The Lone Hero ~The Age of Iron and Blood~

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第三編:王都の蜘蛛の巣、偽りの庇護と運命の奔流

第31話:イザボーの暗躍とシャルルの天秤

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 アキテーヌの地獄のような混乱を後に、イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワが、その身一つでブルグント公国の首都ディジョンに辿り着いたのは、全てを失った彼女が王都ボルドーを脱出して数週間後の冷たい風が吹きすさぶ初冬のことだった。

 彼女の旅は、想像を絶するほど過酷なものだった。昼は森の中に息を潜め、夜の闇に紛れて獣道を歩き、僅かな食料で飢えを凌ぎ、そして何よりも、レジナルド公爵の追っ手と、聖教の異端審問官たちの執拗な捜索の目から逃れ続けなければならなかった。

 かつてのヴァロワ家の栄華を誇った美しい令嬢の面影は、その痩せこけた頬と、ところどころ破れた粗末な装束の下に、辛うじて残っているだけだった。だが、氷のような冷徹さと、燃えるような復讐の炎だけは、アキテーヌを脱出したあの日から少しも衰えることなく、むしろ日増しにその輝きを増しているかのようだった。

 


 ブルグント公国の首都ディジョンは、アキテーヌの王都ボルドーとは対照的に、整然とした街並みと、活気に満ちた人々の往来が印象的な、まさに新興の強国の勢いを象徴するような都市だった。その中央に聳え立つ、壮麗にして堅固な公爵宮殿に、イザボーは「アキテーヌからの悲劇の亡命貴族」として、丁重に、しかしその実、厳重な監視のもとに迎え入れられた。

 彼女には、宮殿の一角にあるアキテーヌの亡命貴族の身分にふさわしい、豪華な調度品で飾られた客室と、数人の侍女が与えられた。だが、その生活は美しい金色の鳥籠の中で飼われる小鳥のように、常にブルグント公爵シャルル・ド・ブルグンドの、目に見えぬ密偵たちの監視下にあり、決して心の休まるものではなかった。

(ここは…アキテーヌのあの地獄よりは遥かにましだけれど、それでもやはり、私にとっては金色の鳥籠に過ぎないわね…。ブルグント公爵シャルル…あの男は、私にヴァロワ家の再興を助けると、甘い言葉で約束してくれたけれど、あの怜悧な灰色の瞳の奥には、私をただの駒としてしか見ていない、冷たい計算の色が浮かんでいた…。油断はできない…この宮殿では、壁にも床にも、あの男の耳と目が潜んでいるのだから…。一瞬たりとも、気を抜くことは許されない…!)

 彼女は、夜ごと、アキテーヌに残してきたものたち――父アンリ公爵の誇り高き最期、忠実な侍女マリーアンヌの壮絶な犠牲、そしてジャン=ピエール・マルシャンの無実の叫び――を思い出し、その度に、摂政レジナルドと異端審問官ドミニクへの凍りつくような憎悪と、そして自らの無力さへの身を切るような焦燥感に苛まれていた。

 *

 黒森のエルミートの庵。エルミートは、日に日にその命の灯火が弱々しくなっていく体をおして、カイルに伝統の剣技の型や、そして真の王たる者の心構えについて、最後の力を振り絞るように語り始めていた。「カイルよ、真の王とは、民の悲しみを自らの悲しみとし、その涙を拭うためにこそ、その聖なる剣を取る者じゃ。決して、己の欲望や、怒り、憎しみといった負の感情のために、その力を用いてはならぬ…そのことを、片時も忘れるでないぞ…」その言葉の一つ一つは、まるで遺言のように、カイルの幼い心に深く、そして重く刻み込まれていった。

 リアナは、そんなエルミートの体調を、誰よりも気遣い、薬草の調合にさらに熱心に取り組んでいたが、彼のその弱々しい呼吸の音を聞くたびに、彼女の胸は、言いようのない不安と悲しみで張り裂けそうだった。

 *

 ブルグント公爵宮殿、謁見の間。

 亡命から数日が過ぎたある日、イザボーはついにブルグント公爵シャルル・ド・ブルグンドとの正式な謁見の機会を与えられた。シャルル公は、その年の頃四十代半ば、貴族的な威厳と、しかしそれ以上に、氷のような冷徹さと、全てを見透かすかのような鋭い灰色の瞳を持つ、まさに怜悧な野心家そのものの風貌をしていた。

 その佇まいは、アキテーヌの摂政レジナルドとはまた異なる底知れぬ恐ろしさを感じさせた。

「イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワ嬢、長旅ご苦労であったな」

 シャルル公の声は、穏やかで、貴人を気遣うような響きを持っていたが、その言葉の端々には、相手の価値を冷徹に値踏みするような、鋭利な刃物のような響きが隠されていた。

「アキテーヌでの、あの忌まわしき悲劇については、我が耳にも届いておる。誠に痛ましい限り。このシャルル、ヴァロワ家とは、先代の頃より浅からぬよしみがあった。可能な限りの援助は惜しまぬつもりだ。して、具体的には、そなたは、このブルグントと、そしてこのわしに何を望まれるのかな?」

 その言葉は、慈悲深く、そして寛大に聞こえた。だが、イザボーという駒の利用価値を正確に計算しようとする抜け目のない商人のような眼差しが、ギラリと宿っていた。

 イザボーは、シャルル公のその腹の底を見抜きながらも、完璧なまでに悲劇のヒロインを演じきった。その美しい顔は蒼白くやつれ、その紫色の瞳には深い悲しみの涙を湛え、その声はか細く震えていた。

「シャルル公爵閣下…このイザボーには、もはや、あなた様だけが、唯一の、そして最後の頼りでございます…」

 彼女は、涙ながらに、摂政レジナルドの非道と、ヴァロワ家の無念の最期、そしてアキテーヌの民の苦しみを訴え、ヴァロワ家再興へのブルグント公国からの絶大な協力を、身を投げ出すかのような勢いで懇願した。

「どうか、シャルル公爵閣下、あの国賊レジナルド・ド・ヴァランスを討ち、このアキテーヌの地に、再び正義と秩序の光を取り戻すため、あなた様のその比類なきお力をお貸しくださいませ…! その暁には、ヴァロワ家はブルグント公国に対し、永遠の友好と、そして…このアキテーヌの、最も重要な交易権益の全てを、喜んでお譲りすることを、ヴァロワの名誉にかけ、ここにお誓い申し上げますわ…!」

 イザボーのその言葉は、あまりにも魅力的な提案だった。

 シャルル公は、イザボーのその言葉を、そしてその瞳の奥に宿る、ただならぬ覚悟と野心の色を、最後まで黙って聞いていたが、やがてその薄い唇に満足げな笑みを浮かべた。

「…よろしい。その言葉、確かに聞き届けたぞイザボー嬢。ならば、まずはアキテーヌの現状を、そしてレジナルドの弱点を、より詳細に、そして正確に把握する必要があるな。イザボー嬢、そなたにはアキテーヌ国内に残る、まだヴァロワ家に忠誠を誓う者たち、あるいはレジナルドに不満を抱く者たちと、密かに連絡を取り、レジナルド打倒のための、具体的な情報を集めてもらいたい。それが、我らが最初の、そして最も重要な『協力』の証となるであろう」

 シャルル公のその言葉は、イザボーに協力の道を示しつつも、その実、彼女の能力と、そしてブルグントへの忠誠心を試すための、巧妙な策でもあった。

 *

 イザボーは、シャルル公のその言葉の裏にある、彼女の利用価値を徹底的に見極めようとする、意図を痛いほど理解しつつも、その提案を、恭しく、そして感謝の表情と共に受け入れた。彼女には、もはや他に選択肢はなかったのだ。

 彼女は、ブルグント公爵直属の組織。その名を聞くだけでユーロディア大陸の全ての君主が震え上がると噂される、恐るべき諜報組織「影のギルド」の、限定的な協力を得ることを許された。それは同時に、彼女の全ての行動が「影のギルド」によって厳重に監視されることを意味していた。

 イザボーは、その「影のギルド」の力を借り、アキテーヌ国内の、まだ僅かに生き残っているヴァロワ派の貴族や、レジナルドの圧政に不満を抱く地方領主、そして聖教内部の穏健派の聖職者たちへ、密使を派遣する準備を進め始めた。

 彼女の目的は、シャルル公に言われた通り、単に情報を集めることだけではなかった。彼女の真の狙いは、彼らを再び結集させ、レジナルド打倒のための大規模な内乱の火種を、アキテーヌ国内の隅々にまで、密かに巧妙に蒔くことにあった。そして、そのアキテーヌの混乱に乗じて、ブルグント公国による大規模な軍事介入を引き出し、最終的には、自らがアキテーヌの女王としてレジナルドの首を刎ね、その玉座に返り咲く…それこそが、彼女の描く復讐のシナリオだったのだ。

 その策略家としての才能は、父アンリ公爵のそれを、ある意味では遥かに凌駕しているのかもしれない。だが、その道は多くの血を必要とする道でもあった。

 *

 ブルグント公爵シャルル・ド・ブルグンドの執務室。

 その日の深夜、側近の宰相モンターニュ侯爵が、分厚い報告書の束を抱えて退室した後、部屋の奥にある書棚に偽装された隠し扉が開いた。そして、そこから、湧き出てきたかのように、白衣に身を包んだ、不気味な雰囲気を漂わせる一人の女性が姿を現した。

 ドクトル・エリアーヌ・ヴェルダン。ブルグント公国宮廷付き筆頭錬金術師にして、公爵直属の秘密研究施設「黒曜石の塔」の若き所長である。その瞳は、常人には理解できない狂気的な探究心と、生命倫理など微塵も感じさせない冷たい輝きを宿していた。

「公爵閣下、先日アキテーヌの辺境で、我が『影のギルド』の者たちが捕獲いたしました、あの『検体』の分析が、ようやく第一段階を終了いたしました」

 ドクトル・ヴェルダンの声は、まるでガラスを爪で引っ掻くような、甲高く、神経質な響きを持っていた。

「あれは、やはり古の禁断の伝承に語られる『ヴァルドスの眷属』…ヘルマーチャーの下位個体に間違いございません。その驚異的な生命力、そして常軌を逸した戦闘能力は、人間のそれを遥かに凌駕しております。そして何よりも興味深いのは、その個体を構成する細胞組織が、我々人間のそれとは全く異なる、未知の力によって駆動されているという点です…! もし、この『力』の根源を解明し、それを安全に、そして効率的に制御し、我がブルグントの兵士たちに、その一部だけでも移植することができれば…ユーロディア大陸の覇権は、間違いなく、公爵閣下のその手の中に…!」

 ドクトル・ヴェルダンのその狂気じみた報告を、シャルル公は子供の戯言でも聞くかのように静かに聞いていた。

「…続けよ、ドクトル・ヴェルダン」

 シャルル公は、やがて低い声で命じた。

「その『古の力』、我がブルグントの永遠なる栄光のために、最大限に、そしてあらゆる手段を尽くして活用するのだ。必要なものは、金か? 人か? それとも、神の領域を侵すための、さらなる『実験材料』か…? 何でも、この私が与えよう。たとえ、それがこの世界全体の倫理や秩序を根底から覆す、禁断の研究であったとしてもな…アキテーヌのあの愚かな摂政レジナルドが、魔女狩りなどという、時代遅れの茶番にうつつを抜かしている間に、我らは真の『力』を手に入れるのだ」

 シャルル公のその言葉には、ユーロディア大陸全土を、自らの野望の祭壇に捧げようとする、悪魔的なまでの意志が込められていた。

 *

 数週間後。イザボーがブルグントからアキテーヌ国内へ派遣した密使の一人が、運悪く国境近くの森で、レジナルド公爵配下の黒狼兵団の巡回部隊に捕らえられてしまった。密使は、ギルバート男爵による執拗な拷問の末、ブルグントからの密命の内容と、イザボーがブルグント公爵シャルルの庇護下にあることを、全て白状してしまった。

 その衝撃的な報せは、直ちに摂政レジナルド公爵の元へと届けられた。彼は、その報告を聞き、その鉄仮面のような表情を珍しく怒りで歪ませた。

「おのれシャルル…! あの、抜け目のない狸めが!やはりあのヴァロワの小娘を利用して、このアキテーヌを内側から切り崩すつもりか…! そして、イザボーもただでは死なぬ、しぶとい害虫よ…! 面白い…面白いではないか! ならばこちらも、そのブルグントからの挑戦、そしてヴァロワの最後の残党のその哀れな足掻きを、真正面から受けて立とうではないか! アキテーヌとブルグントの間に、血の雨を降らせる時が来たようだな!」

 レジナルドのその言葉は、アキテーヌとブルグントの二大国の間に、避けられぬ全面戦争の暗雲が急速に垂れ込め始めていることを明確に示していた。

 一方、ブルグントの首都ディジョンでは、イザボーが、自らの派遣した密使が捕らえられたという報せを、シャルル公の側近モンターニュ侯爵から、静かに伝えられた。彼女は、自らの計画の甘さと、深い絶望とどうしようもない焦燥感に苛まれる。

 アキテーヌを巡る混乱は、もはや一国の内政問題には留まらず、国境を越え、ユーロディア大陸全体を巻き込む、血生臭い戦乱の序章となりつつあったのだ。
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