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34 赤い翼
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朝の森を、風が荒く引き裂いていた。
いつもなら、葉の隙間をくぐるだけの風が、今日は違う。枝を揺らし、幹を鳴らし、影をずらし、獣たちの匂いを消していく。小鳥は鳴かなかった。鳴く前に逃げた。巣の中で息を潜め、羽音さえ立てない。小動物は落ち葉の下に潜り、目だけを閉じて世界をやり過ごしている。
空は青い。太陽も出ている。それなのに、森の奥が暗い。
自然が、はっきりと「異変だ」と言っていた。
その風の中を、小さな影が飛んでいた。妖精だ。
シルフィはいつもより低く、木々の間を縫うように進む。羽は透けていて、朝の光を拾うはずなのに、今日は光が薄い。風が冷たい。匂いが苦い。
「……いや」
短い言葉が、空気に落ちる。
「こわい」
理由は言えない。言葉にする前に、森が答えを出している。枝が折れる前兆。草が伏せる前兆。命が静かになる前兆。
シルフィは、風を切って進んだ。
魔族の気配を探す。いつもの巡回だ。
だが、いない。
「いない」
「へった」
本当だ。減っている。森の奥まで探しても、あの無機質な気配がない。鉱物の匂い、踏み荒らす足音、掘る音。全部、薄い。
「へいわ」
シルフィは、少しだけ口元を緩めた。
だが、その瞬間——森が鳴った。
バキリ。
太い枝が折れる音。
ドン、と地面が踏まれる衝撃。
風が乱れ、小動物たちが一斉に逃げ出す。
シルフィの羽が、ぴくりと止まる。
「……!」
木々の向こうに、影が落ちた。
黒い。重い。動くたびに森が軋む。
それは魔族ではない。魔族のように小さくない。世界の方が、そいつを避けている。
シルフィは本能で身を翻した。
「にげる」
「しらせる」
羽を震わせ、逃げる。
後ろで、木が折れ続けていた。
⸻
同じ森を、人間たちが歩いていた。
ブロック、カイ、エルネス。
三人の足取りは軽いはずだった。だが今日は重い。敵がいないのに重い。探すという行為が、妙に疲れる。
「魔族……いませんね」
エルネスが杖を握り直しながら言った。
「……ああ、くそ」
ブロックが舌打ちする。
「嫌いだったのに、いないと腹が立つ」
カイが弓を背負ったまま、空を見上げた。
「まさか、魔族を探す側になるとはな……」
三人は歩きながら、ため息をついた。
魔族がいない。平和だ。
それは良い。良いはずだ。
だが——魔族がまったくいないと。
ブロックが肩を落とす。
「これじゃあ、今日も宝石なし、だな」
エルネスは淡々と言った。
「魔族が城に襲ってきた日が……懐かしいです」
「懐かしいって言うな」
ブロックが即ツッコむ。
「それ、絶対に城で言っちゃいけないやつだろ」
カイが真顔で言う。
「転職しようかな……」
「何にだよ」
ブロックが呆れる。
カイは少し考えてから言った。
「港ができたらしいし」
「船関係とか……」
エルネスがふっと笑う。
「じゃあ私は、温泉を広める仕事をしようかな」
「……ははは」
「お」
ブロックが乗る。
「いいなそれ」
「湯は、世界を救う」
カイが口元を緩めた。
「王様が温泉村にゴルフコースを作る計画があるらしい」
「平和だな」
「それだ!」
ブロックが拳を握る。
「もう、戦うのやめて芝の管理でもするか!」
「剣士が芝管理はやめてください」
エルネスが言う。
「なんでだよ」
「芝に剣刺さないから大丈夫だろ」
「刺しますよね」
「絶対刺します」
そんなふうに笑っていた、そのときだった。
エルネスが足を止めた。
「……いますね」
空気が変わった。
ブロックが鼻を鳴らす。
「……匂いだ」
久しぶりの匂い。
宝石の匂い。鉱物の匂い。
あの“稼ぎの匂い”だ。
「まってました」
ブロックの歩みが速くなる。
「よし、今日は——」
木々の隙間から見えた。
小型の魔族が、三体。
岩の隙間に手を突っ込み、鉱物を漁っている。
虫が樹液を吸うみたいに、本能だけで集めている。拾い、飲み込み、また探す。
カイが弓を引いた。
「……落とす」
ブロックが剣を握り直す。
「久しぶりの——」
その瞬間。
空が暗くなった。
影が落ちた。
ドン。
地響き。
森が震えた。
三人の視線が、同時に上を向く。
赤い。
赤い鱗。
翼が広がり、光を遮る。
呼吸だけで空気が熱くなる。
目が、金色に光る。感情がないようで、全てを測っている目。
ドラゴン。
「……」
言葉が出ない。
恐怖は、説明より速い。
ドラゴンは人間を見なかった。
見たのは魔族だけだ。
大きな顎が開く。
魔族を掴む。
バリバリ。
鉱物ごと噛み砕く音がした。
宝石が歯の間で砕け、光が散る。
魔族の身体が、簡単に消える。
「……魔族が減った理由……」
エルネスが小さく呟いた。
ブロックの顔が青くなる。
「に、逃げろー!」
カイが即座に後退する。
「早く!」
ドラゴンの視線が、ようやく人間に向いた。
その目は「敵を見る目」じゃない。
「どうでもいいものを見る目」だ。
だが、どうでもいいものに向けられる目ほど恐ろしい。
口の隙間から炎が漏れた。
熱が空気を歪ませる。
森の匂いが一瞬で焼ける匂いに変わる。
エルネスが杖を突き出した。
「結界——!」
魔法陣が展開する。
青い光が薄い膜となり、三人を包む。
ドラゴンが口を開いた。
炎が、森へ放たれる。
世界が白くなった。
熱。風圧。轟音。
シルフィが遠くで風に叩かれ、吹き飛ばされる。
視界が回転し、木々が逆さになり、地面が空になる。
それでも、ドラゴンは長居しなかった。
何事もなかったかのように翼を打ち、空へ上がる。
風を切り、森を離れ、どこかへ消える。
残ったのは——焼け焦げた匂いと、折れた木と、立ち尽くす人間たち。
炎が去ったあと、森には奇妙な静けさが残っていた。
焼け焦げた土から、まだ熱が立ち上っている。
木々は黒く縁取られ、風にきしむ音だけが響いていた。
ブロックは膝をついていた。
肩口から血が滲み、剣を地面に突いて、なんとか身体を支えている。
「……くそ」
「さすがに、でかすぎたな」
カイも近くで息を荒くしていた。
弓は握ったままだが、腕が震えている。
火炎の余波で、前腕の皮膚が赤くただれていた。
「魔族を食らう者か……」
二人とも、生きてはいる。
だが、立っているとは、とても言えない。
その少し後ろで、エルネスが立っていた。
結界は、跡形もなく消えている。
魔法陣は途中で崩れ、空中に残った光の欠片が、ゆっくりと消えていく。
エルネスは、自分の両手を見つめていた。
指先が、かすかに震えている。
「……止められなかった」
誰に言うでもなく、ぽつりと漏れる声。
「結界が、薄かった」
「魔力も……足りなかった」
ブロックが、かすれた声で言う。
「いや、十分だ」
「助かった」
カイも、苦笑して続ける。
「生きてるだけで上出来だろ」
だが、エルネスは首を振った。
「……違います」
「“足りない”のが、分かってしまったんです」
彼女は、夜空を見上げた。
ドラゴンが飛び去った方向。
はるか上、雲の向こう。
「このままじゃ」
「次は、守れない」
小さく、息を吸う。
「……師匠に」
「会いにいかなきゃ……」
その言葉は、決意というより、確認だった。
風が、焦げた匂いをさらっていく。
森はまだ生きている。
だが、世界は確実に次の段階へ進み始めていた。
◇
露天風呂って、反則だと思う。
湯船に足を入れた瞬間から、身体の芯がほどけていく。熱いのに痛くない。重いのに苦しくない。肩の奥に引っかかっていたものが、湯の中で静かに溶けていく。湯気が頬を撫で、硫黄の香りが鼻の奥をくすぐる。
ぽちゃん。
源泉が、たれ流しで落ちてくる。
そのたびに小さな波紋が広がって、湯の表面が太陽の光りを揺らす。
風が冷たい。山の風だ。
でも湯が熱いから、その冷たさが気持ちいい。
(旅行雑誌に「温泉は温度差がごちそう」って書いてあったけど)
(ほんとだな)
俺は肩まで沈み、ふぅ、と息を吐いた。
隣にはガルドがいる。
湯船の端に背を預け、腕を組んで、いつもの顔で湯に浸かっている。
「ぬくいな」
「……問題ない」
(問題ない=最高、の男)
「お前、温泉入っても距離とか測ってそうだな」
「……測っていない」
「珍しい」
「……湯は、測れん」
(湯だけは別枠らしい)
しばらく黙って、湯の音だけを聞く。
戦場の音が遠い。芝の音も遠い。
人間って、こういう静けさのために生きてるんじゃないかと思う。
そのとき、湯けむりの奥から声がした。
「がはは!」
俺は肩をびくっとさせた。
「……え?」
湯気の向こうに、王様がいた。
しかも普通に浸かっている。首まで。
「ナオキ殿」
王様はご機嫌で言った。
「温泉は良いなあ!」
「いや、王様って」
俺は反射で言った。
「ここ、普通に入るんですか?」
「普通だ」
王様は胸を張る。
「王も人だ」
(確かにそうだけど)
(家来は知ってるのか?)
王様は湯をばしゃ、と軽く叩いて続けた。
「で、ナオキ殿」
「ゴルフコースだが、どうだ?」
(温泉で国家会議が始まった)
俺は湯に浮かぶ花を眺めながら答えた。
「うーん」
「とりあえず三ホールを作りました」
「三ホール?」
王様が眉を上げる。
「はい」
「いきなり全部作ると管理が大変です」
「続けられる距離で、少しずつ」
ガルドが頷いた。
「……理にかなっている」
王様が満足そうに頷いた、その瞬間。
「ふぅ……」
また別の声がした。
湯気の向こうから、肩に手ぬぐいを乗せた男が現れる。
ドランだ。
「……え、ドランもいるの?」
「いる」
ドランは真顔で言った。
「湯は商売の基本だ」
(意味が分からん)
ドランは湯に沈み込み、息を吐いた。
「客が増えたら、ホールを増やす計画か?」
王様が即答する。
「その通りだ」
「まずは三ホール」
「評判が立てば、五ホール、九ホール……」
「百まで行けば貴族は泣くな」
ドランが笑った。
「泣いて金を落とす」
「あの、十八ホールで終わりです」
俺が突っ込むと、
「そうか……だが、金は回る」
ドランは平然と言う。
「回らせまくる!」
王様も頷く。
「ゴルフして温泉に入れる」
「それだけで貴族は動く」
「他国の王家も呼べる」
王様の声が、少しだけ低くなる。
「港ができた今ならな」
湯の上で国家戦略が回っている。
しかも、誰も難しい顔をしていない。
温泉ってすごい。
ガルドがぽつりと言った。
「……働き手が少ない」
「森の開拓は難しい」
王様は、のんびりと言う。
「よいよい」
「まずは三ホールで“遊べれば”よい」
(王様、すごいな)
(国を回すのに“遊び”って言い切れるの、強い)
ドランも頷く。
「小さく始めて、育てる」
「道具と同じだな」
(ゴルフクラブみたいに言うんだ)
俺は湯に肩を沈めながら思った。
(温泉に入って、ゴルフして)
(それで国が回るって)
(意味分からんけど、なんか正しい気がする)
そのときだった。
ざばっ。
ガルドが立ち上がった。
湯が肩から落ち、湯気の中で彼の影が立ち上がる。
空に向かって、顔が上がる。
「……遠くの空で、何かあった」
王様もドランも、口を閉じた。
「何が?」
俺が聞く。
ガルドは、眉をひそめたまま言う。
「分からん」
「距離がありすぎる」
「だが……何かが動いた」
仁王立ちだ。
裸で仁王立ち。
俺は一拍置いて言った。
「……てか」
「タオル巻けよ」
ガルドが、静かに頷いた。
「……うむ」
立派すぎて、誰も笑えなかった。
湯気の中で、世界の空気がほんの少しだけ変わった。
さっきまで、ただの温泉だったのに。
俺は湯を見下ろして、息を吐いた。
「……ま、普通にゴルフするだけさ」
ぽちゃん。
源泉が落ちる音だけが、答えみたいに響いていた。
いつもなら、葉の隙間をくぐるだけの風が、今日は違う。枝を揺らし、幹を鳴らし、影をずらし、獣たちの匂いを消していく。小鳥は鳴かなかった。鳴く前に逃げた。巣の中で息を潜め、羽音さえ立てない。小動物は落ち葉の下に潜り、目だけを閉じて世界をやり過ごしている。
空は青い。太陽も出ている。それなのに、森の奥が暗い。
自然が、はっきりと「異変だ」と言っていた。
その風の中を、小さな影が飛んでいた。妖精だ。
シルフィはいつもより低く、木々の間を縫うように進む。羽は透けていて、朝の光を拾うはずなのに、今日は光が薄い。風が冷たい。匂いが苦い。
「……いや」
短い言葉が、空気に落ちる。
「こわい」
理由は言えない。言葉にする前に、森が答えを出している。枝が折れる前兆。草が伏せる前兆。命が静かになる前兆。
シルフィは、風を切って進んだ。
魔族の気配を探す。いつもの巡回だ。
だが、いない。
「いない」
「へった」
本当だ。減っている。森の奥まで探しても、あの無機質な気配がない。鉱物の匂い、踏み荒らす足音、掘る音。全部、薄い。
「へいわ」
シルフィは、少しだけ口元を緩めた。
だが、その瞬間——森が鳴った。
バキリ。
太い枝が折れる音。
ドン、と地面が踏まれる衝撃。
風が乱れ、小動物たちが一斉に逃げ出す。
シルフィの羽が、ぴくりと止まる。
「……!」
木々の向こうに、影が落ちた。
黒い。重い。動くたびに森が軋む。
それは魔族ではない。魔族のように小さくない。世界の方が、そいつを避けている。
シルフィは本能で身を翻した。
「にげる」
「しらせる」
羽を震わせ、逃げる。
後ろで、木が折れ続けていた。
⸻
同じ森を、人間たちが歩いていた。
ブロック、カイ、エルネス。
三人の足取りは軽いはずだった。だが今日は重い。敵がいないのに重い。探すという行為が、妙に疲れる。
「魔族……いませんね」
エルネスが杖を握り直しながら言った。
「……ああ、くそ」
ブロックが舌打ちする。
「嫌いだったのに、いないと腹が立つ」
カイが弓を背負ったまま、空を見上げた。
「まさか、魔族を探す側になるとはな……」
三人は歩きながら、ため息をついた。
魔族がいない。平和だ。
それは良い。良いはずだ。
だが——魔族がまったくいないと。
ブロックが肩を落とす。
「これじゃあ、今日も宝石なし、だな」
エルネスは淡々と言った。
「魔族が城に襲ってきた日が……懐かしいです」
「懐かしいって言うな」
ブロックが即ツッコむ。
「それ、絶対に城で言っちゃいけないやつだろ」
カイが真顔で言う。
「転職しようかな……」
「何にだよ」
ブロックが呆れる。
カイは少し考えてから言った。
「港ができたらしいし」
「船関係とか……」
エルネスがふっと笑う。
「じゃあ私は、温泉を広める仕事をしようかな」
「……ははは」
「お」
ブロックが乗る。
「いいなそれ」
「湯は、世界を救う」
カイが口元を緩めた。
「王様が温泉村にゴルフコースを作る計画があるらしい」
「平和だな」
「それだ!」
ブロックが拳を握る。
「もう、戦うのやめて芝の管理でもするか!」
「剣士が芝管理はやめてください」
エルネスが言う。
「なんでだよ」
「芝に剣刺さないから大丈夫だろ」
「刺しますよね」
「絶対刺します」
そんなふうに笑っていた、そのときだった。
エルネスが足を止めた。
「……いますね」
空気が変わった。
ブロックが鼻を鳴らす。
「……匂いだ」
久しぶりの匂い。
宝石の匂い。鉱物の匂い。
あの“稼ぎの匂い”だ。
「まってました」
ブロックの歩みが速くなる。
「よし、今日は——」
木々の隙間から見えた。
小型の魔族が、三体。
岩の隙間に手を突っ込み、鉱物を漁っている。
虫が樹液を吸うみたいに、本能だけで集めている。拾い、飲み込み、また探す。
カイが弓を引いた。
「……落とす」
ブロックが剣を握り直す。
「久しぶりの——」
その瞬間。
空が暗くなった。
影が落ちた。
ドン。
地響き。
森が震えた。
三人の視線が、同時に上を向く。
赤い。
赤い鱗。
翼が広がり、光を遮る。
呼吸だけで空気が熱くなる。
目が、金色に光る。感情がないようで、全てを測っている目。
ドラゴン。
「……」
言葉が出ない。
恐怖は、説明より速い。
ドラゴンは人間を見なかった。
見たのは魔族だけだ。
大きな顎が開く。
魔族を掴む。
バリバリ。
鉱物ごと噛み砕く音がした。
宝石が歯の間で砕け、光が散る。
魔族の身体が、簡単に消える。
「……魔族が減った理由……」
エルネスが小さく呟いた。
ブロックの顔が青くなる。
「に、逃げろー!」
カイが即座に後退する。
「早く!」
ドラゴンの視線が、ようやく人間に向いた。
その目は「敵を見る目」じゃない。
「どうでもいいものを見る目」だ。
だが、どうでもいいものに向けられる目ほど恐ろしい。
口の隙間から炎が漏れた。
熱が空気を歪ませる。
森の匂いが一瞬で焼ける匂いに変わる。
エルネスが杖を突き出した。
「結界——!」
魔法陣が展開する。
青い光が薄い膜となり、三人を包む。
ドラゴンが口を開いた。
炎が、森へ放たれる。
世界が白くなった。
熱。風圧。轟音。
シルフィが遠くで風に叩かれ、吹き飛ばされる。
視界が回転し、木々が逆さになり、地面が空になる。
それでも、ドラゴンは長居しなかった。
何事もなかったかのように翼を打ち、空へ上がる。
風を切り、森を離れ、どこかへ消える。
残ったのは——焼け焦げた匂いと、折れた木と、立ち尽くす人間たち。
炎が去ったあと、森には奇妙な静けさが残っていた。
焼け焦げた土から、まだ熱が立ち上っている。
木々は黒く縁取られ、風にきしむ音だけが響いていた。
ブロックは膝をついていた。
肩口から血が滲み、剣を地面に突いて、なんとか身体を支えている。
「……くそ」
「さすがに、でかすぎたな」
カイも近くで息を荒くしていた。
弓は握ったままだが、腕が震えている。
火炎の余波で、前腕の皮膚が赤くただれていた。
「魔族を食らう者か……」
二人とも、生きてはいる。
だが、立っているとは、とても言えない。
その少し後ろで、エルネスが立っていた。
結界は、跡形もなく消えている。
魔法陣は途中で崩れ、空中に残った光の欠片が、ゆっくりと消えていく。
エルネスは、自分の両手を見つめていた。
指先が、かすかに震えている。
「……止められなかった」
誰に言うでもなく、ぽつりと漏れる声。
「結界が、薄かった」
「魔力も……足りなかった」
ブロックが、かすれた声で言う。
「いや、十分だ」
「助かった」
カイも、苦笑して続ける。
「生きてるだけで上出来だろ」
だが、エルネスは首を振った。
「……違います」
「“足りない”のが、分かってしまったんです」
彼女は、夜空を見上げた。
ドラゴンが飛び去った方向。
はるか上、雲の向こう。
「このままじゃ」
「次は、守れない」
小さく、息を吸う。
「……師匠に」
「会いにいかなきゃ……」
その言葉は、決意というより、確認だった。
風が、焦げた匂いをさらっていく。
森はまだ生きている。
だが、世界は確実に次の段階へ進み始めていた。
◇
露天風呂って、反則だと思う。
湯船に足を入れた瞬間から、身体の芯がほどけていく。熱いのに痛くない。重いのに苦しくない。肩の奥に引っかかっていたものが、湯の中で静かに溶けていく。湯気が頬を撫で、硫黄の香りが鼻の奥をくすぐる。
ぽちゃん。
源泉が、たれ流しで落ちてくる。
そのたびに小さな波紋が広がって、湯の表面が太陽の光りを揺らす。
風が冷たい。山の風だ。
でも湯が熱いから、その冷たさが気持ちいい。
(旅行雑誌に「温泉は温度差がごちそう」って書いてあったけど)
(ほんとだな)
俺は肩まで沈み、ふぅ、と息を吐いた。
隣にはガルドがいる。
湯船の端に背を預け、腕を組んで、いつもの顔で湯に浸かっている。
「ぬくいな」
「……問題ない」
(問題ない=最高、の男)
「お前、温泉入っても距離とか測ってそうだな」
「……測っていない」
「珍しい」
「……湯は、測れん」
(湯だけは別枠らしい)
しばらく黙って、湯の音だけを聞く。
戦場の音が遠い。芝の音も遠い。
人間って、こういう静けさのために生きてるんじゃないかと思う。
そのとき、湯けむりの奥から声がした。
「がはは!」
俺は肩をびくっとさせた。
「……え?」
湯気の向こうに、王様がいた。
しかも普通に浸かっている。首まで。
「ナオキ殿」
王様はご機嫌で言った。
「温泉は良いなあ!」
「いや、王様って」
俺は反射で言った。
「ここ、普通に入るんですか?」
「普通だ」
王様は胸を張る。
「王も人だ」
(確かにそうだけど)
(家来は知ってるのか?)
王様は湯をばしゃ、と軽く叩いて続けた。
「で、ナオキ殿」
「ゴルフコースだが、どうだ?」
(温泉で国家会議が始まった)
俺は湯に浮かぶ花を眺めながら答えた。
「うーん」
「とりあえず三ホールを作りました」
「三ホール?」
王様が眉を上げる。
「はい」
「いきなり全部作ると管理が大変です」
「続けられる距離で、少しずつ」
ガルドが頷いた。
「……理にかなっている」
王様が満足そうに頷いた、その瞬間。
「ふぅ……」
また別の声がした。
湯気の向こうから、肩に手ぬぐいを乗せた男が現れる。
ドランだ。
「……え、ドランもいるの?」
「いる」
ドランは真顔で言った。
「湯は商売の基本だ」
(意味が分からん)
ドランは湯に沈み込み、息を吐いた。
「客が増えたら、ホールを増やす計画か?」
王様が即答する。
「その通りだ」
「まずは三ホール」
「評判が立てば、五ホール、九ホール……」
「百まで行けば貴族は泣くな」
ドランが笑った。
「泣いて金を落とす」
「あの、十八ホールで終わりです」
俺が突っ込むと、
「そうか……だが、金は回る」
ドランは平然と言う。
「回らせまくる!」
王様も頷く。
「ゴルフして温泉に入れる」
「それだけで貴族は動く」
「他国の王家も呼べる」
王様の声が、少しだけ低くなる。
「港ができた今ならな」
湯の上で国家戦略が回っている。
しかも、誰も難しい顔をしていない。
温泉ってすごい。
ガルドがぽつりと言った。
「……働き手が少ない」
「森の開拓は難しい」
王様は、のんびりと言う。
「よいよい」
「まずは三ホールで“遊べれば”よい」
(王様、すごいな)
(国を回すのに“遊び”って言い切れるの、強い)
ドランも頷く。
「小さく始めて、育てる」
「道具と同じだな」
(ゴルフクラブみたいに言うんだ)
俺は湯に肩を沈めながら思った。
(温泉に入って、ゴルフして)
(それで国が回るって)
(意味分からんけど、なんか正しい気がする)
そのときだった。
ざばっ。
ガルドが立ち上がった。
湯が肩から落ち、湯気の中で彼の影が立ち上がる。
空に向かって、顔が上がる。
「……遠くの空で、何かあった」
王様もドランも、口を閉じた。
「何が?」
俺が聞く。
ガルドは、眉をひそめたまま言う。
「分からん」
「距離がありすぎる」
「だが……何かが動いた」
仁王立ちだ。
裸で仁王立ち。
俺は一拍置いて言った。
「……てか」
「タオル巻けよ」
ガルドが、静かに頷いた。
「……うむ」
立派すぎて、誰も笑えなかった。
湯気の中で、世界の空気がほんの少しだけ変わった。
さっきまで、ただの温泉だったのに。
俺は湯を見下ろして、息を吐いた。
「……ま、普通にゴルフするだけさ」
ぽちゃん。
源泉が落ちる音だけが、答えみたいに響いていた。
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そして助けた少女は、実は王国の姫!?
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そう思っていたハルトだったが、幸運のスキルが運命を引き寄せていく――。
『ミッドナイトマート 〜異世界コンビニ、ただいま営業中〜』
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深夜0時——街角の小さなコンビニ「ミッドナイトマート」は、異世界と繋がる扉を開く。
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「袋いりますか?」「ポイントカードお持ちですか?」——そう、それは異世界相手でも変わらない日常業務。
貯まるのは「ミッドナイトポイントカード(通称ナイポ)」。
集まるのは、どこか訳ありで、ちょっと不器用な異世界の住人たち。
そして、商品一つひとつに込められる、ささやかで温かな物語。
これは、世界の境界を越えて心を繋ぐ、コンビニ接客ファンタジー。
今夜は、どんなお客様が来店されるのでしょう?
※異世界食堂や異世界居酒屋「のぶ」とは
似て非なる物として見て下さい
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