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誰か分からなかったわ、という発言は失礼だったなと美子は恥じた。
今日は仕事が休みで、たまにはと足を延ばしてショッピングモールにやって来たところ偶然、奈緒と出会ったのだ。
いつもは公園で見ている顔だけに、違う場所で会うとすぐには誰だか認識できなかった。
現に奈緒のほうから声をかけられていなければ、すれちがいになっていたかもしれない。
「ひどいわね。ほとんと毎日顔を合わせてるのに」
冗談めかして抗議する彼女に、美子は照れ笑いを浮かべながら謝った。
「時間あるでしょ? ちょっと寄って行かない?」
という奈緒の提案を特に断る理由もなく、2人はカフェに入った。
(高いわね。アイスコーヒーが600円……?)
普段、こういう洒落た場所に来ない美子は、物価の高さに驚くしかなかった。
喫茶店ならこの半分くらいで注文できるところだ。
奈緒の手前、そんなことも言えず、とりあえずコーヒーにしておく。
「ここ、ケーキが美味しいのよ。特にモンブランがね」
「そうなんだ」
と相槌は打つが、金額を見れば頼もうという気にはなれない。
私はコーヒーだけでいいわ、と美子が言おうとしたところに、
「ミルクティーとモンブラン2つ……飲み物は何にする?」
早々と店員を呼んだ奈緒は有無を言わさず美子に迫る。
「じゃ、じゃあアイスコーヒーで……」
勢いに押され、ケーキの注文はキャンセルできなかった。
「こういうところ、よく来るの?」
店員がいなくなるのを待って、美子が訊いた。
「まあ、時々ね。品揃えいいし、ここでしか買えないものもあるから」
「へえ……」
失礼にならない程度に美子は彼女の服装を見た。
普段と違い、上下とも都会的で洗練されたデザインだ。
といって決して派手すぎでもない。
奈緒は体の線が細いので、どんな服でもそれなりに着こなせそうだ。
「私は滅多に来ないわ。なんていうか落ち着かなくて」
「たしかにそんな顔してるわね」
奈緒は真顔で言ったが、美子は何も感じなかった。
はじめて会った時は言葉も態度もずいぶんトゲがあったが、今はずいぶんと柔らかくなっている。
愛想がないのは変わっていない。
今のように皮肉なのか冗談なのか判断がつかないような発言も真顔でするが、口調を敏感に拾っていけば真意は見える。
彼女と付き合うのは慣れるまでが大変だろう。
態度だけでは一向に親しみを感じさせないからだ。
(こういう人もいるわよね)
こう割り切れるようになれば、奈緒は付き合いやすい相手だ。
必要以上に馴れ合わず、安易に他人に同調しない。
主義主張がハッキリしている分、いちいち顔色を窺わなくてすむ。
「娘さん……ミサキちゃん、元気にしてるの?」
「元気よ。風邪だって今まで2回くらいしか引いたことがないから」
「そうじゃなくて……」
ここ数日、ミサキは公園には行っていない。
他人に頼られやすい性質でも持ち合わせているのか、委員会の手伝いや部活の応援などで忙しい放課後を送る日々が続いている。
仕事はきちんとこなす性格なので教師たちからの評判もよく、それゆえに何かと雑務を任されている。
美子にしてみれば娘が必要とされているという事実は単純に嬉しいし、そういう姿勢であれば推薦入試を受けるときなどに有利になる。
公園に一緒に行けないのは寂しいが、ミサキのことを想えばその忙しさはむしろありがたいものだ。
「学校でいろいろと忙しくしてるの。あ、追試とかじゃないわよ?」
「分かってるわ。お利口そうだもん」
「え、ええ……」
店員が飲み物とケーキを持ってきた。
それをキッカケに、この店の人気商品は何だとか、雑貨屋はどこがいいかとか、他愛ない話に花が咲く。
及川奈緒は冷たい印象を与えるが、打ち解ければ会話が楽しくなる相手だ。
いろいろと趣味を持っていて、話題の引き出しが多い。
美子がガーデニングに興味があると言えば、彼女はすぐにこのモール内で花や造園道具を扱っている店を紹介してくれる。
奈緒自身にはこの方面の趣味はないが、興味のないものでも一応は気に留める性質のようだ。
「後で連れて行ってあげるわ」
情報提供だけで終わらないのも彼女なりの優しさである。
その後、しばらく二人は無言でケーキを口に運んだ。
話などいくらでもできるが、日頃が猫の世話を介しての顔合わせだったせいか、親しいわりには会話のテンポが微妙に噛みあわない瞬間が何度かあった。
「前から言おうと思ってたけど――」
最後の一口を食べ終えた奈緒が、口元を拭いながら言った。
明らかにそれまでと違う口調に、美子はフォークを落としそうになった。
妙に改まった、低い声から始まるのはたいてい悪い話だ。
「どうかしたの?」
スポンジ生地が喉を通りそうになかったので、コーヒーで流し込む。
もう公園には来ないでほしいとか、実は迷惑だったとか、そんな類の言葉が飛び出すのではないか。
美子はテーブルの下でぐっと拳を握った。
「呉谷さんには本当に感謝してるの」
奈緒は視線を落としたまま言った。
少しだけ赤くなった頬を見せないためだ。
「なん――?」
「正直に言うわね。最初は迷惑だったの。公園に来てほしくもなかった。どうせ興味本位で、猫がかわいいからなんて単純な理由で首を突っ込んできてるだけだ、って思ってたのよ」
「そう言われると……」
はっきりと否定はできない。
事実、そういう面はあった。
小動物をかわいいと思うのは自然な感覚で、触りたい、餌をあげたいという欲求はその感覚の延長だ。
覚悟、犠牲、責任。
そういった陰の側面まで彼女は考えはしなかった。
おそらく奈緒は当初、彼女のそうした無責任さを見抜いていたのであろう。
それゆえの発言である。
「どうせ3日もすれば飽きて来なくなる。そう思ってたわ。あの子たちもある意味、そういう連中に捨てられてきたんだから」
「及川さん、それって――」
「世話を途中で投げ出すのはね、捨てるのと同じなの。家で飼っていた子を外に捨てるのも、活動を放棄するのも変わらない。そういう意味」
「私は……」
「分かってる。呉谷さんは責任感の強い人だったわ。1週間経って、2週間が経って、本物だと分かった」
そこで彼女ははじめて美子の目を見た。
勝ち気で挑戦的な印象はそのままに、親愛や信頼の情が覗く。
「私はしたいからしてるだけよ。責任とか難しいことは……そうね、及川さんが言うように甘かったわ。今よりずっと軽く考えていたもの」
「そうだと思ってたわ」
奈緒は世辞を言わない。
美子にはそれが心地よかった。
「だけど今はちがう。呉谷さんが来てくれるようになって、ずいぶんと負担が減ったのよ。フード代だって毎日となるとバカにならないし。それに怪我なんかもすぐに見つけてくれるでしょ?」
「見つけたって何もできないわ。情けないけど、どんな薬があるのかも知らないし、どうやって飲ませるのかも」
「いいのよ、別に。そうやって見てくれるだけで心強いの。私ひとりだけだと、どうしても限界があるから」
だから気に病む必要はない、と奈緒は言う。
しかし美子の心情としてはいささか複雑だった。
活動に参加しているといいながら、実際にやっているのは給餌と体調の確認くらいのものだ。
捕獲、手術はすでに奈緒が自費で行なっているため、することといえばそれくらいしかない。
負担した金額にしても、活動内容にしても、奈緒とは比べものにならないくらいに軽い。
果たしてこれで彼女と同じように、地域猫活動をしていると堂々と言えるのか、という疑問がつきまとう。
といって彼女並みに貢献することも憚られた。
公園での活動は奈緒が時間をかけて猫の個体数を把握し、そのうえで全頭を捕獲、手術し、給餌の時間や場所も習慣づけたからこそ成り立っている。
いわば美子はそうした面倒に一切関与せずにやって来た、いいとこ取りも同然で、彼女の苦労の上にあぐらをかくような真似をするのも気が引けた。
「難しく考えなくていいわよ」
美子の苦悩を見透かしたように、奈緒は慣れていない笑みを浮かべた。
「あの子たちのことを真剣に考える。それだけでも立派なことなのよ」
それができない人がいるから不幸な猫が生まれ続ける、と彼女は言う。
もちろん考えるだけでは現実は何も動かないが、行動を起こすには必要不可欠なプロセスだ。
熟慮がなければ、あらゆる行為は軽率に成り果てる。
美子は今さらながらにそのことを痛感した。
「これはミサキにも言われたことなんだけど、里親を探してみるというのはどうかしら。可愛がってくれる人がいるなら、その人の元で飼われたほうが幸せかもしれないわ」
「していないワケじゃないわ」
奈緒は難しい顔をして言った。
「にゃんセーフっていう団体があってね。規模としてはそんなに大きくない団体だけど、捕獲器の貸し出しとか、譲渡会を開いたりしてるわ」
「じゃあ、あの子たちも登録されてるの?」
「一昨年くらいからね。数も多かったし、私もそうしたほうがいいと思って。でも、どの子もそこそこ歳をとっているし、怪我や病気もある。引き取るなら若くて健康な子を、って考える里親は多いの。もちろん、そうじゃない奇特な人もいるわ。けれどそういう人はなかなか現れなくてね」
引き取り手が見つからなければ猫たちは老いていき、それに伴って人気も下がっていくという悪循環に陥るという。
だが、奈緒が良い顔をしない理由は別にある。
彼女は最初、それを言うべきか迷った。
里親探しはミサキや美子が考えた末に提案したものだ。
いうまでもなく猫のことを思っての発案であり、その想いを踏み躙るような現実を突きつけたくはない。
とはいえ何も知らずに理想や夢物語ばかりを信じ続けていると、いつかそれを知った時の痛みが大きくなる。
「これは、あってはならないことなんだけどね」
と前置きしたうえで、奈緒はそれを教えておくことにした。
「里親に名乗り出る人のすべてが、善意からそうしてるとは限らないの。中には虐待するために引き取る奴もいるのよ。最近はそういう連中に大事な猫が渡らないように審査を厳しくしているけれど、完全じゃないわ。何人かは審査をくぐり抜けて獲物を持ち帰るのよ」
彼女は緩急をつけずにまくし立てた。
話しているうち、そんな輩への憎悪が湧きあがり、つい強い口調になるのを奈緒は必死に抑えた。
言い終わると今度は、まるで美子を裏切ってしまったような漠然とした罪悪感に襲われる。
「知ってるわ」
奈緒の躊躇を笑うように、彼女は真顔で言った。
「テレビやネットで見たくらいだけど。実際にそういう人がいて、何匹も殺したりするんでしょう?」
「え、ええ、そうね」
奈緒は呆気にとられて曖昧に頷いた。
物事の裏や闇の部分を知らなさそうな美子が、既に何かの覚悟を決めたような表情でさらりと言ったことが、彼女には少しだけ恐ろしかった。
「でもそういう人はたいてい捕まっているわ。名前だって公表されるだろうし、いつかはいなくなると思ってるの」
「呉谷さん、それは――」
あまりにも見通しが甘すぎる、と奈緒は思った。
「善良な里親のほうが圧倒的に多いハズだわ。その、にゃんセーフっていうところの譲渡会に来る人が虐待犯とは限らないし」
これは美子の、冷静で控えめな見解だった。
里親を騙る虐待魔は稀なケースで、確率的にはまず当たらない。
いたとしても最後には逮捕され、その数は徐々に減っていき、やがてはいなくなる。
もっともな意見だが奈緒には首肯しがたい。
「一か八かの賭けみたいなこと、私はしたくないわ」
彼女は対立を避けないから、この発言も胸を張ってのことだ。
「10人のまともな里親が1匹ずつ引き取る横で、虐待犯は一度に20匹も30匹も殺すのよ。あの子たちは玩具でも何でもないわ」
場所が場所だけに彼女も努めて小さな声を心掛けたが、それでも美子が反論するようなら、大声を張り上げていたかもしれない。
それだけ譲れない考え方ということであり、美子もそれはしっかりと感じ取っていた。
「そう、よね……」
頷いてみせるものの、実感はない。
雷に打たれるくらいの確率でしかない虐待犯を恐れて里親制度に反対するのは合理的ではない、というのが変わらぬ美子の考えである。
むしろ本当に地域猫をゼロにするつもりなら、いくつもある団体に片っ端から登録して回るくらいでいい、と思っている。
なぜそこまで恐れるのか、彼女は訝しんだが、
「そんな連中の手に渡るくらいなら、私が最期を看取るほうがマシよ」
吐き捨てるような言い草に奈緒の気持ちを垣間見た気がした。
彼女はきっと、あの子たちを我が子同然に可愛がっているのだ。
以前、ミサキが名前を付けないのかと訊いた時、愛着が湧いてしまうから付けない、と奈緒は言っていたが。
少なくとも特別視はしていると美子は感じた。
もしかしたら、あの公園に集まる子たちを誰にも触れさせたくない、とさえ考えているかもしれない。
なまじ活動の実績があるだけに、その自負はあってもおかしくはない。
そこまで考え至ると、今度は猫たちの視点に立ってみたくなる。
彼らは奈緒をどう見ているのだろうか。
決まった時間に餌をやりに来て、後片付けもしてくれる便利な生き物と思っているのだろうか。
それとも自分たちの生殺与奪を握る、天上の存在のように捉えているのだろうか。
あるいは野に捨てられたところに手を差し伸べてくれた育ての親と見做しているのだろうか。
誰にも分かるハズがないが、ここまで馴れている奈緒と引き離すのは酷なのではないか、とも美子は思った。
「難しい問題よね」
当たり障りのない言葉で締めて結論を先送りにする。
美子としては里親制度は案のひとつであって、強く勧めたいワケではない。
今でも奈緒に主権があるべきと思っているから、彼女の方針に真っ向から対立するつもりもなかった。
「それとは別に、少し不安になることもあるの」
雰囲気を変えるつもりで美子が言う。
「もし私たちがいなくなったら、あの子たちはどうなるんだろうって」
「どういうこと?」
「あり得ないとは思ってるけど、たとえば私たちが入院したりして世話ができなくなったら、あの子たちは食べるものがなくなって死んでしまうんじゃないかしらと思って……」
奈緒は顔色ひとつ変えずに答える。
「そうなる子もいるでしょうね。弱い子はそうなるかもしれないし、強い子はゴミでも何でも漁るか、別の場所に移って餌場を横取りするかもしれないわね」
「弱肉強食ってことね?」
「そうよ。それが自然だもの。で、私たちがやってるのは弱い子も強い子も同じように生かしてるってこと」
「それじゃあ自然に反しているわね……」
そう聞くと後ろめたさを感じる美子である。
自然の摂理に反することをするのは、人間のエゴや傲慢さの表れだと受け止めてしまう。
たとえ蟻1匹の生活にさえ、人間は立ち入るべきではないのではないか、と逡巡してしまう。
美子はミサキの考えを聞いてみたくなった。
「反しているとも言えるし、反していないとも言えるわ」
彼女は美子とはことごとく考え方が異なるようだ。
先ほどから両者の意見は食い違ってばかりだが、美子はそこに面白味を感じ始めている。
「私たち人間だって、同じ地球上の生き物の一種よ。だったら人間だって、人間のやることだって自然だと思わない?」
「え、ええと……」
俄かにスケールの大きな話になり、美子は惑った。
地球規模となると完全に彼女の想定の範囲を超えている。
たったこれだけの言葉を咀嚼するのにも少々の時間を要した。
「虫も鳥も人間も同じってこと。人間が自然に割り込むべきじゃないって考えも分からなくはないけど、それこそ人間が自然を超えた何かと勘違いしてる傲慢きわまりない暴論だわ」
及川奈緒という人物には、迷いというものがない。
おそらく彼女にも自身の考えに自信が持てず、右顧左眄していた時期があっただろう。
しかしいつしか、慎重を期する意味しかなかった遅疑逡巡が無駄なものに思え、他人に左右されない強固な持論を忌憚なく披露できる人格ができあがっていた。
異見を受け付けない頑固さは欠点のように見えるが、時も場合も関係なく一貫した主張は頼もしくもある。
(そういう考え方もあるのね……)
実際、彼女の語勢にわずかの迷いもなかったため、初めて聞いた考え方にもかかわらず美子はそれを正しいと信じかけていた。
人間以外の生き物や営みを自然という言葉で表現する時点で、無意識にそれら全てを下に見ている、という発想は、美子が人生を何度繰り返しても思いつかないものだ。
「まあ、何にしても心配することじゃないわ。というか心配したところでどうにもならないもの。大切なのは……できるうちにできることをする、だけよ」
この恬淡さを美子は見習いたいと思った。
考え、悩んで、どちらかというと悲観的になりがちな彼女にとり、奈緒の姿勢は憧れに近い存在だった。
今日は仕事が休みで、たまにはと足を延ばしてショッピングモールにやって来たところ偶然、奈緒と出会ったのだ。
いつもは公園で見ている顔だけに、違う場所で会うとすぐには誰だか認識できなかった。
現に奈緒のほうから声をかけられていなければ、すれちがいになっていたかもしれない。
「ひどいわね。ほとんと毎日顔を合わせてるのに」
冗談めかして抗議する彼女に、美子は照れ笑いを浮かべながら謝った。
「時間あるでしょ? ちょっと寄って行かない?」
という奈緒の提案を特に断る理由もなく、2人はカフェに入った。
(高いわね。アイスコーヒーが600円……?)
普段、こういう洒落た場所に来ない美子は、物価の高さに驚くしかなかった。
喫茶店ならこの半分くらいで注文できるところだ。
奈緒の手前、そんなことも言えず、とりあえずコーヒーにしておく。
「ここ、ケーキが美味しいのよ。特にモンブランがね」
「そうなんだ」
と相槌は打つが、金額を見れば頼もうという気にはなれない。
私はコーヒーだけでいいわ、と美子が言おうとしたところに、
「ミルクティーとモンブラン2つ……飲み物は何にする?」
早々と店員を呼んだ奈緒は有無を言わさず美子に迫る。
「じゃ、じゃあアイスコーヒーで……」
勢いに押され、ケーキの注文はキャンセルできなかった。
「こういうところ、よく来るの?」
店員がいなくなるのを待って、美子が訊いた。
「まあ、時々ね。品揃えいいし、ここでしか買えないものもあるから」
「へえ……」
失礼にならない程度に美子は彼女の服装を見た。
普段と違い、上下とも都会的で洗練されたデザインだ。
といって決して派手すぎでもない。
奈緒は体の線が細いので、どんな服でもそれなりに着こなせそうだ。
「私は滅多に来ないわ。なんていうか落ち着かなくて」
「たしかにそんな顔してるわね」
奈緒は真顔で言ったが、美子は何も感じなかった。
はじめて会った時は言葉も態度もずいぶんトゲがあったが、今はずいぶんと柔らかくなっている。
愛想がないのは変わっていない。
今のように皮肉なのか冗談なのか判断がつかないような発言も真顔でするが、口調を敏感に拾っていけば真意は見える。
彼女と付き合うのは慣れるまでが大変だろう。
態度だけでは一向に親しみを感じさせないからだ。
(こういう人もいるわよね)
こう割り切れるようになれば、奈緒は付き合いやすい相手だ。
必要以上に馴れ合わず、安易に他人に同調しない。
主義主張がハッキリしている分、いちいち顔色を窺わなくてすむ。
「娘さん……ミサキちゃん、元気にしてるの?」
「元気よ。風邪だって今まで2回くらいしか引いたことがないから」
「そうじゃなくて……」
ここ数日、ミサキは公園には行っていない。
他人に頼られやすい性質でも持ち合わせているのか、委員会の手伝いや部活の応援などで忙しい放課後を送る日々が続いている。
仕事はきちんとこなす性格なので教師たちからの評判もよく、それゆえに何かと雑務を任されている。
美子にしてみれば娘が必要とされているという事実は単純に嬉しいし、そういう姿勢であれば推薦入試を受けるときなどに有利になる。
公園に一緒に行けないのは寂しいが、ミサキのことを想えばその忙しさはむしろありがたいものだ。
「学校でいろいろと忙しくしてるの。あ、追試とかじゃないわよ?」
「分かってるわ。お利口そうだもん」
「え、ええ……」
店員が飲み物とケーキを持ってきた。
それをキッカケに、この店の人気商品は何だとか、雑貨屋はどこがいいかとか、他愛ない話に花が咲く。
及川奈緒は冷たい印象を与えるが、打ち解ければ会話が楽しくなる相手だ。
いろいろと趣味を持っていて、話題の引き出しが多い。
美子がガーデニングに興味があると言えば、彼女はすぐにこのモール内で花や造園道具を扱っている店を紹介してくれる。
奈緒自身にはこの方面の趣味はないが、興味のないものでも一応は気に留める性質のようだ。
「後で連れて行ってあげるわ」
情報提供だけで終わらないのも彼女なりの優しさである。
その後、しばらく二人は無言でケーキを口に運んだ。
話などいくらでもできるが、日頃が猫の世話を介しての顔合わせだったせいか、親しいわりには会話のテンポが微妙に噛みあわない瞬間が何度かあった。
「前から言おうと思ってたけど――」
最後の一口を食べ終えた奈緒が、口元を拭いながら言った。
明らかにそれまでと違う口調に、美子はフォークを落としそうになった。
妙に改まった、低い声から始まるのはたいてい悪い話だ。
「どうかしたの?」
スポンジ生地が喉を通りそうになかったので、コーヒーで流し込む。
もう公園には来ないでほしいとか、実は迷惑だったとか、そんな類の言葉が飛び出すのではないか。
美子はテーブルの下でぐっと拳を握った。
「呉谷さんには本当に感謝してるの」
奈緒は視線を落としたまま言った。
少しだけ赤くなった頬を見せないためだ。
「なん――?」
「正直に言うわね。最初は迷惑だったの。公園に来てほしくもなかった。どうせ興味本位で、猫がかわいいからなんて単純な理由で首を突っ込んできてるだけだ、って思ってたのよ」
「そう言われると……」
はっきりと否定はできない。
事実、そういう面はあった。
小動物をかわいいと思うのは自然な感覚で、触りたい、餌をあげたいという欲求はその感覚の延長だ。
覚悟、犠牲、責任。
そういった陰の側面まで彼女は考えはしなかった。
おそらく奈緒は当初、彼女のそうした無責任さを見抜いていたのであろう。
それゆえの発言である。
「どうせ3日もすれば飽きて来なくなる。そう思ってたわ。あの子たちもある意味、そういう連中に捨てられてきたんだから」
「及川さん、それって――」
「世話を途中で投げ出すのはね、捨てるのと同じなの。家で飼っていた子を外に捨てるのも、活動を放棄するのも変わらない。そういう意味」
「私は……」
「分かってる。呉谷さんは責任感の強い人だったわ。1週間経って、2週間が経って、本物だと分かった」
そこで彼女ははじめて美子の目を見た。
勝ち気で挑戦的な印象はそのままに、親愛や信頼の情が覗く。
「私はしたいからしてるだけよ。責任とか難しいことは……そうね、及川さんが言うように甘かったわ。今よりずっと軽く考えていたもの」
「そうだと思ってたわ」
奈緒は世辞を言わない。
美子にはそれが心地よかった。
「だけど今はちがう。呉谷さんが来てくれるようになって、ずいぶんと負担が減ったのよ。フード代だって毎日となるとバカにならないし。それに怪我なんかもすぐに見つけてくれるでしょ?」
「見つけたって何もできないわ。情けないけど、どんな薬があるのかも知らないし、どうやって飲ませるのかも」
「いいのよ、別に。そうやって見てくれるだけで心強いの。私ひとりだけだと、どうしても限界があるから」
だから気に病む必要はない、と奈緒は言う。
しかし美子の心情としてはいささか複雑だった。
活動に参加しているといいながら、実際にやっているのは給餌と体調の確認くらいのものだ。
捕獲、手術はすでに奈緒が自費で行なっているため、することといえばそれくらいしかない。
負担した金額にしても、活動内容にしても、奈緒とは比べものにならないくらいに軽い。
果たしてこれで彼女と同じように、地域猫活動をしていると堂々と言えるのか、という疑問がつきまとう。
といって彼女並みに貢献することも憚られた。
公園での活動は奈緒が時間をかけて猫の個体数を把握し、そのうえで全頭を捕獲、手術し、給餌の時間や場所も習慣づけたからこそ成り立っている。
いわば美子はそうした面倒に一切関与せずにやって来た、いいとこ取りも同然で、彼女の苦労の上にあぐらをかくような真似をするのも気が引けた。
「難しく考えなくていいわよ」
美子の苦悩を見透かしたように、奈緒は慣れていない笑みを浮かべた。
「あの子たちのことを真剣に考える。それだけでも立派なことなのよ」
それができない人がいるから不幸な猫が生まれ続ける、と彼女は言う。
もちろん考えるだけでは現実は何も動かないが、行動を起こすには必要不可欠なプロセスだ。
熟慮がなければ、あらゆる行為は軽率に成り果てる。
美子は今さらながらにそのことを痛感した。
「これはミサキにも言われたことなんだけど、里親を探してみるというのはどうかしら。可愛がってくれる人がいるなら、その人の元で飼われたほうが幸せかもしれないわ」
「していないワケじゃないわ」
奈緒は難しい顔をして言った。
「にゃんセーフっていう団体があってね。規模としてはそんなに大きくない団体だけど、捕獲器の貸し出しとか、譲渡会を開いたりしてるわ」
「じゃあ、あの子たちも登録されてるの?」
「一昨年くらいからね。数も多かったし、私もそうしたほうがいいと思って。でも、どの子もそこそこ歳をとっているし、怪我や病気もある。引き取るなら若くて健康な子を、って考える里親は多いの。もちろん、そうじゃない奇特な人もいるわ。けれどそういう人はなかなか現れなくてね」
引き取り手が見つからなければ猫たちは老いていき、それに伴って人気も下がっていくという悪循環に陥るという。
だが、奈緒が良い顔をしない理由は別にある。
彼女は最初、それを言うべきか迷った。
里親探しはミサキや美子が考えた末に提案したものだ。
いうまでもなく猫のことを思っての発案であり、その想いを踏み躙るような現実を突きつけたくはない。
とはいえ何も知らずに理想や夢物語ばかりを信じ続けていると、いつかそれを知った時の痛みが大きくなる。
「これは、あってはならないことなんだけどね」
と前置きしたうえで、奈緒はそれを教えておくことにした。
「里親に名乗り出る人のすべてが、善意からそうしてるとは限らないの。中には虐待するために引き取る奴もいるのよ。最近はそういう連中に大事な猫が渡らないように審査を厳しくしているけれど、完全じゃないわ。何人かは審査をくぐり抜けて獲物を持ち帰るのよ」
彼女は緩急をつけずにまくし立てた。
話しているうち、そんな輩への憎悪が湧きあがり、つい強い口調になるのを奈緒は必死に抑えた。
言い終わると今度は、まるで美子を裏切ってしまったような漠然とした罪悪感に襲われる。
「知ってるわ」
奈緒の躊躇を笑うように、彼女は真顔で言った。
「テレビやネットで見たくらいだけど。実際にそういう人がいて、何匹も殺したりするんでしょう?」
「え、ええ、そうね」
奈緒は呆気にとられて曖昧に頷いた。
物事の裏や闇の部分を知らなさそうな美子が、既に何かの覚悟を決めたような表情でさらりと言ったことが、彼女には少しだけ恐ろしかった。
「でもそういう人はたいてい捕まっているわ。名前だって公表されるだろうし、いつかはいなくなると思ってるの」
「呉谷さん、それは――」
あまりにも見通しが甘すぎる、と奈緒は思った。
「善良な里親のほうが圧倒的に多いハズだわ。その、にゃんセーフっていうところの譲渡会に来る人が虐待犯とは限らないし」
これは美子の、冷静で控えめな見解だった。
里親を騙る虐待魔は稀なケースで、確率的にはまず当たらない。
いたとしても最後には逮捕され、その数は徐々に減っていき、やがてはいなくなる。
もっともな意見だが奈緒には首肯しがたい。
「一か八かの賭けみたいなこと、私はしたくないわ」
彼女は対立を避けないから、この発言も胸を張ってのことだ。
「10人のまともな里親が1匹ずつ引き取る横で、虐待犯は一度に20匹も30匹も殺すのよ。あの子たちは玩具でも何でもないわ」
場所が場所だけに彼女も努めて小さな声を心掛けたが、それでも美子が反論するようなら、大声を張り上げていたかもしれない。
それだけ譲れない考え方ということであり、美子もそれはしっかりと感じ取っていた。
「そう、よね……」
頷いてみせるものの、実感はない。
雷に打たれるくらいの確率でしかない虐待犯を恐れて里親制度に反対するのは合理的ではない、というのが変わらぬ美子の考えである。
むしろ本当に地域猫をゼロにするつもりなら、いくつもある団体に片っ端から登録して回るくらいでいい、と思っている。
なぜそこまで恐れるのか、彼女は訝しんだが、
「そんな連中の手に渡るくらいなら、私が最期を看取るほうがマシよ」
吐き捨てるような言い草に奈緒の気持ちを垣間見た気がした。
彼女はきっと、あの子たちを我が子同然に可愛がっているのだ。
以前、ミサキが名前を付けないのかと訊いた時、愛着が湧いてしまうから付けない、と奈緒は言っていたが。
少なくとも特別視はしていると美子は感じた。
もしかしたら、あの公園に集まる子たちを誰にも触れさせたくない、とさえ考えているかもしれない。
なまじ活動の実績があるだけに、その自負はあってもおかしくはない。
そこまで考え至ると、今度は猫たちの視点に立ってみたくなる。
彼らは奈緒をどう見ているのだろうか。
決まった時間に餌をやりに来て、後片付けもしてくれる便利な生き物と思っているのだろうか。
それとも自分たちの生殺与奪を握る、天上の存在のように捉えているのだろうか。
あるいは野に捨てられたところに手を差し伸べてくれた育ての親と見做しているのだろうか。
誰にも分かるハズがないが、ここまで馴れている奈緒と引き離すのは酷なのではないか、とも美子は思った。
「難しい問題よね」
当たり障りのない言葉で締めて結論を先送りにする。
美子としては里親制度は案のひとつであって、強く勧めたいワケではない。
今でも奈緒に主権があるべきと思っているから、彼女の方針に真っ向から対立するつもりもなかった。
「それとは別に、少し不安になることもあるの」
雰囲気を変えるつもりで美子が言う。
「もし私たちがいなくなったら、あの子たちはどうなるんだろうって」
「どういうこと?」
「あり得ないとは思ってるけど、たとえば私たちが入院したりして世話ができなくなったら、あの子たちは食べるものがなくなって死んでしまうんじゃないかしらと思って……」
奈緒は顔色ひとつ変えずに答える。
「そうなる子もいるでしょうね。弱い子はそうなるかもしれないし、強い子はゴミでも何でも漁るか、別の場所に移って餌場を横取りするかもしれないわね」
「弱肉強食ってことね?」
「そうよ。それが自然だもの。で、私たちがやってるのは弱い子も強い子も同じように生かしてるってこと」
「それじゃあ自然に反しているわね……」
そう聞くと後ろめたさを感じる美子である。
自然の摂理に反することをするのは、人間のエゴや傲慢さの表れだと受け止めてしまう。
たとえ蟻1匹の生活にさえ、人間は立ち入るべきではないのではないか、と逡巡してしまう。
美子はミサキの考えを聞いてみたくなった。
「反しているとも言えるし、反していないとも言えるわ」
彼女は美子とはことごとく考え方が異なるようだ。
先ほどから両者の意見は食い違ってばかりだが、美子はそこに面白味を感じ始めている。
「私たち人間だって、同じ地球上の生き物の一種よ。だったら人間だって、人間のやることだって自然だと思わない?」
「え、ええと……」
俄かにスケールの大きな話になり、美子は惑った。
地球規模となると完全に彼女の想定の範囲を超えている。
たったこれだけの言葉を咀嚼するのにも少々の時間を要した。
「虫も鳥も人間も同じってこと。人間が自然に割り込むべきじゃないって考えも分からなくはないけど、それこそ人間が自然を超えた何かと勘違いしてる傲慢きわまりない暴論だわ」
及川奈緒という人物には、迷いというものがない。
おそらく彼女にも自身の考えに自信が持てず、右顧左眄していた時期があっただろう。
しかしいつしか、慎重を期する意味しかなかった遅疑逡巡が無駄なものに思え、他人に左右されない強固な持論を忌憚なく披露できる人格ができあがっていた。
異見を受け付けない頑固さは欠点のように見えるが、時も場合も関係なく一貫した主張は頼もしくもある。
(そういう考え方もあるのね……)
実際、彼女の語勢にわずかの迷いもなかったため、初めて聞いた考え方にもかかわらず美子はそれを正しいと信じかけていた。
人間以外の生き物や営みを自然という言葉で表現する時点で、無意識にそれら全てを下に見ている、という発想は、美子が人生を何度繰り返しても思いつかないものだ。
「まあ、何にしても心配することじゃないわ。というか心配したところでどうにもならないもの。大切なのは……できるうちにできることをする、だけよ」
この恬淡さを美子は見習いたいと思った。
考え、悩んで、どちらかというと悲観的になりがちな彼女にとり、奈緒の姿勢は憧れに近い存在だった。
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