The Lone Hero ~The Age of Iron and Blood~

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第三編:王都の蜘蛛の巣、偽りの庇護と運命の奔流

第29話: 飢餓と絶望、貧民街の慟哭

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 第三章:アキテーヌの呻きと影の扇動者

 ヴァロワ家の最後の薔薇、イザボーが決死の逃亡を果たし、ブルグントの地に新たな嵐の種を蒔こうとしていた頃。彼女が後にしたアキテーヌ王国は、摂政レジナルド・ド・ヴァランスと異端審問官ドミニク・ギルフォードという二つの黒い太陽によって、その光を完全に奪われ、絶望という名の深い闇に沈み込んでいた。民の心は乾ききった大地のように荒れ果て、そこにはいつ燻りだしてもおかしくない怒りの火種が、無数にばら撒かれていた。そして、その火種に、見えざる手が、静かに油を注ごうとしていたのだ…

 *

 夜明け前の王都ボルドー、その最も暗く、そして最も忘れ去られた一角である貧民街は、まるで巨大な墓場のように冷たく湿った霧と、どぶから立ち昇る耐え難い悪臭、そしてそこに住まう人々の、声にならない絶望のため息に深く沈み込んでいた。家々は、今にも崩れ落ちそうなほどに朽ち果て、その壁の隙間からは、容赦なく冷たい風が吹き込み、僅かな体温さえも奪い去っていく。

 若い母親マチルドは、隣で空腹に泣きじゃくる三歳になる幼い娘アンナを、その痩せた胸にきつく抱きしめながら戸口の向こうの闇をじっと見つめていた。夫のジャンは、まだ夜も明けきらぬうちから、港で日雇いの荷運びの仕事を探しに出かけている。だが、最近は、その日雇いの仕事にありつけることの方が稀であり、空の胃袋を抱えて力なく帰ってくることの方が多かった。

「アンナ、もう泣かないでちょうだい…」

 マチルドは、乾いた唇で、娘の小さな額にキスをした。

「お父さんが、きっときっと何か美味しいものを持って帰ってきてくださるからね…だから、お願い、良い子にして…ね?」

 しかし、マチルドのその言葉は、風に舞う枯れ葉のように虚しく、自分自身に言い聞かせているかのようだった。この粗末な家の中には、もはやパンのひとかけらさえ残ってはいない。数日前に、最後のなけなしの銅貨で買ったカビの生えかかった黒パンも、昨日の朝にはアンナの小さな口へと消えてしまった。

 摂政レジナルド公爵が新たに布告した「窓税」――家の窓の数に応じて課せられるという、あまりにも理不尽な税――と、そしてパンの価格を不当に吊り上げた「パン税」は、彼らのような、その日暮らしの貧しい者たちの細い首を、まるで毒蛇のように、じわじわと確実に締め付けていたのだ。

 *

 その日もまた、ギルバート男爵率いる黒狼兵団の兵士たちが、死神の行進のように貧民街へと「徴税」という名の略奪にやって来た。彼らは、馬上で傲然と胸を張り、その手にした鞭や棍棒を振り回しながら、家々を回り、僅かな金銭や食料、そして時には、人々が大切にしているなけなしの家財道具までをも、容赦なく、そして楽しむかのように奪い去っていく。

「おい、そこの下衆ども! まだ摂政レジナルド公爵閣下への感謝の念が足りんのではないか!」

 ギルバート男爵の甲高い侮蔑に満ちた声が、貧民街の狭い路地に響き渡った。

「貴様ら虫けらがこうして、それでも生きていられるのは、全ては公爵閣下の海よりも深いご慈悲のおかげであるということを、その汚れた脳みそにしっかりと刻みつけておくがいい! さあ、さっさと今年の窓税と、そして先月滞納しているパン税を、この場で洗いざらい納めい! もし、払えぬという不届き者がおるならば、その汚い体でたっぷりと償ってもらうことになるぞ!」

 ジャンの家の、辛うじて蝶番でぶら下がっているだけの粗末な扉が、再び轟音と共に内側へと倒れ込んだ。数人の黒狼兵団の兵士たちが、まるで飢えた狼のように、土足でなだれ込んでくる。

 ジャンは、仕事にあぶれ憔悴しきった顔で帰宅したばかりだった。彼は、マチルドとアンナを背後へと庇いながら、震える手で、懐から僅かな銅貨――今まで、必死に働いて得た、なけなしの稼ぎ――を差し出した。

「こ、これだけで…これだけで、どうかご勘弁を…! これ以上は、もう何も…」

 兵士の一人が、その銅貨を嘲るようにひったくると、鼻で笑った。

「ふん、こんな端金で、公爵閣下への忠誠が示せるとでも思っているのか、この下衆が! 家の中を改めろ! 何か隠しているに違いあるまい!」

 兵士たちは、ジャンのその言葉など意にも介さず、家の中を荒らし回り始めた。そして、一人の兵士がアンナが大切に抱きしめていた、亡き祖母の形見である、古い小さな木の小鳥の人形に目をつけた。

「おい、小娘、そいつを寄越せ。なかなか良い細工じゃないか。俺の故郷の妹への良い土産になるだろう」

 兵士は、下卑た笑みを浮かべながら、アンナの手から無理やり人形を奪い取ろうとした。

「いやっ! 返して! それは、アンナの大切な…!」

 アンナが泣き叫ぶ。

「やめてくれ! それだけは…! それだけは、どうか!」

 ジャンは、娘の悲痛な叫びに、我を忘れて兵士に掴みかかろうとした。だが、次の瞬間、別の兵士の振り下ろした棍棒がジャンの脇腹を容赦なく強打した。

「ぐううっ…!」

 ジャンは、苦悶の声を上げてその場に崩れ落ちた。マチルドの、絶望的な悲鳴が薄暗い部屋に虚しく響き渡った。黒狼兵団の兵士たちは、そんな彼らの姿を嘲笑いながら見下ろしていた。

 *

 黒狼兵団の嵐のような略奪が去った後、貧民街には、まるで申し合わせたかのように、異端審問官ドミニク・ギルフォードが、数名の威圧的な聖堂騎士を伴って「視察」という名目で姿を現した。彼は、打ちひしがれ、奪われ、そして傷つけられた民衆の前で、聞く者の心を巧みに捉える慈悲に満ちた言葉を、まるで神の託宣のように語り始めた。

「おお、哀れなるアキテーヌの民よ! 汝らのその深い苦しみ、このドミニク・ギルフォード、全能なる神の聖なる代理人として、決して見過ごしにはせぬぞ!」

 ドミニクの声は、不思議なほどの説得力と、そしてどこか聞く者を安心させるような響きを持っていた。

「この貧困と絶望、そして度重なる不幸は、全て汝らの間に、あるいは汝ら自身の心の中にさえも潜む、忌まわしき異端者どもの、その邪悪なる呪詛の仕業であるのだ! 彼らは神の聖なる教えを冒涜し、悪魔と密かに契約を結び、この聖なるアキテーヌ王国を、内側から静かに、確実に蝕もうとしているのだ! だが、汝ら、もはや恐れることはない! 我ら聖教が、神の聖なる炎そのものとなり、その全ての異端の穢れを、一片残らず焼き尽くし、汝らに真の救済と、永遠の平安をもたらすことを、ここに固く誓おう!」

 彼は、事前にレジナルド公爵から提供された、僅かばかりのパンと葡萄酒を民衆に配り、「全能なる神の無限なる慈悲」を、芝居がかって演出してみせた。そして、その一方で、「異端の兆候を決して見逃すな」「些細な疑いでも、我ら聖教に報告する義務がある」と、密告を執拗なまでに奨励した。

「もし、隣人が不審な言動をしていたら? もし、親族が悪魔の囁きに耳を貸しているようであったら? 臆することなく、我らに知らせるのだ。それこそが、汝ら自身の魂を救い、そしてこのアキテーヌを聖なる光で満たすための最も尊き行いなのであるぞ!」

 ドミニクのその言葉は、恐怖と飢餓によって判断力を失いかけていた一部の民衆の心を、いとも簡単に捉え、隣人同士の間に拭い去ることのできない不信感と、密告という名の恐ろしい病の種を確実に蒔き散らしていった。

 *

 その夜、ジャンの粗末な家では、殴られた脇腹の激しい痛みに呻きながら、ジャンがマチルドに、もはや何の希望も見出せない絶望を途切れ途切れに吐露していた。

「もう駄目だ、マチルド…! 全て、終わりだ…! 俺たちのような、虫けら同然の貧乏人は、ただあの悪魔のような摂政レジナルドに搾り取られ、そしてあの気味の悪い、神の名を騙る審問官に踏みつけられるだけの、そういう運命なんだ…! 逆らうことなどできやしない…! アンナを…ああ、俺たちのかわいいアンナを、飢えさせないためには、もう…もう、俺には、何も…何もしてやれることがないんだ…!」

 ジャンのその瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ち、その肩は、子供のように無様に震えていた。
 しかし、マチルドは、夫のあまりにも情けない弱音を聞き、静かに強い意志を込めて遮った。

「いいえ、ジャン…あなたは間違っているわ。諦めては駄目よ! 私たちが諦めてしまったら、アンナは、可愛いアンナは、一体どうなってしまうというの? あの子には、私たちしかいないのよ! たとえどんなに苦しくても、たとえどんな屈辱を受けようとも、私たちは生き抜かなければならない…アンナのために…!」

 マチルドのその言葉には、か弱く見えた彼女のどこにそんな力が残っていたのかと思うほどの、母としての、そして一人の人間としての強い覚悟が込められていた。

 *

 数日後、貧民街の古びた教会の雨風に晒されて文字も掠れかけた掲示板に、一枚の真新しい羊皮紙が張り出された。そこには、異端審問官ドミニク・ギルフォードの署名と共に、こう記されていた。

「神の鉄槌、再びアキテーヌに下る。次なる異端の罪人は、汝らの隣人の中に潜む…心せよ。神の目は、決して欺けぬ…」

 それは、ドミニク審問官による、新たな大規模な「魔女狩り」の開始を告げる、血塗られた不吉な予告状だった。
 貧民街は恐怖と疑心暗鬼の暗い渦に、さらに深く、そして絶望的に巻き込まれていく。

 そして、その混乱と絶望の影で、いつの頃からかフードで顔を深く隠した、長身痩躯の謎の人物が、亡霊のように貧民街の最も暗い路地裏に姿を現し、打ちひしがれた民衆の怒りと憎しみに満ちた声に、静かに耳を傾け、そのフードの奥の唇に不気味な笑みを浮かべている姿があった。

 アキテーヌの黄昏は、血の色をさらに濃くし、破滅へと向かう不吉な序曲を、静かに、そして確実に奏で始めていた。
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