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第2章 スラップスティックな上昇と墜落

27: デリートキィを

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 まだ太陽は上がっていないが、眼下に横たわる闇の中には不思議なことに微妙な光の素があった。
 時刻が夜明け前のせいか漆黒の肉眼にも、ヘリ前方の闇の中に、うっすらとあの巨大架橋が見えるような気がした。

「刑事さんよ。何処に付ける?橋の上か、横か。それとも下かね?」
 ジェットヘリの操縦席から半身を突きだして男が言った。
 民間の操縦手にしては、どこか軍人めいて鍛え抜かれた上半身を持つ男だった。
 そしてわざとらしい、ぞんざいな口のきき方。
 それは彼の中にある生来の生真面目さと、忠誠心を隠すためのもののように思えた。
 漆黒はこういう男が嫌いではない。

「このヘリなら、橋の下にだって潜り込めるのはよく判るがそれは御免被りたいね。橋の上の着陸が妥当だろうが、それも無理か、、、。いくらこんな時間だって、もうすぐ夜明けなんだ。一般車が通らないとも限らない。軍用ヘリのこいつが止まってちゃ、大騒ぎになるよな。」
 漆黒は橋の幅を思い出した。
 このヘリが降下出来ないわけではないが、その為には、一時的に道路を封鎖する必要がある。
 なら、鷲男を回収した時のようにヘリを車の真横に静止させるしかない。

「それなら心配ないね。着陸できるさ。道路封鎖は李警備保障がもうやってる。奴らは大げさなのが好きだからな。見てみるか。」
 男はコックピットの方で、ごそごそやってからゴーグルとヘッドホンが合体したようなデバイスを漆黒に突き出した。
「暗視ゴーグルか?」
「そんなチャチなもんじゃないが、まぁ親戚だ。」

 自分がまるで、秋の空気が澄み渡った日に飛ぶ鳥のように、その橋を見下ろしているような気分になった。
 それも巨大な鳥だ。
 多分、鷲男は毎日、こんな視界を得ているのだろう。

 今、眼下の群衆たちは、漆黒が放置した車の周りに、2重3重の輪を作りながらヘリが滞空する上空を見上げている。
 ヘリの姿は見えなくても音が聞こえているのだろう。
 そのほとんどの人間が濃紺の制服を身につけていた。
 制服は李警備保障のものだ。

「、、そうだな。あんな立派なステージを用意してくれているなら、ご期待に応えてド真ん中に降りようか。」
「いいねぇ。但し、捜し物は早くすることだ。李は俺達の権威で暫く押さえられるが、ジッパーの方は、ウチのお偉方でも骨が折れるって話だぜ。」
 李警備保障とタメを張れるとは、ドク・マッコイの組織も大したものだった。
 ただジッパーは誰にも止められない。

「ジッパー?ジッパーが、もう嗅ぎつけているのか?」
 黎明の光が射し込み初め、世界は輪郭を取り戻しつつある。
 今度は肉眼でも、橋の奥から現場に近づきつつある3台の黒いセダンが見えた。
 3台の車が、現場に到着するのに3分もかからないだろう。
 おそらくジッパーの車だ。
 そしてこの後、ジッパーの到着は路上を封鎖している李警備保障との押し問答で、数分が費やされるはずだ。
 その間に、漆黒はメモリーのバックアップを見つけださなくてはならない。

 ヘリが橋面の9メートルまで高度を下げたとき、漆黒は待ちきれずにヘリから飛び降りていた。
 着地のショックを和らげるために、漆黒は身体を回転させなければならなかったが、足首も含め彼の身体にはどこにも異常はなかった。
 漆黒の身体は、単に原体の複製コピーというのではなく、身体的な諸能力が超人と呼んでいいレベルにまで引き上げられているのだ。
 彼は立ち上がるなり車に向かって突進した。

 橋の上の男達の視線は、初め彼らの頭上に飛来してきた大型ヘリに釘付けになっていた。
 ヘリの横腹に染め抜いてある軍科学統治機構のロゴマークがその威力を発揮しているのだ。
 次に、走る漆黒の視野の片隅に、李警備保障の囲みの一角が、あわただしく動き始めているのが映った。

 数人の判で押したような黒服の屈強な男達と、眩いばかりの銀髪をもつ女が、濃紺の制服の壁の向こうに見えた。
 パーマー捜査官だろうと漆黒は考えた。
 彼女はこの事件の専任なのだ。
 ここで再び出会ったところで、奇異な点は一つもない。
 それより問題なのは、彼女の頭が信じられない程、「切れる」という事だった。

 漆黒は引き上げられた車の助手席側のドアを、祈るような気持ちで引っ張る。
 漆黒達が救出された時、この車は橋の防護ネットに抱きかかえられる状態で半分、河に向かって飛び出していたのだ。
 李警備保障が、それを橋の上に引き戻していた。
 その際に車のフレームが曲がってドアが開かない可能性も大いにあり得た。
 パーマー捜査官に、今、この車を押さえられてしまえば、漆黒には二度とバックアップを探し出すチャンスはめぐってこない。
 第一、漆黒はパーマー捜査官が提案した捜査方針から逸脱した事をやっている。

 予想通り、ドアは一度では開かなかった。
 漆黒は窓ガラスを拳銃で撃ち抜く事を考えた。
 警官用に開発された車の窓ガラスは、ボディに加わる衝撃を選別して割れる。
 防弾機能と、二次的な事故防止を避ける為の自壊を、より分けるのだ。
 当然、豆鉄砲と呼ばれる支給拳銃で、この窓ガラスを破壊するには弾倉を何回か空にする必要があるだろう。
 そんな派手な事をすれば、例えバックアップを旨く見つけだせても、その後でパーマー捜査官の目をごまかすことは到底不可能になる。

 「しかし」と、漆黒が銃の使用を本気で考え始めたとき、突然、車のドアがバゴンと開いた。
 半分、ドアを引きちぎったと言って良いかも知れない。
 本人が思っている以上の腕力を、漆黒は発揮していたのだ。

 漆黒は急いで、助手席に潜り込むと、パネルスィッチが並ぶボックスに食いつくような勢いで、捜し物に取り組み始めた。
 あのビデオカメラとボックスを結線した部分は、略奪者によって見事に破壊されている。
 まずは、通信および、電子機器の独立電源が生きているかどうか?
 タッチパネルに指の腹を指定回数通りに軽く打ち付ける。
 これが身元確認も兼ねた電源を入れる為の儀式だ。
 ボックスの点灯スィッチ部分が暫く点滅して安定する。
「いい子だ、、よく頑張ったな。」
 思わず漆黒の口から、小さい言葉が漏れる。

『バックアップは、あるのか?』
 次はそれが問題だった。
 人員を整理する為に導入された一世代前のハイテクギア。
 だがそれは警官達に配備された代物だ。
 玩具ではない。
 そのハイテクギア達は、常に裁判時での証拠能力を問われるのだ、バックアップは必ずある。
 だが、何処にある?
 こんな代物は滅多に使わない。刑事を百人並べても、この機械の扱いを熟知している人間はいないだろう。

 漆黒は車載PCのメモリーを探る。
 車載であるメモリー空間は、それほど広くはない。
 だがそれは中央コンピュータなどとの比較論にしか過ぎない。
 その空間は一人の人間の手仕事探査記録の容量を遙かに超えている筈だ。
 一つ一つのフォルダーやファィル名を判別するのは不可能だ。
 タイムスタンプを確認する。
 タイムスタンプが壊れている様子はない。
 時刻で検索をかける事が可能だ。
 次はファイルサイズ。
 映像ファイルはこの時代にあっても群を抜いて大きい。

「ビンゴ!さすが、お堅い警察だ。こう言った事にはそつがない。」
 漆黒がバックアップファイルをダウンロードする為の専用メディアを探そうと、グローブボックスを漁り始めた時、背後からきつくて甲高い声が掛かった。

「漆黒刑事!その車の調査権は私たちに移りました。速やかに、そこから降りなさい!」
 パーマー捜査官が、4人の男を引き連れて、自信たっぷりの足取りでやってくる。
 パーマー捜査官の身体は恐ろしく細いのに、分厚い男達と並んでも何故か見劣りしない。
 俗に言うオーラが違うのだ。

 グローブボックスの中には、官給品の無骨な携帯電話が転がっていた。
 車載コンピュータや、警察のメインPCと直接のやりとりが出来る便利な品物だが、大きすぎて現場からは敬遠され続けた品物だ。

『こいつで転送するんだ。媒体にダウンロードしても、身体検査でそれを没収されちまう。だが、何処に送る?俺の家か。だめだ。きっと監視されている。警察?ばかな。やつらの手間を省いてやるようなものだ。』
 迷っている暇はなかった。

 漆黒の手はグローブボックスの物陰の中で、無骨な携帯電話のキーを叩いていた。
 パーマー捜査官の部下が、漆黒の肩を掴んだのと、バックアップファィルが漆黒の手によって転送され終わったのが、ほとんど同時だった。

 次は、バックアップ本体の消去だった。
 このデータは、暫くジッパーに渡すつもりはない。
 この事案は、俺とレオンの流儀で仕上げる。
 ヘブン絡みのグダグダに巻き込まれるつもりはない。
 ・・・そして漆黒の指は、黒服の男が彼を運転席から引きはがす寸前に、コントロールパネルのデリートキィを押していた。


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