The Lone Hero ～The Age of Iron and Blood～

第二章 聖教の黒炎、ドミニクの狂信

第28話：マリーアンヌの犠牲と紅蓮の逃亡（第二編第二章最終話）

　聖教の異端審問所の地下牢。その冷たく湿った石壁に囲まれた独房で、イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワは、数日間にわたるドミニク審問官による執拗な尋問に耐え続けていた。

　それは、肉体的な拷問こそ伴わなかったものの、飢餓、巧妙な言葉による心理的な圧迫という、より陰湿で魂をじわじわと蝕むような拷問だった。彼女の美しい顔は蒼白くやつれ、深い疲労と絶望の色が浮かんでいたが、それでもなお、その誇り高い魂の輝きは完全には失われてはいなかった。

「イザボー・ド・ヴァロワ！ これが、神がお前に与え給う、最後の機会であるぞ！」

　ドミニク審問官の声が、独房の鉄格子越しに死刑宣告のように冷たく響いた。その手には今日もまた、あの不気味な漆黒の薔薇が握られている。

「全ての罪を認め、聖教にその身も心も完全に帰依し、そしてお前の忌まわしき仲間たちの名を一人残らず白状せよ！ さすれば、火刑だけは免じてやり、修道院での終身の悔悟という、慈悲深き道を示してやらぬこともない！ だが、もし、この期に及んでなお、その頑なで罪深き心を改めぬというのならば…お前のその美しい肉体は、明朝、聖なる神の炎によって一片残らず焼き尽くされ、その汚れた魂は、永遠に地獄の業火を彷徨うことになるるだろう！」

　イザボーは、衰弱しきった体でゆっくりと顔を上げた。

「…分かりましたわ、ドミニク審問官殿」

　その声は、か細く、途切れ途切れだったが、どこか吹っ切れたような不思議な静けさを湛えていた。

「私は…私は、もう疲れましたわ。あなたの仰せの通りに…全ての罪を…認めます。そして、聖教のその偉大なる教えに従い、新たな道を…歩ませていただきたく存じます…」

　ドミニクは、イザボーのその言葉を聞き、ついにこの気位の高いヴァロワの薔薇が、自らの前に完全に屈服したのだと確信し、勝利の笑みを浮かべた。彼の歪んだ正義感が、今まさに満たされようとしていた。

　しかし、イザボーのその言葉は、ドミニクの油断を誘い、そして僅かな時間を稼ぐための命がけの偽りの屈服だった。

　＊

　その頃、ヴァロワ家に最後まで残った、最も忠実な侍女マリーアンヌ・ボフォールは、イザボーをこの地獄から救出するための作戦を実行に移そうとしていた。

　彼女は、ヴァロワ家に僅かに残されていた最後の金品を全て使い、聖教の牢番の一部を買収し、そして自らもまた、夜の闇に紛れるための男装を施し、その華奢な手には使い慣れた短剣と、父から譲り受けた、手入れの行き届いた細身の長剣を握りしめ、イザボーが監禁されている異端審問所の地下牢へと潜入する手筈を整えていたのだ。

　彼女は、数日前イザボーに宛てた短い手紙を、信頼できる連絡役に託していた。

「我が最愛のイザボー様。このマリーアンヌ、必ずやお嬢様をお迎えに上がります。たとえこの身がどうなろうとも、あなた様だけは、必ずやその地獄からお救いいたします。どうか、それまで、ほんの少しだけご辛抱くださいませ…そして、ヴァロワ家の、そしてお嬢様の輝かしい未来と再興を、このマリーアンヌ、心の底よりお祈り申し上げております」

　その文字は、彼女の揺るぎない忠誠心と、そして死をも恐れぬ覚悟で力強く震えていた。

　その夜。異端審問所の地下牢は、不気味なほどの静寂に包まれていた。蝋燭の灯りもほとんどなく、闇だけが支配するその空間に、マリーアンヌ・ボフォールは、まるで影のように、音もなく潜入していた。買収した牢番の手引きで、彼女は迷路のような地下通路を進み、やがてイザボーが監禁されている独房へと辿り着いた。

「お嬢様！ マリーアンヌにございます！ お迎えに上がりました！」

　マリーアンヌは、独房の古びた錠を手際よく特殊な道具で開けると薄暗がりの中に、やつれ果てたイザボーの姿があった。

「マリーアンヌ…！あなた…なんて無茶を…！」

　イザボーは、思わずマリーアンヌに駆け寄り、その手を掴んだ。涙が溢れそうになるのを必死にこらえる。

「お話は後で！ 一刻も早くここから逃げましょう！ …その前に、これを！」

　マリーアンヌは、懐から素早く古びた銀細工の獅子のブローチを取り出し、イザボーの掌に強く握らせた。

「お嬢様、これはヴァロワ家に代々伝わる大切なお守りでございます！ そして、言い伝えでは『獅子の心臓』と呼ばれる、この建物の秘密の場所を示すもの…！ もし、万が一のことがあれば、必ずこれが、あなた様をお導きくださいます！ 時間がありません、詳しいことは後ほど！」

　イザボーは、ブローチの冷たい感触と、マリーアンヌの切羽詰まった表情に、事態の深刻さを改めて悟った。彼女はブローチをボロボロのドレスの胸元にしっかりとしまい込み、力強く頷いた。

「分かったわ、マリーアンヌ。行きましょう！」

　二人が、薄暗い地下牢の通路を駆け抜け、地上へと続く階段へと差し掛かろうとした、まさにその瞬間だった。

「神の敵に、逃亡の慈悲などありはせぬ！」

　ドミニク審問官の、甲高い狂信的な叫び声が地下牢の冷たい石壁に反響した。

　次の瞬間、四方八方から、松明の光と共に、武装した聖堂騎士団と黒狼兵団の兵士たちが、一斉に姿を現し、マリーアンヌとイザボーの退路を完全に断った。その数は二十人を超えるだろうか。その中には、ギルバート男爵の姿も見える。

「マリーアンヌ…！ やはり…！」

　イザボーは、絶望に顔を歪ませた。

「お嬢様！ あなた様は、決して諦めてはなりませぬ！」

　マリーアンヌは、イザボーを自らの背後へと庇うと、その手に握られた二本の剣を抜き放った。その構えには、一切の迷いも、そして恐怖の色さえもなかった。ただ、愛する主君を守るという、揺るぎない決意だけがその全身から炎のように立ち昇っていた。

「このマリーアンヌ・ボフォール！ ヴァロワ家の侍女として、この命に代えましても、お嬢様をお守りいたします！ さあ、かかってきなさい！ 神の名を騙る偽善者ども！ レジナルドの犬どもめが！」

　彼女のその凛とした声は、死を覚悟した者の最後の咆哮だった。

　その刹那、戦闘は一瞬にして始まった。

　マリーアンヌは、まるで舞を舞うかのように、狭い通路を縦横無尽に駆け巡り、その両手の剣を閃かせた。彼女の剣技は、侍女のものとは思えぬほどに鋭く正確だった。

　

　ガキン！ 聖堂騎士の振り下ろした長剣を、左手の短剣で受け流す――ズシャァッ！ 間髪入れずに右手の細身の長剣が、その騎士の鎧の隙間を正確に貫いた。騎士が苦悶の声を上げて倒れる。

「な、何だこの女…！ ただの侍女ではないのか！？」

　兵士たちの中から驚きの声が上がる。

　マリーアンヌは、その言葉に耳を貸す余裕などなかった。次々と襲いかかってくる敵の刃を、紙一重で躱し、反撃する。その動きは、まさに鬼神のごとき勇猛さだった。一瞬の静寂。そしてまた、金属音が激しく交錯する。

「死ねいっ！」

　黒狼兵団の兵士が、槍を突き出す。鋭い穂先がマリーアンヌの喉元に迫る。

　マリーアンヌは、それを華麗に身を翻して避けると、逆に相手の懐へと一気に踏み込んだ。

　ガッ！ 短剣の柄が、兵士の顎を強力に打ち据える。兵士が体勢を崩した――その隙を逃さず、マリーアンヌの長剣が閃き、兵士の喉を深く切り裂いた。壁に叩きつけられ兵士は動かなくなった。

　しかし、敵の数はあまりにも多い。マリーアンヌの額には、既に脂汗が滲み、その呼吸も次第に荒くなってきた。彼女は返り血と自らの血で、赤黒く染まっている。

（お嬢様…どうか…どうか、この隙に…！）

　マリーアンヌは、心の中で叫びながらイザボーに合図を送ろうとした。だが、その余裕さえも敵は与えてくれない。

「ふん、忠義な犬めが。だが、無駄な足掻きだ。その女狐共々、ここで地獄へ送ってくれるわ！」

　ギルバート男爵自身の剣が、マリーアンヌの背後から、容赦なく襲いかかった。

　マリーアンヌは、その殺気を感じ取り、咄嗟に振り返って剣を合わせようとしたが、既に数カ所に深手を負っていた彼女の動きは、僅かに遅れた。

　ザシュッ！

　鈍い音と共に、ギルバート男爵の長剣が、マリーアンヌの左胸を深く貫いた。

「ぐ…あ…っ！」

　マリーアンヌの口から、大量の血が溢れ出した。その手から、二本の剣が力なく滑り落ち、床に甲高い音を立てて転がる。

　彼女の体は、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと、そして大きく前のめりに崩れ落ちた。

「マリーアンヌウウウウウッ！！」

　イザボーの、魂からの絶叫が地下牢に響き渡った。

　マリーアンヌは、薄れゆく意識の中で、最後の力を振り絞り、イザボーの方を振り向き、その瞳に強い意志を宿らせた。イザボーの胸元で微かに光る獅子のブローチを指差し、そして礼拝堂へと続くと思われる方向の、古い石壁の一点を視線で示した。

「お嬢…様…『獅子…の…心臓』…を…」

　その言葉は、もはや声にならなかったが、マリーアンヌの唇は確かにそう動いたようにイザボーには見えた。

　次の瞬間、マリーアンヌの体は完全に力を失い、床に崩れ落ちた。その忠義の死は壮絶で悲しいものだった。

　＊

　マリーアンヌの壮絶な犠牲。イザボーは、その場で泣き崩れそうになるのを必死にこらえた。今は悲しんでいる暇などない。マリーアンヌの死を無駄にしてはならない。

　兵士たちが、マリーアンヌの亡骸を乗り越え、イザボーに殺到しようとする、その刹那。

　マリーアンヌの最後の視線、指差したブローチ、そして途切れ途切れの言葉。

「獅子の心臓」。

　先ほどマリーアンヌが語った話が、雷に打たれたようにイザボーの脳裏を貫いた。

『あそこだわ…！ あの壁の向こうに、何かがある…！』

　イザボーは、マリーアンヌの亡骸に一瞥もくれる余裕もなく、その直感を信じ、マリーアンヌが最期に示したと思われる石壁へと、全速力で駆け出した。それは、地下牢の最も奥まった、礼拝堂へと続いていたとされる古い通路の入り口付近の壁だった。

　壁には、風化しかけたヴァロワ家の獅子のレリーフが、辛うじてその形を留めていた。イザボーは、震える手で、胸元の獅子のブローチを握りしめ、そのブローチの裏側にある小さな突起を、レリーフの獅子の目と思われる窪みに押し込んだ。

　ゴゴゴゴ…という重い音と共に、石壁の一部が古代の仕掛けのようにゆっくりと動き始め、その奥に、人が一人やっと通れるほどの、暗く狭い亀裂が現れた。それは、忘れ去られた古い時代の、秘密の脱出通路へと繋がっていたのだ。

「追え！ あの魔女を逃がすな！」

　ドミニクとギルバートの怒声が、背後から迫ってくる。

　イザボーは、一瞬だけ振り返り、心の中でマリーアンヌに最後の別れを告げると、その暗く冷たい通路の中へと身を滑り込ませた。

　彼女は、暗闇の中をひたすらに走り続けた。どれほど走っただろうか。やがて、彼女の目の前に、微かな外の光が見えてきた。それは、王都ボルドーの城壁の外、黒森へと続く寂れた裏道へと繋がっていた。

　彼女は、追っ手の声がまだ遠くに聞こえる中、ボロボロになった体を引きずりながら、王都ボルドーの闇の中を、ただひたすらに、当てもなく走り続けた。

　やがて、彼女が遠くに見上げたヴァロワ家の壮麗な屋敷が、地獄の業火のように紅蓮の炎に包まれ、夜空を焦がしているのが見えた。それは摂政レジナルド公爵が、ヴァロワ家の終焉を、そして自らの絶対的な権力を誇示するために、意図的に放った火であることは明らかだった。ヴァロワ家の、アキテーヌ建国以来の栄光の歴史は、今まさにその炎と共に、灰燼に帰そうとしていた。

　それは、ヴァロワ家の完全な終焉を象徴しているかのようだった。

「父上…マリーアンヌ…！ あなたたちのその無念、このイザボーが、必ず…必ずや晴らしてみせる…！ レジナルド…ドミニク…そして、この腐りきったアキテーヌ…！ 全てを、この私の手で、焼き尽くしてくれるわ…！ 私はもう、何も失うものなどないのだから…！」

　彼女は、もはや涙を流すこともなかった。その美しい顔には燃えるような復讐の炎だけが宿っていた。彼女が目指す先は、アキテーヌの宿敵であり、そして今や彼女にとって、唯一頼ることのできるかもしれない、最後の希望の地――野心的な公爵シャルルが治める、ブルグント公国だった。

　＊

　イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワは、全てを失い、その身一つでアキテーヌからブルグント公国へと、決死の逃亡を果たした。彼女のその劇的な亡命は、アキテーヌの権力闘争に新たな、予測不可能な火種を蒔き、ブルグント公爵シャルルの底知れぬ野心を、さらに刺激することになるであろう。

　一方、王都ボルドーでは、異端審問官ドミニク・ギルフォードによる「魔女狩り」が、摂政レジナルド公爵の暗黙の了解と、積極的な後ろ盾のもと、さらにその狂気の度合いを増し、多くの無実の人々が次々と聖教の犠牲者として、火刑台の煙と消えていった。アキテーヌの闇は、もはや底なしの様相を呈し、民衆の心は絶望と恐怖によって完全に覆い尽くされていた。

　そして、このアキテーヌの深い混乱と、人心の極度の荒廃こそが、やがてユーロディア大陸全土にその忌まわしき影を落とすことになりつつあったのだった。

（第二編 第二章 了）