小さな命たち

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奈緒が不愉快そうな顔で振り返ったのは不愉快な声で呼ばれたからだ。
警察でもないのに、と彼女は思ったが、彼も公務員だからと思いなおすと無下に追い返すワケにもいかない。
「なんですか?」
低い声で言ったのも、あやうく悲鳴をあげそうになった気恥ずかしさをごまかすためである。
「すみませんね。ちょっと話を聞きたかったものですから」
野瀬の粗野な口調は役所の人間という看板もあって高圧的な印象を与える。
せめて彼に幸治の謙虚さの半分もあればここまで奈緒を身構えさせることはなかっただろう。
「また苦情でもあったんですか?」
「いえ、あれからは特に。何か言われたりしましたか」
「別に……」
暗がりでよかった、と奈緒は思った。
壊れている街灯のおかげもあって、野瀬の顔をはっきり見なくて済む。
「近くで事故があったみたいですが、影響はありませんか?」
「ええ」
「それはよかった。事故と結びつけて悪く言うような人もいるでしょうからね。気持ちは分からなくもないですが」
野瀬の言葉に遠慮はない。
今日は幸治も美子もいないから、誰に気を遣う必要もない。
これがいつもどおりの彼なのだ。
「で、何の用ですか? 苦情がないなら話は終わりですよね? 片付けもしたし、帰るところだったんですけど」
一方、奈緒も言葉を選ぶ必要はない。
美子やミサキが残っていたら、相手が家族の同僚ということで控えめにならざるを得ないところだった。
「すぐに済みます。5分くらいで。及川さんのやってる活動について、いくつか確認したいことがあるんです」
「答えたら帰ってくれます?」
敵意の眼差しを向けながら、彼女は想定される質問とその答えを用意した。
野瀬の第一声からして活動に否定的で、やめさせようという意図があることは充分に感じ取れた。
ここで曖昧に受け答えしたり、自信のなさを露呈したりすれば付け入る隙を与えてしまう。
「努力しますよ」
これは一筋縄ではいきそうにない、と野瀬は思った。
「まず、あなたがやってるのは、いわゆる地域猫活動ですね?」
奈緒は視線を逸らさないようにして頷く。
「餌場の片付けはしていますか?」
「器などは家から持ってきているものです。食べ残しもきちんと持ち帰って処分してます」
そう言い、奈緒が指差した場所には水をかけた跡がある。
「手術は?」
「してますよ。全頭。自腹で。必要なら写真に撮ってお見せしましょうか?」
自腹、という言葉を強調する。
「いや、そこまでは。分かりました、ではあとひとつだけ」
奈緒の語勢に負けじと野瀬も質問を重ねる。
「活動にあたって、趣旨を説明して近隣住民の理解は得られてますか?」
奈緒の顔つきが変わった。
何を訊かれても毅然と素早く返すつもりだった彼女が視線を彷徨わせる。
ばつ悪そうな表情の細部までは読み取れないだろうが、動揺は伝わっていた。
(やっぱりな、そういうことだと思ったぜ)
野瀬は怒りを隠しながら頷く。
彼が知りたかったのはこれだけだった。
餌場の後始末や手術の有無は、ちょっと観察すれば分かる。
彼は視力が良く、夜目も利くほうだったから、初めて奈緒と接触したあの日、集まっている猫が手術済みであるのを見ている。
「全員とは言いません。でも通りがかる人とか、話しかけてくる人にはちゃんと活動内容を伝えてます」
無言では旗色が悪くなると思った奈緒は強い口調で言い返す。
しかし時は既に遅く、また言葉選びもまずかった。
「それは理解を得たことにはなりませんよ。その人が近くに住んでいるとは限らないでしょう?」
正論だが彼に言われると素直に納得できなくなる。
「どうやって説得するんですか? 一軒一軒回って説明するんですか? あのアパートならまだしも、向こうの団地の人にも? 近隣といったってどこまでの範囲が近隣になるんですか?」
これは彼女なりの反駁の仕方だが感情的になっていると言わざるを得ない。
相手が野瀬であるということも彼女には悪く作用していた。
「そうするくらいの気持ちが必要ですよ」
彼には似つかわしくない冷淡な物言いだった。
論争するのが目的ではない。
それは然るべき時、相応しい場所が用意されるハズだから、そこで思う存分にやればいい。
「及川さん、このままではマズイです。今はよくても何かことが起こったときに、ややこしくなる。世間のイメージも良いとはいえない。トラブルにでもなったら面倒です」
「脅してるつもりですか? それともあの子たちを放っておけ、とでも言うんですか? 私たちが1匹ずつ捕まえて手術させていなかったら、今ごろもっと数が増えていたわよ? そうなったら誰が対処するの? だいたいね、責められるべきは捨てる人なの。無責任な飼い主がいるから――」
「それは分かってます。やめろ、とも言ってません。活動自体は素晴らしいものだと思っています」
野瀬は心にもないことを言っているつもりだったが、どこかでは奈緒を応援したいという気持ちもあった。
しかし仕事で来ているのだから、あまり個人的な見解を示すべきではない。
好き嫌いではなく、あくまで役所の人間として適切に対処しなければならなかった。
「ただ、順番がちがうんです。立派な活動も自分勝手にやって、周囲の賛同を得られないままでは意味がありません」
「余計な……お世話です……」
拗ねるような奈緒には諦念があった。
全員の賛成を得られるワケがない。
実害がなければ無関心だし、動物好きで共感する人なら賛同してくれるだろう。
しかし当然、そうでない人もいる。
真正面から反対の声を上げられたら、それを理由に活動中止に追い込まれるのは目に見えている。
奈緒が活動について広く理解を求めないのは、必ず出てくるであろう反対の声を聞きたくなかったからだ。
「意見を聞いてみませんか? 独り善がりの活動なんて、無責任な飼い主と同じですよ」
幸治ならとても言えなかっただろう。
当たりのよい表現に変えることもしないでここまで直言できるのは野瀬に迷いも躊躇いもないからだ。
「だから大きなお世話だって――」
「あんたや猫たちのためでもあるんだよ!」
野瀬が声を荒らげたので、残っていた猫が何事かと顔をあげた。
「あんたが誰の意見も聞かない、自分勝手にやるっていうんだったら、反対してる奴らにだって同じ理屈が通るんだ。どんな危害を加えられるか分からないぞ。もっと早いうちに手を打っときゃ防げたような問題もたくさんあるんだ」
役所の人間としての適切な対応は、我慢の限界のために早くもメッキが剥がれ落ちた。
奈緒は怒声に呑まれそうになった。
男の恫喝など恐れるに足りないと思っているが、凶悪な事件を仄めかされると自信が揺らいでしまう。
危害という言葉に、奈緒はここで殺された何匹かの猫を思い出してしまった。
「こいつらを何とかしたいんだろ? それなら全部、あんたが引き取るのが一番いいんだ。鍵をかけて外に出ないようにな。そんなの無理だろ。だからここで面倒見てるんだろ」
「………………」
「立派だよ、それは。でも四六時中監視できるか? 見てない時間のほうが多いんじゃないのか? その時に何かあったらどうする? どう責任をとる?」
畳み掛けるような野瀬の言は考える時間を与えない。
おそらく奈緒自身もどこかでは抱きながら、具体的な手を打たなかった不安だ。
自分のやっていることは正しい、というただそれだけの信念が、誰にも妨害される謂れはないという力なき主張になっている。
「……すみません、興奮してしまいました」
野瀬が蒼い顔をして謝ったのは、いつまで経っても奈緒が反論してこなかったからだ。
「ただ、これは脅しでも何でもないんです。実際にそういう事件も起こっているんです」
「はい……」
「話し合いの場を設けます。これもちいき課の仕事ですから。賛成も反対もあるでしょうが、話をしてみないことには進みませんよ。多くは活動していること自体を知らないでしょうけどね」
先ほどまでの憤りが冷め、しかし役人としての顔にもまだ戻っておらず、今の野瀬には表情がなかった。
声にも抑揚がなく、何を考えているのか、何を目的としているのかは読めない。
「考えて、おきます……」
同じように表情を失くした奈緒が言えたのは、これがやっとだった。
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