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第5章 輪廻転生の旅/天山山脈を渡る因果

過去という現在.31: 酔いと来歴

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 紗緋大寺院は、天山山脈の最高峰コンロゥ八合目あたりの岩壁に張り付くように位置していた。
 一般の人々は、そこまで行かずに三合目の紗緋の分寺に拝礼する。
 余りにも八合目までの道行きが、苛烈過ぎるためだ。

 トルネートを出発して2日後、白竜らは紗緋分寺に着いた。
 奇跡の地では、信仰心が厚ければ、全ての願いが叶うと言われている。
 不治の病も、家族の安全も、極楽浄土への保証も全てだ。
 それが、ウィースムの恩恵に預かれぬ貧しい人々、いや、ウィースムを否定して生きる素朴な人々を多くこの地に集める。
 紗緋分寺門前の雑踏の中で、様々な仏像を熱心に見入る白竜を見て、この人は変わったとギラは感じていた。
 どうやらその変化の原因は、白竜が取締官になる為に受けた処置手術だけにあるのではないようにギラには思えた。


 紗緋分寺の周囲には、巡礼客用の宿泊施設が幾つかある。
 その日の夜、若水は野営をやめ、街の見学も兼ねて宿泊施設に泊まる事を白竜に提案した。
 普段の白竜であれば、任務遂行の前の余分な休息など一言ではねのけるのだが、この日、白竜は若水の提案を承知した。
 紗緋三千五百年の歴史が彼の心に何かをもたらしたのかも知れない。

 時折、窓の外からヤク車が通過する乾いた音が聞こえる静かな夜だった。
 白竜と若水は部屋にしつらえてあった小さなテーブルを挟んで向かい合う形で座り、蚊龍は窓際に陣取って外の様子を何とはなしに見ている。
 ギラといえば先ほどから、蚊龍を熱ぽい視線で部屋の隅から見つめるばかりだった。

 白竜はテーブルの上にある山羊の乳を発酵させた地酒に手を伸ばした。
 若水はそれを面白そうに眺めている。
「捜査官でも、そのような酒を飲むのですか?それは密造酒の最たるものですよ。」
 若水はここ二日間の旅で、打ち解けた部分があるのだろうか、ややくだけた調子で言った。
 そして、その口調の中には、白竜に対するある種の憧れのようなものが含まれていた。

「無論、捜査官はこんな酒は飲まない。しかし私は捜査官ではなく取締官だ。取締官というのは、現役を退いた捜査官の次のポストと考えて貰っていい。あるいは駆け出しか、処置者の仕事だ。それに酒を欲しがっているのは、私ではなく、もう無くなってしまった私の臓器だよ。」
 白竜が憂欝な口調で答えた。
 何処からか、香の臭いが夜の風に流されて部屋の中に流れ込んでくる。

「白竜さんの人工臓器はアルコールを吸収出来るのですか?」
「分解してエネルギーに変換する事は可能だが、酔いはここの装置が脳内の状況をコントロールして作り上げる。酒を飲むのは、その装置のスィッチを入れるための儀式だ。」
 白竜は自分の左胸の中央部を中指でトントン叩きながら、説明した。
 そんな白竜の様子を見ながら若水は決心したように切り出した。

「白竜さん、実は私は赤の都の出身なんです。あなたの事も良く存じ上げています。まあ、よくと言うか、憧れの的と言い替えればいいのか。私が高校生の頃、テレビである報道番組が組まれました。題名は『ホワイトドラゴン 悪魔の林檎を追う。』一時間ばかりのドキュメンタリーものでした。私はかじりついて見ていましたよ。ホワイトドラゴンのスタイルがいかしてた。普通、捜査官はあの凸凹したプロテクトスーツを着ているのが通常なのに、貴方はジーンズに革のジャケットの軽装だった。長髪の頭にはインカムを仕込んだバンダナを巻いていたっけ。胸のホルスターからでっかいMT44を引き抜いた貴方は、たったの三発で、白くてぶよぶよした怪物を、いとも簡単にやっつけてしまった。」
 そこまで興奮して一気に喋り終えた若水は、相手に軽く見られるのを恐れたのか言葉を継ぎ足した。
 そして彼の顔はほんのり上気している。

「いえ、何しろ高校生の年代というのは格好が良ければ何でもいいと云う時期ですからね。あの放送があった翌日から学校ではジーンズに革のジャケットが、大流行だった。」

「昔の話だな。赤面の限りだ。しかしあの放送には三つの嘘がある。問題の捜査官の服装だが、ジーンズと革ジャケットの下には、アンコを抜いたプロテクトスーツを着ていたのが事実だ。私は子どもの頃から映画好きのスタイリストでね。二つ目は白いぶよぶよの怪物の事だ。あれは怪物ではない。元は六歳になったばかりの少女だったんだよ。母親の妊娠期のクリスタルダストの常用と、少女に摂取させたウィースムパッシュが原因だった、、。もっとも機構本部に出動依頼の電話をかけたのも、その母親だったがね。私は逮捕すべきは母親だと思った。今でも、そう考えている。」
 今度は恥ずかしさで、若水は顔を赤くしながら彼の青春時代のヒーローの顔を見た。

「三つ目は、あの放送の意図だ。私には初め、クリスタルダスト常習の危険性を一般に知らせる為と知らされていたが、放映されてみると、うまく編集されていて科技機構のPRでしかなかった。当時、クリスタルダストの蔓延は政府の無能ぶりを証明するものだと批判されていたから、世論を刺激する内容については、伏せられたのだろう。もちろん、ウィースムパッシュの事などは、完全に機密事項扱いだ。」

「どうだ、今度は君の話をしてくれないか?宗教に携わるものが処置を受ける事が、私には疑問なのだが?」
 もちろん白竜の頭の中には、常に渦紋がいる。
 白竜は、自分の為に三杯目の酒をついだ。

「、、赤には有力な宗派が二つあるのはご存じですね。一つは汎真言宗、もう一つは私の属していた汎浄土宗です。その頃、汎真言宗では結晶体を合法的に手にいれていた。凍結法施行の初期には、科学技術の遅滞を避けるために、ウィースムを上回るか、あるいは同程度の科学技術がウィースムに付随して開発されればそれでよしとする項目がありましたからね。私は汎真言宗がその基準をクリアしたのではなく政府上層部との取引があったとにらんでいますが。まあ、そんな事はどうでもいい。汎浄土宗が処置に対して遅れを取ったからか、あるいは真面目だったのか知りませんが、我々の中で結晶体に手を出す僧は殆どいなかった。ところがある日、我々修行僧は、本堂に集められて処置を勧められた。『処置を受けた僧がおらぬとあっては、我が汎浄土宗から人心が離れる。』そんな意味の事を長老達は喋っていました。結局は汎真言に対する対抗意識だったのでしょうが。」

「君は承知したのか?」
「ええ。当時、私は腐敗しきった宗教界にあいそが尽きていましたから。出奔するついでに、処置でも受けて置こうかと考えたのです。なにしろ処置は自費でやると一生働いても追いつかないぐらいの費用が必要ですからね。でも私の目論見は、ばれてしまいました。それから私は汎浄土宗に追われる身となって世界中を流れ歩きました。世俗に戻れば済むものを、、何故か、それが出来なかった。宗教というものを捨てられなかったのかも知れない」
「ほう、、仏法の世界にも色々あるものだな。そしてたどり着いたのがこの紗緋と言う訳か。」
 何故か白竜は、この若水の言葉に心を打たれたようだった。

「ええ、ここには本当の宗教があります。」
「口の悪い連中は、紗緋大寺院の事を、古典仏教生誕の地に寄生した山師のたまり場と云っているが?」
「白竜さんは、今日、紗緋分寺で多くの信徒と出会われたはずだ。彼らは天山周域の土着の人間だ。その彼らが親から子へと引き継がれてきた今までの信仰を捨て、紗緋に改宗したのは何故だと思います。今、我々に必要なのは深遠な理屈でも教義でもない。今、生きている人間の悩みに直接訴えてくる心だ。開祖は宗教については素人同然だ、その意味では、紗緋大寺院の中には開祖より有能な人物が沢山いる。それでもなおかつ開祖が人を惹き付けるのはその心を持っているからですよ。」

 その時、蚊龍が奇声を発した。
 話に夢中になっている白竜の酒瓶をこっそり拝借した蚊龍が、酒を盗み飲み、余りのまずさに声を上げたのだ。
 ヤク酒など通常の神経の持ち主なら、地もとの人間でも好んでは飲まない酒だ。
 蚊龍。この奇矯に、封印された言葉、、。
 ギラは相変わらず悩ましげに、そんな蚊龍の様子を見守っていた。


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