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7.侯爵様の饒舌な香り
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その後ヘルムートの怪我はすぐに良くなったものの、記憶面で隊の任務に就くにはまだ支障があるためしばらく休暇をとることとなった。
彼が屋敷にいる時間が増えることに最も懸念を抱いたのはオスカーだった。今までは夕食の時間だけ窮屈な沈黙に耐えればよかったのに、一日中会話もなく夫と同じ空間にいるなんて気まずいに決まっている――と。
しかしそれは杞憂だった。
体調の良くなったヘルムートと朝食を一緒に食べていると「オスカー、今朝は天気が良いから一緒に庭を散歩しないか?」と誘われた。この屋敷に来てから、彼とはどこへも出掛けたことがなく、庭ですら一緒に歩いたことがなかった。オスカーはそんなちょっとした誘いにすら心弾ませた。
――ずっと無視されていたのに……。
記憶を失くす前の彼とはろくに会話もできなかった。それなのに今のヘルムートは隣を歩くオスカーの手を取り、段差があれば声を掛けて注意を促してくれる。彼の手のひらは温かく、優しさと思いやりの気持ちが溢れるように伝わってきた。それが心地よくて、喋らなくても全く気まずくならなかったのが不思議だった。
あるときはオスカーが部屋でくつろいでいると「君が読みたいと言っていた作家の本を早速取り寄せたよ」とヘルムートがやってきた。どんな本を読むのかと聞かれ、何気なく答えたのを彼は覚えていてくれたのだ。それは手に入りにくい本だったのに、彼はどんな魔法を使ったのかオスカーのために入手してくれた。
またある日は夕方近くになって「今夜何を食べたい? 料理人と話したんだが、君の好きな食べ物や嫌いな食べ物を聞いたことがないと言うんだ。教えてくれるかな」と尋ねてきた。
嫁いできてからヘルムートが怪我をするまでの数ヶ月間、オスカーは夫とも使用人ともほとんど会話をしていなかった。これは自分が悪いのもあるのだが、ヘルムートはもっとオスカーに気を配るように使用人たちに念を押してくれた。
このような彼の突然の変化にオスカーは戸惑ったが、冷たく突き放されていた頃よりもずっと居心地が良くなった。
「ありがとう侯爵様……いえ、ヘルムート」
お礼を言うと彼はオスカーの肩を抱き寄せ、頬や額にそっと口づけをする。これも最初はびっくりしたが、あまりにも当然のように何度もされるので今は素直に受け入れられるようになった。
彼の傍らにいると、周囲が穏やかなフェロモンに包まれる。室内にいても自然の中にいるかのようで、オスカーはヘルムートの香りが気に入ってしまった。触れた瞬間に聞こえる『可愛い』『愛しい』『抱きしめたい』という不思議な声もはじめは落ち着かない気分にさせられたけれど、慣れると嬉しいものだった。
――自分が他人のフェロモンを心地よいと思うなんて……嫁いで来るまでは想像もしなかった。
フェロモンで感情が悟られるのははしたないと教えられてきたが、溢れ出る彼の気持ちを妻の自分だけが受け取るくらい悪いことではないだろう。
こうしてヘルムートは記憶が無いなりに夫らしく振る舞おうとしてくれ、まるで以前から仲の良い伴侶だったと錯覚しそうなほどだった。お陰でオスカーに対して好意的でなかった使用人たちまでも、態度が柔らかくなっていった。
彼が屋敷にいる時間が増えることに最も懸念を抱いたのはオスカーだった。今までは夕食の時間だけ窮屈な沈黙に耐えればよかったのに、一日中会話もなく夫と同じ空間にいるなんて気まずいに決まっている――と。
しかしそれは杞憂だった。
体調の良くなったヘルムートと朝食を一緒に食べていると「オスカー、今朝は天気が良いから一緒に庭を散歩しないか?」と誘われた。この屋敷に来てから、彼とはどこへも出掛けたことがなく、庭ですら一緒に歩いたことがなかった。オスカーはそんなちょっとした誘いにすら心弾ませた。
――ずっと無視されていたのに……。
記憶を失くす前の彼とはろくに会話もできなかった。それなのに今のヘルムートは隣を歩くオスカーの手を取り、段差があれば声を掛けて注意を促してくれる。彼の手のひらは温かく、優しさと思いやりの気持ちが溢れるように伝わってきた。それが心地よくて、喋らなくても全く気まずくならなかったのが不思議だった。
あるときはオスカーが部屋でくつろいでいると「君が読みたいと言っていた作家の本を早速取り寄せたよ」とヘルムートがやってきた。どんな本を読むのかと聞かれ、何気なく答えたのを彼は覚えていてくれたのだ。それは手に入りにくい本だったのに、彼はどんな魔法を使ったのかオスカーのために入手してくれた。
またある日は夕方近くになって「今夜何を食べたい? 料理人と話したんだが、君の好きな食べ物や嫌いな食べ物を聞いたことがないと言うんだ。教えてくれるかな」と尋ねてきた。
嫁いできてからヘルムートが怪我をするまでの数ヶ月間、オスカーは夫とも使用人ともほとんど会話をしていなかった。これは自分が悪いのもあるのだが、ヘルムートはもっとオスカーに気を配るように使用人たちに念を押してくれた。
このような彼の突然の変化にオスカーは戸惑ったが、冷たく突き放されていた頃よりもずっと居心地が良くなった。
「ありがとう侯爵様……いえ、ヘルムート」
お礼を言うと彼はオスカーの肩を抱き寄せ、頬や額にそっと口づけをする。これも最初はびっくりしたが、あまりにも当然のように何度もされるので今は素直に受け入れられるようになった。
彼の傍らにいると、周囲が穏やかなフェロモンに包まれる。室内にいても自然の中にいるかのようで、オスカーはヘルムートの香りが気に入ってしまった。触れた瞬間に聞こえる『可愛い』『愛しい』『抱きしめたい』という不思議な声もはじめは落ち着かない気分にさせられたけれど、慣れると嬉しいものだった。
――自分が他人のフェロモンを心地よいと思うなんて……嫁いで来るまでは想像もしなかった。
フェロモンで感情が悟られるのははしたないと教えられてきたが、溢れ出る彼の気持ちを妻の自分だけが受け取るくらい悪いことではないだろう。
こうしてヘルムートは記憶が無いなりに夫らしく振る舞おうとしてくれ、まるで以前から仲の良い伴侶だったと錯覚しそうなほどだった。お陰でオスカーに対して好意的でなかった使用人たちまでも、態度が柔らかくなっていった。
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