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第1章 彼らの世界 

03: VIP席

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 闇ファイトのリングは、かっての小公園の中心にあった円形の噴水を改造して造られていた。
 周りを取り囲んでいる低層の建物と、臨時で並べられた簡易ベンチやひな壇が観客席というわけだ。
 もちろん多くの人間は、立ち見でリング側に群れている。
 どこから電力を盗んでいるのか、とうの昔に配電停止された筈の水銀灯が、魚の腹の鈍い輝きをリングに注いでいる。

 そのリングを、5階建てのビルの一室の窓から見おろしながら、アンジェラ・トレーシーは恐怖心を抱いていた。
 アンジェラの恐怖の源は、眼下のリングを取り囲む、影法師にも見える物言わぬ群衆だった。
 数百にのぼる薄汚い作業着をまとったヒューマンスード達。
 彼らのすえた臭いのする体臭の塊が、アンジェラのいる4階まで立ち上って来そうだった。

 本来興奮をもたらす筈の格闘スポーツを観戦しながら、歓声もあげず、興奮もしない無感動なヒューマンスードの群衆。
 彼らが時折漏らす声は、ググゥと鳴く、押し潰された様な蛙の鳴き声に似ていた。
 アンジェラは、父親のエイブラハムが横にいなければ、この場からすぐにでも逃げ帰りたい気持ちだった。

 エイブラハムは娘の十九歳の誕生日のプレゼントと偽って、この忌まわしい居留地区にアンジェラを連れて来たのだが、アンジェラには父親の魂胆が見えていた。
 父親の支配している企業には、非合法な沢山のヒューマンスードがいる。
 更に最悪な事に、父親にはヒューマンスードの愛人さえいるのだ。

 アンジェラの父親は、顔に刻まれた皺さえ、見る者に渋さとして感じさせる甘い顔立ちを持った男だ。
 権力者でもある彼が、その気になれば、何人もの人間の女性を口説き落とす事が出来る。
 だからこそアンジェラは、父親が妻を失ってから人間の女性を相手にせず、スードの女を囲っている事に、ある種の不穏な苛立ちの様なものを感じていたのだ。
 死んだ妻への愛を貫いているようにみせているが、そんな人間がスードの女なら良いと言う筈はないのだ。
 ・・・父は、私にヒューマンスードを買い取らせ、私をママへの裏切りの精神的な共犯者にしようともくろんでいる。
 今日のこの試合観戦はその事始め。
 アンジェラは少なくとも父親の今回の行動の動機を、そう信じ込んでいた。

「アンジェラ、外は暗い。窓から離れてこちらのモニターで試合を見なさい。それに気分が悪いならスカジィをやるといい。」
 リング上で行われる試合をモニターしている巨大なディスプレイの前の肘掛け椅子に深々と座ったエイブラハムが、アンジェラに声を掛けた。
 アンジェラは後悔していた。
 スカジィに手さえ出していなければ、この軽蔑すべき父親に、とことん反抗する事が出来た筈なのにと。
 無論、父親であるエイブラハムが、スカジィを利用して、娘のアンジェラを手懐けている訳ではない。
 アンジェラは、自分の小さな過ちを、実の父親に対しての引け目と感じてしまう様な、完璧主義の性格の持ち主だったのである。

 スカジィは官能とリンクして人間の感覚を解放する。
 一種の麻薬だ。
 アンジェラはその空間に漂う事が好きだった。
 しかしスカジィは、その値段故に、誰にでも手にはいるという代物ではなかった。
 十六歳の時に、父の書斎にいたずらで忍び込んで、噂に聞くスカジィの現物をみて、好奇心からそれを吸入したのが間違いだったのだ。
 そして今も、スカジィの抗しがたい魅力に負けてアンジェラは、父親が勧める彼の隣の椅子に座ってしまっていた。
 地味なブルーグレーのジヤケットを羽織った金髪の一風変わった小柄な娘が、自分の隣に座ると、父親は満足そうに頷いた。

 『それにしてもこの容器のデザインはもう少し何とかならないものかしら。』と考えながら、アンジェラはスカジィのU字に別れた吸入部分を、自分の形の良い鼻孔に差し込んでいる。
 スカジィが、アンジェラの感覚を解放し始めるのと、モニターが新しい試合を中継し始めるのがほぼ同時だった。


 リングの中央には先ほどの試合の勝者が肩を落として、つっ立っていた。
 チャンピオンらしいが、その姿はまるで途方に暮れているようにさえ見えた。
 ・・・この闇ファイトは、私達の世界の競技とはまるで違う。
 彼らの力の源泉は呪われたものであり、修練や精神の向上によって得られるものではないからだ。
 だからこんな競技で勝ち進んでも、彼らには栄光が訪れない、、そうアンジェラは考えていた。

 実際、この蜥蜴マスクの男は、この奇怪な試合を六連勝しているチャンピオンらしいのだが、スカジィを吸入してすらアンジェラには、魅力の一欠片も彼に感じる事が出来なかったのだ。

 ところが、今新たにリングに上がった挑戦者を見て、アンジェラは身体の芯をハンマーで打たれた様な衝撃を感じた。
 今まで吸入したどの時よりも、スカジィは強力にアンジェラの官能を揺さぶっていた。

 アンジェラの肉眼が高速撮影とクローズアップを始め、精神は肉体から離脱し、挑戦者の男の周囲を風となり光となり、舞い始めた。

 男はチャイナレディと、レフリーにコールされた。
 男の被っているマスクからくる印象を、そのままリングネームにしているのだろう。
 男の細い素足の上は、くたびれたジーンズだったが、それがかえってジーンズが包む彼の脚の美しさを浮き立たせている。

『ああ、あれは何と言っただろう?スクールで習った大昔の比喩、羚羊のような脚?それに母星に存在したという大昔のチャイナには、四大美人と呼ばれた女性がいたんだとか、、。えーっと、西施に王昭君に貂蝉、楊貴妃よね。あのマスクは、その内の誰かなの?』

 ジーンズの上は鞣し革の様な黄褐色の肌、アンジェラの世界にゴロゴロいる偽物の筋肉男ではなく、細身で強靭な本物の筋肉が浮き上がって見えている。
 そして何よりも強烈な印象を与えるそのマスク。
 白い陶磁器の様な質感をもつ肌に、ヌメリと光る牡丹色の唇は、常に半開きで卑猥な印象を放っている。
 鼻筋は小振りでツンと上を向いている。
 目は切れ長でややつり上がって見える。

 目の周囲の黒い縁取りの濃さの原因は、マスクに直接施された着色顔料のせいだけではなく、被る者の睫が、長くはみ出しているせいもあるのだろう。
 その上の眉毛は、あくまでも黒く長く細く、切れ上がって彩色されている。
 マスク頭部に直に植え込まれた髪は、艶やかな黒色をしており、後頭部に向かって引き詰められたポニーテールのスタイルをとっていた。
 全体の印象としては若い強靭な男の肉体に、妖艶な東洋系の女の顔がのっかっている事になる。
 正に闇ファイトにふさわしい美しく奇異なチャイナレディだった。

 白人至上主義の優生学が再び台頭し始めた今の時代に、その姿は異様に輝いて見えた。
 もちろん、チャイナという国家は、母星における大地殻変動とΩシャッフルという遺伝子に関わる疫病の為に、他の大国と共に崩壊している。
 故に、このチャイナレディが喚起するイメージは、チャイナだけに限定されない、過去における純正の黄色人種女性の総合イメージのようなものだろう。

 そしてアンジェラは、そういう姿形・存在に普段から強く惹かれていた。
 アンジェラは、一刻も早く、そのマスクの下の素顔を見てみたいような、マスク自体が素顔でであって欲しいような、倒錯した欲望に狩られて始めていた。




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