腐った竜に古豪の虎が牙をむくとき(第一話 似て非なるもの)

Kazu Nagasawa

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腐った竜に古豪の虎が牙をむくとき(第一章 虎の役目)

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◆第一章 虎の役目
一.金座屋敷にて
 その男は急な役目があると言われて江戸の金座屋敷に留めおかれた。
 しかし二日目になっても、どの様な役目で呼び出されたかなどの話はない。昨夜から徹夜で見まわる男に朝食が用意され、そのあとで休み処が指定された。

 もともと金座は小判などの金貨を製造する幕府の要所である。警護は万全と思いつつ上役から屋敷の警護は水も漏らさぬようにと言われ見回りをした。しかし見張りや警邏けいらをあらためて立てているようには見えない。男は何かあると思ったが平素の警護を見直すより何も変えないほうが良いと考えつつ案内人を待っていた。

 そのあと男は案内人に連れられて枯山水の庭に面した休み処にはいった。
 部屋の襖が閉めてあるので明かりは天窓からの日差しで保っている。二十畳ほどの部屋のなかに太い光の筋がとおり雲の切れ目とともに日差しが変わった。


 部屋の明るさに目がなれたところで襖に描かれた竜虎の絵がみえた。その絵のなかの竜と虎は互いを見ているような構図で、遠景に描かれた竜の眼は悲しみをたたえ表情がくすんで見えた。一方、近景にある虎は澄んだ眼で竜を突き刺すような視線をおくている。

 男がその絵に見入っていると案内人は絵の作者が不詳だと言った。
「この、みごとな絵の作者が不詳とは?」
「理由はわかりません」
「なるほど! 鋭すぎると?」
「はい! 威圧というか、怖さというか」
「どなたが作者を口外してはならぬと言われたのですか?」
「けして、そのようなことは……」
 口ごもる案内人をみて男は途中で話をやめた。男は絵の作者とその絵が金座屋敷におさめられた経緯を知っていたのである。
 そのあと案内人が宿泊用の着替えを置いて部屋を後にすると男は床の間の太刀掛を枕元に移し腰の大小を置いてかみしもを脱いだ。

 それから暫くして、
 周りの音に耳が慣れたころ屋敷の庭にある手水ちょうずが乱れる音がした。男はその音によって風が吹きはじめたことを知る。そして、その不規則な水の音しか聞こえないことを確かめるように静かによこになった。
 気付かないうちに手水ちょうずの音がもとに戻り男はふたたび役目のことを考えていた。すべからく天候が結果を左右すると予想したが潮位のことが気にかかる。できれば晴れ、雨と風はない方が良いと願って目を閉じた。すると庭の小石を踏む音がする。

――だれかいるのか?!
 思わず刀掛けに手をのばしたが握った感触はない。
 突然、襖が開けられ庭が開けた。
「いずれのご家中かな?」と、男が問う。
「問答無用!」
「人違いでは?」
「そんなはずはない!」
「またれよ! 火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたと知ってのことか?」
「知らぬ! お前を殺すことを請け負った」

 相手は四人。いずれもかみしも姿であるが見覚えはない。
 配下の者を呼んだが、その声は手水ちょうずの音によってかき消された。
 諮られたと思い庭に出ると縄を打たれた仲間がいた。
――夢であったか!
 男は急いで起きると襖を開けた。季節は弥生。よく晴れた日のことであった。

 小判などを造る金座は勘定奉行の配下にある。この勘定奉行は町奉行、寺社奉行とならぶ三奉行の一つといわれ幕府財政の要職である。屋敷のなかでは小判などの鑑定や検印なども行っている。このとき日本橋の金座には幕府の財政難を補うために豪商などから大量の小判が集められていた。そして集められた小判の鑑定や棄損などの確認を行ったのち江戸城の御金蔵おかねぐらに納められることとなっていた。この豪商などから集められた金貨を御用のための資金として『御用金』と呼んだ。

 ところが、時を同じくして金座屋敷に特別な計らいによって御用金以外のものが運び込まれた。この特別な計らいによって運び込まれたものは、およそ三十万枚の偽の小判で火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたであった男が偽造団から押収したものである。
 男が所属する火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたとは放火や強盗、殺人などの凶悪犯を取り締まる武官組織のことで重大な事件については老中や若年寄の指示をあおぐこともあった。
 男は勘定奉行のたっての頼みとして内々に金座における警護の立て直しを求められていた。そのことを知らない金座の勘定方などは男を警戒していたことは言うまでもない。
 そして、この金座屋敷に運び込まれた偽の小判を、どの様にするかを知るのは男と何人かの要職だけである。男は呼び出された際に他言無用と言われていた。


 昼になると休み処にいた男に呼び出しがあった。
 案内人に連れられて上席に当たる勘定吟味役かんじょうぎんみやくが待つ部屋にとおされた。すると別のことが他言無用として言い渡される。この勘定吟味役かんじょうぎんみやくから聞いた、もう一つの他言無用の話に男が珍しく顔をしかめた。
 その話とは、御用金のおよそ半分が紛失したという一大事。いまのところ盗まれた形跡はないと言われたが説明のなかに盗まれたことを否定できるような話はない。さらに、その時点においても男は今後の役目を言い渡されなかった。
 そして、
「もし、警護の失態が表ざたになれば御政道に関わる大問題となる。これまでの警護を強化して従事する者をすべて入れ替える」と言われた。この話に対し、
「では、この屋敷もつくり変えると?」と男が問う。
「もちろん! 人の入れ替えのあと御用金を扱う場所を変えて体制を刷新する」と勘定吟味役かんじょうぎんみやくが答えたことがそのまま男の役目となった。

 このあと短い休憩をはさんで詳細の打ち合わせを直属の上役と二人だけで行うことが言い渡された。だが男の目の前に座っている直属の上役とは面識はない。男は金座屋敷への急な呼び出しと面識のない上役との役目に何か訳があると思った。
 休憩の前に、その上役と男があらためて挨拶をかわし、上役は勘定方の田野倉と名のった。この時点で男はまだ所属も役職も決まっていないので前職の火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかた多嘉良両断斎たがらりょうだんさいと名のった。

 休憩のあいだも男は天窓の日差しの傾きを見ながら潮位記録をたしかめていた。やはり潮位のことが気になるらしい。偽の小判と御用金紛失にくわえ金座屋敷の警護を刷新するという新たな役目を考えながら男は休憩を終えた。そして、ふたたび役目の話となる。
 上役の田野倉の指示は、残りの御用金を一時的に金座屋敷から銀を所管する銀座屋敷に移すというもので一切の不手際は許されないと言われた。そのことについて、
「まことに失礼ながら、なにゆえ銀座に?」と男がたずねた。
 田野倉は一瞬考え、
「それは言えぬ。御奉行からの指示だ!」と、勘定奉行の指示であるとして銀座屋敷に運ぶ理由を言おうとしない。しかし男は内々に勘定奉行から銀座屋敷に運ぶ理由を聞いていた。
すかさず男が、
「では、先般こちらに運び込まれたものは、どうなされますか?」と特別な計らいによって運び込まれたものについて問う。
 ところが、
「それも、いまは言えぬ!」と、上役はこれについても口を閉ざす。男が偽の小判を金座屋敷に搬入するよう勘定奉行に直接打診したことを上役は知らないとみえた。
 この運び込まれたおよそ三十万枚の偽物の小判は火付盗賊改方である男が偽造団から押収したもので、男が本物とすり替える策を申し出ていた。これにより御用金紛失分の見た目の穴埋めが可能となり仮に紛失したとしても追加の損害はないのである。

 しばらく話が進み、潮位と順路の関係について男が触れた。
「銀座へは船でむかいますが潮の満ち引きによって順路が変わります。……」
 はじめて役目を取り仕切る上役は話の趣旨が分からないとみえる。
 すると男が、
「素人が船を操ることは出来ません。歩いて行くより安全でござる」と言うと、
「すべて任せる!」の一言が返る。
 そのあと上役から護衛の者には行き先を伝えてはならないと言われ男が迷う。この上役の指示に従うと運んだ先の銀座における警護や御用金の受け入れが整わないのである。
 そこで男は、
「失礼ながら、銀座で出迎える者にはいかがなされますか?」と問うと上役は、
「……?! 銀座に運ぶことを他言無用と言われている」と、他言無用にこだわったが、結果として『すべて任せる』が返って来た。
 男は、上役の面子を考えて、
「では、信頼のおける者のみに到着時刻を伝えることでいかかでしょうか?」と含みを入れた。この信頼のおける者を誰にするかが男の裁量となる。
 すると上役は、
「分かった! すべて任せる」と納得した。

 つづいて御用金の警護について最も重要な順路の話となる。順路や御用金の搬送手段などは極秘の取り扱いであり万が一のことがあればその場で変えることがある。そのことを前置きして男が、
「それで、順路は八丁堀をとおるのが確実。しかし水門は潮位によって開閉いたす」と、説明すると上役は地理も水路も分からないと言った。そこで男は一瞬考え、
「お任せください!」と言い、一連の警護はすべて火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)で取り仕切ると言った。このとき男の指示によって総勢五十名が金座屋敷に呼び出された。

 最後に、近くの船着き場まで駕籠(かご)を使うのが通例であると話を進めたところ、上役の田野倉は自分が駕籠に乗るものと思い込み、
「わたしは乗るつもりはない!」と返す。
 潮位が気になる男は早々にこのやり取りを切り上げようと、
「午後の満潮にあわせ、ほかの船が水路に入る前に役目を終えることが肝要!」と言った。
 すなわち男は、金座屋敷から御用金を安全に運ぶために駕籠を使って船着き場まで運び、ほかの船が邪魔にならず盗賊船もいない浅い潮位のうちに船で運ぶと言いたいのだ。ところが、そのことを理解できない田野倉は、
「わたしは駕籠には乗らずとも、船には乗る」と不満げに言った。
「おそれながら、荷物が重くて乗り切れません」と男に断られると田野倉の顔つきが変わり、
「この動きを知られぬよう、即刻の役目である!」と口調をあらげたが男にあわてる様子はない。最後に潮位票を胸にしまうと「こころえました」の一言をのこし準備にはいった。
 どうやら男は、この一連のやり取りによって田野倉を信用できると思ったようだ。


二.駕籠(かご)から船へ
 ほどなくして金座屋敷の門が開き三十人の護衛が駕籠(かご)を取り囲むように現れた。用意された駕籠(かご)は全部で三つ。いずれも見栄えのする引き戸の駕籠(かご)である。
 先頭にたって歩く男の背丈は六尺を超え警護のなかでひときわ目立つ。そして顔にはひげ(ひげ)の剃りあとがあり、襟元えりもとのちぢれた髪が特徴的で普通にみれば近寄りがたい。その男のほかにも厳つい風貌の侍がつづいた。そんな一団が日本橋通りをすすむと人の流れが一斉に道をゆずった。
 一団は、しばらく東に進み最寄りの船着き場を目指して日本橋川の土手を上がった。土手沿いには満開をむかえた桜並木があり多くの花見客が車座をつくっている。その車座と出店の間をぬうように大川(隅田川)まで人の流れが出来ていた。

 駕籠(かご)は一旦、土手のうえの桜の木の脇に止められ護衛が配置についたところで、ようやく花見客が気にし始めた。季節はまさに春爛漫はるらんまん。酒の匂いに混じって出店から鰻を焼く匂いがただよってくる。この光景から、あたかも要人が駕籠(かご)から花見をしているように見えていた。

 そんな陽気のなか、しばらく様子を見ていた男が船の空きを調べに船着き場に下りていった。土手の上から見える船の数は七艘。そのうちの一艘にはすでに客が乗りはじめていた。するといきなり、
「道をあけろ! 駕籠(かご)をとおす。道を開けろ!!」と護衛が花見客の流れを止めた。
 何事が起きたのかと駕籠(かご)の周りに人垣ができるが護衛にあわてる様子はない。あえて人の目をあつめ人垣で怪しい出入りを防いでいるように見える。

 こうして役目において人より大事なものを人知れず運ぶには、人を運んでいるように駕籠(かご)を使うのはよくあること。金座、銀座に関わる金品でないと見せかけるために駕籠(かご)はすこぶる有効なのである。
 このあと護衛が配置を船着き場まで二列に変え、あたかも船から要人が花見をするように段取りをした。すると人垣も護衛の配置にそって土手の下までつづいた。その護衛の配置の列のなかを男が船着き場からもどると駕籠(かごの)の引き戸を開けてなかを確かめ、
「積み荷を船に移す!」と指図をした。
 この指図にあわせ人垣のなかから「なんだ! だれもいねえのか」「お姫様が見られると思ったのに」などと不満と落胆の声があがった。駕籠(かご)のなかに人がいないとわかると徐々に人垣がとけた。

 周りに人がいなくなる頃合いをみて男が一番手前の船に駕籠(かご)を横付けするよう駕籠屋(かごや)に指示をした。その指示により先頭の駕籠(かご)が土手を下りていく。ところが徐々に早くなり指定の位置をとおり過ぎて桟橋の途中で止まった。その様子を見て残りの駕籠(かご)はおのずと下りる速度が遅くなる。ゆっくりと船の位置まで行くと担ぎ手はそろって腰をかがめ、ある者は膝をつき、ある者は汗を拭きながら疲れをにじませていた。

 無事に駕籠(かご)が指定の位置につき男が支払いをしていると護衛の配置が見張りと荷下ろし役の二手に分かれた。配置がととのい駕籠(かご)の引き戸が開けられたが、もちろん中には人などいない。そこには二尺(六十センチ)×一尺(三十センチ)角の白木の箱がそれぞれの駕籠(かご)に八つ積んであり一見すると大名むけの反物が入っているように見える。ところが、その箱を警護の侍が二人がかりで運ぶので船着き場にいた客と船頭がおかしいと気づきはじめた。
 しきりに周りから見られている視線の先で手際よく箱が運ばれていたが、船の上で箱を下ろすときに小判の音がした。その音に周りが静まりかえると箱の扱いがさらに慎重になった。

 一方でその音を聴いた船頭仲間が一斉に腰を上げ、そのなかの一人が、
「すまねぇ、急ぎの客が来た!」と、船待ちの客に次の船を待つように言った。先に並んでいた客は酒瓶と風呂敷包みを持っていたので船から桜を見ようとしていたらしい。ところが木箱のなかが小判であると気づいたらしく誰一人として不満を示すものはいなかった。
 男は客が頼みに応じたとみて指定の船の船頭を手招きした。
「すまぬ。貸し切りにしてくれ!」
「かしこまりました。で、どちらまで?」
「あとで話す」と、男は行き先を言わない。その逆に、船頭に川の下流に架かる橋の名前をたずねた。

 この疑うような問いかけと一方的に船の貸し切りを求める男に船頭が答えを渋った。そして「霊岸橋れいがんばし」とだけ小声でつぶやくと男はニヤリと笑いふところから財布を出して支払いをした。このとき男がたずねた霊岸橋れいがんばしは名前こそ特徴的だが目立つような橋ではなかった。男は船頭の知識と腕前をたしかめるために一瞬で通り過ぎるような短い橋のことを聞いたのである。
 この霊岸橋れいがんばしに至るには、日本橋の船着き場から川をくだり右手にある一つ目の水門を通り抜ける。すると、その水門のすぐ先に架かっている橋が霊岸橋れいがんばしなのである。八丁堀を経由して銀座にむかう船は必ずこの橋の下をとおるが、このとき満潮にむけて水門が開いていれば水路に入り橋が見える。しかし水門が閉まっていればもちろん橋を見ることも下を通ることも出来ない。従って、霊岸橋れいがんばしのことをたずねられた船頭はおのずと水門のことを意識すると男は考えた。
 すなわち男が担った役目には潮位と水路のことを熟知する船頭が欠かせないのである。

 船に乗り込んだのは二十人の警護のなかの五人だけ。ほかの客なら荷物をふくめて十人はらくに乗れる船である。貸し切りを歓ぶ船頭はすぐに船尾の杭に結んだもやいを手にした。そして、
「だんな! 下りでよろしいでしょうか?」と、行き先を遠まわしに聞こうとした。ところが「……!」と、無言でかえす男。
 一つ間をおき、男が桟橋から離れてから事情を話すと言った。このやり取りを聞いた護衛が辺りをしきりに気にしている。船頭はほかの者に行き先を知られたくないことにようやく気づいた。
 こうして積み荷の支度が終わると船頭が船の喫水を見て首をかしげ、竿で川底までの長さを測っていた。船頭は銀座までの水路の深さを予測しながら、
「あれ! ところで箱には何が?」と言った。
「何でもよかろう! 知らぬ方が良い」と男がかえしたところで船頭がゆっくり岸から船を離した。ところが船は流れに逆らいながら止まっている。このときもやいの綱の一巻きが残されていた。それを見て男は船頭の強情さにふたたびニヤリと笑い、わざとらしく出発をうながしたが、
「水門が開いていないと先には行けませんよ!」と船頭が返し、いぶかしげに煙管をくわえた。船頭は水門が閉まっていることに加え水位がまだ浅いと言いたいのである。
 男はその一言を待っていたように腕を組んで潮の上げどきを待つように言った。これがまさに積み荷によって変わる船の喫水と水路の関係を熟知した二人のやり取りなのである。


三.八丁堀を抜けて
 しばらく沈黙がつづいていた後、潮の変わり目に風がふき花びらが舞った。
「だんな! そろそろ潮どきですぜ」
「よかろう!」と二人が言葉を交わし、同時に周りの様子を見ながら残りのもやいの一巻きが解かれた。
 こうして日本橋の船着き場をはなれた船は流れにまかせ動き出したが、船頭は櫓をこごうとしない。船頭は船が川の中央に出ると船底の音を聴きながら竿を使って微妙に位置をかえていた。しばらくして船は右に船首を向け一つ目の水門をとおり八丁堀に抜ける水路に入った。その直後、橋の欄干が目にとまるが、すぐに見えなくなった。
「だんな! この上が霊岸橋でごぜぇます」と言って船頭が清めの塩をまいた。
 その気づかいに男が礼を言うと船頭がおどろいて返事を迷う。どうやら男の特徴から霊岸橋とのかかわりを感じたようである。

 この橋には罪を犯したものと償わせたものの過去がある。男がおもむろに手を合わせると船上の護衛も男にならい手を合わせていた。船頭は男と護衛の神妙な様子を見ても霊岸橋との関係を聞こうとしない。聞くことが出来ないような悲運の過去が記憶にあった。船は上げ潮によって徐々に水位が増すなかをゆっくり八丁堀にむかっていたが、霊岸橋の先は水位が思ったほどあがっておらず他の船は見当たらなかった。

 しばらくすると川底の泥が船の軌跡をなぞるように舞うので船尾にいた船頭が船首に位置を変えて竿で深さをたしかめていた。そして八丁堀に着いたところで船底に何かが当たり船が止まりかけた。それでも船頭は櫓をこごうとしない。とうとう八丁堀の同心長屋の横で船が止まってしまうと船頭は浅瀬に捕まったと前置きして、
「ここに盗賊が来ても非番の連中(同心)に捕まっちまいますね!」と言った。
「そうとは限らん! 油断できぬ」と男が話をさえぎる。対する船頭は、
「だんな! 大川(隅田川)の水門が閉まっておりやす。そろそろ行き先を!?」と、しびれを切らすが男はまたも行き先を言わず、
「もう少し待て! 閉まっている方が良い」と、かるく受けながした。すると船頭が、
「へい、承知! 女のあそこと同じで潮が満ちてから竿でさしやす!」と、男女の関係に謎らえて笑いを取ろうとしたが応じる者が一人もいない。気まずそうに櫓をこぎはじめた船頭をみて男が思わず笑った。

 そのあと船はゆっくり浅瀬を抜けて大川の水門にむかっていたが護衛はしきりに周りをうかがっている。よく見ると、同心長屋の向かいの岡場所に北前船が横付けされ十人ほどの水主(かこ)が竿で深さを確かめていた。護衛はこの北前船を警戒したのであった。幅にして五間ほどの岸と北前船の間を船が通るときに護衛が刀の柄(つか)に手を掛けた。船首にいた護衛の一人が刀を抜いて「妙なことをするでないぞ!」と水主(かこ)に言うと膝をついて許しを請う。その様子にどっと笑いが巻き起こった。
そのやり取りのなかで男が頭(かしら)と呼ばれると櫓をこぐ船頭の手がとまる。そして船頭は足元に置かれた木箱を足で小突きながら、
「あっしは、まっとうな物しか運ぶつもりはござんせん!」と言った。
 どうやら火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたが上位の者を呼ぶときに使う頭(かしら)という呼び名を聞いて船頭が盗賊との関係を疑ったとみえた。
 男はそれを見のがさず、
「気になるか? 中身は盗まれたものではない!」と言った。
「ええ!? それにしても、だんな」
「支障ない。古豪の虎の役目である!」
「なんと! それを先に行ってくださいやし」
「おまえが先に役目を聞いて断れば、斬り捨てるしかあるまい!」
「おっしゃる通りで!」と、苦笑の船頭が銀座に向きを変えはじめた。男はこのやり取りにおいも行き先を言ってはいない。すなわち行き先をあえて言わないことで船頭の経験と信頼を推し測ったのである。

 このとき男が言った『古豪の虎』とは、火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたのなかでも群を抜く手練てだれのことで、その名を聞いただけで盗賊や手配中の咎人とがにんがふるえ上がるほどの強者のことをいう。この男を筆頭とする虎の集団は、小判の輸送における護衛と紛失した御用金を見つけ出すことが役目とされた。従って、もし船頭が別の方向に船をすすめようとすれば男は船頭を切り捨てたはずである。
船はこのあと水位が上がるのを見込んで銀座にむかった。

 こうして船が大川(隅田川)の手前を銀座にむかう水路にはいると、護岸に縄梯子が垂らしてあるのが見えた。すると護衛の一人がこの川には城内や藩邸に向かう船も通るので溺れた者や度座衛門を引き揚げるための梯子だと言った。さらに仲間が川沿いの家々では井戸の水を使えば川に流し、たまにかわやの代わりにすると応じる。極めつけは同心長屋の裏木戸を開けると向かいの岡場所から男女の艶声つやごえが聞こえるなどと下世話な話が笑いをさそった。目ざす銀座までわずかであるが目的地を知らない護衛が冗談話に興じていたのである。
 その直後、
「それも風情だ!」と言った男の一言で雰囲気がかわり、護衛は目的地に近いことを察して話をやめた。


四.銀座にて
 しばらく水路を進み銀座の船着き場が見えると船頭は櫓を縄で固定して長尺の竿に持ちかえ船尾から船首に位置をかえた。この動きにあわせ船上の護衛が刀の柄(つか)に手を添えている。さらに船が船着き場に近づくと男が岸で待つ護衛の顔をたしかめた。銀座の船着き場には駕籠(かご)が四つみえる。そして男の知り合いと思しき護衛が桟橋に八人。そのうちの一人が独特の合図を送ってきた。それを見てから男が船頭と目線を合わせ桟橋に船を近づけさせた。
 船頭は竿をつかって船を進めもやいを慎重に岸に投げた。それと入れ替えに岸から投げられたもやいをゆっくりたぐり、
「(船を)着けやすぜ!」と言って惰性を使って船を桟橋に着けた。

 ところが、その動きに合わせるように一番後ろの駕籠(かご)から人が現れ、その者を岸にいた護衛が一斉にとり囲んだ。それに気づいた男が、
「待て! このたび着任された田野倉さまである」と制止の一言。男は予定の駕籠(かご)より一つ多い時点で上役の田野倉が金座屋敷から銀座の船着き場に来ていると思ったようだ。その田野倉が、
「わたしが田野倉である」と言うと護衛は一礼をして持ち場にもどった。この護衛の動きに田野倉は驚いたように見えたが自ら荷下ろしの指示をはじめた。どうやら到着の時刻だけを知らせるという事前の指示が徹底されていると思ったらしい。
 じつは、船がとおる水路の橋の上に無事に通過したことを確認するための見張りが配置され、その者が銀座の護衛に逐一状況を伝えていたのである。すなわち、事前に男が了解を得た『信頼のおける者のみに銀座の到着時刻を伝える』という話は意味合いが違っていたのであった。

 段取りに合わせて船からの荷下ろしが進むのをみて、
「では、あとは宜しくお願いいたします」と男が田野倉に頭を下げた。
「よかろう!」と、返す田野倉が渡し板につまずいて転びかけた。
 荷下ろしが開始されると積み荷の量が減るため渡し板との位置が変わるのである。そのあと船頭は舫の締め込みを慎重になおしていた。
 こうして一連の作業が終わると田野倉を乗せた駕籠(かご)を先頭にして銀座屋敷に小判の入った白木の箱が運ばれていった。男はそれを見送るように腰付けの煙管入れから長さ一尺ほどの煙管を取り出しタバコを詰めた。すると船頭は火種の準備をして、
「おぼえておりやすよ! ふんどし一つでご女中を背負っておられた」と言った。
「おう、そうかい!」と男が返す。
 この二人の交わした言葉に十年前からつづく思いが込められていた。船上では船のこと以外に言葉を交わすことがなかった船頭に男が火を借りて愛用の煙管でタバコをふかし、
「この一件がおわると、やっと家に帰れる」と笑顔で応じた。
 船の降り際に「ご苦労!」と残した声に労いの心地よさがのこされた。

 この御用金紛失という前代未聞の一大事に、勘定奉行配下の役人がどのような調査を行ったのかは明らかにされなかった。根本的な対策を考えた場合、原因究明と再発防止の両面で対策が行われるのが通例である。しかし前代未聞の御用金紛失の実態を調査し原因を明らかにするためには相当数の役人やの取り調べが必要となる。また問題が明らかになった時点で責任が追及され欠員が生じると世襲制をしいている金座では容易に代行できる人材が確保できない。すなわち金座の金貨製造は特定の者だけで伝承する門外不出の技術であるため事実調査や欠員によって長期間職務が出来なくなる。そして一度不正によって処分が行われると世襲の対象となる家系まで処分され二度と同族が金座に関わることが出来ない。これは金座の金貨製造にとって大変なリスクであるとともに問題を明るみに出さないという隠蔽体質いんぺいたいしつを生みだすことになった。まさに今回の御用金紛失の一件は金座の内部体質の弱点を知っている者が関わっていると男は思っていた。

 一方で偽の小判が市中に出回ったことは金座の門外不出の技術が外部に漏洩した可能性が高く、何らかの不祥事によって処分した関係者が偽の小判製造にかかわっていることはあり得る話である。この状況に危機感を募らせた勘定奉行は老中に報告し金座内部に目を光らせ金貨輸送の万全を図るために火付盗賊改方から多嘉良両断斎を呼び寄せた。そして金座屋敷に運び込まれた偽の小判のことを知る者の動きを内々に調べさせていたのである。その偽の小判のことを知る者の調査の指示の時点で相手に気づかれていたようだが、その先に別の目的が隠されていることを男と勘定奉行以外に知る者はいなかった。
 ちなみに偽物の小判は見た目が本物にそっくりで見ただけではわかりにくい。金の調合割合を少なくした分だけ偽物が幾分軽いだけであった。


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【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

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