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一章
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玲奈が夜中にやってきた日から、数週間が経った。
学校には来ていない。春樹さんの事件がショックだったのだろう。今までも休むことはあったが、私が何を言ってもほぼ意味がなかったので、様子を見るだけにしている。
それとは別で、私は相馬さんからの連絡に困っていた。
数分単位でメッセージが届くのだ。通知はオフにしたけれど、表示が邪魔でうんざりしていた。
休み時間にアプリを開いたら、固定している玲奈の下に、相馬さんの名前が表示されていた。玲奈ももう、ホストクラブに行くこともないだろうから、ブロックしようかなと指を動かす。
――大事な話があるんだ。
たった今送られてきた言葉に、意識が向けられる。
――伝えたいことがあって
伝えたいこと? もしかして玲奈関連のことかな、そう思って既読をつける。すぐに電話がかかってきた。私は画面をタップして出た。
――あ、か、佳代ちゃん!
「えっと、大事な話ってなんですか? 玲奈の話ですか?」
――え、ち、違うよ。そうじゃなくて
「あの、違うなら、私もう切りますね」
――ま、待って! お願い。週末に、日曜日に、俺の家に来て欲しい。な、何もしないから、それに、もうホストクラブこなくていいから、大丈夫になるから
でもと言い淀むと、相馬さんは、鼓膜が破れそうなくらいの声量でお願いしてきた。
「じゃあ、これから……連絡も、しないでもらいたいです」
――えっ、あっ、え、あ、わ、分かった。なるべく……しない。だから、日曜日、来てほしい
何の用事だろう。疑いは膨らんでいくが、何もしないと言っていたし、連絡もなくなるなら、いいだろうと思った。これで最後にしよう。
「分かりました」
――あ、ありがとう! 待ってるから、十二時頃、お昼に、来てほしい
私は再び同意した。相馬さんは、嬉しい、ありがとうと何度も呟いていた。構わず、「また日曜日に」と言って、通話を終わらせた。
相馬さんとの約束の日はすぐにやってきた。
相変わらず高級そうなマンションだなと、息を呑む。前回来たこともあり、今回はスムーズに部屋までたどりつけた。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。出てきた相馬さんの姿に、口があく。キチッとしたスーツと、いつもより整えられた髪。血色の良い肌。普段もかっこいいけれど、今日はいちだんと輝いていた。
動けずにいる私を、相馬さんは「佳代ちゃん、いらっしゃい」と言って、中に招いてきた。
正気に戻った私は、一体何があるんだろうと、足を踏み入れた。
「げ、玄関にね、花を置いてみたんだ。……佳代ちゃんは、好き?」
「……はい、良いと思います」
「そうだよね!」
口元を緩ませながら、何故か新しくなった部分を紹介してくる。適当に返事をしながら前へ進んだ。暗いリビングに足を踏み入れた瞬間、パッと電気がついた。一番最初に目に入ってきたのは、机の上にある、いちごのケーキだった。次に、二人がけのソファ。そして最後に、床に置いてある謎の包み。全部見覚えはない。
これはなんだと、理解するため、頭を動かしていた時、相馬さんが説明を始めた。
「こ、これはね、二人で食べようと思って買ったケーキだよ。ホールで買っちゃって、今日で食べきれないかもだけど、明日とか食べよう? あ、お腹すいてるよね、ご飯も用意してるから、先にそっちでもいいよ。あと、マグカップも二つ買ったんだ。そ、それでね、ソファ。やっぱり、あった方がいいかなって、疲れた時、ここで休めるように。あと、あとね、洋服とか、小物とか、化粧水とかも、買ったんだよ」
ペラペラと喋っているが、私の耳には全然入ってこない。何のためにこれを私に見せるの?
「そ、相馬さん。これ、どうして、私に見せたんですか? 」
「え、あっ、いっぱいいっぱいでちゃんと言ってなかった。ご、ごめんね。あ、あのね、付き合って結構経ったでしょ? だから同棲したいなって、思って、俺色々用意したんだ。佳代ちゃんはなかなか店にこられないし、店だと、お金使わせちゃうみたいでいやだし、でも忙しいから、メールも返事できなかったり、デートもできなかったり、すれ違ってるなって思ったから、一緒に暮らせば、問題ないでしょ?」
全身の体温が一瞬でなくなった。相馬さんはなんの話をしているの? 同棲 ? デート? 身に覚えがない。
「あの……付き合ってるって……誰と、誰がですか?」
「え? 佳代ちゃんと俺だよ。急にどうしたの」
付き合うなんて、私はひとことも言っていない。なのに何故、相馬さんは思い込んでいるのか。
「あ、それでね……えっと、大事な話っていうのは、えっと」
相馬さんは、突然私の手を取った。私が震えていることに気づかないまま、ポケットから何かを取り出している。
「ちゃんとしたのは、二人で選びたいからさ、こ、これは婚約指輪なんだけど……。佳代ちゃん、俺と結婚してください! 」
冷たい感触が指に触れる。何とか視線を手元に向けた。そして、湧き出た嫌悪感と一緒に、はまった指輪を引き抜いた。滑り落ち、コン、コンと無機質な音が響く。
それを拾うことなんてできず、じっとみつめた。
「か、佳代ちゃん? い、嫌だった? ご、ごめんね。もっと可愛くて高いのにすれば良かったかな……ごめんね、買い直すから」
「……じゃなくて」
「え?」
「そうじゃなくて……付き合ってるって、どういうことですか? わ、私に、恋人はいません」
シンと、沈黙が流れる。視線をキョロキョロと、下に向けて動かす。小物などが入っているであろう包みのそばに、色違いのスリッパや、ハートの付いたクッションまであって、鳥肌がたった。
体が押される。相馬さんが私の両腕を掴んできた。
「い、いないって、どういうこと? お、俺と付き合ってるでしょ」
「つ、付き合ってないです」
「なんで? なんでそんなこと言うの? 恋人同士でしょ? 嘘つかないでよ!」
「ついてないです。は、離してください……」
「好きって! 言っただろ!」
怒鳴られて、喋るのを辞めた。相馬さんは下を向いて何かをぶつぶつと呟いたあと、私の目を見てきた。
「お、俺、俺の、俺の事、好きって言ったでしょ? 私も好きですって言った……。言ったじゃん。ねぇ」
「そ、相馬さんは、ホストですよね。好きって、誰にでも言うんでしょう? もし本気の好きだって言うなら、う、受け取れません……ごめんなさい。私は相馬さんのこと、好きじゃないです」
言い切ると、相馬さんの顔から、表情が抜け落ちた。
「は、はは……そ、そっか、じ、じゃあさ、あれ、嘘だったんだ。そっか……」
私の服の袖を掴んだまま、相馬さんが床に崩れ落ちる。膝をついて、お腹に顔を埋めてくる。
距離を取ろうとして後ずさったら、鼻をすする音が聞こえてきた。
「っ……いやだ、いやだよ、ねぇ、いやだ! お、俺、つぎあいだい。がよちゃんと、恋人になりだい。お、俺ね、俺、おれざ、ず、すぎになっだのはじめでなんだよ? は、はづごいなんだ。が、かよちゃんが」
うっ、ひっぐと、泣きながら喋っている。水滴が染み込んできて冷たい。私は小さな声で、「……無理です。ごめんなさい」と答えた。
「お、俺が、俺がさ、女の子になって、顔がえて、名前もがえて、そしだら……そうしだら、す、好きになってくれる? ど、どうしだら、いい……? ね、ねぇ……い、嫌だよ、お、おれ、嫌だ、いやだ……す、好きじゃなくていい、いいからさ、だ、だから、おれのそばにいて? ね、お願い。好きなんだ、大好き、愛してるんだよ……!い、嫌だっ……うっ……」
ぎゅっと、腰に腕を回してくる。きつくきつく、抱きしめられる。
何も言えなくて、黙って相馬さんの腕を引き剥がした。
ボロボロの顔に、ぐしゃぐしゃの髪。服もヨレヨレになっていて、でも、私は見ないふりをして、後ろを向いた。
早く帰ろう。そう思って玄関に向かおうとしたら、すごい勢いで背後から引っ張られた。次の瞬間、ガチリと、歯がなにかにぶつかった。
「……ふっ……ん!」
吸えなくなった息、口内に入り込んできた異物に、体が震えた。
「んっ……ちゅ……ん……んん」
異を唱えようとしても、隙を与えてくれない。水音が響いている。
舌を吸われ、唾液が混ざり会う。
気持ち悪くて気持ち悪くて、私は片手を、相馬さんの頬に叩きつけた。
相馬さんは力を緩め、唖然とした顔で、へたりこんだ。私は上から睨みつけ、襲われた拍子に落ちたバッグを掴み、家から逃げ出した。
そして、ひたすら走った。
唇を何度もこする。
早く忘れたい。
何も考えたくない。
***
一ヶ月が経った。
相馬さんとは連絡することも、会うこともしていない。
急にあの時の記憶がフラッシュバッグするので、授業にも集中出来ずにいた。
「――よ、佳代~、どうしたの? 大丈夫?」
「……あ、うん。大丈夫」
理由は分からないが、数週間前から玲奈は元気を取り戻して、学校に来るようになった。
「それより玲奈、何かあった? 楽しそうな顔してる」
「あ、やっぱり分かる? 実はね~、最近幸せなんだぁ。佳代が言ってた通り、好きな人ができたから!」
「そうなの?」
「うん! ずっと嫌だなって思ってたことをね、受け入れてもらえたんだぁ」
嫌だと思っていたこと、とはなんだろう。玲奈の発言で聞きたいところがあったが、楽しそうにしているところに、水をさすわけにはいかない。
良かったねと、私は返事をした。
「あ、佳代にも紹介してあげる! 今日の放課後カフェ行こう!」
「いいけど……そんな急に大丈夫なの?」
「うん! 大丈夫!」
それならと承諾し、授業終わりに近くのお店に行くことになった。
玲奈と二人で向かい合って座り、会話をする。頼んだ飲み物が半分くらいの量になった時、玲奈が突然立ち上がった。
「え、玲奈?」
「お店着いたって、迎えいってくる!」
小走りで離れていく背中をながめる。玲奈には、今度こそ幸せになってほしい。
ストローで、氷をかき混ぜていると、足音が近づいてきた。ピタリと横で止まったので、私は顔を上げた。
「おかえり――」
「じゃーん、黒金さんです! 私の彼氏なんだ!」
予想外の人物に、グラスを持つ手に力がこもる。
喉が瞬く間にカラカラになった。
「……なんで、そ……黒金さんが、ここにいるんですか。どこで、どこで玲奈とあったんですか」
穏やかな顔をしている相馬さんは、喋らない。変わりに隣の玲奈が口を開いた。
「ホストクラブに払わないといけないお金が残っててね、それを払いに行ったら、相馬さんに話しかけられたんだー! それでね、仲良くなって~、付き合うことになったの」
そうなんですか? と、相馬さんに尋ねても、頷きもしない。
ガシャンと大きな音をたてて、私の持っていたグラスが倒れた。
玲奈は「えっ、どうしたの佳代! 珍しい! ふきん持ってくるね!」と言って、その場を離れた。
残った私と相馬さん。
「どういうことなんですか……玲奈と付き合ってるって」
相馬さんは私の顔を見下ろしながら、ははと、笑った。
「ホストだから、営業で好きって言ったら、付き合ってると思っちゃったみたい」
「なっ……」
唇を噛む。言い返そうとしたら、相馬さんが先に話し始めた。
「なんであんなにバカなのに、佳代ちゃんと同じ大学に入ってるんだろうと思ってたんだ。ずっとおかしいなって……。お酒たくさん飲ませて酔わせたら、ペラペラ喋りだしたよ。あの女の父親は偉いとこの人みたいで、あの女。あ~、玲奈? のことが好きなんだって。血が繋がった娘なのに。だから母親と父親の仲は最悪。母親からは嫌われて、父親からは気持ち悪い感情を向けられて、でも、金はあったから、行きたい場所にいけて、生活に不自由はなかったんだって。だから、ちゃんとした愛に飢えてるだろうなって思って、欲しいだろうなって言葉かけたら、コロッと落ちたんだよね」
初めて聞いた玲奈の過去。何があって、何が辛いかなんて、私にひとことも言ってこなかった。
いつもにこにこして、元気で。
「もしかして……知らなかった? あの女の生い立ち。親友って言ってたのにね、所詮その程度なんだ」
頭に血が上って、殴りそうになった。けれど、後ろに見えた玲奈の姿に、腕を下ろした。
「なんか全然なくて、やっと見つけたから、たくさん持ってきた!」
戻ってきた玲奈は両手にふきんを持ち、こぼれた飲み物を拭き始める。
私も一緒に拭いていると、「なんか、佳代変だよ、どうしたの?」と顔を覗き込まれた。なんでもないよと、誤魔化す。
「あ、飲むものなくなっちゃったからショックなの? 頼む? えーと、ジャスミン茶とか?」
メニュー表を掴み、指をさしてくる。いらないと断ろうとしたら、相馬さんが口を挟んできた。
「……佳代ちゃんはいちごジュースがいいんじゃない? いちご、好きなんでしょ?」
「ちがっ――」
「佳代は甘いの普通? くらいだからあんま飲まないの。いちごは私が好きなんだ! あ、黒金さん今度いちごケーキ食べに行こう!」
否定しようとしたら、玲奈が訂正して、提案をした。相馬さんは、それを無視して、私の顔を見てきた。
「……佳代ちゃんは、何が好きなの」
私は押し黙る。玲奈は違和感に気づかず、「佳代はねー、カルボナーラが好きなんだ! 私の作ったやつ」と呑気に答えている。
玲奈、と名前を呼ぼうとした時、相馬さんが玲奈の服に触れた。
「シミ、できちゃってるから、落としてきた方がいいんじゃないかな」
「あっ、ほんとだ! お気に入りなのに~。気づかなかった。黒金さんありがとう!」
トイレに向かう玲奈。追いかけようと腰を上げたら、正面に相馬さんが座ってきた。
「ねぇ佳代ちゃん」
今まで聞いたことのない、低い声だった。背筋が凍る。嫌な汗が、首を流れる。
「佳代ちゃんは俺にホントのことひとつも言ってくれなかったんだね」
口は笑っているのに、目は笑っていない。逃げなきゃ、玲奈を連れて早く。
席から立った私の左腕が掴まれる。掴んできた犯人が相馬さんなのは、見なくても分かった。振りほどこうと体に力を込めたら、耳に声が届いた。
「俺ね、あの女のこと大嫌いなんだ。だから、酷いこと、いくらでもできるんだよね」
足が縫いとめられる。
はっはっと、断続的に息がこぼれる。振り返れなくて、逃げることもできなくて、石像のように固まった。
ズキリ。
刺したような痛み。
得体の知れない衝撃が左手からした。引っ張られた方の腕を見ると、相馬さんの顔が視界に映った。
そこから下に辿って見ると、私の薬指に、見慣れない歯型があった。
血が滲んで赤くなっている。
あの日、相馬さんの家ではめられた指輪を思い出す。
「佳代ちゃん」
甘く蕩けるような声で名前を呼ばれた。
「俺と結婚して」
そう告げてきた男の顔は、ゾッとするほど綺麗だった。
学校には来ていない。春樹さんの事件がショックだったのだろう。今までも休むことはあったが、私が何を言ってもほぼ意味がなかったので、様子を見るだけにしている。
それとは別で、私は相馬さんからの連絡に困っていた。
数分単位でメッセージが届くのだ。通知はオフにしたけれど、表示が邪魔でうんざりしていた。
休み時間にアプリを開いたら、固定している玲奈の下に、相馬さんの名前が表示されていた。玲奈ももう、ホストクラブに行くこともないだろうから、ブロックしようかなと指を動かす。
――大事な話があるんだ。
たった今送られてきた言葉に、意識が向けられる。
――伝えたいことがあって
伝えたいこと? もしかして玲奈関連のことかな、そう思って既読をつける。すぐに電話がかかってきた。私は画面をタップして出た。
――あ、か、佳代ちゃん!
「えっと、大事な話ってなんですか? 玲奈の話ですか?」
――え、ち、違うよ。そうじゃなくて
「あの、違うなら、私もう切りますね」
――ま、待って! お願い。週末に、日曜日に、俺の家に来て欲しい。な、何もしないから、それに、もうホストクラブこなくていいから、大丈夫になるから
でもと言い淀むと、相馬さんは、鼓膜が破れそうなくらいの声量でお願いしてきた。
「じゃあ、これから……連絡も、しないでもらいたいです」
――えっ、あっ、え、あ、わ、分かった。なるべく……しない。だから、日曜日、来てほしい
何の用事だろう。疑いは膨らんでいくが、何もしないと言っていたし、連絡もなくなるなら、いいだろうと思った。これで最後にしよう。
「分かりました」
――あ、ありがとう! 待ってるから、十二時頃、お昼に、来てほしい
私は再び同意した。相馬さんは、嬉しい、ありがとうと何度も呟いていた。構わず、「また日曜日に」と言って、通話を終わらせた。
相馬さんとの約束の日はすぐにやってきた。
相変わらず高級そうなマンションだなと、息を呑む。前回来たこともあり、今回はスムーズに部屋までたどりつけた。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。出てきた相馬さんの姿に、口があく。キチッとしたスーツと、いつもより整えられた髪。血色の良い肌。普段もかっこいいけれど、今日はいちだんと輝いていた。
動けずにいる私を、相馬さんは「佳代ちゃん、いらっしゃい」と言って、中に招いてきた。
正気に戻った私は、一体何があるんだろうと、足を踏み入れた。
「げ、玄関にね、花を置いてみたんだ。……佳代ちゃんは、好き?」
「……はい、良いと思います」
「そうだよね!」
口元を緩ませながら、何故か新しくなった部分を紹介してくる。適当に返事をしながら前へ進んだ。暗いリビングに足を踏み入れた瞬間、パッと電気がついた。一番最初に目に入ってきたのは、机の上にある、いちごのケーキだった。次に、二人がけのソファ。そして最後に、床に置いてある謎の包み。全部見覚えはない。
これはなんだと、理解するため、頭を動かしていた時、相馬さんが説明を始めた。
「こ、これはね、二人で食べようと思って買ったケーキだよ。ホールで買っちゃって、今日で食べきれないかもだけど、明日とか食べよう? あ、お腹すいてるよね、ご飯も用意してるから、先にそっちでもいいよ。あと、マグカップも二つ買ったんだ。そ、それでね、ソファ。やっぱり、あった方がいいかなって、疲れた時、ここで休めるように。あと、あとね、洋服とか、小物とか、化粧水とかも、買ったんだよ」
ペラペラと喋っているが、私の耳には全然入ってこない。何のためにこれを私に見せるの?
「そ、相馬さん。これ、どうして、私に見せたんですか? 」
「え、あっ、いっぱいいっぱいでちゃんと言ってなかった。ご、ごめんね。あ、あのね、付き合って結構経ったでしょ? だから同棲したいなって、思って、俺色々用意したんだ。佳代ちゃんはなかなか店にこられないし、店だと、お金使わせちゃうみたいでいやだし、でも忙しいから、メールも返事できなかったり、デートもできなかったり、すれ違ってるなって思ったから、一緒に暮らせば、問題ないでしょ?」
全身の体温が一瞬でなくなった。相馬さんはなんの話をしているの? 同棲 ? デート? 身に覚えがない。
「あの……付き合ってるって……誰と、誰がですか?」
「え? 佳代ちゃんと俺だよ。急にどうしたの」
付き合うなんて、私はひとことも言っていない。なのに何故、相馬さんは思い込んでいるのか。
「あ、それでね……えっと、大事な話っていうのは、えっと」
相馬さんは、突然私の手を取った。私が震えていることに気づかないまま、ポケットから何かを取り出している。
「ちゃんとしたのは、二人で選びたいからさ、こ、これは婚約指輪なんだけど……。佳代ちゃん、俺と結婚してください! 」
冷たい感触が指に触れる。何とか視線を手元に向けた。そして、湧き出た嫌悪感と一緒に、はまった指輪を引き抜いた。滑り落ち、コン、コンと無機質な音が響く。
それを拾うことなんてできず、じっとみつめた。
「か、佳代ちゃん? い、嫌だった? ご、ごめんね。もっと可愛くて高いのにすれば良かったかな……ごめんね、買い直すから」
「……じゃなくて」
「え?」
「そうじゃなくて……付き合ってるって、どういうことですか? わ、私に、恋人はいません」
シンと、沈黙が流れる。視線をキョロキョロと、下に向けて動かす。小物などが入っているであろう包みのそばに、色違いのスリッパや、ハートの付いたクッションまであって、鳥肌がたった。
体が押される。相馬さんが私の両腕を掴んできた。
「い、いないって、どういうこと? お、俺と付き合ってるでしょ」
「つ、付き合ってないです」
「なんで? なんでそんなこと言うの? 恋人同士でしょ? 嘘つかないでよ!」
「ついてないです。は、離してください……」
「好きって! 言っただろ!」
怒鳴られて、喋るのを辞めた。相馬さんは下を向いて何かをぶつぶつと呟いたあと、私の目を見てきた。
「お、俺、俺の、俺の事、好きって言ったでしょ? 私も好きですって言った……。言ったじゃん。ねぇ」
「そ、相馬さんは、ホストですよね。好きって、誰にでも言うんでしょう? もし本気の好きだって言うなら、う、受け取れません……ごめんなさい。私は相馬さんのこと、好きじゃないです」
言い切ると、相馬さんの顔から、表情が抜け落ちた。
「は、はは……そ、そっか、じ、じゃあさ、あれ、嘘だったんだ。そっか……」
私の服の袖を掴んだまま、相馬さんが床に崩れ落ちる。膝をついて、お腹に顔を埋めてくる。
距離を取ろうとして後ずさったら、鼻をすする音が聞こえてきた。
「っ……いやだ、いやだよ、ねぇ、いやだ! お、俺、つぎあいだい。がよちゃんと、恋人になりだい。お、俺ね、俺、おれざ、ず、すぎになっだのはじめでなんだよ? は、はづごいなんだ。が、かよちゃんが」
うっ、ひっぐと、泣きながら喋っている。水滴が染み込んできて冷たい。私は小さな声で、「……無理です。ごめんなさい」と答えた。
「お、俺が、俺がさ、女の子になって、顔がえて、名前もがえて、そしだら……そうしだら、す、好きになってくれる? ど、どうしだら、いい……? ね、ねぇ……い、嫌だよ、お、おれ、嫌だ、いやだ……す、好きじゃなくていい、いいからさ、だ、だから、おれのそばにいて? ね、お願い。好きなんだ、大好き、愛してるんだよ……!い、嫌だっ……うっ……」
ぎゅっと、腰に腕を回してくる。きつくきつく、抱きしめられる。
何も言えなくて、黙って相馬さんの腕を引き剥がした。
ボロボロの顔に、ぐしゃぐしゃの髪。服もヨレヨレになっていて、でも、私は見ないふりをして、後ろを向いた。
早く帰ろう。そう思って玄関に向かおうとしたら、すごい勢いで背後から引っ張られた。次の瞬間、ガチリと、歯がなにかにぶつかった。
「……ふっ……ん!」
吸えなくなった息、口内に入り込んできた異物に、体が震えた。
「んっ……ちゅ……ん……んん」
異を唱えようとしても、隙を与えてくれない。水音が響いている。
舌を吸われ、唾液が混ざり会う。
気持ち悪くて気持ち悪くて、私は片手を、相馬さんの頬に叩きつけた。
相馬さんは力を緩め、唖然とした顔で、へたりこんだ。私は上から睨みつけ、襲われた拍子に落ちたバッグを掴み、家から逃げ出した。
そして、ひたすら走った。
唇を何度もこする。
早く忘れたい。
何も考えたくない。
***
一ヶ月が経った。
相馬さんとは連絡することも、会うこともしていない。
急にあの時の記憶がフラッシュバッグするので、授業にも集中出来ずにいた。
「――よ、佳代~、どうしたの? 大丈夫?」
「……あ、うん。大丈夫」
理由は分からないが、数週間前から玲奈は元気を取り戻して、学校に来るようになった。
「それより玲奈、何かあった? 楽しそうな顔してる」
「あ、やっぱり分かる? 実はね~、最近幸せなんだぁ。佳代が言ってた通り、好きな人ができたから!」
「そうなの?」
「うん! ずっと嫌だなって思ってたことをね、受け入れてもらえたんだぁ」
嫌だと思っていたこと、とはなんだろう。玲奈の発言で聞きたいところがあったが、楽しそうにしているところに、水をさすわけにはいかない。
良かったねと、私は返事をした。
「あ、佳代にも紹介してあげる! 今日の放課後カフェ行こう!」
「いいけど……そんな急に大丈夫なの?」
「うん! 大丈夫!」
それならと承諾し、授業終わりに近くのお店に行くことになった。
玲奈と二人で向かい合って座り、会話をする。頼んだ飲み物が半分くらいの量になった時、玲奈が突然立ち上がった。
「え、玲奈?」
「お店着いたって、迎えいってくる!」
小走りで離れていく背中をながめる。玲奈には、今度こそ幸せになってほしい。
ストローで、氷をかき混ぜていると、足音が近づいてきた。ピタリと横で止まったので、私は顔を上げた。
「おかえり――」
「じゃーん、黒金さんです! 私の彼氏なんだ!」
予想外の人物に、グラスを持つ手に力がこもる。
喉が瞬く間にカラカラになった。
「……なんで、そ……黒金さんが、ここにいるんですか。どこで、どこで玲奈とあったんですか」
穏やかな顔をしている相馬さんは、喋らない。変わりに隣の玲奈が口を開いた。
「ホストクラブに払わないといけないお金が残っててね、それを払いに行ったら、相馬さんに話しかけられたんだー! それでね、仲良くなって~、付き合うことになったの」
そうなんですか? と、相馬さんに尋ねても、頷きもしない。
ガシャンと大きな音をたてて、私の持っていたグラスが倒れた。
玲奈は「えっ、どうしたの佳代! 珍しい! ふきん持ってくるね!」と言って、その場を離れた。
残った私と相馬さん。
「どういうことなんですか……玲奈と付き合ってるって」
相馬さんは私の顔を見下ろしながら、ははと、笑った。
「ホストだから、営業で好きって言ったら、付き合ってると思っちゃったみたい」
「なっ……」
唇を噛む。言い返そうとしたら、相馬さんが先に話し始めた。
「なんであんなにバカなのに、佳代ちゃんと同じ大学に入ってるんだろうと思ってたんだ。ずっとおかしいなって……。お酒たくさん飲ませて酔わせたら、ペラペラ喋りだしたよ。あの女の父親は偉いとこの人みたいで、あの女。あ~、玲奈? のことが好きなんだって。血が繋がった娘なのに。だから母親と父親の仲は最悪。母親からは嫌われて、父親からは気持ち悪い感情を向けられて、でも、金はあったから、行きたい場所にいけて、生活に不自由はなかったんだって。だから、ちゃんとした愛に飢えてるだろうなって思って、欲しいだろうなって言葉かけたら、コロッと落ちたんだよね」
初めて聞いた玲奈の過去。何があって、何が辛いかなんて、私にひとことも言ってこなかった。
いつもにこにこして、元気で。
「もしかして……知らなかった? あの女の生い立ち。親友って言ってたのにね、所詮その程度なんだ」
頭に血が上って、殴りそうになった。けれど、後ろに見えた玲奈の姿に、腕を下ろした。
「なんか全然なくて、やっと見つけたから、たくさん持ってきた!」
戻ってきた玲奈は両手にふきんを持ち、こぼれた飲み物を拭き始める。
私も一緒に拭いていると、「なんか、佳代変だよ、どうしたの?」と顔を覗き込まれた。なんでもないよと、誤魔化す。
「あ、飲むものなくなっちゃったからショックなの? 頼む? えーと、ジャスミン茶とか?」
メニュー表を掴み、指をさしてくる。いらないと断ろうとしたら、相馬さんが口を挟んできた。
「……佳代ちゃんはいちごジュースがいいんじゃない? いちご、好きなんでしょ?」
「ちがっ――」
「佳代は甘いの普通? くらいだからあんま飲まないの。いちごは私が好きなんだ! あ、黒金さん今度いちごケーキ食べに行こう!」
否定しようとしたら、玲奈が訂正して、提案をした。相馬さんは、それを無視して、私の顔を見てきた。
「……佳代ちゃんは、何が好きなの」
私は押し黙る。玲奈は違和感に気づかず、「佳代はねー、カルボナーラが好きなんだ! 私の作ったやつ」と呑気に答えている。
玲奈、と名前を呼ぼうとした時、相馬さんが玲奈の服に触れた。
「シミ、できちゃってるから、落としてきた方がいいんじゃないかな」
「あっ、ほんとだ! お気に入りなのに~。気づかなかった。黒金さんありがとう!」
トイレに向かう玲奈。追いかけようと腰を上げたら、正面に相馬さんが座ってきた。
「ねぇ佳代ちゃん」
今まで聞いたことのない、低い声だった。背筋が凍る。嫌な汗が、首を流れる。
「佳代ちゃんは俺にホントのことひとつも言ってくれなかったんだね」
口は笑っているのに、目は笑っていない。逃げなきゃ、玲奈を連れて早く。
席から立った私の左腕が掴まれる。掴んできた犯人が相馬さんなのは、見なくても分かった。振りほどこうと体に力を込めたら、耳に声が届いた。
「俺ね、あの女のこと大嫌いなんだ。だから、酷いこと、いくらでもできるんだよね」
足が縫いとめられる。
はっはっと、断続的に息がこぼれる。振り返れなくて、逃げることもできなくて、石像のように固まった。
ズキリ。
刺したような痛み。
得体の知れない衝撃が左手からした。引っ張られた方の腕を見ると、相馬さんの顔が視界に映った。
そこから下に辿って見ると、私の薬指に、見慣れない歯型があった。
血が滲んで赤くなっている。
あの日、相馬さんの家ではめられた指輪を思い出す。
「佳代ちゃん」
甘く蕩けるような声で名前を呼ばれた。
「俺と結婚して」
そう告げてきた男の顔は、ゾッとするほど綺麗だった。
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……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。
彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。
しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!?
※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています
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とても面白かったです!黒金さんが佳代さんに対して緊張して喋ってるところも可愛かったです。最後は黒金さんの歪んでる愛を感じて改めてヤンデレの怖さを実感しました^^その後がめっちゃ気になります笑
お返事遅れてしまいすみません!好きな人の前だと何も上手くいかない男キャラです😂お読み下さりありがとうございました!感想までいただけて嬉しいかぎりです。一応話としては終わりですが、またアイディアが出てきたら制作しますね。(ハッピーにはなれなさそう笑)