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9 呪い
9-2
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「大変なことになったわね……」
いつもはどこか厭世的な奈緒が沈んだ声で言った。
「こういうの、テレビで観るばかりだったけど、身近でも起こるのね」
奈緒に悪く見られないように美子は言葉を選んで答えた。
公園はしばらくの間、封鎖されることになった。
といっても警察の調べが行なわれる2、3日ほどのことで、それが終わればこれまでどおり自由に利用できるようになる。
両方の出入り口は塞がれているが、猫たちは決まった時間にやってくるので、しかたなく外側の目立たない一角を餌場にする。
彼らにもこだわりがあるようで、いつもと違う場所に落ち着かない子もいた。
そういう時は器を軽く叩いてやると、それが合図のようになっていつものように食いついてくれる。
「しばらく止めたほうがいいんじゃないか、って旦那にも言われたの。事故が起きたばかりだし、良くないだろうって」
何が良くないのか分からない美子は、心配そうな幸治に大丈夫だと言い置いて活動を続けている。
「旦那さんは正しいと思うわ。あなた、幸せよ」
奈緒が意地悪な笑みを浮かべた。
「そうなのかしら」
「まあ、あの事故と私たちを結びつける線は何もないから、別に注意する必要はないんだけどね。この子たちを放っておくワケにもいかないし」
奈緒は傍にいた白猫を撫でようとしたが、いつもと雰囲気が違うからか指先が触れる瞬間にさっと身をよじった。
「でも他人事じゃないわね。どこでも起こることだもの」
と美子は神妙な顔で言ったが、
「そうかしら。飲酒や居眠り運転ならそう思うけど、今回のケースは違うわ」
奈緒は冷徹な一面を覗かせた。
「ハッキリ言えば――」
「あ、いたいた! ここであげてたんだ!」
制服姿のミサキが駆け寄ってきた。
「あっち行ったら入れなくなってたから探してたんだ。いつになったら公園が使えるようになるの?」
「今週いっぱいは駄目なんじゃないかしらね。いろいろ調べるらしいし。それより久しぶりじゃない。学校の用事は片付いたの?」
「はい、なんか急に暇になっちゃって」
「でも少し前まで引っ張りダコだったんでしょ? モテモテじゃない」
「モテてるワケじゃないですよ。応援頼まれてただけですから」
ミサキは腰を落として手を差し出した。
ほとんどは初めて見る相手のように距離をとったが、黒猫だけは飼い主に懐くように頬をすりつけている。
「あはは、覚えててくれたの?」
黒猫は頭突きをしたり指先を舐めたりしたあと、その場にごろんと仰向けになった。
「ねえ、おばさん。事故に遭ったのって、この前の女の子なんでしょ?」
「ミサキ、それどこで聞いたの?」
「みんな知ってるよ。学校でも噂になってるし」
「噂? それってどんな?」
「内出って子が呪い殺されたんだって」
美子と奈緒は顔を見合わせた。
懐かしい響きがあった。
彼女たちが子どもの頃も、その当時の都市伝説や噂話があって、学校の七不思議やジンクスが飛び交っていた。
特に女の子はその手の話が好きで、真夜中に十字路に立つと呪われるとか、音楽室でひとりきりである曲を弾くとあの世に連れて行かれるとか、面白おかしく――当の本人は真面目に――語り合っていたものだ。
「どうして呪いなんて話が出てくるの?」
ミサキが言うには、この公園で猫が何匹も死んでいるのは生徒たちの間では有名らしい。
ただの事故や寿命ならともかく、虐待死された個体も多かったことから公園にはそんな猫たちの怨念が溜まっていて、ついに牙を向けられたのが内出光だった、というのだ。
猫の不審死という事実が織り交ぜられていることで、信じきっている生徒も多いらしい。
「なるほどねえ。そうかもしれないわね。ところで――」
自分が幼かった頃を思い出しながら聞いていた奈緒は、
「ミサキちゃんは信じてるの? その話」
驚くほど冷たい声で問うた。
美子は声色の変化に彼女を見た。
大人が子どもに声をかけるときに見せる、優しい顔つきだ。
だが目だけは笑っていない。
「信じるワケないじゃないですか、呪いなんて」
バカにするように笑い、足元を行ったり来たりする黒猫を撫でる。
気持ちが良かったのか、ニャアと1回だけ鳴いた。
「猫はそんなひどいことしないですよ。こんなにかわいいのに。ね!」
その言葉に答えるように距離を置いていた数匹が集まってくる。
黒猫を押しのけて、まるで自分も撫でてくれと言っているみたいだった。
「ひどいことしてるのは、いつも人間のほうですよ。意味もなく殺したり、実験に使ったり……そのくせ少なくなったら保護するんですよ。勝手でしょ?」
大方この件は学校で習ったのだろう、と美子は思った。
今はさまざまな角度から授業内容が構成されているから、国語や数学だけでなく、昔は教科書には載っていなかったような分野も課題になる。
道徳や人権学習のように、生命の営みに関する授業を受けて、彼女なりの考えを持つに至ったのだろう、と美子は考えていた。
「だから罰が当たったんだと思います。そのほうが自然ですよ」
ミサキは猫を悪者にせず、人間の傲慢さを批難したあと、今回の事故を天上の存在になすりつけた。
人智の及ばない何者かの仕業なら、人間にはどうすることもできない。
実際、太古から人間はそうやって現実に折り合いをつけてきたのだ。
奈緒は何も言えなかった。
ミサキちゃんの言うとおりだわ、と頷くこともできなかった。
安易に同調するのも、批判するのも、これは難しい。
大の大人が揃いも揃って痛いところを衝かれたからだ。
「お母さんもそう思うわ……」
美子は寂しげに言った。
子は親を見て育つから、成人するまでは親の影響はとてつもなく大きいと彼女は勝手に思っていた。
少なくともミサキが高校を卒業する頃までは、自分がしっかりしていないと娘の成長に良くないと。
だからミサキの前では、明らかに車の往来がない狭い道でも信号無視はしなかったし、ゴミのひとつさえ路傍に捨てたこともない。
間違った振る舞いがミサキを間違った方向へ成長させると思っているからだ。
これは裏返せば美子は娘を自分と同一であると見ている節があった。
食べ物の好みも、小動物への接し方も、主義主張も、自分のそれとそっくりになるのが当たり前だと、どこかでは思っていたのだ。
しかし社会的には子どもでも、ミサキはもう立派なひとりの人間である。
モノの見方、感じ方、捉え方はもう、美子と同一ではない。
美子も奈緒も、内出光の死について全く同情していなかった。
死者に鞭打つようだが、幼稚園児でも言い聞かせれば守れるようなルールも守らず、親でもないのに教え諭してくれる大人に暴言を吐き、故意ではないにせよ爆竹という禁じられた玩具を使って猫を死に追いやっている。
幼齢ならまだしも、とうに善悪の判断がつく年齢である。
2人とも自らの行いが招いた死に憐れみを持つことはできなかった。
ミサキのように天罰と捉えず、非情にも自業自得と切って捨てた美子たちは、ずいぶんと冷たい大人になってしまったのだと気付いた。
ただし奈緒はそれを自覚こそしたが改めることはない。
彼女にとって光は猫殺しであったし、そのせいで真摯な活動家仲間を失っているのだ。
これは活動期間のちがい、そこからくる思い入れの深さの差異によるもので、美子は彼女ほど光に憎悪を抱いていない。
(よくよく考えると、子どもたちもかわいそうと言えるかもしれないわね)
今いる場所からぎりぎり見える看板には禁止事項が列挙されている。
安全に利用するため、近隣住民の迷惑とならないため、いくつもの条件が掲げられているが、第三者の視点に立つと締め付けが厳しいようにも思える。
公園は誰のものでもあり誰のものでもないから、秩序を保ち危険を防止するためにルールを設けるのは必須であろう。
しかしそのために子どもたちの希望がないがしろにされているのではないか、とも美子は思った。
「でも、お母さんたち、これからどうするの? ちょっとやりにくくなっちゃうんじゃない?」
「心配いらないわ。事故とは無関係だもの。活動は続けるわよ」
美子に代わって奈緒が言った。
「おばさんたち、こっちでやってるんだ」
快活な声がして一同が振り向くと、戸塚大虎がやって来た。
「公園使えなくなってるから、どこに行ったのかと思って」
「あら、大虎君。私たちのこと心配してくれてたの?」
奈緒が意地悪っぽく言ったので、
「こ、こいつらのことが気になっただけ……」
大虎は照れ隠しか余所を向いて呟いた。
「やっぱり事故のせいですよね?」
という大虎の問いに美子が頷く。
「お母さん、この子、誰?」
「大虎君よ。ええっと、苗字は何だったっけ?」
「戸塚です」
「そうそう、戸塚大虎君。及川さんの知り合いなの」
「そうなんだ。わたし、呉谷ミサキ。よろしくね」
「うん……」
ミサキの屈託のない笑顔に、大虎は赤くなった頬を見られないように俯いた。
にわかに人数が増えたことで猫たちは落ち着きを失い、器の周りをウロウロし始めた。
胆の据わっている何匹かは頭上で交わされる会話などおかまいなしにフードを貪っている。
「あ、俺、邪魔っすかね?」
それに気付いた大虎が数歩退いた。
「いいわよ、すぐに慣れるから」
奈緒が言ったとおり、しばらくすると猫たちは自分の器に近づき、盛られた餌を当然のように食べだした。
ミサキにしても大虎にしても不用意にちょっかいを出すようなことはしない。
彼らもそれを悟ったらしく、目と鼻の先に2人がいても特に警戒する素振りは見せない。
「これでちょっとは静かになるんじゃないですか?」
おかわりを催促する白猫を見ながら、大虎が呟く。
「え、何か言った?」
美子と今後の活動について話していた奈緒は、耳朶を撫でるような声に振り返った。
彼は器と美子を交互に見ている白猫をじっと凝視している。
猫は見つめ合うとケンカの合図になる生き物だが、さいわい両者の視線は交わらないので白猫が威嚇行動に出ることはない。
「大虎君?」
奈緒はもう一度訊き返した。
「あ、えっと、はやく公園使えるようになるといいですね」
向けられた視線に気付いた彼は、愛想笑いを浮かべた。
ひととおり給餌を終えたところで健康診断が始まる。
動物は人間とちがって症状を訴えないから注意深く観察しなければならない。
食欲はあったか、食べ辛そうにしていなかったかなど細かくチェックする
「この子、ときどき背を仰け反らせるようにして食べてたよ」
たまたま見ていたミサキが茶トラを指差した。
「ちょっと歯が悪いみたいなのよ。口内炎かもしれないわね。医者に見せたいとは思ってるんだけどね」
「連れて行かないんですか?」
「前に手術させるために捕獲器を使ったのよ。その時は何も知らないからあっさり捕まえられたけど、この子も学習しててね。捕獲器を見るなり警戒して近づかなくなったわ。素手で捕まえようにも嫌がるし……」
「どうにもできないってことですか?」
今度は大虎が訊いた。
「動画を録ってはいるけどね。信頼できる獣医に痛がってる様子を見せて無難な薬を処方してもらうことはできるかもしれないけど……やっぱり医者にすれば実際に診てもいないのに判断はできないわね」
ドライフードや練り物、スープ状のものを順番に与え、食べやすそうなものを特定してそれだけを食べさせた方がいい、と奈緒は言った。
この茶トラに関しては扱いが難しいので、継続して観察するということで落ち着く。
「こっちの黒いのは? 耳に傷ができてるみたいですよ」
大虎が言ったのは今、ちょうど彼のくるぶしに頭をこすりつけている黒猫だ。
この中では最も人懐っこく、初めて見る人間でも猫が好きそうな人物だと分かると積極的に甘えに行くほどだ。
「掻きむしったのね。普段は草むらにいるから。軟膏を塗ればいいわ」
手提げ袋から軟膏を取り出し、指先につけた薬を傷口に塗り広げる。
それが痛かったようで黒猫は数メートル先の茂みに逃げ込んだ。
「まったく、人の気も知らないで」
奈緒の拗ねたような口ぶりに美子たちは思わず笑った。
その他の猫たちに異常はない、
食欲も旺盛だったので問題はないだろうということで、誰が言うとはなしに解散という雰囲気になる。
そもそもこの活動は目立ってはならない。
大っぴらにやれば無責任な飼い主にとって格好の捨て場になる。
といって隠れてコソコソすると、それはそれで疚しいことをしているからだ、と批難を受けかねない。
堂々と、誠実に、そして迅速に片付けるのが長続きさせるコツだ。
「それじゃ、また明日」
「おやすみなさい」
短く挨拶を交わして、それぞれ帰路に就く――のは隣町から来ている呉谷親子だけで、奈緒と大虎は2人の後ろ姿を見送っていた。
「公園にいたの?」
姿が見えなくなるのを待ってから奈緒が訊く。
この質問には必要な言葉がいろいろと抜けていたが、彼にはその意味が分かった。
「友だちの家でゲームしてました。うちはそういうの厳しいから」
大虎の親は子どもは外で遊ぶべき、という教育方針だった。
ゲームはいつでもできるが、体を動かす遊びは大人になるとなかなかできないから、というのが理由らしい。
無邪気に走り回れる今のうちに、というやや古い愛情表現は、親になってその事実に気付いたからであろう。
(運が良かったわね)
奈緒は安堵した。
生死は別として、車に撥ねられた人を見て、よい気分になる者はいない。
居合わせてしまったばかりにトラウマになることもある。
彼女が見るかぎり大虎は生意気だが純粋な少年なので、そうした面倒には関わってほしくはなかった。
「でもしばらくは遊べなくなるわね。どうするの?」
「学校のグラウンドしかないですよ。サッカーゴールもありますから」
スポーツ少年という表現がしっくりくる大虎が、同じく活発な友だちと一緒にサッカーボールを追いかけている姿は容易に想像がつく。
「そのほうがいいわ。車は入ってこないし、先生たちの目もあるし、そっちのほうがずっと安全だものね」
「まあ、うるさい先生も多いですけど」
「生徒のことを心配しているからよ」
「それ、先生も言ってました」
まだ足元をうろうろしている白猫を撫でながら、大虎は微苦笑した。
「ごめんね、引き留めたみたいになっちゃったわね。もう遅いから大虎君もはやく帰ったほうがいいわ」
「おばさんも気をつけたほうがいいですよ」
「どうして?」
「俺は信じてないですけど、この公園が呪われてるって言ってる奴もいるから」
「ああ……」
悪いことが重なると呪いのせいにしたくなるのは、大人も子どもも変わらない。
そう結論づけて納得したつもりになるのが大人、オカルティックな響きに恐怖と好奇心を刺激されるのが子どもだ。
「大丈夫よ。呪いなんてないわ。そんなのがあったら、私なんてとっくに事故に遭ったりしてるハズでしょ?」
奈緒は大袈裟に笑った。
「どうせ女の子が中心になって広げてる噂でしょ? 私たちの頃もそうだったわよ。女の子って、そういうのが好きなの」
「へえ……」
「さ、帰りなさい。私も掃除してから帰るから」
「じゃあ、おばさん、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
騒がしかったのが一転して静けさに包まれると、見慣れた風景の中に寂寥感に似た感覚が押し寄せてくる。
陽はまだ沈みきっていないが、たまに通り過ぎる人は近づかなければ顔を識別できない程度には暗い。
おまけに街灯のひとつが切れかかっていて、不規則に繰り返す明滅が不安を煽る。
美子に言わせれば豪胆な奈緒が、いちいちこんなことで恐怖を感じることはないが、といって居心地のよいものでもない。
何となく落ち着かなくなって、彼女は手早く掃除を済ませる。
食べ残しもないことを確認し、帰ろうとしたところに何者かが近づいてきた。
いつもはどこか厭世的な奈緒が沈んだ声で言った。
「こういうの、テレビで観るばかりだったけど、身近でも起こるのね」
奈緒に悪く見られないように美子は言葉を選んで答えた。
公園はしばらくの間、封鎖されることになった。
といっても警察の調べが行なわれる2、3日ほどのことで、それが終わればこれまでどおり自由に利用できるようになる。
両方の出入り口は塞がれているが、猫たちは決まった時間にやってくるので、しかたなく外側の目立たない一角を餌場にする。
彼らにもこだわりがあるようで、いつもと違う場所に落ち着かない子もいた。
そういう時は器を軽く叩いてやると、それが合図のようになっていつものように食いついてくれる。
「しばらく止めたほうがいいんじゃないか、って旦那にも言われたの。事故が起きたばかりだし、良くないだろうって」
何が良くないのか分からない美子は、心配そうな幸治に大丈夫だと言い置いて活動を続けている。
「旦那さんは正しいと思うわ。あなた、幸せよ」
奈緒が意地悪な笑みを浮かべた。
「そうなのかしら」
「まあ、あの事故と私たちを結びつける線は何もないから、別に注意する必要はないんだけどね。この子たちを放っておくワケにもいかないし」
奈緒は傍にいた白猫を撫でようとしたが、いつもと雰囲気が違うからか指先が触れる瞬間にさっと身をよじった。
「でも他人事じゃないわね。どこでも起こることだもの」
と美子は神妙な顔で言ったが、
「そうかしら。飲酒や居眠り運転ならそう思うけど、今回のケースは違うわ」
奈緒は冷徹な一面を覗かせた。
「ハッキリ言えば――」
「あ、いたいた! ここであげてたんだ!」
制服姿のミサキが駆け寄ってきた。
「あっち行ったら入れなくなってたから探してたんだ。いつになったら公園が使えるようになるの?」
「今週いっぱいは駄目なんじゃないかしらね。いろいろ調べるらしいし。それより久しぶりじゃない。学校の用事は片付いたの?」
「はい、なんか急に暇になっちゃって」
「でも少し前まで引っ張りダコだったんでしょ? モテモテじゃない」
「モテてるワケじゃないですよ。応援頼まれてただけですから」
ミサキは腰を落として手を差し出した。
ほとんどは初めて見る相手のように距離をとったが、黒猫だけは飼い主に懐くように頬をすりつけている。
「あはは、覚えててくれたの?」
黒猫は頭突きをしたり指先を舐めたりしたあと、その場にごろんと仰向けになった。
「ねえ、おばさん。事故に遭ったのって、この前の女の子なんでしょ?」
「ミサキ、それどこで聞いたの?」
「みんな知ってるよ。学校でも噂になってるし」
「噂? それってどんな?」
「内出って子が呪い殺されたんだって」
美子と奈緒は顔を見合わせた。
懐かしい響きがあった。
彼女たちが子どもの頃も、その当時の都市伝説や噂話があって、学校の七不思議やジンクスが飛び交っていた。
特に女の子はその手の話が好きで、真夜中に十字路に立つと呪われるとか、音楽室でひとりきりである曲を弾くとあの世に連れて行かれるとか、面白おかしく――当の本人は真面目に――語り合っていたものだ。
「どうして呪いなんて話が出てくるの?」
ミサキが言うには、この公園で猫が何匹も死んでいるのは生徒たちの間では有名らしい。
ただの事故や寿命ならともかく、虐待死された個体も多かったことから公園にはそんな猫たちの怨念が溜まっていて、ついに牙を向けられたのが内出光だった、というのだ。
猫の不審死という事実が織り交ぜられていることで、信じきっている生徒も多いらしい。
「なるほどねえ。そうかもしれないわね。ところで――」
自分が幼かった頃を思い出しながら聞いていた奈緒は、
「ミサキちゃんは信じてるの? その話」
驚くほど冷たい声で問うた。
美子は声色の変化に彼女を見た。
大人が子どもに声をかけるときに見せる、優しい顔つきだ。
だが目だけは笑っていない。
「信じるワケないじゃないですか、呪いなんて」
バカにするように笑い、足元を行ったり来たりする黒猫を撫でる。
気持ちが良かったのか、ニャアと1回だけ鳴いた。
「猫はそんなひどいことしないですよ。こんなにかわいいのに。ね!」
その言葉に答えるように距離を置いていた数匹が集まってくる。
黒猫を押しのけて、まるで自分も撫でてくれと言っているみたいだった。
「ひどいことしてるのは、いつも人間のほうですよ。意味もなく殺したり、実験に使ったり……そのくせ少なくなったら保護するんですよ。勝手でしょ?」
大方この件は学校で習ったのだろう、と美子は思った。
今はさまざまな角度から授業内容が構成されているから、国語や数学だけでなく、昔は教科書には載っていなかったような分野も課題になる。
道徳や人権学習のように、生命の営みに関する授業を受けて、彼女なりの考えを持つに至ったのだろう、と美子は考えていた。
「だから罰が当たったんだと思います。そのほうが自然ですよ」
ミサキは猫を悪者にせず、人間の傲慢さを批難したあと、今回の事故を天上の存在になすりつけた。
人智の及ばない何者かの仕業なら、人間にはどうすることもできない。
実際、太古から人間はそうやって現実に折り合いをつけてきたのだ。
奈緒は何も言えなかった。
ミサキちゃんの言うとおりだわ、と頷くこともできなかった。
安易に同調するのも、批判するのも、これは難しい。
大の大人が揃いも揃って痛いところを衝かれたからだ。
「お母さんもそう思うわ……」
美子は寂しげに言った。
子は親を見て育つから、成人するまでは親の影響はとてつもなく大きいと彼女は勝手に思っていた。
少なくともミサキが高校を卒業する頃までは、自分がしっかりしていないと娘の成長に良くないと。
だからミサキの前では、明らかに車の往来がない狭い道でも信号無視はしなかったし、ゴミのひとつさえ路傍に捨てたこともない。
間違った振る舞いがミサキを間違った方向へ成長させると思っているからだ。
これは裏返せば美子は娘を自分と同一であると見ている節があった。
食べ物の好みも、小動物への接し方も、主義主張も、自分のそれとそっくりになるのが当たり前だと、どこかでは思っていたのだ。
しかし社会的には子どもでも、ミサキはもう立派なひとりの人間である。
モノの見方、感じ方、捉え方はもう、美子と同一ではない。
美子も奈緒も、内出光の死について全く同情していなかった。
死者に鞭打つようだが、幼稚園児でも言い聞かせれば守れるようなルールも守らず、親でもないのに教え諭してくれる大人に暴言を吐き、故意ではないにせよ爆竹という禁じられた玩具を使って猫を死に追いやっている。
幼齢ならまだしも、とうに善悪の判断がつく年齢である。
2人とも自らの行いが招いた死に憐れみを持つことはできなかった。
ミサキのように天罰と捉えず、非情にも自業自得と切って捨てた美子たちは、ずいぶんと冷たい大人になってしまったのだと気付いた。
ただし奈緒はそれを自覚こそしたが改めることはない。
彼女にとって光は猫殺しであったし、そのせいで真摯な活動家仲間を失っているのだ。
これは活動期間のちがい、そこからくる思い入れの深さの差異によるもので、美子は彼女ほど光に憎悪を抱いていない。
(よくよく考えると、子どもたちもかわいそうと言えるかもしれないわね)
今いる場所からぎりぎり見える看板には禁止事項が列挙されている。
安全に利用するため、近隣住民の迷惑とならないため、いくつもの条件が掲げられているが、第三者の視点に立つと締め付けが厳しいようにも思える。
公園は誰のものでもあり誰のものでもないから、秩序を保ち危険を防止するためにルールを設けるのは必須であろう。
しかしそのために子どもたちの希望がないがしろにされているのではないか、とも美子は思った。
「でも、お母さんたち、これからどうするの? ちょっとやりにくくなっちゃうんじゃない?」
「心配いらないわ。事故とは無関係だもの。活動は続けるわよ」
美子に代わって奈緒が言った。
「おばさんたち、こっちでやってるんだ」
快活な声がして一同が振り向くと、戸塚大虎がやって来た。
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「あら、大虎君。私たちのこと心配してくれてたの?」
奈緒が意地悪っぽく言ったので、
「こ、こいつらのことが気になっただけ……」
大虎は照れ隠しか余所を向いて呟いた。
「やっぱり事故のせいですよね?」
という大虎の問いに美子が頷く。
「お母さん、この子、誰?」
「大虎君よ。ええっと、苗字は何だったっけ?」
「戸塚です」
「そうそう、戸塚大虎君。及川さんの知り合いなの」
「そうなんだ。わたし、呉谷ミサキ。よろしくね」
「うん……」
ミサキの屈託のない笑顔に、大虎は赤くなった頬を見られないように俯いた。
にわかに人数が増えたことで猫たちは落ち着きを失い、器の周りをウロウロし始めた。
胆の据わっている何匹かは頭上で交わされる会話などおかまいなしにフードを貪っている。
「あ、俺、邪魔っすかね?」
それに気付いた大虎が数歩退いた。
「いいわよ、すぐに慣れるから」
奈緒が言ったとおり、しばらくすると猫たちは自分の器に近づき、盛られた餌を当然のように食べだした。
ミサキにしても大虎にしても不用意にちょっかいを出すようなことはしない。
彼らもそれを悟ったらしく、目と鼻の先に2人がいても特に警戒する素振りは見せない。
「これでちょっとは静かになるんじゃないですか?」
おかわりを催促する白猫を見ながら、大虎が呟く。
「え、何か言った?」
美子と今後の活動について話していた奈緒は、耳朶を撫でるような声に振り返った。
彼は器と美子を交互に見ている白猫をじっと凝視している。
猫は見つめ合うとケンカの合図になる生き物だが、さいわい両者の視線は交わらないので白猫が威嚇行動に出ることはない。
「大虎君?」
奈緒はもう一度訊き返した。
「あ、えっと、はやく公園使えるようになるといいですね」
向けられた視線に気付いた彼は、愛想笑いを浮かべた。
ひととおり給餌を終えたところで健康診断が始まる。
動物は人間とちがって症状を訴えないから注意深く観察しなければならない。
食欲はあったか、食べ辛そうにしていなかったかなど細かくチェックする
「この子、ときどき背を仰け反らせるようにして食べてたよ」
たまたま見ていたミサキが茶トラを指差した。
「ちょっと歯が悪いみたいなのよ。口内炎かもしれないわね。医者に見せたいとは思ってるんだけどね」
「連れて行かないんですか?」
「前に手術させるために捕獲器を使ったのよ。その時は何も知らないからあっさり捕まえられたけど、この子も学習しててね。捕獲器を見るなり警戒して近づかなくなったわ。素手で捕まえようにも嫌がるし……」
「どうにもできないってことですか?」
今度は大虎が訊いた。
「動画を録ってはいるけどね。信頼できる獣医に痛がってる様子を見せて無難な薬を処方してもらうことはできるかもしれないけど……やっぱり医者にすれば実際に診てもいないのに判断はできないわね」
ドライフードや練り物、スープ状のものを順番に与え、食べやすそうなものを特定してそれだけを食べさせた方がいい、と奈緒は言った。
この茶トラに関しては扱いが難しいので、継続して観察するということで落ち着く。
「こっちの黒いのは? 耳に傷ができてるみたいですよ」
大虎が言ったのは今、ちょうど彼のくるぶしに頭をこすりつけている黒猫だ。
この中では最も人懐っこく、初めて見る人間でも猫が好きそうな人物だと分かると積極的に甘えに行くほどだ。
「掻きむしったのね。普段は草むらにいるから。軟膏を塗ればいいわ」
手提げ袋から軟膏を取り出し、指先につけた薬を傷口に塗り広げる。
それが痛かったようで黒猫は数メートル先の茂みに逃げ込んだ。
「まったく、人の気も知らないで」
奈緒の拗ねたような口ぶりに美子たちは思わず笑った。
その他の猫たちに異常はない、
食欲も旺盛だったので問題はないだろうということで、誰が言うとはなしに解散という雰囲気になる。
そもそもこの活動は目立ってはならない。
大っぴらにやれば無責任な飼い主にとって格好の捨て場になる。
といって隠れてコソコソすると、それはそれで疚しいことをしているからだ、と批難を受けかねない。
堂々と、誠実に、そして迅速に片付けるのが長続きさせるコツだ。
「それじゃ、また明日」
「おやすみなさい」
短く挨拶を交わして、それぞれ帰路に就く――のは隣町から来ている呉谷親子だけで、奈緒と大虎は2人の後ろ姿を見送っていた。
「公園にいたの?」
姿が見えなくなるのを待ってから奈緒が訊く。
この質問には必要な言葉がいろいろと抜けていたが、彼にはその意味が分かった。
「友だちの家でゲームしてました。うちはそういうの厳しいから」
大虎の親は子どもは外で遊ぶべき、という教育方針だった。
ゲームはいつでもできるが、体を動かす遊びは大人になるとなかなかできないから、というのが理由らしい。
無邪気に走り回れる今のうちに、というやや古い愛情表現は、親になってその事実に気付いたからであろう。
(運が良かったわね)
奈緒は安堵した。
生死は別として、車に撥ねられた人を見て、よい気分になる者はいない。
居合わせてしまったばかりにトラウマになることもある。
彼女が見るかぎり大虎は生意気だが純粋な少年なので、そうした面倒には関わってほしくはなかった。
「でもしばらくは遊べなくなるわね。どうするの?」
「学校のグラウンドしかないですよ。サッカーゴールもありますから」
スポーツ少年という表現がしっくりくる大虎が、同じく活発な友だちと一緒にサッカーボールを追いかけている姿は容易に想像がつく。
「そのほうがいいわ。車は入ってこないし、先生たちの目もあるし、そっちのほうがずっと安全だものね」
「まあ、うるさい先生も多いですけど」
「生徒のことを心配しているからよ」
「それ、先生も言ってました」
まだ足元をうろうろしている白猫を撫でながら、大虎は微苦笑した。
「ごめんね、引き留めたみたいになっちゃったわね。もう遅いから大虎君もはやく帰ったほうがいいわ」
「おばさんも気をつけたほうがいいですよ」
「どうして?」
「俺は信じてないですけど、この公園が呪われてるって言ってる奴もいるから」
「ああ……」
悪いことが重なると呪いのせいにしたくなるのは、大人も子どもも変わらない。
そう結論づけて納得したつもりになるのが大人、オカルティックな響きに恐怖と好奇心を刺激されるのが子どもだ。
「大丈夫よ。呪いなんてないわ。そんなのがあったら、私なんてとっくに事故に遭ったりしてるハズでしょ?」
奈緒は大袈裟に笑った。
「どうせ女の子が中心になって広げてる噂でしょ? 私たちの頃もそうだったわよ。女の子って、そういうのが好きなの」
「へえ……」
「さ、帰りなさい。私も掃除してから帰るから」
「じゃあ、おばさん、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
騒がしかったのが一転して静けさに包まれると、見慣れた風景の中に寂寥感に似た感覚が押し寄せてくる。
陽はまだ沈みきっていないが、たまに通り過ぎる人は近づかなければ顔を識別できない程度には暗い。
おまけに街灯のひとつが切れかかっていて、不規則に繰り返す明滅が不安を煽る。
美子に言わせれば豪胆な奈緒が、いちいちこんなことで恐怖を感じることはないが、といって居心地のよいものでもない。
何となく落ち着かなくなって、彼女は手早く掃除を済ませる。
食べ残しもないことを確認し、帰ろうとしたところに何者かが近づいてきた。
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