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30 打ちっぱなし場で、王様が全力だった。
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朝の空気は、澄み切っていた。
夜の名残をわずかに残した冷たい風が、草原を低く撫で、若い葉の先を揺らしていく。
太陽はすでに高く、雲一つない空を白く照らしていた。
光はやさしく、しかし確かに力強い。
その空を、小さな影が舞っていた。
妖精シルフィだ。
羽は透き通り、朝の光を受けて淡くきらめく。
飛ぶたびに、空気がくすぐったそうに揺れ、小鳥たちがそれにつられるように鳴き声を重ねた。
「きれい」
「いいあさ」
妖精はそう呟きながら、風に身を任せる。
草の香り、湿った土の匂い、そして――
「……くすぐったい」
鼻をくすぐる、独特の香り。
硫黄だ。
妖精が視線を下げると、そこには温泉の村が広がっていた。
白い湯気が立ちのぼり、木造の建物の間を縫うように漂っている。
村の中央には、大きな樽がいくつも並び、そのひとつの前で少女が杖を構えていた。
魔法使いエルネス。
落ち着いた表情で、ゆっくりと杖を振る。
魔法陣が淡く浮かび上がり、温泉源から湯が持ち上がる。
水ではない。
湯だ。
重みを持った温泉が、ふわりと空中に浮かび、そのまま樽の中へと注がれていく。
「おお……」
「すげえ……」
村人たちが、思わず声を漏らす。
「どうするんだと思ったら……」
「まさか、運ぶとはな」
少し離れた場所で、冒険者たちがその様子を見ていた。
剣士ブロックが腕を組み、感心したように唸る。
弓使いカイは目を細め、半ば呆れたように笑った。
「温泉を樽に入れる発想はなかったな」
エルネスは杖を下ろし、小さく微笑む。
「これで、いつでもぬくぬく、です」
その声は静かで、どこかのんびりしている。
だが、魔力の制御は完璧だった。
妖精がふわりと近づく。
「エルネス」
「おんせん」
「すき」
エルネスは驚いた様子もなく、視線だけ向ける。
「ええ」
「魔力の回復が、早いですから」
それは理屈としても、きちんと筋が通っていた。
温泉は身体だけでなく、魔力の流れも整える。
魔法使いにとって、これほど理にかなった回復手段はない。
妖精は満足そうにくるりと回り、再び空へ飛び上がった。
次は、いつもの巡回パトロールだ。
森へ。
木々の間を抜け、苔の匂いを嗅ぎ、風の流れを確かめる。
「いない」
「いない」
妖精は何度も森を回る。
昔は、もっといた。
枝の陰、岩の裏、地の奥。
どこにでも魔族の気配があった。だが……。
「……へった」
「まぞく、へった」
嬉しそうに呟く。
しかし、その瞬間だった。
森が――鳴った。
バキリ、と太い枝が折れる音。
ドン、と地面が踏みしめられる衝撃。
風が乱れ、小動物たちが一斉に逃げ出す。
妖精は、その場で凍りついた。
「……?」
影が、動く。
木々の向こう、闇を引きずるように、巨大な何かが姿を現した。
魔族。
一体だけ。
だが、これまで見てきたどの個体よりも――大きい。
黒く、歪んだ身体。
角はねじれ、目は鈍く光り、地面を踏みしめるたびに森が軋む。
「……へった」
「でも……」
妖精の声が震える。
「でかい……」
魔族は少なくなった。
確かに、数は減った。
だが、残ったものは――
より強く、より重く、より危険な存在だった。
妖精は、はっとして身を翻す。
「しらせる」
「はやく」
羽を震わせ、全力で空へ飛び出す。
背後で、森がさらに折れ、闇が動く。
――魔族は減った。
だが、終わったわけではない。
世界は、まだ油断を許してはいなかった。
◇
城下町の市場は、朝からうるさい。
良い意味で。
「大根だよ! 土の匂いがまだ残ってる!」
「魚! 今朝のだ! 目を見ろ、目を!」
「香辛料! ちょい足しで人生変わるぞ!」
「果物! 酸っぱさは正義だ!」
呼び込みの声が重なって、空気が揺れる。
鍋の湯気、焼き肉の脂、切った柑橘の香り、乾いた胡椒の刺激。
ここには戦場の匂いがない。代わりに「今日を生きる匂い」がある。
俺はローナの買い物籠を覗き込みながら言った。
「ねえローナ、これ全部今日食うの?」
「いいえ」
ローナは涼しい顔で言う。
「でも、燃えなかった日は多めに買えます」
現実が強い。
横でガルドが無言で荷物を持ち上げた。
肉と野菜と水袋。普通に重い。
「重いの、俺が持つよ」
「……男の仕事だ」
ガルドは短く返す。
「その理屈、どこで覚えたの」
「……現場だ」
(距離の人は、生活も現場なんだよな)
ローナが小さく笑う。
「ガルドさんが持ってくださると、私の歩幅が安定します」
「歩幅?」
俺が聞くと、ガルドが頷く。
「……距離だ」
(全部距離に寄せてくるな)
買い物を終えて、俺たちは市場を抜ける。
石畳の間を風が抜け、屋台の布がぱたぱた揺れる。
子どもが走り、犬が吠え、商人が笑う。
平和は、こんなふうに雑多で眩しい。
芝域に近づくと、足裏の感触が変わった。
石から土へ、土から芝へ。
柔らかいのに沈みすぎない。踏んでもすぐ戻る。
「……芝が当たり前の道になったな」
俺がぽつりと言うと、
「当たり前にした」
ガルドが言った。
「誰が?」
「……お前が」
(言い方が、急に真っ直ぐだな)
ローナが頷く。
「芝域を歩けるの、嬉しいです」
「荷物を落としても、割れませんし」
「現実が強い(二回目)」
⸻
芝域の外周に並ぶ屋台――その中に、見慣れた背中があった。
肩幅が広くて、腕が太くて、視線が金の匂いを嗅ぎ分ける背中。
「……ドランだ」
「おう」
ドランが顔を上げる。
「来たか、芝の人」
「芝の人って呼び方、定着したな」
「定着させた」
ドランは平然と言う。
「客が覚える」
「覚えたら買う」
「買ったら回る」
(商売が設計投資みたいな口調になってるぞ)
店は屋台じゃなかった。
ちゃんとした“店”だ。看板まである。
――ゴルフ用品店。
中は人でぎゅうぎゅうだった。
貴族っぽい若い男、腹の出たおじさん、奥さま風のおばさん、楽しそうな若い女性までいる。
みんな目が本気で、棚の商品を見てる。
「す、すごい……」
俺が呟くと、
「当然だ」
ドランが胸を張る。
「暇な貴族は金を使う」
「金は回る」
棚を見れば、確かに“よくもまあ”だ。
木製クラブ――アイアンがずらり。
金属の玉、木製の玉、革の玉。
布製のゴルフバッグ、玉を拭く布、クラブを磨く油、紐、留め具。
全部“ゴルフ”という名の文化の部品だ。
「よく作ったな……」
俺が言うと、ドランが笑う。
「作ったんじゃない」
「回ったんだ」
(言い回しが好き)
俺は棚の端で、あるものに気づいた。
革の手袋。
薄いのに丈夫そうで、握りやすそうな形。
指先が少しだけ繊細に作られている。
「……グローブだ」
「お」
ガルドが聞く。
「欲しいのか?」
「いや、別にっていうか、お金ないし、あはは」
反射で言ってしまった。
ガルドが俺の左手を見る。
俺もつられて見る。
血豆。
擦れ。
小さな裂け。
指の付け根が硬くなっている。
(……あ)
異世界に来て、夢中で振って、気づかなかった。
俺、素手でずっとやってた。
ドランが肩をすくめる。
「客が言ったんだ」
「素手だと痛いってな」
「握りがズレるって」
「……たしかに」
ゴルフ雑誌の一文が頭に浮かぶ。
――繊細なタッチは素手の方がいい。
――だが、フルショットではグローブが味方になる。
「俺、雑誌の言葉を鵜呑みにしてたわ」
俺が呟くと、ローナが不思議そうに聞く。
「ざっし……とは、ナオキさんの先生ですか?」
「先生っていうか……」
俺は笑う。
「偉そうに書いてある紙」
ガルドが低く言う。
「……紙に振り回されるな」
「距離を見ろ」
(それはゴルフの名言だな)
ドランが言う。
「買ってけ」
「大丈夫だ、芝の人」
「金は払わせない」
「宣伝費だ」
「いや、そこは払うよ」
「いい」
ドランは即答する。
「お前が強くなると、町が回る」
「回ったら俺が儲かる」
(本音が気持ちいい)
俺はグローブを手に取った。
革がしっとりして、でも重くない。
指を曲げると、自然に握る形になる。
「……いいな」
ガルドがぼそっと言う。
「……欲しいのか?」
「欲しいって言うと負けた気がする」
「何にだ」
「自分で買う」
ローナが笑う。
「負けてもいいと思います」
「怪我より、ずっと安いです」
(よし、金を稼いで買おう)
俺はドランにもう一つ聞いた。
「ティーアップなんだけど」
「砂だと毎回手間でさ」
「木製で作れない?」
ドランが眉を上げる。
「ドライバーを打つとき」
「玉を上げとく、あれか」
「そうそう、あれ」
「んなもん、すぐ作れる」
ドランは即答した。
「太さ違いでな」
「地面の硬さも違う」
(商人なのに、職人の顔になる)
ドランは机の上で作業する。
木材が測られ、切られ、研磨される。
「ほらよ」
ドランは俺に、ふわりと木製ティーをなげた。
「金はいらない、もう十本くらい持ってけ」
「ありがとう」
「礼なら鉱物で」
ドランがにやりとする。
「それが狙いね」
「当然だ」
⸻
店で買い物をした貴族たちが、ぞろぞろ外へ出ていく。
「どこ行くんだろ」
俺が呟くと、
「……芝だ」
ガルドが淡々と言った。
その通りだった。
芝域に向かって歩くと、見える。
打席がずらりと並んでいる。
打ちっぱなし。
まるで芝域の端に“並ぶ日常”が増えたみたいに、きれいに整列した打席がある。
柵もある。玉の売り場もある。小さな札でルールまで書いてある。
「……いつのまに……」
俺は唖然とした。
ガルドも珍しく一拍遅れた。
「……さあ……」
受付で、庭師の頭――ミグルが腕を組んで立っていた。
土と芝と汗の匂いがする、現場の顔だ。
「んだべ、そこさ」
ミグルが貴族に言う。
「玉、買ってけ」
「打席は順番な」
「怒るのは芝な。人じゃねぇ」
貴族が戸惑う。
「芝が怒る……?」
「怒るべ」
ミグルは真顔だ。
「踏み荒らすと、あとで戻らん」
「芝は嘘つかん」
(こいつ、世界観の理解が早い)
そこへ、ざわっと空気が変わった。
王様と姫が、家来を連れてやってきた。
王が笑う。
「がはは!」
「いいだろう!」
「素晴らしいです」
俺は素直に言った。
「完全に文化になってます」
姫がすぐに言う。
「ナオキさん」
「パターの次は、アイアンを教えてください」
王も乗る。
「わしも頼む」
「いいですよ」
俺は笑った。
ガルドがぽつりと言った。
「……平和だ……」
その言葉が、芝より柔らかく聞こえた。
俺たちは打席に立って、わいわいとレッスンを始めた。
貴族たちが真似をして、失敗して、笑って、また構える。
芝域は、守る場所から、遊ぶ場所へ変わっていく。
その光景が眩しすぎて――
俺は一瞬だけ、疑った。
(……平和すぎないか?)
夜の名残をわずかに残した冷たい風が、草原を低く撫で、若い葉の先を揺らしていく。
太陽はすでに高く、雲一つない空を白く照らしていた。
光はやさしく、しかし確かに力強い。
その空を、小さな影が舞っていた。
妖精シルフィだ。
羽は透き通り、朝の光を受けて淡くきらめく。
飛ぶたびに、空気がくすぐったそうに揺れ、小鳥たちがそれにつられるように鳴き声を重ねた。
「きれい」
「いいあさ」
妖精はそう呟きながら、風に身を任せる。
草の香り、湿った土の匂い、そして――
「……くすぐったい」
鼻をくすぐる、独特の香り。
硫黄だ。
妖精が視線を下げると、そこには温泉の村が広がっていた。
白い湯気が立ちのぼり、木造の建物の間を縫うように漂っている。
村の中央には、大きな樽がいくつも並び、そのひとつの前で少女が杖を構えていた。
魔法使いエルネス。
落ち着いた表情で、ゆっくりと杖を振る。
魔法陣が淡く浮かび上がり、温泉源から湯が持ち上がる。
水ではない。
湯だ。
重みを持った温泉が、ふわりと空中に浮かび、そのまま樽の中へと注がれていく。
「おお……」
「すげえ……」
村人たちが、思わず声を漏らす。
「どうするんだと思ったら……」
「まさか、運ぶとはな」
少し離れた場所で、冒険者たちがその様子を見ていた。
剣士ブロックが腕を組み、感心したように唸る。
弓使いカイは目を細め、半ば呆れたように笑った。
「温泉を樽に入れる発想はなかったな」
エルネスは杖を下ろし、小さく微笑む。
「これで、いつでもぬくぬく、です」
その声は静かで、どこかのんびりしている。
だが、魔力の制御は完璧だった。
妖精がふわりと近づく。
「エルネス」
「おんせん」
「すき」
エルネスは驚いた様子もなく、視線だけ向ける。
「ええ」
「魔力の回復が、早いですから」
それは理屈としても、きちんと筋が通っていた。
温泉は身体だけでなく、魔力の流れも整える。
魔法使いにとって、これほど理にかなった回復手段はない。
妖精は満足そうにくるりと回り、再び空へ飛び上がった。
次は、いつもの巡回パトロールだ。
森へ。
木々の間を抜け、苔の匂いを嗅ぎ、風の流れを確かめる。
「いない」
「いない」
妖精は何度も森を回る。
昔は、もっといた。
枝の陰、岩の裏、地の奥。
どこにでも魔族の気配があった。だが……。
「……へった」
「まぞく、へった」
嬉しそうに呟く。
しかし、その瞬間だった。
森が――鳴った。
バキリ、と太い枝が折れる音。
ドン、と地面が踏みしめられる衝撃。
風が乱れ、小動物たちが一斉に逃げ出す。
妖精は、その場で凍りついた。
「……?」
影が、動く。
木々の向こう、闇を引きずるように、巨大な何かが姿を現した。
魔族。
一体だけ。
だが、これまで見てきたどの個体よりも――大きい。
黒く、歪んだ身体。
角はねじれ、目は鈍く光り、地面を踏みしめるたびに森が軋む。
「……へった」
「でも……」
妖精の声が震える。
「でかい……」
魔族は少なくなった。
確かに、数は減った。
だが、残ったものは――
より強く、より重く、より危険な存在だった。
妖精は、はっとして身を翻す。
「しらせる」
「はやく」
羽を震わせ、全力で空へ飛び出す。
背後で、森がさらに折れ、闇が動く。
――魔族は減った。
だが、終わったわけではない。
世界は、まだ油断を許してはいなかった。
◇
城下町の市場は、朝からうるさい。
良い意味で。
「大根だよ! 土の匂いがまだ残ってる!」
「魚! 今朝のだ! 目を見ろ、目を!」
「香辛料! ちょい足しで人生変わるぞ!」
「果物! 酸っぱさは正義だ!」
呼び込みの声が重なって、空気が揺れる。
鍋の湯気、焼き肉の脂、切った柑橘の香り、乾いた胡椒の刺激。
ここには戦場の匂いがない。代わりに「今日を生きる匂い」がある。
俺はローナの買い物籠を覗き込みながら言った。
「ねえローナ、これ全部今日食うの?」
「いいえ」
ローナは涼しい顔で言う。
「でも、燃えなかった日は多めに買えます」
現実が強い。
横でガルドが無言で荷物を持ち上げた。
肉と野菜と水袋。普通に重い。
「重いの、俺が持つよ」
「……男の仕事だ」
ガルドは短く返す。
「その理屈、どこで覚えたの」
「……現場だ」
(距離の人は、生活も現場なんだよな)
ローナが小さく笑う。
「ガルドさんが持ってくださると、私の歩幅が安定します」
「歩幅?」
俺が聞くと、ガルドが頷く。
「……距離だ」
(全部距離に寄せてくるな)
買い物を終えて、俺たちは市場を抜ける。
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子どもが走り、犬が吠え、商人が笑う。
平和は、こんなふうに雑多で眩しい。
芝域に近づくと、足裏の感触が変わった。
石から土へ、土から芝へ。
柔らかいのに沈みすぎない。踏んでもすぐ戻る。
「……芝が当たり前の道になったな」
俺がぽつりと言うと、
「当たり前にした」
ガルドが言った。
「誰が?」
「……お前が」
(言い方が、急に真っ直ぐだな)
ローナが頷く。
「芝域を歩けるの、嬉しいです」
「荷物を落としても、割れませんし」
「現実が強い(二回目)」
⸻
芝域の外周に並ぶ屋台――その中に、見慣れた背中があった。
肩幅が広くて、腕が太くて、視線が金の匂いを嗅ぎ分ける背中。
「……ドランだ」
「おう」
ドランが顔を上げる。
「来たか、芝の人」
「芝の人って呼び方、定着したな」
「定着させた」
ドランは平然と言う。
「客が覚える」
「覚えたら買う」
「買ったら回る」
(商売が設計投資みたいな口調になってるぞ)
店は屋台じゃなかった。
ちゃんとした“店”だ。看板まである。
――ゴルフ用品店。
中は人でぎゅうぎゅうだった。
貴族っぽい若い男、腹の出たおじさん、奥さま風のおばさん、楽しそうな若い女性までいる。
みんな目が本気で、棚の商品を見てる。
「す、すごい……」
俺が呟くと、
「当然だ」
ドランが胸を張る。
「暇な貴族は金を使う」
「金は回る」
棚を見れば、確かに“よくもまあ”だ。
木製クラブ――アイアンがずらり。
金属の玉、木製の玉、革の玉。
布製のゴルフバッグ、玉を拭く布、クラブを磨く油、紐、留め具。
全部“ゴルフ”という名の文化の部品だ。
「よく作ったな……」
俺が言うと、ドランが笑う。
「作ったんじゃない」
「回ったんだ」
(言い回しが好き)
俺は棚の端で、あるものに気づいた。
革の手袋。
薄いのに丈夫そうで、握りやすそうな形。
指先が少しだけ繊細に作られている。
「……グローブだ」
「お」
ガルドが聞く。
「欲しいのか?」
「いや、別にっていうか、お金ないし、あはは」
反射で言ってしまった。
ガルドが俺の左手を見る。
俺もつられて見る。
血豆。
擦れ。
小さな裂け。
指の付け根が硬くなっている。
(……あ)
異世界に来て、夢中で振って、気づかなかった。
俺、素手でずっとやってた。
ドランが肩をすくめる。
「客が言ったんだ」
「素手だと痛いってな」
「握りがズレるって」
「……たしかに」
ゴルフ雑誌の一文が頭に浮かぶ。
――繊細なタッチは素手の方がいい。
――だが、フルショットではグローブが味方になる。
「俺、雑誌の言葉を鵜呑みにしてたわ」
俺が呟くと、ローナが不思議そうに聞く。
「ざっし……とは、ナオキさんの先生ですか?」
「先生っていうか……」
俺は笑う。
「偉そうに書いてある紙」
ガルドが低く言う。
「……紙に振り回されるな」
「距離を見ろ」
(それはゴルフの名言だな)
ドランが言う。
「買ってけ」
「大丈夫だ、芝の人」
「金は払わせない」
「宣伝費だ」
「いや、そこは払うよ」
「いい」
ドランは即答する。
「お前が強くなると、町が回る」
「回ったら俺が儲かる」
(本音が気持ちいい)
俺はグローブを手に取った。
革がしっとりして、でも重くない。
指を曲げると、自然に握る形になる。
「……いいな」
ガルドがぼそっと言う。
「……欲しいのか?」
「欲しいって言うと負けた気がする」
「何にだ」
「自分で買う」
ローナが笑う。
「負けてもいいと思います」
「怪我より、ずっと安いです」
(よし、金を稼いで買おう)
俺はドランにもう一つ聞いた。
「ティーアップなんだけど」
「砂だと毎回手間でさ」
「木製で作れない?」
ドランが眉を上げる。
「ドライバーを打つとき」
「玉を上げとく、あれか」
「そうそう、あれ」
「んなもん、すぐ作れる」
ドランは即答した。
「太さ違いでな」
「地面の硬さも違う」
(商人なのに、職人の顔になる)
ドランは机の上で作業する。
木材が測られ、切られ、研磨される。
「ほらよ」
ドランは俺に、ふわりと木製ティーをなげた。
「金はいらない、もう十本くらい持ってけ」
「ありがとう」
「礼なら鉱物で」
ドランがにやりとする。
「それが狙いね」
「当然だ」
⸻
店で買い物をした貴族たちが、ぞろぞろ外へ出ていく。
「どこ行くんだろ」
俺が呟くと、
「……芝だ」
ガルドが淡々と言った。
その通りだった。
芝域に向かって歩くと、見える。
打席がずらりと並んでいる。
打ちっぱなし。
まるで芝域の端に“並ぶ日常”が増えたみたいに、きれいに整列した打席がある。
柵もある。玉の売り場もある。小さな札でルールまで書いてある。
「……いつのまに……」
俺は唖然とした。
ガルドも珍しく一拍遅れた。
「……さあ……」
受付で、庭師の頭――ミグルが腕を組んで立っていた。
土と芝と汗の匂いがする、現場の顔だ。
「んだべ、そこさ」
ミグルが貴族に言う。
「玉、買ってけ」
「打席は順番な」
「怒るのは芝な。人じゃねぇ」
貴族が戸惑う。
「芝が怒る……?」
「怒るべ」
ミグルは真顔だ。
「踏み荒らすと、あとで戻らん」
「芝は嘘つかん」
(こいつ、世界観の理解が早い)
そこへ、ざわっと空気が変わった。
王様と姫が、家来を連れてやってきた。
王が笑う。
「がはは!」
「いいだろう!」
「素晴らしいです」
俺は素直に言った。
「完全に文化になってます」
姫がすぐに言う。
「ナオキさん」
「パターの次は、アイアンを教えてください」
王も乗る。
「わしも頼む」
「いいですよ」
俺は笑った。
ガルドがぽつりと言った。
「……平和だ……」
その言葉が、芝より柔らかく聞こえた。
俺たちは打席に立って、わいわいとレッスンを始めた。
貴族たちが真似をして、失敗して、笑って、また構える。
芝域は、守る場所から、遊ぶ場所へ変わっていく。
その光景が眩しすぎて――
俺は一瞬だけ、疑った。
(……平和すぎないか?)
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これは生活を共にする二人が、やがて好き合うことになり、付き合ったり結婚したり作物を育てたり、日々を生活していくお話です。
異世界転生したので森の中で静かに暮らしたい
ボナペティ鈴木
ファンタジー
異世界に転生することになったが勇者や賢者、チート能力なんて必要ない。
強靭な肉体さえあれば生きていくことができるはず。
ただただ森の中で静かに暮らしていきたい。
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