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17 平和になったら、温泉に入りたくなった
しおりを挟む朝の芝域は、静かすぎた。
風が音を立てずに抜けていく。雲は高く、光は柔らかい。芝は夜露をまとい、一本一本の葉が朝日に反射して、まるで薄いガラスみたいにきらっと光っている。
(……またこれ、ゴルフ雑誌の巻頭グラビアじゃん)
現実世界なら、こういう写真の下に「朝露のグリーンは転がりが抑えられる」みたいなコメントが添えられる。俺は芝に足を置き、そっと踏み込んだ。
沈み込みは浅く、反発が均一。柔らかいのに、負けない。
「芝、今日もげんき、げんきー!」
隣で浮いている妖精シルフィが言った。
「きょう、へいわ」
シルフィは肩の高さでふわふわしながら、雑誌編集者みたいな口調で付け足す。
「朝露、ちょっと」
「転がり、すこし遅い」
「でも、芝、いたくない」
「最後の一言、個人的感情入ってるな」
「芝、だいじ」
短いが、強い。
俺は芝を見下ろして頷いた。ここが荒れれば、俺の気分が荒れる。そして妖精はたぶん、本気で怒る。
背後に、静かな気配。
振り返らなくても分かる。無口な兵士――ガルドだ。相変わらず無駄のない立ち姿で、芝域の向こうを見ている。剣には触れない。視線だけが遠くへ滑る。
「……静かだ」
「平和ってことですか」
「……油断するな」
「魔族、出てないのに?」
ガルドは返事をしない。返事の代わりに、半歩だけ位置を変える。俺の背中と芝域の端の距離が、ほんの少し短くなった。たぶん、守りやすい角度なんだろう。
(この人、距離で会話するんだよな……)
◆
ガルドの家で朝飯になった。
家と言っても、兵士の家らしく必要最低限だ。派手な飾りはない。机は頑丈。椅子は硬い。余計な音がしない。だけど窓からは芝域が見える。俺にとっては、それが一番贅沢だ。
ローナが鍋を置いた。
湯気が立つ。匂いがちゃんとしてる。昨日まで「パンと水」だった世界に、突然“朝食”が現れた感じだ。
「おはようございます」
ローナは涼しい顔で言った。
「今日は、スープです」
「今日は、って何が変わったんです?」
「町が燃えていません」
ローナは即答した。
「なので、増えます」
理由が現実的すぎる。
「平和が献立に直結してるの、やっぱりすごいな」
「燃えた日は、水だけです」
ローナは淡々と言う。
「順番に理解すると、食べ物のありがたみが増えます」
(学びが重い)
シルフィが鍋の匂いを嗅いで言った。
「いい」
「ぬくい」
「ぬくいは正義だよね」
ガルドが皿を見て一言。
「……量が増えた」
「ガルド、感想それだけ?」
「必要量だ」
「味の評価は?」
ガルドは一拍置いた。
「……問題ない」
(ツンデレの最大評価)
ローナが少しだけ目を丸くして、すぐに戻す。
「それは、褒め言葉ですか?」
「……そうだ」
(今のは褒め言葉だった。絶対そうだ。見えた。いや、見えてない)
俺はスープを口に運ぶ。あったかい。普通にうまい。胃の奥が落ち着く。
その瞬間、ふと思った。
「……温泉、入りたいな」
三人の動きが止まった。
ローナが首を傾げる。
「おんせん?」
「湯が勝手に湧いてて、ずっと温かい場所です」
俺は短く説明した。
「汗流して、ぼーっとするやつ」
シルフィが即答する。
「すき」
「君は何でも芝基準だと思ってたけど、温かいのも好きなんだ」
「ぬくい」
「だいじ」
ガルドが、珍しく口を開いた。
「……風呂は、面倒だ」
「ですよね」
ローナが頷く。
「魔法で火は出せます」
「でも、続きません」
「魔力切れ?」
「はい」
ローナは真顔で言った。
「途中で倒れるので、危険です」
(風呂で倒れる世界、初めて聞いた)
「薪を使えば?」と聞く前に、ローナは言った。
「薪は高いです」
「湯を沸かすのは贅沢です」
「毎日は無理です」
ガルドが短く。
「……冬は地獄だ」
「地獄なんだ」
ローナが頷く。
「拭くだけの日が多いです」
「たしかに、異世界に来て汗ふきシートしかしてない」
シルフィが、少しだけ眉を寄せた。
「ナオキ、くさい」
「うるせぇ、しかたないだろ……」
俺はスープを飲み干して、芝域を窓越しに見た。朝の光が芝の上を滑っている。汗をかく未来が見える。汗を流せない未来も見える。
(温泉……欲しい)
◆
芝域へ向かうと、外周に小さな屋台が並び始めていた。
焼き物。果物。簡単な木工品。布や紐。金属片。昨日までの緊張が嘘みたいだ。子どもが走り、兵士が立ち話をしている。
(うわ、これ……平和なときの異世界だわ)
芝域の端で、数人の男たちが鎌と鋤を使って芝を整えていた。刈りすぎず、踏みすぎず、傷んだところだけをならす手つき。
日に焼けた顔の男が、こちらに気づいて帽子を上げた。
「おう、今日もええ芝だべ」
「……ミグル?」
「んだ」
男は胸を張った。
「さ、仕事するべ! 王様にパター遊ぶ場所を頼まれただ」
シルフィがふわっと寄る。
「この人、芝にやさしい」
「お、褒められたべ」
ミグルは笑った。
「芝は生き物だで、無茶はさせねぇ。温泉もええけどな、まず芝だべ」
「温泉?」
俺が反応すると、ミグルが顎をしゃくる。
「温泉村、あるべ」
「昔は、湯が湧いて観光もあった」
「今は……まあ、行くやつ減ったべ」
ローナが小さく息を飲む。
「温泉村……?」
「知ってるの?」
ローナは少し考えてから言う。
「噂だけです」
「でも、行けるなら……」
ガルドが短く。
「……遠い」
「距離で語るな」
ミグルが笑った。
「距離は大事だべ」
「ガルドがそう言うなら遠いべ」
(みんな距離の話しかしないな)
◆
そこへ、賑やかな声。
「おーい!」
「芝が観光地になってる!」
ユウマとアヤだ。相変わらず距離が近い。肩が触れている。というか、寄り添っている。
「温泉って聞いた!」
アヤが目を輝かせる。
「行きたい! 絶対!」
「俺も行く!」
ユウマが拳を握る。
「温泉で筋肉回復だ!」
「筋肉で何でも解決しようとするな」
シルフィが真顔で言う。
「筋肉、関係ない」
「妖精に否定された!?」
ユウマがショックを受ける。
アヤが追撃する。
「ユウマ、筋肉で湯は湧かないよ」
「それはそうだよ!」
ガルドが低く言った。
「静かにしろ」
「芝が驚く」
「芝が驚くの!?」
ミグルが肩を揺らして笑った。
「芝も生き物だべ」
「叫ぶなら、温泉で叫べ」
◆
そこへ、私服の姫リリアーナが現れた。
ドレスではなく、動きやすい服。それだけで彼女が本気でここに遊びにきたってことが伝わる。
リリアーナは芝を見て、俺を見る。
「ナオキさん」
「今日も綺麗ですね、うふふ」
(姫の方が綺麗だよ、って、んなこと言えない)
「庭師のおかげですね」
俺は淡々と答える。
リリアーナは少しだけ笑う。
「ミグルは働き者ですから」
「はい」
「……ところで温泉の話をしていましたか?」
「してました」
「私、子どもの頃に行ったことがあります」
姫は少しだけ目を細めた。
「湯気が、空に溶けて……風が甘くて」
(芝以外もちゃんと感じるタイプだ、この子って当たり前か)
ミグルが口を挟む。
「姫さま、あの村だべ?」
「湯が出るときは、ええ匂いだべ」
姫が頷く。
「はい」
「……ですが、遠いです」
ガルドがぼそっと。
「……距離がある」
「ガルド、お前はずっとそれ言うよな」
◆
芝域の隅では、見慣れた顔が休んでいた。
剣士ブロックは剣を地面に置き、肩を回している。
魔法使いエルネスは杖を膝に乗せて深呼吸。
弓使いカイは矢筒を外して座っていた。
ブロックがこちらに気づき、短く言った。
「……温泉の話か」
「知ってるの?」
ブロックは一瞬だけ目を逸らし、すぐ戻す。
「俺の村だ。険しい道だぞ」
アヤが身を乗り出す。
「え、ブロックの故郷!?」
「案内してよ!」
「……うるさい」
ブロックは顔をしかめる。
「ただ、今はお湯が……」
その先を言わずに、芝を見た。
カイが笑う。
「温泉か」
「弓を撃たない日があるなら、湯に浸かる日もあるな」
エルネスが小さく言う。
「……湯は、羨ましいです」
「魔力を使わずに、温かいのは……」
俺は頷いた。
「それな」
ローナがぽつりと言う。
「食材も、村のものが一番です」
「……届けば、ですが」
(届けば、か。温泉だけじゃなく、生活も繋がってる)
気づけば工房主ドランが俺の手元の木製クラブを見て言った。
「ナオキ……温泉より先に、強化しよう、な?」
「余った鉱物や宝石が欲しいんだろ?」
「んー、まぁな、がはは」
ドランは平然と言った。
「経済が回る。技術が磨ける。最高だ!」
(この人、欲望が正直で好きだな)
シルフィが一言。
「やりすぎ、だめ」
ドランが一瞬だけ黙り、それから鼻で笑った。
「……ほどほどにする」
「分かってる」
(妖精の一言で理性が出るの、面白い)
◆
昼の芝域は、さらに人が増えた。
屋台が増え、子どもが増え、笑い声も増えた。
それでも芝は、ちゃんと戻る。
踏まれて、戻る。
踏まれて、戻る。
「芝、つよい」
シルフィが言う。
「庭師が手入れしてるからだよ」
俺が言うと、シルフィは頷いた。
「うん」
夕方、風が少し冷たくなる。
ローナが鍋を抱えて通り、ミグルが芝をならし、ガルドが遠くを見る。
ユウマとアヤは相変わらず近い。
姫は遠くから芝を見て、微笑んでいる。
俺は芝を踏みしめた。
(……温泉、行けたらいいな)
誰かに誓うでもなく、ただ思う。
平和になったら、湯に浸かりたくなる。
人間って、そういう生き物だ。
シルフィが言った。
「温泉」
「ぬくい」
「すき」
「だろうね」
ガルドが短く。
「……行くなら、準備だ」
ミグルが手を止めずに言う。
「険しい道なら整えたいべ」
「距離、測っといて欲しいさ」
ガルドは小さく頷く。
「理解した」
ローナが笑う。
「お弁当、作ります」
「遠いなら、なおさら」
ドランがぼそっと。
「帰りに鉱物でも拾ってこい」
「次の強化に使える」
(お前は最後までそれか)
今日の芝域は、守られている。
町も守られている。
俺の頭の中は、温泉の湯気でいっぱいだった。
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