The Lone Hero ~The Age of Iron and Blood~

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第二編 第一章 レジナルドの鉄腕

第11話:ボルドーの朝霧と偽りの忠誠

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 黒森の奥深く、世界から隔絶されたエルミートの庵で、若き獅子の血を引く少年カイルと、その運命を共にする少女リアナが、来るべき嵐に備え、剣の技と心を磨き続けていた頃――彼らが守るべきアキテーヌ王国は、既に紅蓮の炎にその身を焼かれ、破滅へと続く血塗られた道を、狂ったように突き進んでいた。それは、一人の男の底なしの野心と、それに翻弄される人々の愛憎、そして見えざる闇の囁きが織りなす、壮絶にして救いのない悲劇の序章であった…
 *

 



 夜明け前の王都ボルドーは、まるで巨大な墓所のように、冷たく湿った朝霧に深く沈み込んでいた。大河ガロンヌの水面から立ち昇るその白い帳は、街の輪郭を曖昧にぼかし、石畳の道を濡らし、そして人々の心にまで染み込むかのような、陰鬱な重さを持っていた。

 市場へと向かう商人や職人たちの足取りは、夜明けの光を待ちわびるにしては、あまりにも重かった。彼らは、荷車を引く音や、互いの呼びかけの声さえも憚《はばか》るかのように、小声で言葉を交わす。その内容は、決まって昨今の情勢に対する不安と、そして見えざる圧政への不満だった。

「おい、聞いたか? また税が上がるらしいぞ…今度は、窓の数に応じてだとか…」

 魚売りの男が、隣を歩くパン屋の女房に、声を潜めて囁いた。

「まあ、なんてこと…! これ以上、何を我々から搾り取ろうというのかしら。レジナルド公爵閣下は、また新たな『改革』をお考えのようだというけれど、その改革とやらで、私たちの暮らしが良くなったことなんて一度もないじゃないの」

 パン屋の女房は、溜息と共にそう応じた。その顔には、長年の苦労と諦めの色が深く刻まれている。

「ギヨーム陛下は、一体何をなさっておられるのだか…」

 誰かが、ぽつりと言った。

「あの御方が玉座におわすようになってから、このアキテーヌは、良くなるどころか、ますます息苦しくなる一方だ…」

 その言葉には、非難というよりも、むしろ哀れみと、そしてどうしようもない無力感が滲んでいた。

 街角の辻々には、レジナルド公爵の私兵団である「黒狼兵団(ブラックウルヴズ)」の兵士たちが、まるで石像のように、油断なく周囲を見張っていた。彼らの黒みがかった鉄の鎧と、狼の紋章が刻まれた盾は、それだけで民衆に威圧感を与える。その冷たく無感情な視線が、囁き交わされる不満の声を、さらに萎縮させ、霧の中へと押し込めていく。

 その頃、黒森の奥深くでは、カイルがエルミートの厳しい指導のもと、夜明けと共に木剣を振るい、リアナは薬草園で朝露に濡れた薬草を丁寧に摘んでいた。彼らはまだ、遠く離れた王都を覆い始めている、この冷たく重い鉄の鎖の気配を知る由もなかった。

 *

 アキテーヌ王宮。その壮麗な外観とは裏腹に、内部は今や、一人の男の野心によって、静かに、確実に蝕まれつつあった。

 摂政レジナルド・オーギュスタン・ド・ヴァランス公爵の執務室には、まだ夜の闇が残る早朝から、彼の腹心たちが集まり、息詰まるような雰囲気の中で報告と指示が行われていた。
 側近の一人、財務を司るデュポン卿が、震える手で羊皮紙の巻物を広げながら報告する。その額には、脂汗が滲んでいた。

「公爵閣下、新たな徴税案の詳細は、こちらに…。民からの反発も予想されますが、王国の財政を立て直すためには、やむを得ぬかと…」

 デュポン卿の声は、レジナルドの威圧感の前に、か細く上擦っていた。
 レジナルドは、豪奢な彫刻が施された黒檀の椅子に深く腰掛けたまま、デュポン卿の報告を無表情に聞いていた。

「デュポン卿」

 レジナルドの声は、低いが、部屋の隅々まで響き渡るような威厳を持っていた。

「徴税は、迅速かつ徹底的に行うように。民には『これは全て、アキテーヌ王国の安定と、ギヨーム陛下の御代の永続なる繁栄のためである』と、懇切丁寧に説明すればよかろう。それでもなお、抵抗する愚か者どもに対しては…」

 レジナルドは、そこで一度言葉を切り、デュポン卿の目を射抜くように見つめた。

「…見せしめとして、厳罰に処せ。我がアキテーヌに、陛下の御意思に逆らう不心得者は、一人たりとも許さぬ。そうであろう?」

「は…ははっ! もちろんでございます、公爵閣下!」

 デュポン卿は、恐怖に引きつった笑みを浮かべながら、深々と頭を下げた。

 レジナルドは、国王ギヨームへの揺るぎない忠誠を、常に言葉の端々で表明した。だが、その言葉の裏には、もはや王を完全にないがしろにし、自らがこのアキテーヌの真の支配者であるという、揺るぎない自負と傲慢さが隠されていることを、この場にいる誰もが理解していた。そして、その事実に異を唱える勇気を持つ者は、この王宮には、もはや一人も残っていなかった。
 側近たちが次々と退室した後、レジナルドは一人、執務室の窓辺に立った。窓の外には、深い霧に包まれた王都ボルドーの街並みが広がっている。

 (このアキテーヌは、わしのものだ…)

 彼は、胸の中でそう呟いた。

 (アルベリク・レグルス…あの甘っちょろい理想主義者の王が、この国を滅茶苦茶にした。民に媚び、貴族を軽んじ、国力を衰退させた。わしが、このアキテーヌを立て直し、かつての栄光を取り戻すのだ。そのためには、多少の犠牲は厭わぬ。ギヨームなど、ただの飾りに過ぎん。真の王は、このわしだ…)

 彼の瞳には、狂気にも似た、絶対的な権力への渇望が宿っていた。

 *

 その頃、アキテーヌ王国の名ばかりの王、ギヨーム・セザール・ド・アキテーヌは、自らの豪華な私室の寝台の上で、重い頭痛と、言いようのない倦怠感の中で目を覚ました。窓の外は、まだ薄暗く、深い霧が立ち込めている。その霧は、まるで彼の心を覆う重苦しい憂鬱そのもののようだった。

 昨夜もまた、彼は深酒に逃げた。そして、悪夢にうなされた。先王アルベリク・レグルスが、血だらけの姿で現れ、彼を責め苛む夢。レジナルド公爵が、冷たい笑みを浮かべながら、彼の首を絞めようとする夢。

「う…うぅ…」

 ギヨームは、呻き声を上げながら身を起こした。口の中は乾ききり、胃はキリキリと痛む。
 侍従が、音もなく部屋に入ってきて、豪奢な銀盆に載せられた朝食を差し出した。芳醇な香りの葡萄酒、焼きたての白いパン、新鮮な果物、そして珍しい鳥の肉料理。だが、ギヨームには、それらが全て、砂を噛むように味気なく感じられた。

 彼は、ほとんど手をつけずに、ただ窓の外を虚ろに見つめていた。もうすぐ、重臣たちとの朝議の時間がやってくる。そこには、必ずあの男…レジナルド公爵がいる。彼の顔を思い浮かべるたびに、ギヨームの胃は、さらに激しく収縮した。

「また、あの男の顔を見なければならんのか…」

 ギヨームは、誰にも聞こえぬように、弱々しく呟いた。

「私が…私が王でさえなければ…いや、この私に、ほんの僅かでも王たる器量があったならば…アルベリク陛下…誠に申し訳ございません…」

 彼は、かつての正統な王、アルベリク・レグルスの名を口にすると、深い罪悪感と、どうしようもない無力感に襲われ、その場に崩れ落ちそうになった。

 彼が玉座に就いてから、もう何年になるだろうか。その間、彼は一度たりとも、自らの意思で何かを決定したことなどなかった。全ては、摂政であるレジナルド公爵の意のまま。彼は、ただレジナルドの言葉をオウム返しに繰り返し、その非道な政策に、王の印璽《いんじ》を押すだけの、哀れな操り人形に過ぎなかった。

 *

 王宮の中では、静かだが、しかし確実に、レジナルド公爵による権力掌握が進んでいた。
 彼は、国王ギヨーム直属の近衛騎士団の規模を、「王国の財政再建のため」という、もっともらしい名目で徐々に縮小させていった。その代わりに、自らの私兵団である黒狼兵団の兵士たちを、王宮警護の主力として配置し始めたのだ。

 黒狼兵団の兵士たちは、その多くが戦場で拾われたならず者や、金で雇われた傭兵たちであり、忠誠心よりも力と恐怖で統制されていた。彼らは、王宮内でも粗暴な振る舞いが絶えず、古くから王家に仕える侍女や文官たちを脅し、金品を巻き上げることも日常茶飯事となっていた。

 古参の貴族や官僚たちは、その不穏な変化に気づき、危機感を抱いていた。王宮が、レジナルドの私的な城砦へと変貌しつつあることを。だが、彼らはレジナルドの権勢と、その背後にある黒狼兵団の武力を恐れ、誰も公然と異を唱えることができなかった。鉄の鎖が、音もなく、アキテーヌの心臓部を締め付け始めていた。

 *

 やがて、朝議の開始を告げる鐘の音が、王宮に響き渡った。
 玉座の間。その最も奥に設えられた、金銀宝石で飾り立てられた壮麗な玉座には、青白い顔をした国王ギヨームが、まるで死人のように力なく座っている。その隣には、摂政レジナルド公爵が、まるで真の王であるかのように、揺るぎない威厳を漂わせて立っていた。その姿は、玉座に座る弱々しい王とは対照的に、圧倒的な存在感を放っていた。

 レジナルドは、まずギヨーム王に深々と頭を下げ、儀礼的な忠誠の言葉を述べた。その声は、臣下の礼を尽くした、あくまで謙虚なものだった。

「ギヨーム陛下におかれましては、益々ご健勝のことと、心よりお慶び申し上げます。この摂政レジナルド、本日も陛下の深き叡慮《えいりょ》を拝し、アキテーヌの安寧と繁栄のために、粉骨砕身努力する所存でございます」

 しかし、集まった貴族たちは皆、その言葉の裏に隠された、レジナルドの底知れぬ野心と、王への侮蔑を感じ取っていた。だが、誰もそれを口にすることはできない。
 レジナルドは、ゆっくりと顔を上げると、今度は居並ぶ貴族たちに向かい、その声を一段と高く響かせた。

「諸君! 本日、ギヨーム陛下の御名において、アキテーヌの未来を左右する、新たなる『王国の改革案』を布告する! これは、長年の悪弊を断ち切り、我が王国にかつての栄光を取り戻すための、そして何よりも、陛下の御代を磐石のものとするための、神聖なる布告である!」

 彼の言葉は、玉座の間に力強く響き渡った。その内容は、実際にはレジナルド自身の権力をさらに強化し、反対勢力を完全に排除するための、巧妙に仕組まれた法案に他ならなかった。

「これぞ、ギヨーム陛下の深き叡慮と、アキテーヌの輝かしい未来のための、揺るぎなき礎となるであろう!」

 その言葉は、偽りの忠誠と、底知れぬ野心、そしてこれから始まるであろう血塗られた粛清の序曲を、高らかに告げていた。

 王都ボルドーの深い霧は、まだ晴れそうになかった。そして、その霧の奥底では、アキテーヌの運命を弄ぶ、巨大な蜘蛛の巣が、着実に張り巡らされようとしていた。
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