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第一編 シルヴァン村の孤星
【プロローグ】
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雨の日は、どうしてこうも古い記憶の匂いがするのだろうか。
フィンは、埃っぽい屋根裏部屋の薄暗がりの中、曽祖父が遺したガラクタの山と格闘していた。アキテーヌ王国の片隅、シルヴァン村のはずれに立つこの家は、かつて薬草師だった曽祖父の代には、それなりに人の出入りもあったらしい。だが今では、訪れる者も稀な、ただ古びた家屋に過ぎない。フィンが生まれるずっと前に亡くなった曽祖父は、物静かで博識な老人だったと、祖母が時折懐かしそうに語るだけだった。
「フィン、薄汚れた革袋はもういいわよ。どうせ中身も虫に食われているでしょうから、まとめて捨ててしまいなさい」
階下から母の現実的な声が響く。フィンは「はーい」と気の抜けた返事をしながらも、手にした革袋の、予想外のずっしりとした重みに小さな胸を高鳴らせた。それは何重にも太く黒ずんだ革紐で固く、まるで呪いでもかけられたかのように固く縛り上げられている。誰にも触れられたくない、とでも言うように。表面には、獅子と百合を組み合わせたような意匠の型押しが見えるが、長い年月の間に摩耗し、それが何を示す紋章なのかは判然としない。ただ、どこか高貴で、そして悲しい記憶を秘めているような気がした。
母の言葉とは裏腹に、フィンは革袋から目が離せなくなっていた。掃除の退屈さを忘れさせる、抗いがたい引力。埃まみれになるのも構わず、フィンは小さな指に力を込めて、硬化した革紐を解きにかかった。爪の間に食い込む紐の感触と、指先の微かな痛みが、むしろ彼の好奇心を煽る。
やがて、最後の結び目が解け、革袋の口が緩んだ。フィンは息をのみ、そっと中を覗き込む。そこには、黒ずんだ分厚い革で丁寧に表装された、一冊の古びた書物が横たわっていた。羊皮紙を束ねたそれは、タイトルすら記されておらず、ただ表紙の中央に、消えかかったインクで、しかしどこか力強く、そして深い悲しみを湛えた筆跡で、こう記されているのが辛うじて読み取れた。
「我が唯一人の友、そして私がこの手で破滅へと追いやった男、カイルへ――この記録を捧ぐ」
カイル・リヴァーウッド……? フィンは首を傾げた。その名前に、全く聞き覚えがない。学校の歴史の授業では、アキテーヌ王国を建国した英雄王の名も、聖教を広めた聖人たちの名も、宿敵アルビオン連合王国との百年に及ぶ戦で武勲を立てた勇猛果敢な将軍たちの名も、耳にタコができるほど聞かされてきた。だが、カイルという名の英雄は、フィンの知る輝かしいアキテーヌの歴史のどこにも登場しなかった。
これは一体、何なのだろう? フィンは、高鳴る鼓動を抑えながら、埃をそっと払い、震える手で書物の最初のページを開いた。羊皮紙はひどく傷み、インクは色褪せ、所々に染みや虫食いの跡が見える。しかし、そこに綴られた言葉は、五百年の時を超えて、フィンの心に直接語りかけてくるかのようだった。
『――この記録は、アストルフォという名の男が残した、血と涙の告白である。』
世界は、英雄の物語を求める。光り輝く剣を掲げ、悪を打ち砕き、民衆に希望をもたらす存在を。だが、真の英雄とは、常に陽の当たる場所を歩む者ばかりではない。歴史の闇に葬られ、名もなき存在として忘れ去られ、それどころか「反逆者」として汚名を着せられたまま、誰にも知られず世界を救った者もいるのだ。我が友、カイル。彼こそは、そのような英雄だった。
今から五百年前、このアキテーヌ王国、いや、ユーロディア大陸全土が、「世界の闇」と呼ばれる正体不明の脅威と、人間自身の愚かな権力争いの炎に包まれようとしていた時代。彼は、そのあまりにも優しすぎる心と、あまりにも強大すぎる力ゆえに、誰よりも深く傷つき、誰よりも多くの涙を流しながら、たった一人でその運命に立ち向かった。
公式の歴史には、賢王ギヨーム陛下の治世は平和と繁栄の時代であり、聖教の導きによってアキテーヌは輝かしい発展を遂げたと記されているだろう。だが、それは巧妙に塗り固められた嘘だ。真実は、腐敗した貴族たちの醜い権力闘争、民衆の呻き、そしてその混乱に乗じて静かに、しかし確実に世界を蝕んでいく「世界の闇」の恐怖に満ちていた。
『そして私は…私はその渦中で、カイルの最も信頼する友でありながら、彼を裏切り、彼の偉業を歴史から抹消する手助けをしてしまったのだ――』
フィンは息をのんだ。背筋を冷たい汗が伝う。これは、ただの古い物語ではない。学校で教えられてきた歴史の、全く別の側面。隠された真実。手記の言葉は、アストルフォと名乗る男の深い後悔と自責の念に満ちており、フィクションではありえないほどの重みを持っていた。
手記の中で、カイルは「悲涙の剣聖」と密かに呼ばれていた、という記述がフィンの目に留まった。その異名の響きが、彼の心に深く、そして悲しく突き刺さる。なぜ、彼は歴史の表舞台から姿を消したのか。なぜ、彼の剣は悲しみを帯びていたのか。
これは、きっと真実なのだ。フィンは確信に近い感情を抱いた。この埃っぽい屋根裏部屋に、この古びた革袋の中に、五百年もの間ひっそりと隠されてきたのには、それ相応の理由があるに違いない。彼の家の者が、代々この手記を守り抜いてきたのかもしれない。誰にも知られてはならない、しかし、いつか誰かに伝えられなければならない、あまりにも重い真実を。
「フィン、まだ終わらないの? もう夕食の支度をするわよ」
母の声が、フィンの意識を現実へと引き戻した。彼は慌てて手記を革袋に仕舞い、屋根裏部屋の隅、古い毛布の下にそっと隠した。この書物のことは、まだ誰にも話すべきではない。そんな気がした。
屋根裏部屋の掃除を終え、階下へと降りるフィンの足取りは、先ほどまでとは比べ物にならないほど重かった。しかし、彼の心は、先ほど読んだ手記の内容で激しく揺さぶられていた。忘れられた英雄カイルとは、一体どのような人物だったのか? なぜ彼の名は歴史から消え、反逆者の汚名を着せられなければならなかったのか? そして、彼を裏切ったアストルフォという男は、なぜこのような痛切な記録を残したのか?
フィンは、これから始まる長い夜に、この手記を読み解き、五百年前のユーロディア大陸で起こった真実を探求することを、固く、固く決意した。窓の外では、先ほどまで空を覆っていた厚い雨雲が切れ、西の空にかすかな、しかし力強い夕焼けの光が差し込んでいる。それはまるで、歴史の闇に深く埋もれたカイルの物語が、一人の少年の手によって、再びこの世界に光を見いだそうとしているかのようだった。
こうして、アキテーヌの片田舎の、名もなき少年の手によって、血と涙で綴られた一冊の古書が、五百年の長き眠りから覚めた。それは、世界を救いながらも誰にも知られることなく、歴史の闇に葬られた一人の英雄――その名を「悲涙の剣聖」カイルという、真実の物語の始まりだった。
フィンは、埃っぽい屋根裏部屋の薄暗がりの中、曽祖父が遺したガラクタの山と格闘していた。アキテーヌ王国の片隅、シルヴァン村のはずれに立つこの家は、かつて薬草師だった曽祖父の代には、それなりに人の出入りもあったらしい。だが今では、訪れる者も稀な、ただ古びた家屋に過ぎない。フィンが生まれるずっと前に亡くなった曽祖父は、物静かで博識な老人だったと、祖母が時折懐かしそうに語るだけだった。
「フィン、薄汚れた革袋はもういいわよ。どうせ中身も虫に食われているでしょうから、まとめて捨ててしまいなさい」
階下から母の現実的な声が響く。フィンは「はーい」と気の抜けた返事をしながらも、手にした革袋の、予想外のずっしりとした重みに小さな胸を高鳴らせた。それは何重にも太く黒ずんだ革紐で固く、まるで呪いでもかけられたかのように固く縛り上げられている。誰にも触れられたくない、とでも言うように。表面には、獅子と百合を組み合わせたような意匠の型押しが見えるが、長い年月の間に摩耗し、それが何を示す紋章なのかは判然としない。ただ、どこか高貴で、そして悲しい記憶を秘めているような気がした。
母の言葉とは裏腹に、フィンは革袋から目が離せなくなっていた。掃除の退屈さを忘れさせる、抗いがたい引力。埃まみれになるのも構わず、フィンは小さな指に力を込めて、硬化した革紐を解きにかかった。爪の間に食い込む紐の感触と、指先の微かな痛みが、むしろ彼の好奇心を煽る。
やがて、最後の結び目が解け、革袋の口が緩んだ。フィンは息をのみ、そっと中を覗き込む。そこには、黒ずんだ分厚い革で丁寧に表装された、一冊の古びた書物が横たわっていた。羊皮紙を束ねたそれは、タイトルすら記されておらず、ただ表紙の中央に、消えかかったインクで、しかしどこか力強く、そして深い悲しみを湛えた筆跡で、こう記されているのが辛うじて読み取れた。
「我が唯一人の友、そして私がこの手で破滅へと追いやった男、カイルへ――この記録を捧ぐ」
カイル・リヴァーウッド……? フィンは首を傾げた。その名前に、全く聞き覚えがない。学校の歴史の授業では、アキテーヌ王国を建国した英雄王の名も、聖教を広めた聖人たちの名も、宿敵アルビオン連合王国との百年に及ぶ戦で武勲を立てた勇猛果敢な将軍たちの名も、耳にタコができるほど聞かされてきた。だが、カイルという名の英雄は、フィンの知る輝かしいアキテーヌの歴史のどこにも登場しなかった。
これは一体、何なのだろう? フィンは、高鳴る鼓動を抑えながら、埃をそっと払い、震える手で書物の最初のページを開いた。羊皮紙はひどく傷み、インクは色褪せ、所々に染みや虫食いの跡が見える。しかし、そこに綴られた言葉は、五百年の時を超えて、フィンの心に直接語りかけてくるかのようだった。
『――この記録は、アストルフォという名の男が残した、血と涙の告白である。』
世界は、英雄の物語を求める。光り輝く剣を掲げ、悪を打ち砕き、民衆に希望をもたらす存在を。だが、真の英雄とは、常に陽の当たる場所を歩む者ばかりではない。歴史の闇に葬られ、名もなき存在として忘れ去られ、それどころか「反逆者」として汚名を着せられたまま、誰にも知られず世界を救った者もいるのだ。我が友、カイル。彼こそは、そのような英雄だった。
今から五百年前、このアキテーヌ王国、いや、ユーロディア大陸全土が、「世界の闇」と呼ばれる正体不明の脅威と、人間自身の愚かな権力争いの炎に包まれようとしていた時代。彼は、そのあまりにも優しすぎる心と、あまりにも強大すぎる力ゆえに、誰よりも深く傷つき、誰よりも多くの涙を流しながら、たった一人でその運命に立ち向かった。
公式の歴史には、賢王ギヨーム陛下の治世は平和と繁栄の時代であり、聖教の導きによってアキテーヌは輝かしい発展を遂げたと記されているだろう。だが、それは巧妙に塗り固められた嘘だ。真実は、腐敗した貴族たちの醜い権力闘争、民衆の呻き、そしてその混乱に乗じて静かに、しかし確実に世界を蝕んでいく「世界の闇」の恐怖に満ちていた。
『そして私は…私はその渦中で、カイルの最も信頼する友でありながら、彼を裏切り、彼の偉業を歴史から抹消する手助けをしてしまったのだ――』
フィンは息をのんだ。背筋を冷たい汗が伝う。これは、ただの古い物語ではない。学校で教えられてきた歴史の、全く別の側面。隠された真実。手記の言葉は、アストルフォと名乗る男の深い後悔と自責の念に満ちており、フィクションではありえないほどの重みを持っていた。
手記の中で、カイルは「悲涙の剣聖」と密かに呼ばれていた、という記述がフィンの目に留まった。その異名の響きが、彼の心に深く、そして悲しく突き刺さる。なぜ、彼は歴史の表舞台から姿を消したのか。なぜ、彼の剣は悲しみを帯びていたのか。
これは、きっと真実なのだ。フィンは確信に近い感情を抱いた。この埃っぽい屋根裏部屋に、この古びた革袋の中に、五百年もの間ひっそりと隠されてきたのには、それ相応の理由があるに違いない。彼の家の者が、代々この手記を守り抜いてきたのかもしれない。誰にも知られてはならない、しかし、いつか誰かに伝えられなければならない、あまりにも重い真実を。
「フィン、まだ終わらないの? もう夕食の支度をするわよ」
母の声が、フィンの意識を現実へと引き戻した。彼は慌てて手記を革袋に仕舞い、屋根裏部屋の隅、古い毛布の下にそっと隠した。この書物のことは、まだ誰にも話すべきではない。そんな気がした。
屋根裏部屋の掃除を終え、階下へと降りるフィンの足取りは、先ほどまでとは比べ物にならないほど重かった。しかし、彼の心は、先ほど読んだ手記の内容で激しく揺さぶられていた。忘れられた英雄カイルとは、一体どのような人物だったのか? なぜ彼の名は歴史から消え、反逆者の汚名を着せられなければならなかったのか? そして、彼を裏切ったアストルフォという男は、なぜこのような痛切な記録を残したのか?
フィンは、これから始まる長い夜に、この手記を読み解き、五百年前のユーロディア大陸で起こった真実を探求することを、固く、固く決意した。窓の外では、先ほどまで空を覆っていた厚い雨雲が切れ、西の空にかすかな、しかし力強い夕焼けの光が差し込んでいる。それはまるで、歴史の闇に深く埋もれたカイルの物語が、一人の少年の手によって、再びこの世界に光を見いだそうとしているかのようだった。
こうして、アキテーヌの片田舎の、名もなき少年の手によって、血と涙で綴られた一冊の古書が、五百年の長き眠りから覚めた。それは、世界を救いながらも誰にも知られることなく、歴史の闇に葬られた一人の英雄――その名を「悲涙の剣聖」カイルという、真実の物語の始まりだった。
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