小さな命たち

JEDI_tkms1984

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9 呪い

9-1

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何かと騒ぎの中心になっていた公園も、ここ数日は落ち着いていた。
破損していた看板は新設され、念のためにと点検が行われた遊具類にも瑕疵は見つからなかった。
あの一件以来、動物虐待のような悲惨な事件もなく、ここは老若男女の憩いの場としての機能を取り戻していた。
利用マナーはお世辞にも良いとは言えないが、これが常態化している以上、これを以て正常と言わざるを得ない。
汚す者と片付ける者、そして奉仕の精神で見回りを行う者がいて、一応の秩序が保たれている。
この日も津田はゴミ袋を手に、公園内を歩き回っていた。
探すまでもなく、ゴミはいくらでも見つかる。
数歩おきにつま先に当たるのは、大半が近所の駄菓子屋のものと思われる菓子類の包装紙だ。
吸殻がないだけマシだが、皆が使う場所をここまで汚せる子どもの神経と、それを咎めない親の教育方針は彼には理解できない。
子ではなく、まず親を躾けるべきだ、と津田は思うのだが、そう思えるのもこの歳になったからこそで、彼も同じ時分には白眼視される行いを繰り返してきた。
そういう負い目もあって毅然と注意はできない。
ただ、それでも彼らに自分の行動を省みてほしいという想いはあり、遊んでいる子どもたちに見せつけるように、こうしてゴミ拾いをしている。
「管理人さん、こんにちは」
声をかけてくるのは決まっている。
津田に近寄ってくるのは2人くらいだ。
ひとりは粗野で腕白を隠れ蓑にした悪童。
「ヒロ君、今日もゲームをしてるのかい?」
もうひとりは勤勉で誠実で、可愛げのある子だ。
「はい。もう少しでクリアできるんです」
谷井ヒロは携帯ゲーム機の画面を津田に見せた。
上下に分かれた画面は格子状のマス目に区切られていて、そのいくつかに数字やアルファベットが入っている。
どうやら全てのマスに正しい文字を入力するゲームらしいと想像はできるが、ルールは分からない。
「ずいぶん難しそうなのをやってるね。撃ちモノとかはしないのかい?」
「撃ちモノ……? シューティングのことですか? 敵を攻撃して倒すなんて野蛮なゲームはしないですよ」
明らかに不愉快そうにヒロが言うのを見て、
「そうか、うん、そうだろうな」
津田は納得したように何度も頷いた。
些か古い考え方――というより偏見を含んだ固定観念――の彼にとり、テレビゲームとは百害あって一利なしの出来過ぎた玩具である。
家の中でも外でも、友人同士が集まりながら互いの顔を見ず、それぞれの画面を注視しているのは異様だ。
ゲーム内の暴力的な表現に触発されて、現実で事件を起こしたという報道もあり、幼い頃からこんなことばかりしていては現実と虚構の区別がつかなくなる、と津田は思っている。
コンピュータゲームそのものを彼が嫌悪しているのは、主にそうした理由による。
もちろんそれら報道が真実とは限らない。
よりセンセーショナルな記事に仕立て上げるために、無理やり事件とゲームの因果関係を強調する向きもなくはない。
残念ながら情報を得る手段はテレビかラジオくらいしかない津田は、この手合いに毒されてしまっている。
しかしそれを谷井ヒロがやっている、となると話は別だ。
それに彼が遊んでいるのは、見た目は地味だが健全なパズルの類だ。
犯罪を助長するような過激な内容ではなく、思考力を鍛え、脳の発達を促す優良なソフトである。
遊んでいるのがヒロということもあって、彼は贔屓目に見ていた。
「ヒロ君は良い子だね」
彼は特別な子だった。
彼が利発であればあるほど周囲との落差はより浮き彫りになる。
たとえば向こうのベンチにもゲーム機を持った小学生が4人座っているが、プレイしているのは主人公がモンスターを倒すような内容だろう。
彼らは敵を倒すことを“殺す”と言い、主人公が敗けることを“死ぬ”と表現している。
野蛮なことこの上ない。
いつか現実の人や物もゲームの中と同じように考えて、命の重さを無視するに違いないのだ。
その少し手前は広いスペースが設けられているが、そこを跋扈するのは自転車に乗った男の子である。
練習をしていたようで、まだ前輪がふらついてはいるがバランスはしっかりと取れていて、数時間もすれば乗りこなせそうだ。
上達しはじめた自転車乗りは実は危険だ。
走るのが楽しくなって、ついスピードを出してしまいたくなる。
さほど広くない公園でそれをすれば、他の利用者と衝突するなどの事故につながる。
反対側にあるブランコを使っているのは小学校低学年くらいの男女だ。
特に危険な漕ぎ方もしていない、むしろ座っているだけの大人しいグループだ。
しかし足元にはガムや飴の包み紙が散らばっている。
10分ほど前にはそこには何もなかったから、彼らが落としているのは明らかだった。
にもかかわらず一向に拾う様子がない。
それどころかポケットから新しくスナック菓子を取り出し、貪るように口に入れ始めた。
(嘆かわしい)
ここにいる者たちは皆、谷井ヒロを見習うべきだ、と彼は思った。
欲を言えばゲームよりも鬼ごっこでもしてほしいところだが、少なくとも正しい公園の使い方をしている。
危険な行為もなければ、周囲に迷惑もかけない。
何カ所かに設置されている看板の注意事項に抵触しない、模範的な利用者といえるだろう。
「僕も手伝いましょうか?」
そしてこの心遣いである。
たとえ言葉だけでもいい。
そう言ってくれる人間がどれだけいるか。
「ありがとう。大丈夫だよ。これはおじさんの仕事だからね」
「でも……」
「もうすぐクリアするんだろう? 気にしなくていいよ。子どもは遊ぶのも仕事みたいなものだからね」
だからといって、ああいう遊び方は感心できない。
津田はちらりと入り口付近を見やった。
白いボールが中空を行ったり来たりしている。
どこかから拾ってきたのだろう、バレーボールより一回り小さいそれは固く、片手でも投げやすい。
それがかなりの速度で飛び交うのだから、ぶつかった時の衝撃は相当なものだ。
さすがにこれは見過ごせない。
看板が取り替えられたこともあって、津田はボール遊びをしている集団の元へ向かう。
「きみたち、ちょっといいかい」
「は? 何なの、おっさん」
いたのは内田光を含む、いつもの3人組だった。
ああ、お前たちか、という言葉が喉まで出かかっていたのを彼は抑えた。
「そこにも書いてあるだろう。ボールで遊ぶのはやめなさい」
「うっせえ。お前には関係ねえだろ」
「何だって……?」
光を援護するように相田と笹原が近づいてきた。
いまボールを持っているのは笹原で、今にも投げつけそうな素振りを見せている。
「うちらが何をしようが自由だろうがよ。おっさんにいちいち許可得なくちゃなんねえのかよ?」
「お前、この公園の持ち主でもなんでもねえじゃん。ジジイは引っ込んでろよ」
光と相田は互いに顔を見合わせ、ニヤニヤと笑った。
「きみたちは……!」
わなわなと震える拳を反対の手でつかむ。
「女の子が……そんな口の利き方をしちゃ、いけないよ……!」
津田の表情が怒りに引き攣る。
戸塚大虎が天使に見えるくらいの乱暴さだ。
「だからぁ、おっさんには関係ねえっつってんの。掃除してたんだろ。ほら、そこにも落ちてるぞ。さっさと拾えよ!」
「そうだそうだ。死にかけがゴチャゴチャ言ってねえで、身の程わきまえろよ」
光たちに罪悪感というものは存在しない。
それが善行であれ悪事であれ、したいと思ったことをする。
誰の制止にも聞く耳を持たない。
秩序も法もマナーも道徳も、彼女たちを縛ることはできない。
これは未熟さの表れである。
しかし未熟とは精神を指すのであって、思考ではない。
光は分かっている。
津田には何の権限もない。
この公園でよく見かけるというだけで、その辺りを歩いている老人と何も変わらない。
彼に注意する権利があるなら、こちらにもそれを無視する権利があるのだ。
だから苦言に従う道理などない。
「とにかく危ないことはやめなさい」
津田は逃げるようにその場を去った。
一応、注意はした。
相手が従うかどうかは問題ではない。
今のように一声かけておけば、大人としての責務は果たしたことになる。
「嘆かわしい」
今度はため息とともに言葉が外に出る。
昔は躾といえば家庭と地域、両方でやっていたものだ。
家の中では両親はもとより兄弟姉妹も教育係になる。
その家庭独自のルールや慣習もあるだろうが、最低限のマナーや善悪の判断能力はここで培われる。
外に出ればご近所さんが先生だ。
よくない遊びをしていたり危険な場所に行こうとしたりする子には、必ず誰かが注意した。
その地域にいる人たちはどこか家族に準じたつながりのようなものがあって、近所の子はすべて我が子のように面倒をみていた。
親が不在のときは隣家が預かるということもあったし、子どもたちもそんな彼らを親のように慕っていた。
目に余るいたずらっ子はほとんどいなかった。
大人は怒りはするが、内容は笑って済ませられる程度で、被害と呼ぶのも大袈裟な稚拙なものばかりだ。
それはもちろん地域社会がしっかりと機能していたからで、いたずらをする子もどこまでならやってもいいか、をきちんと理解していた。
重大な事故につながりかねないこと、人に怪我を負わせそうなことは、彼らも幼いながらに分別がついていたから絶対にやらない。
(それが今はこれか……)
現代は家族と他人がはっきりと仕切られている。
一族の者でなければ教育方針に口出しすることは許されない、という風潮が広がってしまった。
注意も指導も親が完全にシャットアウトしてしまう。
そもそも親自身がしっかりと子を監督できていないのだが、そんな親に代わって地域が子に干渉しようとすると、放任主義だからとか、余計なお世話だと撥ね退ける。
そのくせいざ我が子に危害が及ぶと、不行き届きを棚にあげて責任転嫁に終始する。
「管理人さん」
落胆した様子で戻ってきた津田に、ヒロはおずおずと声をかけた。
「あまりあの子たちに近づかないほうがいいですよ」
「どうしてだい?」
「いろんな噂があるんです。その、クスリやってるとか……」
「まさか」
さすがにそれはないだろう、と津田は笑った。
ヒロは周囲を憚るように真剣な顔つきで囁いているが、憶測に尾ひれのついた流言だと思った。
(ただ素行が悪いだけだろう。それに言葉遣いもなっていない。心の底から親の顔が見たいと思ったのはこれが初めてだ)
津田は視線を落として、自分を見上げるヒロを眺めた。
やはり孫に似ていてかわいい。
澄んだ瞳が少年特有の純朴さを感じさせる。
それゆえに脆弱さも垣間見え、これからの学校生活で付き合う友人を間違えれば、たちまちどす黒く染まってしまいそうな儚さが漂う。
「ヒロ君」
親でもない自分が言うのは気が引けたが、彼に亡き孫を重ねている津田はこれを言わないワケにはいかなかった。
「きみのほうこそ、友だちはよく選ぶんだよ? こういうことを言うのは本当は良くないんだが、ああいった連中と付き合ってはロクなことにならないからね」
記憶の中の孫はまるで飼い主にどこまでもついて行く仔犬のようだった。
子を喪ったショックから、娘夫婦にしばらく新しい命を儲ける様子はない。
そうなると谷井ヒロは、津田にとって格好の孫代わりである。
この男の子にはぜひとも、愛しくてたまらない初孫のように真っ白なまま、真っ直ぐに育ってもらわなければならない。
邪魔なもの、害となるものは遠ざけ、しかし決して束縛しすぎることなく、伸び伸びと。
「くれぐれも気を付けるんだよ。特にああいう粗暴で野蛮な子たちには――」
だから津田は念を押した。
まるで病原のように内出光たちを蔑するのは、彼女たちがヒロに悪影響しかもたらさないからだ。
口には出さなかったが同じ公園にいることさえ彼には許し難い現実であった。
同じ空気を吸っていることも我慢ならなかった。
このように津田は心からヒロを心配していたが、それは杞憂に終わった。
老眼が始まりかけている彼の視界に、なんとか目で追える程度の速さでボールが転がっていくのが見えた。
それは地面のわずかな凹凸を踏切台にするように一瞬速度を増し、跳ね、弾んで公園の外に飛び出していく。
「ヤバイ!」
と誰かが叫んだ。
内出光がその後を追いかける。
ボールは入り口の壁にぶつかって進路を変え、公園に面した道路を目指した。
クラクションが鳴るのと、鈍い音が響くのと、少女の体が弾き飛ばされるのはほとんど同時だった。
その後は静寂である。
そこにいた誰もが時間が止まったような感覚を味わった。
急ハンドルを切り電柱にボンネットを打ちつけた車も、飛び出したボールも、少し離れたところに横たわる内出光も。
誰ひとり、何ひとつ、動かない。
「ああ! クソ! やっちまった!」
降りてきたドライバーが頭を抱えている。
筋肉質で大柄な男だが顔面は蒼白で、全身から悲愴感が漂っている。
「うわ、すげえ……」
男の声に弾かれるように近くにいた何人かが群がりはじめる。
遊んでいた子どもたちは遠巻きに眺めながら携帯電話やスマホで写真を撮っていた。
「見世物じゃねえんだよ! クソ! とりあえず連絡しないと……」
男は警察と救急に通報すると車を路肩に移動させた。
ボンネットにはふたつの小さなへこみができている。
津田はヒロに現場に近づかないように言うと、光の元に駆け寄った。
「じいさん、動かすなよ。現場保存だ。後で警察が困るだろ」
「いや、救命措置はしなくてはならないだろう」
「そんなの忘れちまったよ。それに……女の子だろ? 下手打ちゃこっちが余計に不利になるかもしれないだろ。ほっといてくれ」
憮然とした様子で男は言った。
彼の頭の中は避けられない面倒のことでいっぱいだった。
取り調べや刑罰を考えると気が重くなる。
逃走しなかったのも良心がそうさせたというよりは、捕まる可能性を考えて少しでも誠実に見せたほうが負担が軽くなるという打算によるものだ。
「しかし……」
光が生きているなら、ここで処置すれば助かるかもしれない。
逆に何もしなければ助かる命も助からないかもしれない。
そうは思っても津田の体はそれ以上は動かなかった。
男の言葉に影響を受けたのではない。
彼自身、救命措置の方法はずいぶん昔に学んだきりで、当時の常識が現代の医学的に正しいとは限らない。
かえって間違った手法を施せば、それこそ彼が言うように要らぬ災禍を招いてしまうかもしれない。
「ええ! 何なの、これ?」
たまたま買い物で通りがかったらしい女が頓狂な声をあげた。
視線はもちろん倒れたまま動かない光と、破損した自動車に向けられている。
「ああ、人身事故がありまして。警察や救急車が来るまで近寄らないようにしてください。ほら、きみたちも。離れて」
後ろめたさから逃れるように津田は野次馬を遠ざけた。
現場保全に協力したとなれば、立派に貢献したことになる。
はじめは珍しがって写真を撮っていた子どもたちも、何も動きがないことに飽きたようで公園に戻っていた。
だが数分もしないうちに、彼らはサイレンの音と光に再び集まりだした。
その後、搬送された病院で内出光の死亡が確認された。
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