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第2章 パラシートゥス 虫たちの世界
13: 船上にて
しおりを挟む等々力との待ち合わせ場所と時刻は、渦潮が最もよく見える時刻に展望の良い最上階を外し、遊覧船の左舷第二甲板後部にした。
渦潮は、船の右舷前方に見える。
第二甲板は船の客室部分の周囲を囲むような回廊だから、その客室が邪魔をして、左舷側からは右舷に展開する渦潮はまったく見えない。
しかも寒い、寒さをこらえてでも渦潮を見ようとする人間なら、最上階の甲板に上がるか右舷に回るだろう。
つまり左舷は、事を起こすには絶好の場所なわけだ。
しかも死体の処理も簡単だ。
海に投げ込めばいい。
実際、左舷の甲板には遊以外誰もいなかった。
しかし、海は今、ようやくこの時を迎えたというのに、等々力が本当にこの船に乗り込んでいるのだろうか?という焦りを感じ始めていた。
海は姿を隠し、この船が寄港したそれぞれの港で乗船してくる人間の顔をチェックしていた。
船には、始発一番で乗り込んだ積もりだ。
その中に、等々力の顔はなかった。
勿論、それは、本格的な張り込みのようなものではなかったから、いくらでも見落としはあり得る。
現に、ある港の寄港時にはミスを犯している可能性がある。
その時は、不覚にも海が遊に着替えるのに手間取り、それに監視の時間がひっかかっていたから、チェックが不十分だったのだ。
その苛立ちも、確実に海の不安を拡大させる一つの原因となっていた。
スマホでは適当な返事をして見せた等々力だが、実際にはこちらの誘いにまったく乗ってこないという可能性もある。
まさか逆に罠をかけてくると言うような事はあり得ないと思っていたが、わき起こる様々な不安は依然拭いきれなかった。
結果、時刻通りに等々力は指定の場所にやってきた。
等々力の方も、その身を隠しながら遊の動きを観察していた可能性もあるが、少なくとも海の前に現れた時の等々力は、自分には何も怖れるものはないという風に悠然としていた。
スーツの上にコートを羽織っている。
シルバーグレーのやや長めの髪を後ろに撫でて梳かし付けている。
大柄な体格だが、壮年にかかった男にしては体型は崩れておらず、どちらかと言うと骨太なスポーツマンという感じがした。
実際、等々力は柔道の猛者でもある。
顔は強い意志を感じさせるハンサムと言って良かったが、目、口、鼻のパーツが中央に寄っていて、それがバランスを崩していた。
「目的はなんだね?遊は強請をするような人間ではなかったと思うんだがね?」
目の前にいる女性を遊だと思っているのか、偽物と思っているのか、ソレさえも判らない落ち着いた声と表情だった。
スマホ以外で聞くその肉声は、テレビのニュース映像の記録などで確認していた等々力の声と同じだった。
だが喋っている内容は犯罪者のそれで、警察庁次長警視監としての普段のものとはまったく逆のものだ。
『それにしても何故、この男は、姉のことを、ユウなどと馴れ馴れしく呼び捨てにしているんだ』という思いが、海の中にある黒いものを固まらせつつあった。
「調子のいいこと言わないで、私をあんな目に遭わせてその上、真希を殺したくせに、、、私は貴方に対して、何をしたっていいのよ。」
こんな場面で女言葉が出るか心配していたが、それは杞憂に終わったようだ。
今の海は遊になりきっている。
「勇ましい事だな。誰かに私を強請ってこいと誑かされたのか?そう言えば、別荘からどうやって逃げ出したんだね?別荘の周囲に見慣れないオートバイのタイヤの跡があった。その男と、どうにかして連絡をとったのか?」
やはり彼らは、海が遊を救出した後、事後策を練っていたのだ。
海の存在も彼らには薄々知られているようだった。
ここで上手く復讐が果たせたとしても、残りの人間達は、より警戒を強めるだろうから、事は難しくなっていくに違いない。
尚更、ここでの復讐に躓くわけには行かなかった。
「男?どうして男と決めつけるわけ?どうしてオートバイの跡と私を結びつけるわけ?さすが警察庁次長警視監ね。」
そう攪乱しながら内心、海はヒヤリとしていた。
もしこの状況が、表沙汰に出来るような事であれば、等々力はその力を最大限使って、既に海までたどり着いていたかも知れないのだ。
海の復讐は人殺しだ。
やり遂げたとしても、ただで済むとは思ってはいない。
ただし3人に対する復讐も完遂出来ない内に、こんな所で等々力に押さえ込まれる訳には行かなかった。
「とにかく何が望みなんだ?それを言いたまえ。もう一度、私の犬になりたいのかね?」
等々力が不適な笑みを見せる。
完全に目の前の女を舐めきっているのだ。
海は羽織っているコートの前をはだけて見せた。
そこには形状は変わっているが、かって等々力が遊に着せた拘束用のレザーボンデージ生地があった。
「・・本当か、その味を忘れられなくなったのか、信じられんな。いや素質はあったが、おのれの本当の性に目覚めたってわけだ。」
等々力の顔が欲望に歪んだ。
海が両手を広げて、等々力に抱きつきに行く。
二人はお互いの背中に腕をまわして抱擁をする。
海は左手の袖口に仕込んで置いた長い刺し針を引き抜くと、等々力の首筋にそれを渾身の力を込めて突き込んだ。
首は全ての生き物の急所の筈だ。
何より、この体勢で一番届きやすい部位だった。
「くっああ!!」という短くて鋭い声を、等々力が漏らす。
煌紫は、何故か等々力の急所を海に教える事はなかったが、海は自分の勘で相手の首にその狙いを定めていた。
苦悶の声が漏れたということは、それなりの効果があるのだろう。
そして海が内心怖れていた、実行直前の躊躇は、生まれなかった。
かと言って、等々力への強烈な怒りが刺殺の原動力になった訳でもない。
この期に及んでは、やるしかないという恐怖にも似た切迫した感情が、それを実行させたのだ。
あの時の祖父の声、「相手が間違っているのなら殺すつもりでやりかえせ」が、とこかで聞こえ、そして、頭の中がどんと冷えていくあの感覚が海を支配していた。
そして今の海の腕力は尋常の強さではない。
針は一瞬にして肉の中にめり込んでいく。
海の身体に密着した等々力の身体から、得も言えぬ震えが伝わって来たかと思うと、次の瞬間、海は恐ろしいほどの力で等々力に抱きしめられていた。
針がそのような反応を司る首の神経を刺激したのだろうか、それはどう考えても尋常でない強い力だった。
そしてこれも信じられない事だったが、この瞬間に強く勃起した等々力の男根が海の身体を押していた。
海は酷く混乱した。
刺し殺している筈なのに、等々力の海を抱きしめる力が益々高まっていく、このままでは身体をへし折られる!と思える程に。
海は等々力の首に深く突き刺さったままの針から手を離すと、その手を等々力の顔の前の空間に差し込んで、彼を自分から引き離そうとした。
等々力の目は、カッと見開かれ、その眼球が飛び出そうとしていた。
口は顎が外れそうなくらい大きく開き、そこから紫色になった舌が突き出ている。
絞殺をした訳ではないのに、針がどこかそのような神経を断裂させてしまったのだろうか、、、いやそれよりも等々力が海を締め上げる力の増大が止まらない。
海は耐えきれず、思わず等々力の顔を自分から遠ざける為にフルパワーの腕の力で、それを外へと押しやった。
ボキっと嫌な音がして、等々力の首の角度が変な風に曲がった。
それと連動したのか、海の身体を締め上げている等々力の腕の力が一瞬弱まった。
海はその隙を逃さず、等々力の戒めから逃げ出したのだが、最後の最後に、等々力に左手首を捕まれてしまった。
驚いた事に、首をへし折られた等々力は、掴んだ海の左手首を引き戻し、再び海を抱き取ろうとし始めた。
海は乱れた等々力のスーツの内懐に拳銃の銃把のようなものを見つけ、素早く計算を始めた。
等々力は死を前にして尋常でない怪力を発揮している。
超人化した海でもこの肉弾戦に勝ち目があるかどうか定かではなかった。
銃だ。
等々力の銃を抜き取って、撃ち殺すしかない。
自分にはまだそのスピードが残っている。
再び恐怖の抱擁に抱き取られる前に!
『駄目だ、海!今の、そいつは銃では死なない。既に硬化防御に入っている。それに銃声を聞きつけて、人が集まって来たら大変な事になる。海だ、このチャンスに奴を海に投げ込め。』
煌紫の声だった。
しかも海の脳裏に、海が等々力の懐に入り込んで、自分の掴まれた左手首を支点にして等々力を投げ飛ばす技と道筋を投影して見せた。
『頼む海、言う通りにしてくれ!また失いたくない!』
煌紫の悲痛とも言える叫びを聞きながら、海の身体は先ほど脳裏に投影されたイメージ通りに動き始めていた。
等々力の身体が、転落防止用の柵を越えて、ふわりと空中に浮いた。
だが等々力の手はまだ海の手首を握ったままだった。
もしこのまま握られたままだったら、海も引っ張られて海の中に転落してしまう。
・・すんでの所で、等々力の指先が海の左手首から離れた。
ヒューという奇妙な喉笛の音を残して、等々力の姿が海の視界から消えた。
海はその場にへたり込んでしまう。
全身に震えが来ていた。
『気持ちは分かるが、すぐに撤収だ。客室に戻って着替えろ、海に戻るんだ。始めに立てた計画通りにやるんだ。』
ようやく海は立ち上がり、自分の客室に戻ろうとしたのだが、結局我慢しきれずに途中でトイレに入り、そこで吐いた。
その状況で、海が女子トイレで事を処理できたのは、上出来と言えた。
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