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第三編:王都の蜘蛛の巣、偽りの庇護と運命の奔流
第30話: 闇夜の集会、扇動者の甘き毒
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異端審問官ドミニク・ギルフォードによる新たな「魔女狩り」の予告――「神の鉄槌、再び下る。次なる異端者は、汝らの隣人の中に…」――その血塗られた羊皮紙は、王都ボルドーの貧民街の古びた教会の掲示板に、死刑執行命令のように張り出され、そこに住まう人々にさらなる恐怖と絶望の暗い影を投げかけていた。もはや、誰もが疑心暗鬼に陥り、隣人の顔色を窺い、些細な言葉尻を捉えては密告し合うという、まさに地獄のような光景が貧民街の日常となりつつあった。飢餓と圧政、そして聖教による恐怖支配。人々は、もはや生きる希望さえも見失いかけていた。
そんな中、貧民街の若者たちの間で、一つの奇妙な噂が確実に広まり始めていた。
「おい、聞いたか? 今宵、月のない夜、あの古い教会の裏手にある廃墟で、我らを導くという『声』が、秘密の集会を開くらしいぞ…」
「『声』…? それは一体、何者なんだ?」
「分からん…だが、あの『声』に従えば、我らもこの地獄から抜け出せるやもしれん…そう言っている奴らがいる…」
貧民街の若者の一人で、最近、黒狼兵団の兵士に理不尽な暴行を受け、心に深い怒りを宿していたギヨーム(国王とは同名別人。石工の息子)もまた、その噂を耳にした一人だった。彼は半信半疑ながらも、この息詰まるような絶望的な状況から抜け出すための、ほんの僅かな希望の光を、その「声」に託してみたいという抑えきれない衝動に駆られていた。
その夜、ギヨームは、同じように現状に強い不満と怒りを抱く数人の仲間たちと共に、噂の場所へと向かった。古い教会の裏手、崩れかけた壁と、蔦の絡まる窓枠だけが残る、不気味な廃墟。そこには、既に数十人の、同じように絶望と、危険な光を宿した瞳を持つ貧民たちが、亡霊のように集まっていた。彼らは皆、互いに言葉を交わすこともなく、ただ一点、廃墟の最も奥まった暗い場所を、固唾を飲んで見つめていた。そこには、今にも何かが現れそうな濃密な緊張感が漂っていた。
*
エルミートの庵。リアナは、エルミートから譲り受けた、古びた羊皮紙に記された薬草書を、蝋燭の灯りを頼りに紐解き、そこに描かれた未知の薬草の効能や、その採取場所について、熱心に研究を続けていた。その傍らで、カイルはエルミートから「気」の流れを読み、それを自らの剣に込めるという、高度な精神集中の訓練を受けていた。しかし、最近、彼は森の木々や、そこに住まう動物たちから感じる「気」が、以前とは明らかに異なり、どこか不穏で、怯え、ざわついているような不快な感覚に戸惑いを覚えていた。「エルミート様、この森の何かが…やはりおかしいのです…まるで、目に見えぬ何かに怯えているような…そんな気がしてなりません…」カイルのその言葉に、エルミートはただ黙って頷き、その老いた瞳に、深い憂慮の色を浮かべるだけだった。
*
廃墟の闇の中、集まった民衆の期待と不安が最高潮に達したかのように思われた、その時だった。
まるで闇そのものが人の形を取ったかのように、フードで顔を深く隠した、長身痩躯の謎の人物が圧倒的な存在感を伴って、民衆の前に姿を現した。
その人物が誰なのか、男なのか女なのか、若いのか老いているのかさえも、深く被ったフードの影に隠れて、全く窺い知ることはできない。ただ、その全身から発せられる、どこか人間離れした、冷たく、不気味なまでのカリスマ性だけが、その場を支配していた。
そして、その「声」が響き渡った。
それは、決して大きな声ではなかった。しかし、不思議なほどによく通り、まるで聞く者の心の最も奥深い、最も柔らかな部分に、直接囁きかけるかのような、奇妙な力を持っていた。
「集いしアキテーヌの虐げられし同胞たちよ! 聞くがいい!」
その声は、優しく、そしてどこか甘美な響きさえ帯びていたが、氷のような冷酷さが隠されているのを、敏感な者は感じ取ったかもしれない。
「我らはいつまで、この耐え難い屈辱と終わりの見えぬ飢餓に、ただ黙って耐え続けねばならぬのだ! あの摂政レジナルドという名の、血も涙もない暴君は、我らの汗と血を吸血鬼のように啜り、その汚れた私腹を、飽くことなく肥やし続けているではないか! そして、あのドミニクという名の、神の仮面を被った狂信者は、愛ではなく、恐怖と偽りの正義で我らを縛り付け、我らの魂までも支配しようとしている! 彼らは、我らを言葉を話す家畜としか見ていないのだ! だが、我らは家畜ではない! 我らは人間だ! かつてこのアキテーヌを築き上げ、その栄光を支えてきた、誇り高きアキテーヌの民なのだ!」
扇動者のその言葉は、最初は静かで、まるで子守唄のように穏やかだったが、次第にその熱を帯び、集まった民衆の心の奥底に、長い間押し殺されてきた怒りと憎悪の感情を、巧みに、そして容赦なく抉り出し、燃え上がらせていく。その言葉は、彼らの理性をゆっくりと麻痺させ、抑えきれない暴力的な行動への衝動を、魂に深く植え付けていくかのようだった。
「思い出せ! 我らが誇り高き父祖たちが、いかにしてこのアキテーヌの自由と独立を勝ち取り、大地を耕し、そして未来への希望を築き上げてきたかを! 我らは、決して奴隷となるためにこの世に生まれてきたのではない! 自由を! 我らが汗して得たパンを! そして何よりも、人間としての、ささやかな侵すべからざる尊厳を! もはや、誰かが与えてくれるのを待っている時ではない! 我ら自身の手で奪い返す時が来たのだ! 今こそ、立ち上がれ! その胸に燻る怒りの炎を、天を焦がす紅蓮の炎へと変え、偽りの権力者どもに、我ら民の怒りの鉄槌を下すのだ!」
民衆は、その扇動者の神託のような言葉に完全に魅了され、我を忘れて熱狂的な歓声を上げ始めた。
「そうだ! 我々はもう黙ってはいないぞ!」
「レジナルドを倒せ! ドミニクを追い出せ!」
「我らに自由を! 我らにパンを! 我らに尊厳を!」
その叫びは、もはや個々の声ではなく、一つの巨大な、そして危険な意志を持った、地響きのような怒りの奔流となっていた。廃墟の壁が、その熱狂にビリビリと震えている。
*
摂政レジナルド公爵の放った密偵の一人が、この貧民街での不穏な動きと、秘密の集会の情報を掴み、フードの扇動者の正体を暴き、そしてその危険な企みを未然に防ぐため、集会場所の周辺の闇に息を殺して潜んでいた。彼は、扇動者のその巧みな弁舌と、それに呼応して熱狂する民衆の獣のような姿に、背筋に氷のような冷たいものを感じていた。
(この男…ただ者ではない…! あの言葉は人の心を直接操る魔法のようだ…! このままでは、本当に王都で恐ろしいことが起こってしまうやもしれん…! 何としても、あのフードの男の正体を突き止め、そして捕らえねば…!)
集会が終わり、熱狂した民衆が三々五々散り始め、フードの扇動者が闇に溶け込むかのように、音もなくその場を立ち去ろうとした瞬間、密偵は全神経を集中させその後を追った。
しかし、扇動者は、背中に目でもついているかのように、密偵の気配を察知していた。彼は、貧民街の迷路のように入り組んだ、汚れた裏路地へと巧みに紛れ込み、時には煙のように、影そのもののように、密偵の視界から忽然と姿を消してしまうのだった。その動きは、到底、ただの人間のものとは思えなかった。
「くそっ…! あの者、一体何者なのだ…!? ただの人間とは思えぬ、不気味な気配と、異常なまでの身のこなしだった…! これは、単なる民衆の不満分子などという、生易しいものではない…もっと恐ろしく、もっと危険な何かかもしれん…!」
密偵は、結局、扇動者の尻尾を掴むことはできず、ただその人間離れした動きに翻弄され、深い疲労感と言いようのない恐怖だけを胸に、その場を後にするしかなかった。
彼は、摂政レジナルド公爵に、フードの扇動者のその異常なまでの危険性と、その背後に何か巨大で邪悪な組織が存在する可能性を、詳細に報告した。しかし、レジナルドは、その報告を、いつものように鉄仮面のような無表情で聞き終えると、ただ鼻で笑い飛ばすだけだった。
「ふん、所詮は貧民街の、飢えた犬どもが、遠吠えをしているに過ぎん。何をそんなに怯える必要がある? もし、奴らが本当に何か馬鹿なことを仕出かすようなら、我が黒狼兵団の精鋭たちが、その汚れた血で、王都の石畳を洗い流してくれるだけのことよ。むしろ、奴らが騒ぎを起こしてくれれば、それを口実に、貧民街のあの不衛生なスラムを一掃する良い機会となるやもしれんな…」
レジナルドは、そう言うと不気味な計算高さと、底知れぬ野心の色を浮かべていた。彼にとって、民衆の暴動さえも、自らの権力をさらに強化するための、都合の良い駒の一つに過ぎなかった。
*
秘密の集会から戻った若きギヨームの心には、あのフードの扇動者の言葉が、消えることのない聖なる炎のように熱く、そして激しく燃え続けていた。彼はもはや何の迷いもなかった。
彼は、同じように扇動者の言葉に心を動かされた仲間たちと共に、武器を集め、来るべき「正義の蜂起」の準備を密かに進め始めていた。
「俺たちは、もう黙って、あの豚のような貴族どもや、偽善者の聖職者どもに、殺されるのを待つだけの哀れな家畜じゃないんだ!」
若きギヨームは、仲間たちの前で、声を枯らして叫んだ。その瞳には、絶望から生まれた、純粋で、それ故に危険な決意の光が狂おしいまでに宿っていた。
「俺たちの手で、この腐りきった世の中を、ひっくり返してやるんだ! あの『声』の人が、俺たちに勇気と希望を与えてくれたじゃないか! 俺たちには、もはや失うものなんて何一つないんだからな!」
貧民街の、抑圧され続けた怒りのマグマは、もはや誰にも止められない臨界点へと、急速に近づいていた。あとは、ほんの小さな火花が、その導火線に落ちるのを待つばかりだった。
*
数日後、王都ボルドーの貧民街で、その「火花」となる事件が起こった。
一人の腰の曲がった老婆が、市場のパン屋の前で、地面に落ちていた僅かなパンの耳を拾おうとした。それを見た黒狼兵団の兵士の一人が、その老婆を「パン泥棒」と決めつけ、見せしめのように、その場で老婆を棍棒で何度も何度も、執拗に殴りつけたのだ。老婆は、何の抵抗もできず、ただ「助けて…」とか細い声を漏らしながら、やがて動かなくなり、その汚れた路上に、赤い血だまりを残して息絶えた。
そのあまりにも無慈悲で理不尽な光景を、多くの貧民街の住人たちが、怒りと絶望に震えながら見ていた。
その報せは、瞬く間に貧民街全体に広がり、ついに、抑えつけられていた民衆の怒りが、堰を切った濁流のように爆発した。
「もう我慢できない! 今こそ、立ち上がる時だ! あの悪魔どもに、我らの怒りを思い知らせてやるのだ!」
若きギヨームの魂からの絶叫を合図に、棍棒や農具、あるいは石ころを手にした、数千とも思えるほどの民衆が、まるで地鳴りのように、貧民街から溢れ出し、貴族の屋敷や、役所、そして聖教の教会へと向かって、怒りの進撃を開始した。
王都ボルドーは、血と炎、そして憎悪と絶望の叫びに包まれる、悪夢のような一夜を迎えようとしていた。
そして、その混乱と殺戮の光景を、王都を見下ろす高い場所から、フードで顔を隠したあの謎の人物が、満足げな笑みを浮かべて眺めている姿があった。
彼の目的は、一体何なのか。そして、このアキテーヌの悲劇は、どこへ向かおうとしているのか。
そんな中、貧民街の若者たちの間で、一つの奇妙な噂が確実に広まり始めていた。
「おい、聞いたか? 今宵、月のない夜、あの古い教会の裏手にある廃墟で、我らを導くという『声』が、秘密の集会を開くらしいぞ…」
「『声』…? それは一体、何者なんだ?」
「分からん…だが、あの『声』に従えば、我らもこの地獄から抜け出せるやもしれん…そう言っている奴らがいる…」
貧民街の若者の一人で、最近、黒狼兵団の兵士に理不尽な暴行を受け、心に深い怒りを宿していたギヨーム(国王とは同名別人。石工の息子)もまた、その噂を耳にした一人だった。彼は半信半疑ながらも、この息詰まるような絶望的な状況から抜け出すための、ほんの僅かな希望の光を、その「声」に託してみたいという抑えきれない衝動に駆られていた。
その夜、ギヨームは、同じように現状に強い不満と怒りを抱く数人の仲間たちと共に、噂の場所へと向かった。古い教会の裏手、崩れかけた壁と、蔦の絡まる窓枠だけが残る、不気味な廃墟。そこには、既に数十人の、同じように絶望と、危険な光を宿した瞳を持つ貧民たちが、亡霊のように集まっていた。彼らは皆、互いに言葉を交わすこともなく、ただ一点、廃墟の最も奥まった暗い場所を、固唾を飲んで見つめていた。そこには、今にも何かが現れそうな濃密な緊張感が漂っていた。
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エルミートの庵。リアナは、エルミートから譲り受けた、古びた羊皮紙に記された薬草書を、蝋燭の灯りを頼りに紐解き、そこに描かれた未知の薬草の効能や、その採取場所について、熱心に研究を続けていた。その傍らで、カイルはエルミートから「気」の流れを読み、それを自らの剣に込めるという、高度な精神集中の訓練を受けていた。しかし、最近、彼は森の木々や、そこに住まう動物たちから感じる「気」が、以前とは明らかに異なり、どこか不穏で、怯え、ざわついているような不快な感覚に戸惑いを覚えていた。「エルミート様、この森の何かが…やはりおかしいのです…まるで、目に見えぬ何かに怯えているような…そんな気がしてなりません…」カイルのその言葉に、エルミートはただ黙って頷き、その老いた瞳に、深い憂慮の色を浮かべるだけだった。
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廃墟の闇の中、集まった民衆の期待と不安が最高潮に達したかのように思われた、その時だった。
まるで闇そのものが人の形を取ったかのように、フードで顔を深く隠した、長身痩躯の謎の人物が圧倒的な存在感を伴って、民衆の前に姿を現した。
その人物が誰なのか、男なのか女なのか、若いのか老いているのかさえも、深く被ったフードの影に隠れて、全く窺い知ることはできない。ただ、その全身から発せられる、どこか人間離れした、冷たく、不気味なまでのカリスマ性だけが、その場を支配していた。
そして、その「声」が響き渡った。
それは、決して大きな声ではなかった。しかし、不思議なほどによく通り、まるで聞く者の心の最も奥深い、最も柔らかな部分に、直接囁きかけるかのような、奇妙な力を持っていた。
「集いしアキテーヌの虐げられし同胞たちよ! 聞くがいい!」
その声は、優しく、そしてどこか甘美な響きさえ帯びていたが、氷のような冷酷さが隠されているのを、敏感な者は感じ取ったかもしれない。
「我らはいつまで、この耐え難い屈辱と終わりの見えぬ飢餓に、ただ黙って耐え続けねばならぬのだ! あの摂政レジナルドという名の、血も涙もない暴君は、我らの汗と血を吸血鬼のように啜り、その汚れた私腹を、飽くことなく肥やし続けているではないか! そして、あのドミニクという名の、神の仮面を被った狂信者は、愛ではなく、恐怖と偽りの正義で我らを縛り付け、我らの魂までも支配しようとしている! 彼らは、我らを言葉を話す家畜としか見ていないのだ! だが、我らは家畜ではない! 我らは人間だ! かつてこのアキテーヌを築き上げ、その栄光を支えてきた、誇り高きアキテーヌの民なのだ!」
扇動者のその言葉は、最初は静かで、まるで子守唄のように穏やかだったが、次第にその熱を帯び、集まった民衆の心の奥底に、長い間押し殺されてきた怒りと憎悪の感情を、巧みに、そして容赦なく抉り出し、燃え上がらせていく。その言葉は、彼らの理性をゆっくりと麻痺させ、抑えきれない暴力的な行動への衝動を、魂に深く植え付けていくかのようだった。
「思い出せ! 我らが誇り高き父祖たちが、いかにしてこのアキテーヌの自由と独立を勝ち取り、大地を耕し、そして未来への希望を築き上げてきたかを! 我らは、決して奴隷となるためにこの世に生まれてきたのではない! 自由を! 我らが汗して得たパンを! そして何よりも、人間としての、ささやかな侵すべからざる尊厳を! もはや、誰かが与えてくれるのを待っている時ではない! 我ら自身の手で奪い返す時が来たのだ! 今こそ、立ち上がれ! その胸に燻る怒りの炎を、天を焦がす紅蓮の炎へと変え、偽りの権力者どもに、我ら民の怒りの鉄槌を下すのだ!」
民衆は、その扇動者の神託のような言葉に完全に魅了され、我を忘れて熱狂的な歓声を上げ始めた。
「そうだ! 我々はもう黙ってはいないぞ!」
「レジナルドを倒せ! ドミニクを追い出せ!」
「我らに自由を! 我らにパンを! 我らに尊厳を!」
その叫びは、もはや個々の声ではなく、一つの巨大な、そして危険な意志を持った、地響きのような怒りの奔流となっていた。廃墟の壁が、その熱狂にビリビリと震えている。
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摂政レジナルド公爵の放った密偵の一人が、この貧民街での不穏な動きと、秘密の集会の情報を掴み、フードの扇動者の正体を暴き、そしてその危険な企みを未然に防ぐため、集会場所の周辺の闇に息を殺して潜んでいた。彼は、扇動者のその巧みな弁舌と、それに呼応して熱狂する民衆の獣のような姿に、背筋に氷のような冷たいものを感じていた。
(この男…ただ者ではない…! あの言葉は人の心を直接操る魔法のようだ…! このままでは、本当に王都で恐ろしいことが起こってしまうやもしれん…! 何としても、あのフードの男の正体を突き止め、そして捕らえねば…!)
集会が終わり、熱狂した民衆が三々五々散り始め、フードの扇動者が闇に溶け込むかのように、音もなくその場を立ち去ろうとした瞬間、密偵は全神経を集中させその後を追った。
しかし、扇動者は、背中に目でもついているかのように、密偵の気配を察知していた。彼は、貧民街の迷路のように入り組んだ、汚れた裏路地へと巧みに紛れ込み、時には煙のように、影そのもののように、密偵の視界から忽然と姿を消してしまうのだった。その動きは、到底、ただの人間のものとは思えなかった。
「くそっ…! あの者、一体何者なのだ…!? ただの人間とは思えぬ、不気味な気配と、異常なまでの身のこなしだった…! これは、単なる民衆の不満分子などという、生易しいものではない…もっと恐ろしく、もっと危険な何かかもしれん…!」
密偵は、結局、扇動者の尻尾を掴むことはできず、ただその人間離れした動きに翻弄され、深い疲労感と言いようのない恐怖だけを胸に、その場を後にするしかなかった。
彼は、摂政レジナルド公爵に、フードの扇動者のその異常なまでの危険性と、その背後に何か巨大で邪悪な組織が存在する可能性を、詳細に報告した。しかし、レジナルドは、その報告を、いつものように鉄仮面のような無表情で聞き終えると、ただ鼻で笑い飛ばすだけだった。
「ふん、所詮は貧民街の、飢えた犬どもが、遠吠えをしているに過ぎん。何をそんなに怯える必要がある? もし、奴らが本当に何か馬鹿なことを仕出かすようなら、我が黒狼兵団の精鋭たちが、その汚れた血で、王都の石畳を洗い流してくれるだけのことよ。むしろ、奴らが騒ぎを起こしてくれれば、それを口実に、貧民街のあの不衛生なスラムを一掃する良い機会となるやもしれんな…」
レジナルドは、そう言うと不気味な計算高さと、底知れぬ野心の色を浮かべていた。彼にとって、民衆の暴動さえも、自らの権力をさらに強化するための、都合の良い駒の一つに過ぎなかった。
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秘密の集会から戻った若きギヨームの心には、あのフードの扇動者の言葉が、消えることのない聖なる炎のように熱く、そして激しく燃え続けていた。彼はもはや何の迷いもなかった。
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「俺たちは、もう黙って、あの豚のような貴族どもや、偽善者の聖職者どもに、殺されるのを待つだけの哀れな家畜じゃないんだ!」
若きギヨームは、仲間たちの前で、声を枯らして叫んだ。その瞳には、絶望から生まれた、純粋で、それ故に危険な決意の光が狂おしいまでに宿っていた。
「俺たちの手で、この腐りきった世の中を、ひっくり返してやるんだ! あの『声』の人が、俺たちに勇気と希望を与えてくれたじゃないか! 俺たちには、もはや失うものなんて何一つないんだからな!」
貧民街の、抑圧され続けた怒りのマグマは、もはや誰にも止められない臨界点へと、急速に近づいていた。あとは、ほんの小さな火花が、その導火線に落ちるのを待つばかりだった。
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一人の腰の曲がった老婆が、市場のパン屋の前で、地面に落ちていた僅かなパンの耳を拾おうとした。それを見た黒狼兵団の兵士の一人が、その老婆を「パン泥棒」と決めつけ、見せしめのように、その場で老婆を棍棒で何度も何度も、執拗に殴りつけたのだ。老婆は、何の抵抗もできず、ただ「助けて…」とか細い声を漏らしながら、やがて動かなくなり、その汚れた路上に、赤い血だまりを残して息絶えた。
そのあまりにも無慈悲で理不尽な光景を、多くの貧民街の住人たちが、怒りと絶望に震えながら見ていた。
その報せは、瞬く間に貧民街全体に広がり、ついに、抑えつけられていた民衆の怒りが、堰を切った濁流のように爆発した。
「もう我慢できない! 今こそ、立ち上がる時だ! あの悪魔どもに、我らの怒りを思い知らせてやるのだ!」
若きギヨームの魂からの絶叫を合図に、棍棒や農具、あるいは石ころを手にした、数千とも思えるほどの民衆が、まるで地鳴りのように、貧民街から溢れ出し、貴族の屋敷や、役所、そして聖教の教会へと向かって、怒りの進撃を開始した。
王都ボルドーは、血と炎、そして憎悪と絶望の叫びに包まれる、悪夢のような一夜を迎えようとしていた。
そして、その混乱と殺戮の光景を、王都を見下ろす高い場所から、フードで顔を隠したあの謎の人物が、満足げな笑みを浮かべて眺めている姿があった。
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