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第一編 シルヴァン村の孤星
第1話:シルヴァン村の孤児
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夜明け前の静寂は、まやかしだ。
カイルは、いつも他の誰よりも早く、その偽りの静けさの奥に潜む音を聴いていた。寝静まったシルヴァン村の家々から漏れ聞こえるのは、寝息だけではない。それは、押し殺された呻き、癒えぬ体の痛み、そして明日の糧さえ覚束ない絶望の響き。それらが、まるで不協和音のようにカイルの耳の奥で重なり合い、彼の幼い胸を締め付けた。
(…また、誰かが泣いている…)
十三歳のカイルには、その苦しみの理由の全てが分かるわけではなかった。だが、その音は、彼の皮膚を直接撫でるかのようにリアルで、無視することなど到底できなかった。時折、背中が疼いた。
それは物心ついた時からそこにある、奇妙な痣のようなものだった。彼自身は「背中の痣」と呼んでいたが、その形はまるで獅子が爪で深く引っ掻いたかのようにも、あるいは複雑な紋様が絡み合った古代の印のようにも見えた。
十歳の時に流行り病で他界した養父母。彼を赤ん坊の頃から育ててくれた、口数の少ない優しい老夫婦も、その印については決して多くを語ろうとはしなかった。
「カイルや」と、皺だらけの優しい手で彼の頭を撫でながら、養父は言ったものだ。
「その印のことは、誰にも見せてはいけないよ。お前が、もっと大きくなるまでは…な」
養母もまた、不安げな眼差しで頷くだけだった。その言葉の真意を、カイルはまだ理解できずにいた。ただ、その印が何か特別な、そしておそらくは厄介なものであるらしいということだけを、漠然と感じていた。
カイルはそっと寝床を抜け出した。粗末な木の小屋は、彼が養父母を失ってから、一人で暮らすには広すぎた。壁の隙間からは、明け方の冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。彼は、使い古された毛布を肩まで引き上げると、小さな窓から外を眺めた。黒森(シュヴァルツァルド)のシルエットが、東の空の微かな明るみを背景に、巨大な獣のように横たわっている。あの森の向こうには何があるのだろうか。この村とは違う、もっと穏やかな世界があるのだろうか。
そんなことを考えながら、彼は誰にも見られないように、そっと背中の肌着をめくった。冷たい空気に触れた「痣」が、ズクリと疼く。まるで、何かに呼ばれているかのように。
(…どうして、僕だけなんだろう…)
村の他の子供たちには、こんな物はない。それが、カイルを村の中でさらに孤立させていた。
村はずれを流れる清らかな小川は、カイルにとって唯一、心が安らげる場所だった。日の出前の薄明かりの中、彼は誰にも見られないように、そこで水浴びをするのが日課だった。冷たい水が、夜の間に強張った体を解きほぐし、心のざわめきを少しだけ洗い流してくれる気がした。
彼は服を脱ぐと、ためらうことなく水に入った。骨張った肩、細い手足。同年代の子供たちと比べても、カイルの体つきは華奢だった。だが、その動きには無駄がなく、水面を滑るように泳ぐ姿は、どこか人間離れした優美ささえ感じさせた。
一通り体を清めると、彼は浅瀬に上がり、水面に映る自分の背中を覗き込んだ。
そこには、あの「背中の痣」が見える。濡れた肌の上で、それは一層不気味に、そしてどこか悲しげに浮かび上がっている。
「これは、一体何なんだろう…?」
何度となく繰り返してきた独り言が、また彼の唇から漏れた。
「どうして僕だけ、こんなものがあるんだろう…おじいちゃんとおばあちゃんは、何か知っていたのかな…。でも、教えてくれなかった…」
彼の脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。
リアナ。
同じ村に住む、彼と同い年の少女。太陽のように明るい笑顔と、翠の森のような優しい瞳を持つ彼女。
「…リアナにも、まだ全部は話せていない…」
リアナだけが、この「痣」のことを気味悪がらずに、真剣に心配してくれる。彼女は、カイルにとって、この息苦しい村で唯一の光であり、心の支えだった。もしリアナがいなかったら、自分はどうなっていただろうか。そう考えると、カイルの胸は言いようのない不安でいっぱいになった。
水浴びを終え、粗末な服を身に着けたカイルが村に戻ると、案の定、彼は不愉快な視線と囁き声に迎えられた。
アキテーヌ王国の辺境に位置するシルヴァン村は、決して裕福ではなかった。ギヨーム王が治める王都ボルドーからは遠く、その圧政の直接的な影響は少ないものの、代官による重税は村人たちの生活を容赦なく圧迫していた。日々の暮らしに余裕のない人々は、自分たちと異なる者、理解できない者に対して、より一層不寛容になる。
カイルの背中の「痣」は、彼らにとって格好の恐怖と差別の対象だった。
「おい、見ろよ、化け物の子だぜ」
「あいつの背中には、呪いの印があるんだってさ」
道の向こうから、数人の子供たちの声が聞こえてきた。彼らは、手に小さな石ころを握りしめている。カイルは、またか、と心の中でため息をついた。彼は何も言い返さず、ただ俯いて、足早にその場を離れようとした。争いは好まない。それに、何を言っても無駄なことは分かっていた。
しかし、子供たちは彼を逃がそうとはしなかった。
「待てよ、呪われっ子!」
一番年上の少年が、カイルの行く手を遮るように立ちふさがった。そして、手にした石をカイルに向かって投げつけた。石はカイルの額を掠め、鈍い音を立てて地面に落ちた。額に、じわりと血が滲む。
「…やめてくれ」
カイルは、か細い声で懇願した。だが、その声は子供たちの嘲笑にかき消される。
「何が『やめてくれ』だ! お前みたいなのがいるから、村に悪いことが起きるんだ!」
「そうだそうだ! 出ていけ、化け物!」
次々と投げつけられる石。カイルは腕で頭を庇い、ただ耐えるしかなかった。痛みよりも、心の奥底から湧き上がる深い悲しみと孤独感が、彼を打ちのめしていた。どうして自分は、こんな目に遭わなければならないのだろう。自分は、何か悪いことをしたのだろうか。
その時だった。
「やめなさいよ、みんな!」
凛とした、しかし怒りを含んだ少女の声が、子供たちの嘲笑を切り裂いた。
リアナだった。彼女は、朝露に濡れた薬草を籠いっぱいに抱えながら、カイルの前に立ちはだかった。その翠の瞳は、怒りに燃えている。
「カイルは何も悪いことしてないじゃない! いつもいつも、寄ってたかって、恥ずかしくないの!?」
リアナの気迫に押されたのか、子供たちは一瞬たじろいだ。しかし、年長の少年はすぐに反抗的な表情を浮かべる。
「ちぇっ、リアナがお節介焼くからだ。あいつは呪われてるんだ。背中の印を見たことないのかよ!」
「見たわよ!」リアナは毅然と言い返した。
「あれは呪いの印なんかじゃないわ! きっと、何かとても大切な…カイルを守ってくれる印よ! あなたたちに、カイルのことを悪く言う資格なんてないわ!」
子供たちは、リアナの剣幕に完全に気圧され、不満そうな顔をしながらも、渋々その場から引き下がっていった。
リアナは、ふう、と一つ息をつくと、心配そうにカイルの方を振り返った。
「大丈夫、カイル? またあの子たちに何か言われたの? …あら、額から血が…!」
彼女は慌てて籠から清潔な布を取り出すと、カイルの額の傷を優しく拭った。
「…うん。ありがとう、リアナ」
カイルは、小さな声で言った。
「君がいてくれて、いつも助かるよ」
リアナの指先の温もりが、じわりと心に沁みた。
「気にすることないわ」
リアナは、カイルの目を見つめて言った。
「カイルはカイルだもの。その…背中の印だって、きっと何か意味があるのよ。私には分かるわ」
その言葉は、どんな薬よりもカイルの心の痛みを和らげてくれた。リアナだけが、この村で自分を「カイル」として見てくれる。呪われた子でも、化け物でもなく。
「リアナ…」
カイルの瞳が、潤んだ。彼は、泣き虫だとよく言われる。悲しい時も、嬉しい時も、感動した時も、すぐに涙が溢れてしまうのだ。
リアナは、そんなカイルの頭を優しく撫でた。
「ほら、泣かないの。男の子でしょ? …さ、行こう。私、とっておきの場所を見つけたの」
そう言うと、彼女はカイルの手を引いて歩き出した。
カイルとリアナには、村の喧騒から離れた、秘密の場所があった。それは、黒森の入り口近く、陽光が木々の葉を透かして優しく降り注ぐ、小さな泉のほとりだった。古く大きな樫の木が、まるで二人を守るように枝を広げている。
そこで彼らは、互いのささやかな夢や、言葉にできない不安を語り合った。リアナは、いつか薬草の知識をもっと深めて、村の人たちの役に立ちたいと話した。カイルは、この村から出て、広い世界を見てみたいと、小さな声で打ち明けた。
その日も、二人はその秘密の場所で、摘んできた薬草を仕分けしていた。
ふと、カイルは足元で小さな物音を聞いた。見ると、羽を傷つけたらしい小鳥が、苦しそうに震えている。カラスにでも襲われたのだろうか。
「あ…かわいそうに…」
カイルはそっと小鳥を両手で包み込むように持ち上げた。その小さな体は、冷たく、弱々しく震えている。彼は、無意識のうちに、小鳥の傷ついた羽にそっと手をかざした。そして、心の底から、この小さな命が助かるようにと、無心に願った。
それは祈りとも呼べない、ただ純粋な想いの発露だった。
すると、不思議なことが起こった。カイルの手のひらから、淡く温かい光が溢れ出たかのように感じられたのだ。いや、実際に光が出たわけではない。だが、確かに何かが、カイルの手から小鳥へと流れ込んでいくような感覚があった。
小鳥の震えが、僅かに和らいだように見えた。
カイルは、はっと我に返り、自分の手を見つめた。今のは、一体…?
リアナは、その一部始終を、驚きと、そしてどこか納得したような優しい目で見守っていた。
「…やっぱり、カイルは特別よ」
彼女は、柔らかな声で言った。
「あなたのその手は、きっとたくさんの命を救う手になるわ。私、そう信じてる」
カイルは、リアナの言葉に顔を上げた。彼女の翠の瞳は、一点の曇りもなく、カイルの心の奥底まで見透かしているかのようだった。
「…僕に、そんなことができるかな…」
「できるわ、絶対に」リアナは力強く頷いた。
「だって、カイルは誰よりも優しいもの。あなたのその優しさが、きっと大きな力になる」
カイルの心に、温かい光が灯った。リアナの言葉は、いつも彼に勇気と希望を与えてくれる。この少女がいれば、どんな困難も乗り越えていけるかもしれない。そう思えるほど、二人の間には、幼い頃から育まれた、誰にも壊すことのできない深い絆があった。
リアナは、にっこりと微笑むと、再び薬草の仕分けに戻った。
「さ、早くしないと、日が暮れちゃうわ。今日は、あの崖の上に咲いてる月見草も採りに行きたいの。昔おばあちゃんに教えてもらったんだけど、あれは夜の熱に効くんですって」
彼らが薬草摘みに夢中になっていると、不意に、遠くから村の方角が騒がしくなるのが聞こえてきた。馬のいななき、男たちの怒声、そして何かが割れるような甲高い音。それは、シルヴァン村には似つかわしくない、不吉な響きだった。
リアナの顔から、さっと血の気が引いた。
「…カイル、今の音…!」彼女は不安げにカイルの手を掴んだ。「村で何かあったのかしら…!?」
カイルもまた、胸騒ぎを覚えていた。背中の「痣」が、再び疼き始めている。
カイルは、いつも他の誰よりも早く、その偽りの静けさの奥に潜む音を聴いていた。寝静まったシルヴァン村の家々から漏れ聞こえるのは、寝息だけではない。それは、押し殺された呻き、癒えぬ体の痛み、そして明日の糧さえ覚束ない絶望の響き。それらが、まるで不協和音のようにカイルの耳の奥で重なり合い、彼の幼い胸を締め付けた。
(…また、誰かが泣いている…)
十三歳のカイルには、その苦しみの理由の全てが分かるわけではなかった。だが、その音は、彼の皮膚を直接撫でるかのようにリアルで、無視することなど到底できなかった。時折、背中が疼いた。
それは物心ついた時からそこにある、奇妙な痣のようなものだった。彼自身は「背中の痣」と呼んでいたが、その形はまるで獅子が爪で深く引っ掻いたかのようにも、あるいは複雑な紋様が絡み合った古代の印のようにも見えた。
十歳の時に流行り病で他界した養父母。彼を赤ん坊の頃から育ててくれた、口数の少ない優しい老夫婦も、その印については決して多くを語ろうとはしなかった。
「カイルや」と、皺だらけの優しい手で彼の頭を撫でながら、養父は言ったものだ。
「その印のことは、誰にも見せてはいけないよ。お前が、もっと大きくなるまでは…な」
養母もまた、不安げな眼差しで頷くだけだった。その言葉の真意を、カイルはまだ理解できずにいた。ただ、その印が何か特別な、そしておそらくは厄介なものであるらしいということだけを、漠然と感じていた。
カイルはそっと寝床を抜け出した。粗末な木の小屋は、彼が養父母を失ってから、一人で暮らすには広すぎた。壁の隙間からは、明け方の冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。彼は、使い古された毛布を肩まで引き上げると、小さな窓から外を眺めた。黒森(シュヴァルツァルド)のシルエットが、東の空の微かな明るみを背景に、巨大な獣のように横たわっている。あの森の向こうには何があるのだろうか。この村とは違う、もっと穏やかな世界があるのだろうか。
そんなことを考えながら、彼は誰にも見られないように、そっと背中の肌着をめくった。冷たい空気に触れた「痣」が、ズクリと疼く。まるで、何かに呼ばれているかのように。
(…どうして、僕だけなんだろう…)
村の他の子供たちには、こんな物はない。それが、カイルを村の中でさらに孤立させていた。
村はずれを流れる清らかな小川は、カイルにとって唯一、心が安らげる場所だった。日の出前の薄明かりの中、彼は誰にも見られないように、そこで水浴びをするのが日課だった。冷たい水が、夜の間に強張った体を解きほぐし、心のざわめきを少しだけ洗い流してくれる気がした。
彼は服を脱ぐと、ためらうことなく水に入った。骨張った肩、細い手足。同年代の子供たちと比べても、カイルの体つきは華奢だった。だが、その動きには無駄がなく、水面を滑るように泳ぐ姿は、どこか人間離れした優美ささえ感じさせた。
一通り体を清めると、彼は浅瀬に上がり、水面に映る自分の背中を覗き込んだ。
そこには、あの「背中の痣」が見える。濡れた肌の上で、それは一層不気味に、そしてどこか悲しげに浮かび上がっている。
「これは、一体何なんだろう…?」
何度となく繰り返してきた独り言が、また彼の唇から漏れた。
「どうして僕だけ、こんなものがあるんだろう…おじいちゃんとおばあちゃんは、何か知っていたのかな…。でも、教えてくれなかった…」
彼の脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。
リアナ。
同じ村に住む、彼と同い年の少女。太陽のように明るい笑顔と、翠の森のような優しい瞳を持つ彼女。
「…リアナにも、まだ全部は話せていない…」
リアナだけが、この「痣」のことを気味悪がらずに、真剣に心配してくれる。彼女は、カイルにとって、この息苦しい村で唯一の光であり、心の支えだった。もしリアナがいなかったら、自分はどうなっていただろうか。そう考えると、カイルの胸は言いようのない不安でいっぱいになった。
水浴びを終え、粗末な服を身に着けたカイルが村に戻ると、案の定、彼は不愉快な視線と囁き声に迎えられた。
アキテーヌ王国の辺境に位置するシルヴァン村は、決して裕福ではなかった。ギヨーム王が治める王都ボルドーからは遠く、その圧政の直接的な影響は少ないものの、代官による重税は村人たちの生活を容赦なく圧迫していた。日々の暮らしに余裕のない人々は、自分たちと異なる者、理解できない者に対して、より一層不寛容になる。
カイルの背中の「痣」は、彼らにとって格好の恐怖と差別の対象だった。
「おい、見ろよ、化け物の子だぜ」
「あいつの背中には、呪いの印があるんだってさ」
道の向こうから、数人の子供たちの声が聞こえてきた。彼らは、手に小さな石ころを握りしめている。カイルは、またか、と心の中でため息をついた。彼は何も言い返さず、ただ俯いて、足早にその場を離れようとした。争いは好まない。それに、何を言っても無駄なことは分かっていた。
しかし、子供たちは彼を逃がそうとはしなかった。
「待てよ、呪われっ子!」
一番年上の少年が、カイルの行く手を遮るように立ちふさがった。そして、手にした石をカイルに向かって投げつけた。石はカイルの額を掠め、鈍い音を立てて地面に落ちた。額に、じわりと血が滲む。
「…やめてくれ」
カイルは、か細い声で懇願した。だが、その声は子供たちの嘲笑にかき消される。
「何が『やめてくれ』だ! お前みたいなのがいるから、村に悪いことが起きるんだ!」
「そうだそうだ! 出ていけ、化け物!」
次々と投げつけられる石。カイルは腕で頭を庇い、ただ耐えるしかなかった。痛みよりも、心の奥底から湧き上がる深い悲しみと孤独感が、彼を打ちのめしていた。どうして自分は、こんな目に遭わなければならないのだろう。自分は、何か悪いことをしたのだろうか。
その時だった。
「やめなさいよ、みんな!」
凛とした、しかし怒りを含んだ少女の声が、子供たちの嘲笑を切り裂いた。
リアナだった。彼女は、朝露に濡れた薬草を籠いっぱいに抱えながら、カイルの前に立ちはだかった。その翠の瞳は、怒りに燃えている。
「カイルは何も悪いことしてないじゃない! いつもいつも、寄ってたかって、恥ずかしくないの!?」
リアナの気迫に押されたのか、子供たちは一瞬たじろいだ。しかし、年長の少年はすぐに反抗的な表情を浮かべる。
「ちぇっ、リアナがお節介焼くからだ。あいつは呪われてるんだ。背中の印を見たことないのかよ!」
「見たわよ!」リアナは毅然と言い返した。
「あれは呪いの印なんかじゃないわ! きっと、何かとても大切な…カイルを守ってくれる印よ! あなたたちに、カイルのことを悪く言う資格なんてないわ!」
子供たちは、リアナの剣幕に完全に気圧され、不満そうな顔をしながらも、渋々その場から引き下がっていった。
リアナは、ふう、と一つ息をつくと、心配そうにカイルの方を振り返った。
「大丈夫、カイル? またあの子たちに何か言われたの? …あら、額から血が…!」
彼女は慌てて籠から清潔な布を取り出すと、カイルの額の傷を優しく拭った。
「…うん。ありがとう、リアナ」
カイルは、小さな声で言った。
「君がいてくれて、いつも助かるよ」
リアナの指先の温もりが、じわりと心に沁みた。
「気にすることないわ」
リアナは、カイルの目を見つめて言った。
「カイルはカイルだもの。その…背中の印だって、きっと何か意味があるのよ。私には分かるわ」
その言葉は、どんな薬よりもカイルの心の痛みを和らげてくれた。リアナだけが、この村で自分を「カイル」として見てくれる。呪われた子でも、化け物でもなく。
「リアナ…」
カイルの瞳が、潤んだ。彼は、泣き虫だとよく言われる。悲しい時も、嬉しい時も、感動した時も、すぐに涙が溢れてしまうのだ。
リアナは、そんなカイルの頭を優しく撫でた。
「ほら、泣かないの。男の子でしょ? …さ、行こう。私、とっておきの場所を見つけたの」
そう言うと、彼女はカイルの手を引いて歩き出した。
カイルとリアナには、村の喧騒から離れた、秘密の場所があった。それは、黒森の入り口近く、陽光が木々の葉を透かして優しく降り注ぐ、小さな泉のほとりだった。古く大きな樫の木が、まるで二人を守るように枝を広げている。
そこで彼らは、互いのささやかな夢や、言葉にできない不安を語り合った。リアナは、いつか薬草の知識をもっと深めて、村の人たちの役に立ちたいと話した。カイルは、この村から出て、広い世界を見てみたいと、小さな声で打ち明けた。
その日も、二人はその秘密の場所で、摘んできた薬草を仕分けしていた。
ふと、カイルは足元で小さな物音を聞いた。見ると、羽を傷つけたらしい小鳥が、苦しそうに震えている。カラスにでも襲われたのだろうか。
「あ…かわいそうに…」
カイルはそっと小鳥を両手で包み込むように持ち上げた。その小さな体は、冷たく、弱々しく震えている。彼は、無意識のうちに、小鳥の傷ついた羽にそっと手をかざした。そして、心の底から、この小さな命が助かるようにと、無心に願った。
それは祈りとも呼べない、ただ純粋な想いの発露だった。
すると、不思議なことが起こった。カイルの手のひらから、淡く温かい光が溢れ出たかのように感じられたのだ。いや、実際に光が出たわけではない。だが、確かに何かが、カイルの手から小鳥へと流れ込んでいくような感覚があった。
小鳥の震えが、僅かに和らいだように見えた。
カイルは、はっと我に返り、自分の手を見つめた。今のは、一体…?
リアナは、その一部始終を、驚きと、そしてどこか納得したような優しい目で見守っていた。
「…やっぱり、カイルは特別よ」
彼女は、柔らかな声で言った。
「あなたのその手は、きっとたくさんの命を救う手になるわ。私、そう信じてる」
カイルは、リアナの言葉に顔を上げた。彼女の翠の瞳は、一点の曇りもなく、カイルの心の奥底まで見透かしているかのようだった。
「…僕に、そんなことができるかな…」
「できるわ、絶対に」リアナは力強く頷いた。
「だって、カイルは誰よりも優しいもの。あなたのその優しさが、きっと大きな力になる」
カイルの心に、温かい光が灯った。リアナの言葉は、いつも彼に勇気と希望を与えてくれる。この少女がいれば、どんな困難も乗り越えていけるかもしれない。そう思えるほど、二人の間には、幼い頃から育まれた、誰にも壊すことのできない深い絆があった。
リアナは、にっこりと微笑むと、再び薬草の仕分けに戻った。
「さ、早くしないと、日が暮れちゃうわ。今日は、あの崖の上に咲いてる月見草も採りに行きたいの。昔おばあちゃんに教えてもらったんだけど、あれは夜の熱に効くんですって」
彼らが薬草摘みに夢中になっていると、不意に、遠くから村の方角が騒がしくなるのが聞こえてきた。馬のいななき、男たちの怒声、そして何かが割れるような甲高い音。それは、シルヴァン村には似つかわしくない、不吉な響きだった。
リアナの顔から、さっと血の気が引いた。
「…カイル、今の音…!」彼女は不安げにカイルの手を掴んだ。「村で何かあったのかしら…!?」
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