精霊捜査線・錬金術師達のマリオネット パラケルススの魔剣と天国にいる敵

Ann Noraaile

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第1章 ホムンクルス刑事と人造精霊

08: 誘惑 人間以外

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 張果は「MM」が出て行くと部屋の戸棚からタブレットを取り出し、それを漆黒の前のテーブルに置いた。
 張果の指がタブレットの液晶の上を撫でると、デスプレィからは、先ほどの「MM」と漆黒の映像が映し出された。
 音量が絞ってあるが、二人の会話の録音も再生されている。
 どうやら室内に隠しカメラがあったらしい。

「警察に協力しろとは言ったが、記念ビデオまでは頼んでいないぜ。」
「実をいうと儂は今、感心しておるんだ。君のような甥っ子が本当にいればと心底思う。特にジェシカ・ラビィの敵討ちのくだりでは涙が出そうになったくらいだ。冗談抜きで今の状況はまさに君が言った通りだ。ジェシカ・ラビィの件は、しっかりしたおとしまえを我々自身の手でつけねばならん。あれを放置しておけば、この儂の力自体が疑われる事になるからな。」
「だろうな。バイオアップした犯罪者や逃亡者は、もう金輪際あんたを頼らなくなる。これから先は判らないが、この業界は、今は彼ら、つまり処置者側の売手市場らしいからな。彼らにそっぽを向かれると、あんたの商売は成り立たなくなるな。」

 その理由で張果が漆黒に泣きを入れたのは、当然のように思えた。
 だがしかしこの時点では、漆黒は張果という老人に対する評価を誤っていた。
 漆黒が考えるような「SEX産業を泳ぐ古株シンジケートのボス」以上の側面を、張果は持っていた。
 例えば、この老人の『過去のある処置者』に対する影響力は絶大なものがあった。
 それは単に、娼館の経営者としての権力から発生するものではない。

 敢えて言えば、それは「人望」だった。
 ただ単純に、処置者の弱い立場を利用するでけでは彼らは付いて来ない。
 それには庇護者としての意識と実力が必要だった。
 彼らが本当に行き場に困れば、最後に東と西の『アンダーワールド』が残されている。
 だからこそ張果は、ジェシカ・ラビィの後始末について漆黒が言った推量以上の必要性を感じていたのだ。

「どうだ?このまま儂の甥になってしまわんかね?君は使えそうだ。失礼だが、君がうちの娘達と話をしている間に、君の事は調べさせてもらった。自慢じゃないが、君のIDのバックグラウンド情報に、儂の甥っ子である事を組み入れるのは、儂にとって実に簡単な事なのだよ。」
 俺の事を調べた?、、、どこまでだ?と漆黒は動揺した。
 張果はハッタリを言っているのではないようだ。
 漆黒の目の前にいる馬面をした売春宿の経営者は、やはり只者ではないようだった。

「それが、俺がお前に協力する見返りということだな?確かに今のところ俺の仕事とお前の需要は一致してる感じだがな、、、。」
 漆黒は暗い表情で答えた。

 以前の漆黒であれば、自分のIDのバックグラウンドを、故意であっても偶然でもあっても、それを覗き込んだ人間を決して許しはしなかった。
 が、今は違う。
 その事が、どれほど漆黒の心を痛めつけようと、あのバックグラウンドは、完全には秘密に出来ない質のものだという事を、彼は思い知らされて来たからだ。

 彼がクローン人間である事は、このバックグラウンド情報のもう一つ奥の階層に隠されていて、今の職場では統合署長が腹を括って開示請求してやっと知ることが出来るレベルだ。
 勿論、彼はそんな事をしない。
 多くのトラブルを抱え込んでまで、それを知るメリットが何処にもないからだ。
 しかし、それでも、それはバレる時にはバレる。
 張果は既に漆黒の本当の正体に気づき始めているのかも知れない。

「いいね。さすがに飲み込みが早い。君が儂の甥になったら、そのバックグラウンド情報を手にすることによって計られる便宜は数しれんぞ。」
 漆黒に与えられた仮准IDであっても、そこにちゃんとしたバックグラウンドが付加されていれば、見た目には人間のものと変わりがなくなる。
 ある意味、不正登録取得で完全に人間になりすましてるクローン人間と同じになるのだ。
 悪魔の誘惑だった。
 漆黒は今、張果が提案した事を、過去において何度も夢見たことがあった。

 漆黒自身は、自分がクローンであることを卑下したことはない。
 一度もないと言えば嘘になるが、人の世の実情を見れば見るほど、クローンと人間との差異は何処にもない事が分かったし、人間であっても「人非人」は、掃いて捨てるほどいるのだ。
 だからこそ逆に、漆黒には「普通の人間に与えられるID」への執着があった。

「有効なバックグラウンドね。甥って事は、あんたが落ち目にならんかぎりという条件付きになるな。」
「これは手厳しいことをいうな。だが君のID情報は最低じゃないのかね。犯罪歴がない事以外は、これ以上のマイナスポイントなど付けようがないという酷い状況だ。君のような才能のある若者が、それ相応の学歴や技能を身につけられなかったのは、そのせいだろう?それもこれも、あの事実のせいだ。だが儂のバックグラウンドを付け加える事によって、その状況は帳消しに近い状態になるかも知れない。」

「、、、あの事実だと?それ以上言うな。第一、あの事はかなり深い階層まで潜らないと調べられない筈だぞ。お前はそれを知っている。それだけで、俺はお前を引っ張れるんだ。」
 ・・・そうさ、引っ張れる。
 そして人間の張果は、直ぐに釈放される。
 その代わりに俺は、人生何度目かの大ダメージを受けるという事の運びだ。

 だが漆黒は揺れた。
 今、二人が話している「あの事」とは、漆黒の正体がクローン人間であることを指しているのか、それとは違うことを意味しているのかは、まだハッキリしていなかった。
 張果がはっきりとクローン人間と口に出して言わないからだ。
 もちろん漆黒からは、それを問い質すことは出来ない。

「誰が、階層を潜って調べたと言ったのかね?君の置かれている状況は少し見識のある大人なら、表層のID情報を見るだけで十分推測出来るんだ。それに君は、今それを肯定した。」
 ・・・やっぱりクローン人間である事まではバレていないのか?

 そして漆黒は、張果の申し出に心が半分奪われている自分に気づいて愕然とした。
 気を付けろ、これは甘い罠だ。
 俺はこの罠で、何度やばいめにあった事か。

「君が、この条件下で、現在の仕事を完了すれば、刑事の任務を全うした事になり、同時にこの私は、自分の身内の力でケリをつけた事になる。」
「その後で、俺は警察をお払い箱になる。」

「そうかな?それは道義上の問題だろう?法的には、身内に私のような人間を持ったからといって、君を警察から追い出せる理由はどこにもない。君が無視していれば済むことだ。第一、道義上なら、警察には君より他に汚職警官が山ほどいて、しかももっと悪辣だろうが。それにもし君が、今の職場を追い払われるような事があったとしても、私には君をいつでも迎えいれる用意がある。どうかね?」

「、、条件はともかく、俺とお前の目的が、今同じなのは確かなようだな。」
 漆黒は、胸に貯めていた息をゆっくり吐き出すように結論づけた。
 張果は、ニヤリと笑った。

「判った。とりあえず、この話は内容の変更なしで保留にしておこう。そして、これは儂からのプレゼントだ。ジェシカ・ラビィについては、元ライジングサン支配人ブルーノ・ベンソンが、多少なりとも情報を握っていると思われる。ウチの娘達よりな。、、彼については、煮て食うなり焼いて食うなり好きにしてもらって構わない。ただし警察で奴を保護するなんて真似だけはしてほしくないもんだが、、。奴は儂が裁く。そういう男なんだよ。」

「そいつの居場所は?」
「まだ判らないが、直ぐに君に教えてやれるだろう。今さっき、儂の影響力の及ぶ世界全てに、ブルーノ・ベンソンを差し出せと圧力をかけた。この力の行使は、いつかはやらねばと思っていたんだがね。、、、そろそろ、この業界では誰がナンバーワンなのか、はっきりさせる時が来たようだしな。奴の居場所がわかったら、一番に君へ連絡させる。」
 張果の顔に一瞬だが、隠し通せない凄みが浮かんだ。
 馬面でも怖い。
 密教に登場する憤怒相の馬頭明王というところか。

「俺たちの尊敬すべき優秀な先輩刑事たちが、いかにして堕落の道を辿っていたのか、今ようやくわかって来たような気がするぜ。お前達の用意する罠は甘すぎる。」
 漆黒は、ソファから立ち上がりながら張果に声を掛けた。

「なぁに、君は儂が見た刑事達の中でも、かなり上等な部類に入っているよ。自分自身を侮辱するには当たらない。世の中に崇高な奴はごく少数しかいないが、屑やけだものは掃いて捨てるほどいるんだからな。」
 そう言ったあと、張果はソファに深く沈んだまま力なく皺だらけの片手を上げた。

 疲れが出たのかも知れない。
 そこには一瞬、年相応の老人の姿があった。
 先ほどまでの渋みのある悪党然とした気配が消え失せていた。
 この落差、それが年を取るという事かも知れない。
 この世に誕生して数年で今の姿になり、そして何時までも若いままというクローン人間の漆黒にして見れば、それは実に不思議な光景だった。


 漆黒は駐車場で待っていた鷲男の顔を正面から見た時、張果との取引に応じようとした罪の意識がわずかに自分の心の中で沸き出している事を発見した。
 そしてあろうことか、漆黒はスピリットから目をそらせてしまったのだ。

 ドク・マッコイは、スピリット達を任せる指導教官を集めていったものだ。
「今、世間は警察に対して不当な評価を下している。確かに警官のモラルや能力が低下しているのは認める。だがそれは全てを言い当てている訳ではない、警察には、諸君らのように、この無垢なる精霊達を導くのにふさわしい清廉で勇敢な人々が多くいるのだ。」

 あの日の言葉を、未だに漆黒は覚えている。
 清廉さも勇敢さも、単純な目に見える場所にはない。
 それは秘められた所にある。
 例えば、死と対峙した時、人は何を持ってそれに立ち向かうか?
 ドク・マッコイの言葉に、感動してうち震えるような年齢ではなかったが、その言葉は、漆黒自らの内に隠している誇りとはっきりと共鳴していたのだ。

 俺が、なぜ悪党達が死ぬほど憎いか。 
 俺から言わせれば、俺の人生は、かりそめのものだ。
 だから儚くて愛しい。
 それがクローンの人生だ・
 なのに奴らは、自分に与えられた「人生」を無駄に費やし、この世界を破壊し続け、つまらない世界を通り越して、危険で狂った世界に作り変えようとしている。 
 俺はこの世界に生まれ惰性と遊びで生きてる奴らと違って、自分の意思でこの世界で生き直す事を選んだのだ。
 奴らが、自分の手で壊した世界を、まともなものに戻して返せないなら、この俺が奴らに落とし前を付けさせる。
 ただそれだけの事だ。

 だが今日は、張果が示した取引に漆黒の心は揺らいだ。
 もの思いにふける漆黒をよそに、鷲男は今までと違って、漆黒の指示を待つまでもなく車を発進させていた。
 鷲男の学習能力が、その効果を発揮して見せたのだろう。



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