小さな命たち

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10-2

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かぼちゃの天ぷらを摘まんだまま、ミサキは両親の顔を交互に見る。
双方におかしなところはない。
地域猫活動をしている女と、それへの苦情を伝えに来た役人という構図は外で成り立つものであって、家の中では関係ない。
実際、夫婦の仲はうまくいっている。
あの件で話し合ったのもたかだか数回で、どちらも建設的に考えているから険悪な雰囲気にはならなかった。
幸治は美子を心配しているし、美子はそんな夫の気持ちを知りながらも猫を放っておけないという想いがあるから、互いの見解は微妙なところで噛みあわなくなっていた。
(お父さん……?)
ところが、よく観察すると幸治に不自然な点が見受けられる。
彼は美子と向い合わせに座っているのだが、お茶を飲むとき、醤油差しを取るとき等、何か動作を挟む際に顔色を窺うように美子を見ている。それもほとんど一瞬なので美子は気付いていないようだった。
その平然とした様子こそが幸治には理解できないらしい。
ちらちらと視線を送るのも、美子の変化を期待している節があった。
「ねえ、お父さん。どうしたの? 何かヘンだよ?」
分からないままでは気持ちが悪いので、ミサキはつい言ってしまった。
「そ、そうか?」
上ずった声は認めているようなものだ。
「なんかそわそわして落ち着かないし」
「そうなの?」
ミサキに言われて美子も訝るように顔を覗き込む。
「ああ、いや……そうだな。その……」
注がれる視線を跳ねのけるようにお茶を一気に飲み干す。
「2人とも、あの活動を続けてるが支障はないのか?」
「別にないわよ。封鎖されてるから今だけ場所を変えてるけど」
「そうなのか……」
美子もミサキも表情を変えない。
それが幸治には怖かった。
「あんなことがあった後だからな。何か問題でもあるのかと思ってたけど、考えすぎだったか」
「まあ、往来には気をつけてるわよ。あそこ、車が多いから」
「そうしてくれ。心配だから」
幸治がこめかみに手を当てた。
眉間に寄せた皺のせいで10歳ちかく老け込んだように見えた。
「ねえ、どうしたの? 体調が悪いなら無理して食べなくていいわよ。ごめんなさい、そうとは気付かないで揚げ物なんか――」
「いや、ちがう。ちがうんだ。美子は悪くないよ」
気休めだと思われないように適当に摘まんだ天ぷらを頬張る。
美子は家族の好みを知っているから、衣の固さもそれにつける天つゆの濃さも最も美味しいと感じるように調整してある。
「もしかして仕事先で何かあったとか?」
「それもちがう。分かった、ちゃんと話すよ。でも今は……ちょっと……食事が終わってからにしよう」
幸治は3杯目のお茶を飲みながら言った。
結局、その後は食べ終わるまで会話らしい会話はなかった。
どうしても幸治の態度が気になってしまって、ミサキが気を利かせて学校であったことを面白おかしく喋っても、間の抜けたような返事ばかりである。
「じゃあ聞かせてくれる?」
洗い物をすませて美子が戻ってきた。
彼の表情があまりに深刻そうだったから、食器を片づけている間もいろいろと考えてしまった。
美子の悪い癖で、不安があるとどんどんとネガティブな思考に陥ってしまう。
「ああ」
その前にミサキに聞かせてもいいものか、と幸治は思った。
気分のいい話ではないため、できれば娘には席を外してほしかったが、
「あたしも聞きたい。いいでしょ?」
とミサキに先手を打たれてしまい、幸治も渋々頷く。
彼女には幼い頃から良いものにも悪いものにも、美しいものにも汚れたものにも平等に触れさせてきた。
危険であったり害であったりするものを徹底的に排除し、安全で安心な環境を常に保つのが親の務めだという意見もあるが、これは真の正解とはいえない。
小さいうちから物事のマイナス面に触れさせておかなければ、いつまで経ってもそれに対する免疫ができない。
過保護な教育はいわば無菌室で成長期を過ごさせるようなもので、いざ外に出れば常在菌で死ぬかもしれないのだ。
(そうだったな……)
昔、野生のクマに襲われて死んだ女の子がいた。
当時の世論ではそんな場所に連れて行って、目を離した親が悪いという声が圧倒的に多かった。
ところが状況を詳しく見ると、それだけが要因ではなかった。
両親は子が喜ぶからと、クマのぬいぐるみや絵本を与え続けた。
可愛い見た目のぬいぐるみも、お話の中では登場人物と仲良く歌ったり踊ったりするクマも、現実を知らない幼女にクマは優しくて柔らかい生き物だと錯覚させるには充分過ぎた。
結果、女の子は林の向こうに見つけたクマの姿を追いかけ、最期の瞬間までイメージしていたメルヘンチックな存在に殺されてしまった。
子どもには良い面と同じくらい悪い面を見せなさい。
悪を知らずして善悪の判断ができるハズがないのだから。
どこの誰とも知れない教育評論家が示したこの見解が、生まれたばかりのミサキを抱える幸治たちの意識を変えたのだった。
「僕が動物嫌いになった理由を思い出したんだ」
美子は首をかしげた。
付き合い始めて以来の謎が解ける、と言えば大袈裟すぎる話だ。
何が好きで、何が嫌いかは人それぞれだ。
その理由を明かすのに改まってわざわざ食後まで引っ張るほどのことだろうか。
「5歳くらいの頃かな、いつも遊んでた空き地に段ボール箱が置いてあったんだ。中を覗くと仔猫がいた。当時は捨て猫といえば箱に入れて、拾ってくださいと貼り紙をするのが多かった。悲しそうな鳴き声だったから、我慢できなくて連れて帰ったんだ」
幸治は中空の一点を見つめている。
彼にだけはその頃の光景がおぼろげながらも、ハッキリと見えているようだった。
「ところが親は反対してね。不衛生だから元の場所に戻してきなさいと言った。説得したけど駄目だったよ。そりゃそうだ。幼い僕なんかじゃ猫一匹養えないんだから。結局、次の日に空き地に戻したんだ」
彼はそこで言葉を切った。
できることならもう一度、忘れてしまいたいという気持ちが噛んだ唇から伝わってくる。
美子が先を促すか止めるか迷っている間に彼は再び口を開いた。
「置き方が悪かったんだろうな。僕が離れようとすると箱が倒れて、仔猫が出てきたんだ。多分、連れて帰ってくれって言ってたんだと思う。でもそれはできないから僕は振り返らないようにしたんだ。目が合ったら無視できなくなる。連れて帰りたくなる。だから走って空き地を出た……」
その後の様子はミサキにも想像できた。
つい最近、それに近い出来事が近い場所で起こっていたからだ。
「仔猫は僕に置き去りにされないように必死についてくる。空き地は道路に面してた。そのまま家に帰れば良かったのに、道路を挟んだ向こう側から、僕は仔猫について来るなと叫んだ。言葉なんて分かるワケがない。きっと僕に呼ばれてると勘違いしたんだ。仔猫は空き地を出て、道路を渡ろうとした。車が――」
この先を言う必要はない。
中途半端な愛情や善行がかえって状況を悪くする、という結末が伝わればそれでよく、両手に収まる程度の小さな命が無惨な肉塊に変わり果ててしまったことまで仔細に述べなくてもよい。
その時の凄惨さは彼ひとりの記憶の中にあればいい。
「それからだな。嫌いというより、実は怖かったのかもしれないな。すっかり忘れていたけど、事故の話を聞いて思い出したよ」
幸治は目を伏せた。
「そんなことがあったのね……」
誰が悪いワケでもない。
かわいそうだからと家に連れ帰った幸治の行いは間違いではないし、衛生を理由に飼うことを拒んだ親にも罪はない。
貰い手を探すという方法もあったが、当時の彼にそれを求めるのは酷だろう。
結局、咎められるべきは捨てた飼い主ということになるが、それにしても止むに止まれぬ事情があったのかもしれない。
「2人が捨て猫の世話をしていると知った時は複雑だったよ。夫として、親として口を出すべきじゃないと思ってたが、もし引き取るなんて話になったらどうしようかと……正直、気が気じゃなかった」
「それは、私も分かってたから――」
奈緒に申し訳ないと思いつつも、美子は彼らのうちの1匹でも引き取ることはできなかった。
嫌がる幸治を無視してまで猫たちを助けるべきなのか。
夫の意思に反して正義感を振りかざすのはただのエゴではないか。
難しいことを考えるのが苦手な美子は、そこでいつも悩んでいた。
「小さな生き物も大事に扱う……ミサキが優しい子に育ったことは誇らしいんだ。そういうふうに育ててくれた美子にも感謝してる。2人がしていることは立派なのに、それを素直に応援できない自分が情けなくてね」
幸治はゆっくりと目を閉じた。
胸の辺りで両手を組んでいる姿が、まるで彼が救えなかった仔猫に謝罪しているように見えた。
「お父さんが気にすることじゃないじゃん。あたしたちが勝手にやってるだけだし、責任感じたりするのも違うでしょ」
こういう時、ミサキの存在は大きい。
賢しい彼女は母の立場にも父の立場にもなって考えることができるから、互いの本心の通訳者になれる。
「それで……まあ、どういうワケかこのタイミングで思い出したから、僕も頑張ろうと思ってね。2人が飼いたいというなら、どうしてもというなら……もう反対はしないつもりだよ」
無理をしている、と傍目にも分かる。
動物嫌いのキッカケを思い出しただけで恐怖心の克服には至っていない。
口ではそう言っていても実際に家の中に猫がいるとなれば精神的な負担は小さくないハズだ。
「ちょっと待って。それは別の問題よ。あなたにそんな我慢をさせてまで、引き取るつもりはないわ。今だって外での活動でも充分に回ってるし、そんなこと気にしないで」
「そうだよ。あの子たちを保護する代わりにお父さんがつらい目に遭うんじゃ、意味がないじゃんか」
「そうか……」
内心、彼はホッとした。
人の顔色を窺ってばかりの彼だから、自分を殺してでも家族の意思を優先させたがるところがある。
美子たちの希望を叶えたい一心で提案したが、これは身の丈にあっていない。
しかし、と彼は言葉を継ぎ足す。
「2人の気持ちも尊重すべきだと思ってる。僕が苦手だからといつまでも拒んでばかりじゃ、示しがつかないだろう」
そう言い、ミサキの頭をぽんぽんと撫でる。
「お父さん、ほんとに無理しないでよ?」
すがるようなミサキの目に、幸治はにこりと笑って返した。
示しがつかない。
幸治はこう言ったが、娘に対して、という意味だけではない。
幸か不幸か彼の勤め先はちいき課だ。
いくら公務員とその家族は無関係だといっても、世間はそうは見てくれない。
公に奉仕するという前提がある以上、区民のチェックの目は厳しい。
家族に付け入る隙が生まれれば、それを切り口に幸治を攻撃する者が出てくる。
妻ひとり、子ひとりしっかり管理できない人間に公務員が務まるのか。
そんな声が挙がれば職場の仲間にも迷惑がかかるし、なにより美子たちまで要らぬ批判を浴びかねない。
となると幸治にとっての最善は、2人が活動を中止することであるが、見方によればこれも具合が悪い。
途中で止めたとなれば無責任という謗りは免れない。
仮に批判の声があってやむなく……という流れにしようにも、反対されればすぐに手の平を返すような軽い気持ちでやっていたのか、と言われるかもしれない。
(どうしたらいいんだ……)
内憂外患の相を呈してきたことを今さらながらに感じ取り、彼は自分に何ができるのか、何をすべきなのかを熟考した。
しかしその考えがまとまるより先に、事態は動いた。
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