なさそうに訊いた。
「情報の共有は必要ですから」
「はあ……」
「何か困りごとがあれば、遠慮なく相談してください。それと、呉谷さん」
末藤はミサキに向きなおった。
「気持ちは分かるけど、あまり刺激しないほうがいいよ。思わぬトラブルを招くこともあるからね。相手が絡んできたら、警察を呼ぶぞ、って言えばいい。僕の名前を出してもかまわないから」
ミサキは渋々ながら頷いた。
彼女は好戦的な性格ではないが、猫を人質に捕られているようで、真っ向から反論できないのを歯痒く思った。
末藤が引き揚げると、妙な虚脱感が押し寄せてくる。
あやうく猫が轢死するところだったこと、警官がやって来たこと等が緊張の連続となり、それが一気に弛緩したようだった。
「とにかく無事で良かったわ」
美子にはその程度しか言えない。
ただそれは今回に限り、という意味である。
偶発的な事故ならともかく、明確に悪意を持っている者がいる以上、今後のトラブルは避けられない。
ここまで苛烈なことができる人間があちこちにいる、ということが彼女にはなかなか理解できなかった。
「ねえ、お母さん。明日からあたしも来ていい?」
「どうして?」
「だって何があるか分かんないじゃん。数は多いほうがいいでしょ」
それはもっともだ、と横で聞いていた奈緒は思った。
本音を言えば男手が欲しかった。
やはりそこにいるのが女や子どもだけでは、相手にナメられてしまう。
しかし屈強とはいわないまでも、男が加わるだけで害を被る確率は大きく下がる。
「私たちなら大丈夫よ。それよりミサキちゃんはどう? この子たちのことは好きかしら?」
奈緒は結局、ボディガードとして来てもらうより、あくまで彼女が猫に対してどう思っているかで賛成か反対かを決めることにした。
「好きです。だってかわいいもん」
理由としては充分だ。
まずは愛でてくれること。
その気持ちを持ってくれるだけでも、奈緒としては心強い。
「私は賛成よ。呉谷さんはどう?」
すでに場の雰囲気は出来上がっている。
「私もかまわないわ。来るときは車に気を付けるのよ?」
「はーい」
すんなりと許可されて、ミサキはご機嫌だった。
同僚の細野が不安そうに問うたが、その心配は半分は自身のためだ。
今日は客数が多いから、早退されると残った者の負担が大きい。
「そう? 平気よ」
美子は笑みを浮かべるも、その表情には固さが残る。
仕事とプライベートは分けるべきだが、彼女にはそれを隠し通せるほどの器用さがない。
「無理しないで店長に言って早退させてもらったら?」
と慮ってくれるが、それを素直に受ければ職場に迷惑がかかる。
それにあと1時間もすれば退勤時刻だ。
美子は接客向けの笑顔を作って、残りの時間を乗り切った。
猫殺しの犯人はまだ見つかっていない。
奈緒によれば野良猫が1匹殺されたくらいでは誰も動かない、という。
不審死が相次ぐとか、メディアに取り上げられて世間の注目が集まれば、捜査も積極的に行われるだろう。
(悔しいわね……)
動物と人間の命には瞭然とした差があると思っていた彼女だが、毎日のように猫に触れ、ミサキの見解を思い返すうちに、その距離は縮まっていた。
今となっては、たとえ猫1匹でも非道な殺猫犯だから捕まえてほしいという想いがある。
着替えを終え、いつものように薬局でキャットフードを調達する。
この流れも日課になっていたから、薬局の店員も美子の顔を覚えていて、いつも買う銘柄が品切れになりそうになると確保してくれる。
「あら、待っててくれたの?」
顔を覚えているのは人間だけではない。
時間を決めていることもあるだろうが、何匹かは公園に向かう美子の姿を認めて先回りしている。
食べ物目当てだと分かっていても、植え込みの辺りでおとなしく座っている猫たちを見ると、美子の表情はみるみる弛んでいく。
特に小さな声で甘えたように鳴かれると、連れて帰りたくもなる。
しかしそこは猫のほうも線引きしているようで、触ろうとした途端に身を翻して離れてしまう。
この距離感を良しとするか否かで、彼らとの接し方は変わってくる。
「ちょっと待っててね」
小皿を並べる間も、猫たちは様々な反応で待っている。
(この子たちだけでも平穏に過ごしてほしいわ)
いわゆる野良猫の寿命は長くはない。
家で飼われている猫とちがい、病気や怪我をすぐに診てもらうワケにはいかず、また衛生的にも良い環境とはいえないため、わずかな傷病が死につながることもある。
屋外を住処にしていることで交通事故に遭う確率も高く、10年も生きられないのが大半だ。
奈緒からそう聞いた美子は、この小さな命を愛おしく思うようになった。
もっと長命であるか、不幸な死因が稀であれば、ここまで心を動かされることはなかっただろう。
一代かぎり、という大前提がある地域猫活動は思いのほか短いのかもしれない、と彼女は思った。
「相変わらず早いわね」
奈緒がやって来た。
こうなると猫たちの行動は面白い。
2人が持っている餌は種類が異なるから、好みによってどちらかに分かれることになる。
さながら人気投票のようなもので、やはり味に慣れ親しんでいるせいか、奈緒に寄り添う猫のほうが多い。
少し前までの美子なら、その様子をただ眺めているだけだった。
が、意識が変われば視点も変わる。
奈緒の元に集まる猫たちを後ろから観察し、異常がないかを確かめるようになっていた。
「特におかしなところはないみたい」
素人判断ではあるが、そう言っておく。
自身もネットで調べたりはするが、猫に関する知識は奈緒に及ばない。
実際に飼っているだけあり、健康管理や抱き方、動物病院選びのコツまで、その多くは奈緒頼みということになる。
「それなら安心ね」
彼女がどこまで美子の観察眼を信頼しているかは分からない。
そもそも被毛に覆われている動物を、触らずに見るだけで判断するのは医師でもしないことだ。
とはいえこれまで一人で活動していたこともあり、たとえ未熟であろうと美子が飽きずに来てくれるのは、それだけで心強かった。
「あ、いたいた!」
少女が小走りでやって来たので、猫たちは何事かと一斉に距離をおいた。
「あら、どうしたのよ?」
ミサキだった。
授業が終わるなり来たようで、制服姿のままだった。
「お母さんがどんなことしてるのか見にね」
言ってからミサキは奈緒にぺこりと頭を下げた。
「娘さん?」
「そう、ミサキっていうの。中学も2年生になるっていうのに、まだまだ落ち着きがなくて……」
「大きなお世話! おばさんが及川さん?」
「ええ、そうよ」
「呉谷ミサキです。母がいつもお世話になってます」
ミサキは丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそ。しっかりした子じゃない」
「いつもこうだといいんだけどね」
美子は謙遜のつもりで言ったが、初対面の相手にきちんとした挨拶ができる我が子の成長ぶりに驚いていた。
こうした場面に出くわすことは滅多にないが、娘は常識的な子に育っているようだ。
「ここにいるのがお母さんがいつも言ってる猫?」
ぱらぱらと戻ってきた猫を撫でようと、ミサキは手を伸ばした。
だが警戒を解いていない彼らは近寄ろうとはしない。
「そうよ、かわいいでしょ」
「うん。名前とかあるの?」
「名前? そういえば、そうねえ……」
答えに困った美子は奈緒を見た。
「名前はないわね。考えたこともなかったわ」
「付けないんですか?」
「付けないようにしてるのよ。愛着が湧くから」
ミサキは首をかしげた。
「この子たちはね、寿命が短いの。最期を看取れないことも普通なの。かわいいのはかわいいけど、お別れする度に悲しい想いをしたくないのよ」
だから名付けもしないし、特定の子を贔屓することもしない、と彼女は言う。
これは奈緒が冷淡だからではない。
むしろ思い入れが深いからこそ、繰り返す死別の痛みから逃れるために、彼女がとった苦肉の防衛策だった。
数日前に猫が惨殺された時、美子ほど悲嘆に暮れずに済んだのも、この心構えに徹していたおかげだった。
この考え方はまだミサキには理解できないものだった。
かわいいと思うなら、愛情を注ぐのは当たり前ではないのか。
どんな命にも終わりがあるのだから、死に別れるのがつらいという理由で愛でられないのなら、永遠にかわいがることなどできないのではないか。
「そういうものなんですか……」
ミサキが取り敢えず分かったふりをしようとした時、何かが飛んできた。
それは美子たちのすぐ後ろをかすめ、掃除用具を入れていた倉庫にぶつかった。
突然の大きな音に猫たちは驚いて走り去る。
「あぶないっ!」
公園の外に走り出た1匹に、自動車が迫った。
視界に飛び込んできた猫に気付いたドライバーが、クラクションを鳴らしながら減速する。
猫はすんでのところで道路の反対側の茂みに飛び込んだ。
倉庫の前をバウンドし、転がっていくバレーボールをミサキは目で追った。
公園の中ほどに女の子が3人いた。
こちらを見てニヤニヤと笑っている。
彼女たちがわざとボールをぶつけたのだとミサキは思った。
「あんたたち、なに考えてんのよ! 危ないじゃない!」
正義感の強いミサキは強い口調で抗議した。
集団相手にも食ってかかる度胸は中々のものだが、相手は動じていない様子だ。
「あー、手がすべったー」
そのうちのひとり――内出光が面倒くさそうにボールを拾い上げる。
「ちょっと! 何とか言ったらどうなのよ?」
今にも掴みかからん勢いでミサキが詰める。
「うるせえなあ。手がすべった、って言ってんだろ」
光も負けてはいない。
「わざとぶつけたでしょ! 分かってるのよ!」
「証拠はあんのかよ?」
なんて乱暴な子なんだ、と美子は思った。
(女の子なのに下品な言葉遣いだわ。それに常識もない。親の顔が見てみたいわね)
美子は光をキッと睨みつけた。
「汚ねえ野良猫に餌やりやがってさ。そんな猫を養うより人間を養えよ」
「何ですって……?」
過熱するようならミサキを止めるつもりだった美子だが、これには堪らず反論したくなった。
「あなた、小学生? 親に養ってもらってる身分でよく言えたわね!」
あり得ないが、もしミサキがこんなことを言おうものなら、すぐさま平手打ちが飛んだだろう。
「なんだよ、ばばあ。てめえには関係ないだろ」
「ばばあ……」
美子はあやうく手を出しそうになった。
が、どうにか抑え、代わりに出たのは、
「税金も納めてないくせに。あなたが学校に行けるのも、この公園で遊べるのも誰のおかげだと思ってるのかしらね!」
という、大人げない反論だった。
「ああ、もう、ウザいんだよ! 死ねよ!」
光がひときわ甲高い声でそう叫んだ時、一台のバイクが公園の前に停まった。
「あいつだ!」
後ろで女の子たちが言うや光の腕をつかみ、反対側の出口に走って逃げた。
入れ替わるようにやって来たのは警官の末藤一だった。
「私が通報したの」
奈緒が美子に耳打ちした。
「通報をくれたのは及川さんですね? 何があったか――は聞くまでもないみたいですけど……」
末藤は不愛想にならない程度に呟いた。
「また例の子たちですか?」
奈緒が頷いた。
「さっきの子、知ってるんですか?」
「札付きのワルですよ。僕も何度、注意したか」
美子の問いに末藤は呆れたように言った。
「おまわりさん。あの子たち、ボールをわざとあの倉庫にぶつけたんです。それで大きな音がして猫が飛び出して――」
相手が警官でもミサキは物怖じしない。
この胆力はどこで培ったのだろう、と美子は我が子ながらに思った。
「音に驚いて飛び出した猫が車に轢かれても、残念だけど事故という扱いにしかならないんだよ」
ミサキが何を訴えようとしているのかを悟った末藤は、言葉を選びながら事実を伝えた。
「だけどこの公園は元々ボールの使用が禁止されているからね。その件での注意や指導ならできるよ」
少し離れたところに光たちが拾い損ねたボールが落ちていた。
「取り締まりとかできないんですか」
対応に不満があるようで、ミサキは不服そうに言った。
末藤は困ったように奈緒を見やる。
「通報があれば僕か、手すきの者が駆けつけるよ。ただ、現状は口頭注意くらいしかできないんだ」
奈緒はかぶりを振った。
「あの、前に何かあったの? あの子たちと……」
その仕草に諦念を感じた美子が問うた。
奈緒と末藤は互いに顔を見合わせた。
「事故があったんですよ」
言葉にしたがらない奈緒に代わって、末藤が言う。
「さっきの――あの女の子と他の数名の児童がここで遊んでいましてね。爆竹を使っていたんです」
「爆竹……?」
「ええ。その時もちょうど地域猫活動をしている人がいたのですが、爆竹の音に驚いたのでしょうね。飛び出した猫が車に撥ねられたんです」
「及川さんが……?」
「いいえ、ちがうわ。その時には私の他にも活動してた人がいたの。あの日、私はたまたま用事があったから、その人が給餌してたんだけどね」
タイミングが悪かった、と奈緒は漏らした。
「地域猫とはいえ野良猫という扱いで所有者もおらず、子どものしたことだから、と厳重注意で終わったんです」
末藤は淡々と言ったが、表情には悔恨が見てとれる。
「そんなの、ひどい!」
ミサキが激昂した。
「悪いことをして動物が死んでるのに、なんでそれで済むの? 死んだのが人じゃなくて猫だからいいの?」
「及川さん、その人はどうしてるの?」
美子が訊いた。
「しばらくして辞めたわ。以前からもいろいろと嫌がらせを受けてたから。世話をしてた猫が目の前で死ぬのを見て、つらくなったんでしょうね」
言葉のわりに奈緒は淡々と話した。
感情を挟んではいけないと思っているのか、彼女は顔色ひとつ変えない。
(名前を付けないって、こういうことなのね……)
ミサキと光が言い争っていた時、奈緒が一言も発しなかったのも、これが理由なのかもしれないと美子は思った。
その場に居合わせなかったとはいえ、事故死の原因を作った光に対しては、怒りがあっただろう。
だからといって安易にミサキに加勢すれば、激情に駆られて何を言ってしまうか分からない。
それに表立って抗議の声を上げれば、相手は後ろめたさの欠片も感じていないような連中である。
どのような報復をされるかを考えただけでおそろしい。
「――及川さん」
末藤は申し訳なさそうに言った。
「活動の場所を変えることはできませんか? この環境はたしかに猫たちにもいいと思いますが、人目につきすぎる場所でもあります。数日前にも虐待された猫が見つかったでしょう? 犯人に目をつけられているのかもしれません」
なら犯人を捕まえるのが先では、と美子は言いたかった。
「そう、ですね……」
奈緒は曖昧に頷いた。
彼女の考えとしては、それでは何の解決にもならない。
内出光は別としても、虐待死させた犯人を捕まえなければ、どこで活動をしても同じことだ。
それにしばしばテレビ等で報道されているように、猫がいなくなれば標的を他の生き物――最終的には人間――に変更するおそれもある。
「考え方がいいかもしれませんね。これ以上、続くようなら……」
そう言って一応の理解を示す奈緒だが、ここ以上の環境が整っている場所を探すのは簡単ではない。
周囲は交通量が多く、公園のようなスペースがない。
給餌だけなら数メートル四方あればいいが、そういう場所は民家が密集しているところにしかない。
「あの、おまわりさん。そんなにいろいろ私たちに喋って大丈夫なんですか?」
美子は申し訳なさそうに訊いた。
「情報の共有は必要ですから」
「はあ……」
「何か困りごとがあれば、遠慮なく相談してください。それと、呉谷さん」
末藤はミサキに向きなおった。
「気持ちは分かるけど、あまり刺激しないほうがいいよ。思わぬトラブルを招くこともあるからね。相手が絡んできたら、警察を呼ぶぞ、って言えばいい。僕の名前を出してもかまわないから」
ミサキは渋々ながら頷いた。
彼女は好戦的な性格ではないが、猫を人質に捕られているようで、真っ向から反論できないのを歯痒く思った。
末藤が引き揚げると、妙な虚脱感が押し寄せてくる。
あやうく猫が轢死するところだったこと、警官がやって来たこと等が緊張の連続となり、それが一気に弛緩したようだった。
「とにかく無事で良かったわ」
美子にはその程度しか言えない。
ただそれは今回に限り、という意味である。
偶発的な事故ならともかく、明確に悪意を持っている者がいる以上、今後のトラブルは避けられない。
ここまで苛烈なことができる人間があちこちにいる、ということが彼女にはなかなか理解できなかった。
「ねえ、お母さん。明日からあたしも来ていい?」
「どうして?」
「だって何があるか分かんないじゃん。数は多いほうがいいでしょ」
それはもっともだ、と横で聞いていた奈緒は思った。
本音を言えば男手が欲しかった。
やはりそこにいるのが女や子どもだけでは、相手にナメられてしまう。
しかし屈強とはいわないまでも、男が加わるだけで害を被る確率は大きく下がる。
「私たちなら大丈夫よ。それよりミサキちゃんはどう? この子たちのことは好きかしら?」
奈緒は結局、ボディガードとして来てもらうより、あくまで彼女が猫に対してどう思っているかで賛成か反対かを決めることにした。
「好きです。だってかわいいもん」
理由としては充分だ。
まずは愛でてくれること。
その気持ちを持ってくれるだけでも、奈緒としては心強い。
「私は賛成よ。呉谷さんはどう?」
すでに場の雰囲気は出来上がっている。
「私もかまわないわ。来るときは車に気を付けるのよ?」
「はーい」
すんなりと許可されて、ミサキはご機嫌だった。
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