35 / 44
35 破れた羽
しおりを挟む
まぶしい光だ。
空は晴れている。雲は薄く、太陽はきらきらと無邪気に輝いている。穏やかな風が葉を揺らし、湿った土の香りが鼻をくすぐった。小鳥が遠巻きに枝へ止まり、小動物が草陰からこちらをうかがっている。心配そうな目だ。だが、森は生きていた。燃え尽きていない。まだ呼吸している。
——その中心で、妖精は目を覚ました。
シルフィ。
視界が揺れる。世界がまだ回転しているような感覚が残っていた。身体の奥に、風圧の記憶が刺さっている。赤い影。圧倒的な熱。森を裂く炎。あの瞬間、空そのものが敵になった。
ドラゴン。
思い出した途端、胸の奥がぎゅっと縮む。
「……ッ」
声を出そうとして、出ない。
喉が痛い。炎の風圧に焼かれたのだろう。息を吸うだけで、乾いた痛みが走る。シルフィは焦った。
ナオキに知らせなきゃ。
飛ばなきゃ。
羽を動かそうとした。
だが、身体が浮かない。
羽音が立たない。いつもの軽さがない。背中の感覚が、ひどく重い。シルフィはゆっくりと自分の羽を見る。
破れていた。
透けて美しかった膜が裂け、光を通さない影になっている。羽の縁がちぎれて、細い糸みたいに揺れていた。
——飛べない。
その事実が、喉の痛みより先に心を刺した。
ナオキに会いに行けない。
悲しい。悔しい。怒りたい。泣きたい。
なのに空は青い。太陽は眩しい。森は美しい。
世界は、何もなかったみたいに続いている。
シルフィは地面に手をついた。土の冷たさが指先に伝わる。草が揺れ、小鳥が一羽だけ、距離を取りながら鳴いた。
——平和な朝だ。
平和なのに、自分だけが壊れている。
そのとき、足音がした。
ゆっくり。軽い。だが、踏みしめる音が妙に静かで、森の気配を乱さない。近づくにつれて、空気が少し変わる。花の香りとも違う。冷たさでもない。澄んでいて、夜の匂いが混じるような、不思議な気配。
そして、透き通った声。
「懐かしい魔力がしたと思えば……」
シルフィは目を上げた。
日傘を差した少女が立っていた。
太陽の光が強いのに、彼女はその光を避けるように傘を傾けている。白い肌は日差しに負けないほど透明で、長い紫の髪が風に揺れた。耳は横に長く、つんと尖っている。月を思わせる淡い瞳が、森の中の小さな命を静かに見下ろしていた。
見た目は人間なら十五歳ほど。
だが、空気が違う。
時間の流れ方が違う。
感情があるようで、ないようで。
優しいようで、冷たいようで。
その声は、森の奥に眠っていた古い頁をめくるみたいに静かだった。
「……妖精」
少女は、そう言ってしゃがむ。
傘が揺れ、傘の影がシルフィの上に落ちた。影の中は少しだけ涼しい。日差しが遠のくだけで、胸の痛みが軽くなる気がした。
「羽が裂けてる」
少女は淡々と確認するように言った。
「妖精の羽を修復する古文書……あったかな……」
その言葉に、シルフィは反応した。助けてくれる。分かってくれる。
声を出したい。ありがとうと言いたい。
だが、喉が動かない。
息だけが漏れる。
少女は、その沈黙を責めなかった。
そっと両手を差し出し、壊れものを扱うみたいにシルフィを包んだ。掌は温かい。だが熱くない。温度が一定で、安心する温かさだった。
シルフィは目を閉じた。
心の中で、ありがとう、と言った。
その瞬間、風がひとつ吹いた。
木々の葉を揺らすだけの小さな風。
それでも少女は気づいたように、僅かに口角を上げた。
「……うん」
彼女は顔を上げ、空を見た。
遠い。ずっと遠い。
森の上、雲の向こうに、赤い翼の気配がまだ残っている。
「赤いのが来たのね」
言葉は柔らかいのに、意味は重い。
「なるほど……」
「これは、あの子が来る」
“あの子”。
その声に、確信が混じった。
少女は日傘を持ち直し、シルフィを抱えたまま立ち上がる。
傘の縁に、太陽が当たってきらりと光る。だがその光は、どこか月光に似ていた。
森は美しい。
そして、世界はまた動き始める。
少女は静かに歩き出した。
妖精を抱いて。
誰にも聞こえないくらい小さな声で、最後にこう呟いた。
「……エルネス」
◇
ゴルフコースって、不思議な場所だと思う。
戦う場所じゃないのに、ちゃんと「戦略」がある。勝ち負けがあるのに、心は落ち着く。芝は手入れされ、池は空を映し、バンカーは白い砂で曲線を描き、フェアウェイはなだらかにうねって、目線を自然に次の景色へ運んでくれる。
——挑戦しつつ、癒される。
この矛盾を成立させてるのが、ゴルフ場なんだと思う。
俺はガルドと並んで、ホールとホールをつなぐ小径を歩いていた。
木漏れ日が道に落ち、風が芝の先を撫でる。池の縁には石が並び、少し離れた場所に小さなバンカーが見える。白い砂は光を受けて眩しいのに、うるさくない。必要なところにだけ、必要な分だけ置かれている感じがする。
「いいホールだな」
思わず口に出る。
「……無理がない」
ガルドが短く言った。
この人の「無理がない」は、最大の褒め言葉だ。
フェアウェイは優しい。曲線は柔らかく、狙い所が自然に見える。でも、油断すると池が待っている。手入れの行き届いた芝は踏み心地が良いぶん、ミスが目立つ。バンカーも、意地悪ではないが、落ちたらちゃんと「出し方」を考えさせられる。
(挑戦と優しさのバランス、ってやつだ)
遠くを見ると、雲海が薄く棚を作っていた。高所の風は澄んでいて、日常の匂いを一枚ずつ剥がしていくみたいだ。夕方になれば、海の方が赤く染まる。そんな景色が「おまけ」みたいに付いてくる。
これ、貴族が来るわ。
ゴルフして、温泉入って、夕日見て、帰りに土産を買う。国は勝手に回る。王様がご機嫌で「どうじゃ!」って言うのも分かる。
……と、のんびり考えていた、そのとき。
ガルドが立ち止まった。
指が、前方を指す。
「あれは……エルネスだ」
「え?」
視線の先。ホール間の小径の向こうから、誰かが歩いてくる。足取りは重く、背中が小さく見える。けれど、両手で杖を握りしめる姿勢は崩れていない。弱々しいのに、目だけが折れていない。
エルネスだ。
俺は駆け出した。ガルドも同時に動く。足音が芝を叩き、風が頬を切る。
「エルネス!」
近づいて、俺は息を呑んだ。
エルネスは、仰向けの男を二人、魔法で浮かせて運んでいた。
地面すれすれ。まるで棺を運ぶみたいに、静かに、揺れないように。青い光が薄く伸びて、二人の身体を支えている。
「……ドラクエかよ」
つい言ってしまった。
ガルドは俺の軽口を無視して、即座に問う。
「何があった?」
エルネスが唇を開く。
「……ドラゴンが……」
それだけ言って、膝が崩れた。
「エルネス!」
俺が受け止めるより早く、ガルドが支えた。体温が冷たい。魔力を使い切ったときの、あの感じだ。
幸い、近くに馬車が停めてあった。コース整備のための荷車だろう。俺たちはブロックとカイを浮かせたまま馬車へ移し、エルネスを抱えて乗せた。
「温泉宿へ」
ガルドが短く言う。判断が速い。距離だけじゃなく、場を動かすのも上手い。
馬車は揺れた。小径の木々が流れ、芝の海が後ろへ遠ざかる。平和な景色が、いまだけは少し怖い。景色が綺麗すぎるときほど、嫌なことが起きる。
そんな気がした。
⸻
温泉宿は、想像よりずっと“高級旅館”になっていた。
入口の灯りが柔らかい。木の香りがする。床は磨かれていて、歩くと足音が静かに吸われる。湯の音が遠くから聞こえる。空気に、硫黄の匂いが混じっている。ああ、ここは癒しのために存在してる場所だ。
(居心地、良すぎる)
中では、リリアーナ様とローナが術師の施術を受けていた。
……施術というか、ほぼ“整う”やつだ。
ふかふかの椅子。温かい布。香草の香り。肌に当てられる蒸気。ほんのり甘い匂い。ローナが目を丸くして、ぽつり。
「こんな贅沢……していいのかしら……」
姫は、うっとりした顔で頷く。
「整います……」
その言い方、完全に常連だ。
そこへ俺たちが駆け込んだ。
「すまない」
ガルドが頭を下げた。
「エルネスを温泉に入れてくれ」
俺は馬車からエルネスを抱えて降ろし、宿の玄関でようやく息を吐いた。ブロックとカイは別室へ。二人とも顔色が悪いが、目は開いている。
ブロックが苦笑する。
「やられたぜ……」
カイが、短く言った。
「魔族を食うドラゴンがいた」
「気をつけろ」
言い方が淡々としてるほど、重い。
術師が二人を診て、即答した。
「しばらく安静です」
「つまり、お休みです。出番なし」
「出番なしって言い方が急に舞台裏だな」
俺が言うと、術師は真顔だった。
「事実です」
ブロックが天井を見る。
「……芝野郎、代わりに稼いでくれ」
「誰が稼ぐんだよ」
俺はツッコんだ。
「俺、ゴルフしてるだけだぞ」
カイが小さく笑った。
「その“だけ”が、世界一重いんだよ」
やめろ、急に名言みたいに言うな。
⸻
エルネスは、湯に入れた。
湯気がふわりと上がり、彼女の頬に血色が戻っていく。温泉は魔力を増やすわけじゃない。けれど、心と身体の「戻り」を早くする。回復って、そういうものだと思う。
……姫とローナも、もちろん温泉に入っていた。
そこは、こう、あれだ。
湯気が仕事をしてくれるやつだ。
宿の中は妙に上品で、笑い声も柔らかい。男の俺が細かく語ると怒られそうなので、俺はここでは「湯気、ありがとう」とだけ言っておく。
ローナが湯上がりに、ぽつり。
「温泉って……人を優しくしますね」
姫が頷く。
「距離が……溶けますわ」
(距離が溶けるって表現、好きだなこの子)
⸻
しばらくして、エルネスが目を開けた。
起き上がる動作はまだ重い。だが、眼差しが違う。スイッチが入っている。そういう顔だ。
エルネスは、俺を見て言った。
「付き合ってください!」
「え?」
俺の頭が一瞬、変な方向に回った。
「いや、急にそういう……」
エルネスは慌てて続ける。
「師匠のところへ、一緒に来て欲しいのです」
「ブロックもカイも怪我してて、わたし一人では道中不安です」
「お願いします。付き合ってください」
「あ、そういうことね」
「はい!」
「紛らわしい……」
姫が、ほっとした顔をした。
「ナオキさん」
「王家からもお願いします」
ガルドが湯上がりの髪を軽く拭きながら言う。
「魔族を食らうドラゴンか……」
「エルネスだけに任せる距離ではない」
「そこも距離なんだ」
俺が言うと、ガルドは一拍置いて頷いた。
「……距離は全てだ」
またそれかよ。
でも、今回は反論できなかった。
「分かった」
俺は息を吐いた。
「行こう」
ゴルフバッグを担ぐ。布製で、あちこちが擦れてボロが出ている。最近、旅が多すぎる。
ローナが小さな包みを差し出した。
「はい、お弁当です!」
「ありがとう」
ガルドが自然に受け取る。
(夫婦かな)
ローナが慌てて言い足す。
「ナオキさんの分もあります」
「……リリアーナ姫が作りました」
「え」
俺は固まった。
姫が胸を張る。
「練習しました」
「パターだけでは飽きるので」
「料理も、修正します」
(修正って言うな)
俺は笑ってしまった。
「じゃあ、いただきますは帰りにするか」
「はい」
姫は嬉しそうに頷いた。
こうして、俺とガルドとエルネスは旅に出る。
芝と距離と再現性の外側へ。
……ゴルフバッグを担いだまま。
結局、俺はどこへ行っても、ゴルフしてるだけなんだけど。
あはは。
空は晴れている。雲は薄く、太陽はきらきらと無邪気に輝いている。穏やかな風が葉を揺らし、湿った土の香りが鼻をくすぐった。小鳥が遠巻きに枝へ止まり、小動物が草陰からこちらをうかがっている。心配そうな目だ。だが、森は生きていた。燃え尽きていない。まだ呼吸している。
——その中心で、妖精は目を覚ました。
シルフィ。
視界が揺れる。世界がまだ回転しているような感覚が残っていた。身体の奥に、風圧の記憶が刺さっている。赤い影。圧倒的な熱。森を裂く炎。あの瞬間、空そのものが敵になった。
ドラゴン。
思い出した途端、胸の奥がぎゅっと縮む。
「……ッ」
声を出そうとして、出ない。
喉が痛い。炎の風圧に焼かれたのだろう。息を吸うだけで、乾いた痛みが走る。シルフィは焦った。
ナオキに知らせなきゃ。
飛ばなきゃ。
羽を動かそうとした。
だが、身体が浮かない。
羽音が立たない。いつもの軽さがない。背中の感覚が、ひどく重い。シルフィはゆっくりと自分の羽を見る。
破れていた。
透けて美しかった膜が裂け、光を通さない影になっている。羽の縁がちぎれて、細い糸みたいに揺れていた。
——飛べない。
その事実が、喉の痛みより先に心を刺した。
ナオキに会いに行けない。
悲しい。悔しい。怒りたい。泣きたい。
なのに空は青い。太陽は眩しい。森は美しい。
世界は、何もなかったみたいに続いている。
シルフィは地面に手をついた。土の冷たさが指先に伝わる。草が揺れ、小鳥が一羽だけ、距離を取りながら鳴いた。
——平和な朝だ。
平和なのに、自分だけが壊れている。
そのとき、足音がした。
ゆっくり。軽い。だが、踏みしめる音が妙に静かで、森の気配を乱さない。近づくにつれて、空気が少し変わる。花の香りとも違う。冷たさでもない。澄んでいて、夜の匂いが混じるような、不思議な気配。
そして、透き通った声。
「懐かしい魔力がしたと思えば……」
シルフィは目を上げた。
日傘を差した少女が立っていた。
太陽の光が強いのに、彼女はその光を避けるように傘を傾けている。白い肌は日差しに負けないほど透明で、長い紫の髪が風に揺れた。耳は横に長く、つんと尖っている。月を思わせる淡い瞳が、森の中の小さな命を静かに見下ろしていた。
見た目は人間なら十五歳ほど。
だが、空気が違う。
時間の流れ方が違う。
感情があるようで、ないようで。
優しいようで、冷たいようで。
その声は、森の奥に眠っていた古い頁をめくるみたいに静かだった。
「……妖精」
少女は、そう言ってしゃがむ。
傘が揺れ、傘の影がシルフィの上に落ちた。影の中は少しだけ涼しい。日差しが遠のくだけで、胸の痛みが軽くなる気がした。
「羽が裂けてる」
少女は淡々と確認するように言った。
「妖精の羽を修復する古文書……あったかな……」
その言葉に、シルフィは反応した。助けてくれる。分かってくれる。
声を出したい。ありがとうと言いたい。
だが、喉が動かない。
息だけが漏れる。
少女は、その沈黙を責めなかった。
そっと両手を差し出し、壊れものを扱うみたいにシルフィを包んだ。掌は温かい。だが熱くない。温度が一定で、安心する温かさだった。
シルフィは目を閉じた。
心の中で、ありがとう、と言った。
その瞬間、風がひとつ吹いた。
木々の葉を揺らすだけの小さな風。
それでも少女は気づいたように、僅かに口角を上げた。
「……うん」
彼女は顔を上げ、空を見た。
遠い。ずっと遠い。
森の上、雲の向こうに、赤い翼の気配がまだ残っている。
「赤いのが来たのね」
言葉は柔らかいのに、意味は重い。
「なるほど……」
「これは、あの子が来る」
“あの子”。
その声に、確信が混じった。
少女は日傘を持ち直し、シルフィを抱えたまま立ち上がる。
傘の縁に、太陽が当たってきらりと光る。だがその光は、どこか月光に似ていた。
森は美しい。
そして、世界はまた動き始める。
少女は静かに歩き出した。
妖精を抱いて。
誰にも聞こえないくらい小さな声で、最後にこう呟いた。
「……エルネス」
◇
ゴルフコースって、不思議な場所だと思う。
戦う場所じゃないのに、ちゃんと「戦略」がある。勝ち負けがあるのに、心は落ち着く。芝は手入れされ、池は空を映し、バンカーは白い砂で曲線を描き、フェアウェイはなだらかにうねって、目線を自然に次の景色へ運んでくれる。
——挑戦しつつ、癒される。
この矛盾を成立させてるのが、ゴルフ場なんだと思う。
俺はガルドと並んで、ホールとホールをつなぐ小径を歩いていた。
木漏れ日が道に落ち、風が芝の先を撫でる。池の縁には石が並び、少し離れた場所に小さなバンカーが見える。白い砂は光を受けて眩しいのに、うるさくない。必要なところにだけ、必要な分だけ置かれている感じがする。
「いいホールだな」
思わず口に出る。
「……無理がない」
ガルドが短く言った。
この人の「無理がない」は、最大の褒め言葉だ。
フェアウェイは優しい。曲線は柔らかく、狙い所が自然に見える。でも、油断すると池が待っている。手入れの行き届いた芝は踏み心地が良いぶん、ミスが目立つ。バンカーも、意地悪ではないが、落ちたらちゃんと「出し方」を考えさせられる。
(挑戦と優しさのバランス、ってやつだ)
遠くを見ると、雲海が薄く棚を作っていた。高所の風は澄んでいて、日常の匂いを一枚ずつ剥がしていくみたいだ。夕方になれば、海の方が赤く染まる。そんな景色が「おまけ」みたいに付いてくる。
これ、貴族が来るわ。
ゴルフして、温泉入って、夕日見て、帰りに土産を買う。国は勝手に回る。王様がご機嫌で「どうじゃ!」って言うのも分かる。
……と、のんびり考えていた、そのとき。
ガルドが立ち止まった。
指が、前方を指す。
「あれは……エルネスだ」
「え?」
視線の先。ホール間の小径の向こうから、誰かが歩いてくる。足取りは重く、背中が小さく見える。けれど、両手で杖を握りしめる姿勢は崩れていない。弱々しいのに、目だけが折れていない。
エルネスだ。
俺は駆け出した。ガルドも同時に動く。足音が芝を叩き、風が頬を切る。
「エルネス!」
近づいて、俺は息を呑んだ。
エルネスは、仰向けの男を二人、魔法で浮かせて運んでいた。
地面すれすれ。まるで棺を運ぶみたいに、静かに、揺れないように。青い光が薄く伸びて、二人の身体を支えている。
「……ドラクエかよ」
つい言ってしまった。
ガルドは俺の軽口を無視して、即座に問う。
「何があった?」
エルネスが唇を開く。
「……ドラゴンが……」
それだけ言って、膝が崩れた。
「エルネス!」
俺が受け止めるより早く、ガルドが支えた。体温が冷たい。魔力を使い切ったときの、あの感じだ。
幸い、近くに馬車が停めてあった。コース整備のための荷車だろう。俺たちはブロックとカイを浮かせたまま馬車へ移し、エルネスを抱えて乗せた。
「温泉宿へ」
ガルドが短く言う。判断が速い。距離だけじゃなく、場を動かすのも上手い。
馬車は揺れた。小径の木々が流れ、芝の海が後ろへ遠ざかる。平和な景色が、いまだけは少し怖い。景色が綺麗すぎるときほど、嫌なことが起きる。
そんな気がした。
⸻
温泉宿は、想像よりずっと“高級旅館”になっていた。
入口の灯りが柔らかい。木の香りがする。床は磨かれていて、歩くと足音が静かに吸われる。湯の音が遠くから聞こえる。空気に、硫黄の匂いが混じっている。ああ、ここは癒しのために存在してる場所だ。
(居心地、良すぎる)
中では、リリアーナ様とローナが術師の施術を受けていた。
……施術というか、ほぼ“整う”やつだ。
ふかふかの椅子。温かい布。香草の香り。肌に当てられる蒸気。ほんのり甘い匂い。ローナが目を丸くして、ぽつり。
「こんな贅沢……していいのかしら……」
姫は、うっとりした顔で頷く。
「整います……」
その言い方、完全に常連だ。
そこへ俺たちが駆け込んだ。
「すまない」
ガルドが頭を下げた。
「エルネスを温泉に入れてくれ」
俺は馬車からエルネスを抱えて降ろし、宿の玄関でようやく息を吐いた。ブロックとカイは別室へ。二人とも顔色が悪いが、目は開いている。
ブロックが苦笑する。
「やられたぜ……」
カイが、短く言った。
「魔族を食うドラゴンがいた」
「気をつけろ」
言い方が淡々としてるほど、重い。
術師が二人を診て、即答した。
「しばらく安静です」
「つまり、お休みです。出番なし」
「出番なしって言い方が急に舞台裏だな」
俺が言うと、術師は真顔だった。
「事実です」
ブロックが天井を見る。
「……芝野郎、代わりに稼いでくれ」
「誰が稼ぐんだよ」
俺はツッコんだ。
「俺、ゴルフしてるだけだぞ」
カイが小さく笑った。
「その“だけ”が、世界一重いんだよ」
やめろ、急に名言みたいに言うな。
⸻
エルネスは、湯に入れた。
湯気がふわりと上がり、彼女の頬に血色が戻っていく。温泉は魔力を増やすわけじゃない。けれど、心と身体の「戻り」を早くする。回復って、そういうものだと思う。
……姫とローナも、もちろん温泉に入っていた。
そこは、こう、あれだ。
湯気が仕事をしてくれるやつだ。
宿の中は妙に上品で、笑い声も柔らかい。男の俺が細かく語ると怒られそうなので、俺はここでは「湯気、ありがとう」とだけ言っておく。
ローナが湯上がりに、ぽつり。
「温泉って……人を優しくしますね」
姫が頷く。
「距離が……溶けますわ」
(距離が溶けるって表現、好きだなこの子)
⸻
しばらくして、エルネスが目を開けた。
起き上がる動作はまだ重い。だが、眼差しが違う。スイッチが入っている。そういう顔だ。
エルネスは、俺を見て言った。
「付き合ってください!」
「え?」
俺の頭が一瞬、変な方向に回った。
「いや、急にそういう……」
エルネスは慌てて続ける。
「師匠のところへ、一緒に来て欲しいのです」
「ブロックもカイも怪我してて、わたし一人では道中不安です」
「お願いします。付き合ってください」
「あ、そういうことね」
「はい!」
「紛らわしい……」
姫が、ほっとした顔をした。
「ナオキさん」
「王家からもお願いします」
ガルドが湯上がりの髪を軽く拭きながら言う。
「魔族を食らうドラゴンか……」
「エルネスだけに任せる距離ではない」
「そこも距離なんだ」
俺が言うと、ガルドは一拍置いて頷いた。
「……距離は全てだ」
またそれかよ。
でも、今回は反論できなかった。
「分かった」
俺は息を吐いた。
「行こう」
ゴルフバッグを担ぐ。布製で、あちこちが擦れてボロが出ている。最近、旅が多すぎる。
ローナが小さな包みを差し出した。
「はい、お弁当です!」
「ありがとう」
ガルドが自然に受け取る。
(夫婦かな)
ローナが慌てて言い足す。
「ナオキさんの分もあります」
「……リリアーナ姫が作りました」
「え」
俺は固まった。
姫が胸を張る。
「練習しました」
「パターだけでは飽きるので」
「料理も、修正します」
(修正って言うな)
俺は笑ってしまった。
「じゃあ、いただきますは帰りにするか」
「はい」
姫は嬉しそうに頷いた。
こうして、俺とガルドとエルネスは旅に出る。
芝と距離と再現性の外側へ。
……ゴルフバッグを担いだまま。
結局、俺はどこへ行っても、ゴルフしてるだけなんだけど。
あはは。
11
あなたにおすすめの小説
異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~
宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。
転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。
良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。
例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。
けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。
同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。
彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!?
※小説家になろう様にも掲載しています。
TS転移勇者、隣国で冒険者として生きていく~召喚されて早々、ニセ勇者と罵られ王国に処分されそうになった俺。実は最強のチートスキル持ちだった~
夏芽空
ファンタジー
しがないサラリーマンをしていたユウリは、勇者として異世界に召喚された。
そんなユウリに対し、召喚元の国王はこう言ったのだ――『ニセ勇者』と。
召喚された勇者は通常、大いなる力を持つとされている。
だが、ユウリが所持していたスキルは初級魔法である【ファイアボール】、そして、【勇者覚醒】という効果の分からないスキルのみだった。
多大な準備を費やして召喚した勇者が役立たずだったことに大きく憤慨した国王は、ユウリを殺処分しようとする。
それを知ったユウリは逃亡。
しかし、追手に見つかり殺されそうになってしまう。
そのとき、【勇者覚醒】の効果が発動した。
【勇者覚醒】の効果は、全てのステータスを極限レベルまで引き上げるという、とんでもないチートスキルだった。
チートスキルによって追手を処理したユウリは、他国へ潜伏。
その地で、冒険者として生きていくことを決めたのだった。
※TS要素があります(主人公)
【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~
きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。
前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。
明日を信じて生きていきます~異世界に転生した俺はのんびり暮らします~
みなと劉
ファンタジー
異世界に転生した主人公は、新たな冒険が待っていることを知りながらも、のんびりとした暮らしを選ぶことに決めました。
彼は明日を信じて、異世界での新しい生活を楽しむ決意を固めました。
最初の仲間たちと共に、未知の地での平穏な冒険が繰り広げられます。
一種の童話感覚で物語は語られます。
童話小説を読む感じで一読頂けると幸いです
「クビにされた俺、幸運スキルでスローライフ満喫中」
チャチャ
ファンタジー
突然、蒼牙の刃から追放された冒険者・ハルト。
だが、彼にはS級スキル【幸運】があった――。
魔物がレアアイテムを落とすのも、偶然宝箱が見つかるのも、すべて彼のスキルのおかげ。
だが、仲間は誰一人そのことに気づかず、無能呼ばわりしていた。
追放されたハルトは、肩の荷が下りたとばかりに、自分のためだけの旅を始める。
訪れる村で出会う人々。偶然拾う伝説級の装備。
そして助けた少女は、実は王国の姫!?
「もう面倒ごとはごめんだ」
そう思っていたハルトだったが、幸運のスキルが運命を引き寄せていく――。
『ミッドナイトマート 〜異世界コンビニ、ただいま営業中〜』
KAORUwithAI
ファンタジー
深夜0時——街角の小さなコンビニ「ミッドナイトマート」は、異世界と繋がる扉を開く。
日中は普通の客でにぎわう店も、深夜を回ると鎧を着た騎士、魔族の姫、ドラゴンの化身、空飛ぶ商人など、“この世界の住人ではない者たち”が静かにレジへと並び始める。
アルバイト店員・斉藤レンは、バイト先が異世界と繋がっていることに戸惑いながらも、今日もレジに立つ。
「袋いりますか?」「ポイントカードお持ちですか?」——そう、それは異世界相手でも変わらない日常業務。
貯まるのは「ミッドナイトポイントカード(通称ナイポ)」。
集まるのは、どこか訳ありで、ちょっと不器用な異世界の住人たち。
そして、商品一つひとつに込められる、ささやかで温かな物語。
これは、世界の境界を越えて心を繋ぐ、コンビニ接客ファンタジー。
今夜は、どんなお客様が来店されるのでしょう?
※異世界食堂や異世界居酒屋「のぶ」とは
似て非なる物として見て下さい
相続した畑で拾ったエルフがいつの間にか嫁になっていた件 ~魔法で快適!田舎で農業スローライフ~
ちくでん
ファンタジー
山科啓介28歳。祖父の畑を相続した彼は、脱サラして農業者になるためにとある田舎町にやってきた。
休耕地を畑に戻そうとして草刈りをしていたところで発見したのは、倒れた美少女エルフ。
啓介はそのエルフを家に連れ帰ったのだった。
異世界からこちらの世界に迷い込んだエルフの魔法使いと初心者農業者の主人公は、畑をおこして田舎に馴染んでいく。
これは生活を共にする二人が、やがて好き合うことになり、付き合ったり結婚したり作物を育てたり、日々を生活していくお話です。
異世界転生したので森の中で静かに暮らしたい
ボナペティ鈴木
ファンタジー
異世界に転生することになったが勇者や賢者、チート能力なんて必要ない。
強靭な肉体さえあれば生きていくことができるはず。
ただただ森の中で静かに暮らしていきたい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる