13 / 37
第二編 第一章 レジナルドの鉄腕
第11話:ボルドーの朝霧と偽りの忠誠
しおりを挟む
*
黒森の奥深く、世界から隔絶されたエルミートの庵で、若き獅子の血を引く少年カイルと、その運命を共にする少女リアナが、来るべき嵐に備え、剣の技と心を磨き続けていた頃――彼らが守るべきアキテーヌ王国は、既に紅蓮の炎にその身を焼かれ、破滅へと続く血塗られた道を、狂ったように突き進んでいた。それは、一人の男の底なしの野心と、それに翻弄される人々の愛憎、そして見えざる闇の囁きが織りなす、壮絶にして救いのない悲劇の序章であった…
*
夜明け前の王都ボルドーは、まるで巨大な墓所のように、冷たく湿った朝霧に深く沈み込んでいた。大河ガロンヌの水面から立ち昇るその白い帳は、街の輪郭を曖昧にぼかし、石畳の道を濡らし、そして人々の心にまで染み込むかのような、陰鬱な重さを持っていた。
市場へと向かう商人や職人たちの足取りは、夜明けの光を待ちわびるにしては、あまりにも重かった。彼らは、荷車を引く音や、互いの呼びかけの声さえも憚《はばか》るかのように、小声で言葉を交わす。その内容は、決まって昨今の情勢に対する不安と、そして見えざる圧政への不満だった。
「おい、聞いたか? また税が上がるらしいぞ…今度は、窓の数に応じてだとか…」
魚売りの男が、隣を歩くパン屋の女房に、声を潜めて囁いた。
「まあ、なんてこと…! これ以上、何を我々から搾り取ろうというのかしら。レジナルド公爵閣下は、また新たな『改革』をお考えのようだというけれど、その改革とやらで、私たちの暮らしが良くなったことなんて一度もないじゃないの」
パン屋の女房は、溜息と共にそう応じた。その顔には、長年の苦労と諦めの色が深く刻まれている。
「ギヨーム陛下は、一体何をなさっておられるのだか…」
誰かが、ぽつりと言った。
「あの御方が玉座におわすようになってから、このアキテーヌは、良くなるどころか、ますます息苦しくなる一方だ…」
その言葉には、非難というよりも、むしろ哀れみと、そしてどうしようもない無力感が滲んでいた。
街角の辻々には、レジナルド公爵の私兵団である「黒狼兵団(ブラックウルヴズ)」の兵士たちが、まるで石像のように、油断なく周囲を見張っていた。彼らの黒みがかった鉄の鎧と、狼の紋章が刻まれた盾は、それだけで民衆に威圧感を与える。その冷たく無感情な視線が、囁き交わされる不満の声を、さらに萎縮させ、霧の中へと押し込めていく。
その頃、黒森の奥深くでは、カイルがエルミートの厳しい指導のもと、夜明けと共に木剣を振るい、リアナは薬草園で朝露に濡れた薬草を丁寧に摘んでいた。彼らはまだ、遠く離れた王都を覆い始めている、この冷たく重い鉄の鎖の気配を知る由もなかった。
*
アキテーヌ王宮。その壮麗な外観とは裏腹に、内部は今や、一人の男の野心によって、静かに、確実に蝕まれつつあった。
摂政レジナルド・オーギュスタン・ド・ヴァランス公爵の執務室には、まだ夜の闇が残る早朝から、彼の腹心たちが集まり、息詰まるような雰囲気の中で報告と指示が行われていた。
側近の一人、財務を司るデュポン卿が、震える手で羊皮紙の巻物を広げながら報告する。その額には、脂汗が滲んでいた。
「公爵閣下、新たな徴税案の詳細は、こちらに…。民からの反発も予想されますが、王国の財政を立て直すためには、やむを得ぬかと…」
デュポン卿の声は、レジナルドの威圧感の前に、か細く上擦っていた。
レジナルドは、豪奢な彫刻が施された黒檀の椅子に深く腰掛けたまま、デュポン卿の報告を無表情に聞いていた。
「デュポン卿」
レジナルドの声は、低いが、部屋の隅々まで響き渡るような威厳を持っていた。
「徴税は、迅速かつ徹底的に行うように。民には『これは全て、アキテーヌ王国の安定と、ギヨーム陛下の御代の永続なる繁栄のためである』と、懇切丁寧に説明すればよかろう。それでもなお、抵抗する愚か者どもに対しては…」
レジナルドは、そこで一度言葉を切り、デュポン卿の目を射抜くように見つめた。
「…見せしめとして、厳罰に処せ。我がアキテーヌに、陛下の御意思に逆らう不心得者は、一人たりとも許さぬ。そうであろう?」
「は…ははっ! もちろんでございます、公爵閣下!」
デュポン卿は、恐怖に引きつった笑みを浮かべながら、深々と頭を下げた。
レジナルドは、国王ギヨームへの揺るぎない忠誠を、常に言葉の端々で表明した。だが、その言葉の裏には、もはや王を完全にないがしろにし、自らがこのアキテーヌの真の支配者であるという、揺るぎない自負と傲慢さが隠されていることを、この場にいる誰もが理解していた。そして、その事実に異を唱える勇気を持つ者は、この王宮には、もはや一人も残っていなかった。
側近たちが次々と退室した後、レジナルドは一人、執務室の窓辺に立った。窓の外には、深い霧に包まれた王都ボルドーの街並みが広がっている。
(このアキテーヌは、わしのものだ…)
彼は、胸の中でそう呟いた。
(アルベリク・レグルス…あの甘っちょろい理想主義者の王が、この国を滅茶苦茶にした。民に媚び、貴族を軽んじ、国力を衰退させた。わしが、このアキテーヌを立て直し、かつての栄光を取り戻すのだ。そのためには、多少の犠牲は厭わぬ。ギヨームなど、ただの飾りに過ぎん。真の王は、このわしだ…)
彼の瞳には、狂気にも似た、絶対的な権力への渇望が宿っていた。
*
その頃、アキテーヌ王国の名ばかりの王、ギヨーム・セザール・ド・アキテーヌは、自らの豪華な私室の寝台の上で、重い頭痛と、言いようのない倦怠感の中で目を覚ました。窓の外は、まだ薄暗く、深い霧が立ち込めている。その霧は、まるで彼の心を覆う重苦しい憂鬱そのもののようだった。
昨夜もまた、彼は深酒に逃げた。そして、悪夢にうなされた。先王アルベリク・レグルスが、血だらけの姿で現れ、彼を責め苛む夢。レジナルド公爵が、冷たい笑みを浮かべながら、彼の首を絞めようとする夢。
「う…うぅ…」
ギヨームは、呻き声を上げながら身を起こした。口の中は乾ききり、胃はキリキリと痛む。
侍従が、音もなく部屋に入ってきて、豪奢な銀盆に載せられた朝食を差し出した。芳醇な香りの葡萄酒、焼きたての白いパン、新鮮な果物、そして珍しい鳥の肉料理。だが、ギヨームには、それらが全て、砂を噛むように味気なく感じられた。
彼は、ほとんど手をつけずに、ただ窓の外を虚ろに見つめていた。もうすぐ、重臣たちとの朝議の時間がやってくる。そこには、必ずあの男…レジナルド公爵がいる。彼の顔を思い浮かべるたびに、ギヨームの胃は、さらに激しく収縮した。
「また、あの男の顔を見なければならんのか…」
ギヨームは、誰にも聞こえぬように、弱々しく呟いた。
「私が…私が王でさえなければ…いや、この私に、ほんの僅かでも王たる器量があったならば…アルベリク陛下…誠に申し訳ございません…」
彼は、かつての正統な王、アルベリク・レグルスの名を口にすると、深い罪悪感と、どうしようもない無力感に襲われ、その場に崩れ落ちそうになった。
彼が玉座に就いてから、もう何年になるだろうか。その間、彼は一度たりとも、自らの意思で何かを決定したことなどなかった。全ては、摂政であるレジナルド公爵の意のまま。彼は、ただレジナルドの言葉をオウム返しに繰り返し、その非道な政策に、王の印璽《いんじ》を押すだけの、哀れな操り人形に過ぎなかった。
*
王宮の中では、静かだが、しかし確実に、レジナルド公爵による権力掌握が進んでいた。
彼は、国王ギヨーム直属の近衛騎士団の規模を、「王国の財政再建のため」という、もっともらしい名目で徐々に縮小させていった。その代わりに、自らの私兵団である黒狼兵団の兵士たちを、王宮警護の主力として配置し始めたのだ。
黒狼兵団の兵士たちは、その多くが戦場で拾われたならず者や、金で雇われた傭兵たちであり、忠誠心よりも力と恐怖で統制されていた。彼らは、王宮内でも粗暴な振る舞いが絶えず、古くから王家に仕える侍女や文官たちを脅し、金品を巻き上げることも日常茶飯事となっていた。
古参の貴族や官僚たちは、その不穏な変化に気づき、危機感を抱いていた。王宮が、レジナルドの私的な城砦へと変貌しつつあることを。だが、彼らはレジナルドの権勢と、その背後にある黒狼兵団の武力を恐れ、誰も公然と異を唱えることができなかった。鉄の鎖が、音もなく、アキテーヌの心臓部を締め付け始めていた。
*
やがて、朝議の開始を告げる鐘の音が、王宮に響き渡った。
玉座の間。その最も奥に設えられた、金銀宝石で飾り立てられた壮麗な玉座には、青白い顔をした国王ギヨームが、まるで死人のように力なく座っている。その隣には、摂政レジナルド公爵が、まるで真の王であるかのように、揺るぎない威厳を漂わせて立っていた。その姿は、玉座に座る弱々しい王とは対照的に、圧倒的な存在感を放っていた。
レジナルドは、まずギヨーム王に深々と頭を下げ、儀礼的な忠誠の言葉を述べた。その声は、臣下の礼を尽くした、あくまで謙虚なものだった。
「ギヨーム陛下におかれましては、益々ご健勝のことと、心よりお慶び申し上げます。この摂政レジナルド、本日も陛下の深き叡慮《えいりょ》を拝し、アキテーヌの安寧と繁栄のために、粉骨砕身努力する所存でございます」
しかし、集まった貴族たちは皆、その言葉の裏に隠された、レジナルドの底知れぬ野心と、王への侮蔑を感じ取っていた。だが、誰もそれを口にすることはできない。
レジナルドは、ゆっくりと顔を上げると、今度は居並ぶ貴族たちに向かい、その声を一段と高く響かせた。
「諸君! 本日、ギヨーム陛下の御名において、アキテーヌの未来を左右する、新たなる『王国の改革案』を布告する! これは、長年の悪弊を断ち切り、我が王国にかつての栄光を取り戻すための、そして何よりも、陛下の御代を磐石のものとするための、神聖なる布告である!」
彼の言葉は、玉座の間に力強く響き渡った。その内容は、実際にはレジナルド自身の権力をさらに強化し、反対勢力を完全に排除するための、巧妙に仕組まれた法案に他ならなかった。
「これぞ、ギヨーム陛下の深き叡慮と、アキテーヌの輝かしい未来のための、揺るぎなき礎となるであろう!」
その言葉は、偽りの忠誠と、底知れぬ野心、そしてこれから始まるであろう血塗られた粛清の序曲を、高らかに告げていた。
王都ボルドーの深い霧は、まだ晴れそうになかった。そして、その霧の奥底では、アキテーヌの運命を弄ぶ、巨大な蜘蛛の巣が、着実に張り巡らされようとしていた。
黒森の奥深く、世界から隔絶されたエルミートの庵で、若き獅子の血を引く少年カイルと、その運命を共にする少女リアナが、来るべき嵐に備え、剣の技と心を磨き続けていた頃――彼らが守るべきアキテーヌ王国は、既に紅蓮の炎にその身を焼かれ、破滅へと続く血塗られた道を、狂ったように突き進んでいた。それは、一人の男の底なしの野心と、それに翻弄される人々の愛憎、そして見えざる闇の囁きが織りなす、壮絶にして救いのない悲劇の序章であった…
*
夜明け前の王都ボルドーは、まるで巨大な墓所のように、冷たく湿った朝霧に深く沈み込んでいた。大河ガロンヌの水面から立ち昇るその白い帳は、街の輪郭を曖昧にぼかし、石畳の道を濡らし、そして人々の心にまで染み込むかのような、陰鬱な重さを持っていた。
市場へと向かう商人や職人たちの足取りは、夜明けの光を待ちわびるにしては、あまりにも重かった。彼らは、荷車を引く音や、互いの呼びかけの声さえも憚《はばか》るかのように、小声で言葉を交わす。その内容は、決まって昨今の情勢に対する不安と、そして見えざる圧政への不満だった。
「おい、聞いたか? また税が上がるらしいぞ…今度は、窓の数に応じてだとか…」
魚売りの男が、隣を歩くパン屋の女房に、声を潜めて囁いた。
「まあ、なんてこと…! これ以上、何を我々から搾り取ろうというのかしら。レジナルド公爵閣下は、また新たな『改革』をお考えのようだというけれど、その改革とやらで、私たちの暮らしが良くなったことなんて一度もないじゃないの」
パン屋の女房は、溜息と共にそう応じた。その顔には、長年の苦労と諦めの色が深く刻まれている。
「ギヨーム陛下は、一体何をなさっておられるのだか…」
誰かが、ぽつりと言った。
「あの御方が玉座におわすようになってから、このアキテーヌは、良くなるどころか、ますます息苦しくなる一方だ…」
その言葉には、非難というよりも、むしろ哀れみと、そしてどうしようもない無力感が滲んでいた。
街角の辻々には、レジナルド公爵の私兵団である「黒狼兵団(ブラックウルヴズ)」の兵士たちが、まるで石像のように、油断なく周囲を見張っていた。彼らの黒みがかった鉄の鎧と、狼の紋章が刻まれた盾は、それだけで民衆に威圧感を与える。その冷たく無感情な視線が、囁き交わされる不満の声を、さらに萎縮させ、霧の中へと押し込めていく。
その頃、黒森の奥深くでは、カイルがエルミートの厳しい指導のもと、夜明けと共に木剣を振るい、リアナは薬草園で朝露に濡れた薬草を丁寧に摘んでいた。彼らはまだ、遠く離れた王都を覆い始めている、この冷たく重い鉄の鎖の気配を知る由もなかった。
*
アキテーヌ王宮。その壮麗な外観とは裏腹に、内部は今や、一人の男の野心によって、静かに、確実に蝕まれつつあった。
摂政レジナルド・オーギュスタン・ド・ヴァランス公爵の執務室には、まだ夜の闇が残る早朝から、彼の腹心たちが集まり、息詰まるような雰囲気の中で報告と指示が行われていた。
側近の一人、財務を司るデュポン卿が、震える手で羊皮紙の巻物を広げながら報告する。その額には、脂汗が滲んでいた。
「公爵閣下、新たな徴税案の詳細は、こちらに…。民からの反発も予想されますが、王国の財政を立て直すためには、やむを得ぬかと…」
デュポン卿の声は、レジナルドの威圧感の前に、か細く上擦っていた。
レジナルドは、豪奢な彫刻が施された黒檀の椅子に深く腰掛けたまま、デュポン卿の報告を無表情に聞いていた。
「デュポン卿」
レジナルドの声は、低いが、部屋の隅々まで響き渡るような威厳を持っていた。
「徴税は、迅速かつ徹底的に行うように。民には『これは全て、アキテーヌ王国の安定と、ギヨーム陛下の御代の永続なる繁栄のためである』と、懇切丁寧に説明すればよかろう。それでもなお、抵抗する愚か者どもに対しては…」
レジナルドは、そこで一度言葉を切り、デュポン卿の目を射抜くように見つめた。
「…見せしめとして、厳罰に処せ。我がアキテーヌに、陛下の御意思に逆らう不心得者は、一人たりとも許さぬ。そうであろう?」
「は…ははっ! もちろんでございます、公爵閣下!」
デュポン卿は、恐怖に引きつった笑みを浮かべながら、深々と頭を下げた。
レジナルドは、国王ギヨームへの揺るぎない忠誠を、常に言葉の端々で表明した。だが、その言葉の裏には、もはや王を完全にないがしろにし、自らがこのアキテーヌの真の支配者であるという、揺るぎない自負と傲慢さが隠されていることを、この場にいる誰もが理解していた。そして、その事実に異を唱える勇気を持つ者は、この王宮には、もはや一人も残っていなかった。
側近たちが次々と退室した後、レジナルドは一人、執務室の窓辺に立った。窓の外には、深い霧に包まれた王都ボルドーの街並みが広がっている。
(このアキテーヌは、わしのものだ…)
彼は、胸の中でそう呟いた。
(アルベリク・レグルス…あの甘っちょろい理想主義者の王が、この国を滅茶苦茶にした。民に媚び、貴族を軽んじ、国力を衰退させた。わしが、このアキテーヌを立て直し、かつての栄光を取り戻すのだ。そのためには、多少の犠牲は厭わぬ。ギヨームなど、ただの飾りに過ぎん。真の王は、このわしだ…)
彼の瞳には、狂気にも似た、絶対的な権力への渇望が宿っていた。
*
その頃、アキテーヌ王国の名ばかりの王、ギヨーム・セザール・ド・アキテーヌは、自らの豪華な私室の寝台の上で、重い頭痛と、言いようのない倦怠感の中で目を覚ました。窓の外は、まだ薄暗く、深い霧が立ち込めている。その霧は、まるで彼の心を覆う重苦しい憂鬱そのもののようだった。
昨夜もまた、彼は深酒に逃げた。そして、悪夢にうなされた。先王アルベリク・レグルスが、血だらけの姿で現れ、彼を責め苛む夢。レジナルド公爵が、冷たい笑みを浮かべながら、彼の首を絞めようとする夢。
「う…うぅ…」
ギヨームは、呻き声を上げながら身を起こした。口の中は乾ききり、胃はキリキリと痛む。
侍従が、音もなく部屋に入ってきて、豪奢な銀盆に載せられた朝食を差し出した。芳醇な香りの葡萄酒、焼きたての白いパン、新鮮な果物、そして珍しい鳥の肉料理。だが、ギヨームには、それらが全て、砂を噛むように味気なく感じられた。
彼は、ほとんど手をつけずに、ただ窓の外を虚ろに見つめていた。もうすぐ、重臣たちとの朝議の時間がやってくる。そこには、必ずあの男…レジナルド公爵がいる。彼の顔を思い浮かべるたびに、ギヨームの胃は、さらに激しく収縮した。
「また、あの男の顔を見なければならんのか…」
ギヨームは、誰にも聞こえぬように、弱々しく呟いた。
「私が…私が王でさえなければ…いや、この私に、ほんの僅かでも王たる器量があったならば…アルベリク陛下…誠に申し訳ございません…」
彼は、かつての正統な王、アルベリク・レグルスの名を口にすると、深い罪悪感と、どうしようもない無力感に襲われ、その場に崩れ落ちそうになった。
彼が玉座に就いてから、もう何年になるだろうか。その間、彼は一度たりとも、自らの意思で何かを決定したことなどなかった。全ては、摂政であるレジナルド公爵の意のまま。彼は、ただレジナルドの言葉をオウム返しに繰り返し、その非道な政策に、王の印璽《いんじ》を押すだけの、哀れな操り人形に過ぎなかった。
*
王宮の中では、静かだが、しかし確実に、レジナルド公爵による権力掌握が進んでいた。
彼は、国王ギヨーム直属の近衛騎士団の規模を、「王国の財政再建のため」という、もっともらしい名目で徐々に縮小させていった。その代わりに、自らの私兵団である黒狼兵団の兵士たちを、王宮警護の主力として配置し始めたのだ。
黒狼兵団の兵士たちは、その多くが戦場で拾われたならず者や、金で雇われた傭兵たちであり、忠誠心よりも力と恐怖で統制されていた。彼らは、王宮内でも粗暴な振る舞いが絶えず、古くから王家に仕える侍女や文官たちを脅し、金品を巻き上げることも日常茶飯事となっていた。
古参の貴族や官僚たちは、その不穏な変化に気づき、危機感を抱いていた。王宮が、レジナルドの私的な城砦へと変貌しつつあることを。だが、彼らはレジナルドの権勢と、その背後にある黒狼兵団の武力を恐れ、誰も公然と異を唱えることができなかった。鉄の鎖が、音もなく、アキテーヌの心臓部を締め付け始めていた。
*
やがて、朝議の開始を告げる鐘の音が、王宮に響き渡った。
玉座の間。その最も奥に設えられた、金銀宝石で飾り立てられた壮麗な玉座には、青白い顔をした国王ギヨームが、まるで死人のように力なく座っている。その隣には、摂政レジナルド公爵が、まるで真の王であるかのように、揺るぎない威厳を漂わせて立っていた。その姿は、玉座に座る弱々しい王とは対照的に、圧倒的な存在感を放っていた。
レジナルドは、まずギヨーム王に深々と頭を下げ、儀礼的な忠誠の言葉を述べた。その声は、臣下の礼を尽くした、あくまで謙虚なものだった。
「ギヨーム陛下におかれましては、益々ご健勝のことと、心よりお慶び申し上げます。この摂政レジナルド、本日も陛下の深き叡慮《えいりょ》を拝し、アキテーヌの安寧と繁栄のために、粉骨砕身努力する所存でございます」
しかし、集まった貴族たちは皆、その言葉の裏に隠された、レジナルドの底知れぬ野心と、王への侮蔑を感じ取っていた。だが、誰もそれを口にすることはできない。
レジナルドは、ゆっくりと顔を上げると、今度は居並ぶ貴族たちに向かい、その声を一段と高く響かせた。
「諸君! 本日、ギヨーム陛下の御名において、アキテーヌの未来を左右する、新たなる『王国の改革案』を布告する! これは、長年の悪弊を断ち切り、我が王国にかつての栄光を取り戻すための、そして何よりも、陛下の御代を磐石のものとするための、神聖なる布告である!」
彼の言葉は、玉座の間に力強く響き渡った。その内容は、実際にはレジナルド自身の権力をさらに強化し、反対勢力を完全に排除するための、巧妙に仕組まれた法案に他ならなかった。
「これぞ、ギヨーム陛下の深き叡慮と、アキテーヌの輝かしい未来のための、揺るぎなき礎となるであろう!」
その言葉は、偽りの忠誠と、底知れぬ野心、そしてこれから始まるであろう血塗られた粛清の序曲を、高らかに告げていた。
王都ボルドーの深い霧は、まだ晴れそうになかった。そして、その霧の奥底では、アキテーヌの運命を弄ぶ、巨大な蜘蛛の巣が、着実に張り巡らされようとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
