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第1章 彼らの世界
04: 父の思惑
しおりを挟む「このスードの若者は何処までやるかな?おう、やはりボクシングスタイルから始めるか。」
娘に語りかけたつもりだが、独り言に近い。
エイブラハムの声がつまらなそうに響いた。
どうせこの娘は父親の言葉など聞きはしない。とエイブラハムは思った。
だがスカジィは、被投薬者の通常意識を奪ったりはしない。
快感をよぶ感覚や情動を拡大し維続するだけである。
従って、エイブラハムの言葉のニュアンスをアンジェラは頭の片隅でよく理解していた。
自分の父親は、このチャンピオンが、役不足の相手にスード達が言うリアルチャクラを使わないだろうと考えて、それを不服に思っているのだ、と。
リアルチャクラの完全発動は、人間の外見の変形を伴う。
アンジェラは、ヒューマンスード達のグロテスクな変身など見たくなかったし、チャイナレディの美しい姿を何時までも観戦していたいと思っていた。
今、チャンピオンとチャイナレディは、お互いボクシングスタイルを取りながら、ジャブの応酬で相手の力量を推し量っているところだった。
相手のマスクを剥すには、どうしても接近戦に持ち込まねばならないが、その時は自分のリアルチャクラを爆発させるなりして、相手を圧勝しなければならない。
今彼らは、その決着の時に向かうセレモニーを行っているのだ。
チャイナレディの黄褐色の肌の表面に珠のような汗が浮かび始め、チャンピオンの拳の軽い打撃が当たる度に、その振動の為に汗が弾けて飛び散る。
アンジェラはそれを拡張された感覚でスローモーション映像を見るように恍惚感に浸りながら見つめていた。
「もうすぐチャンプの不安定因子が発火する。今夜、彼を買い取るのが正解だろうな。6回チャンピオンを続けているんだ。いくら人気がなくても、競りに掛かかればとかく面倒だ。」
エイブラハムが言う、面倒というのは金の事ではない、表向き人間社会ではスードを買い付けることが、出来ない事になっている。
買い取れるのが、前提のチャンプには、興業主を仲買にして綺麗な取引が行われる筈だが、それ意外の場合や、買取のタイミングを逃すと、そのスードに、突然親戚と名乗る者が現れたりして、横から法外な金や、誰それを一緒にレヴァイアタンへ連れて行け等という、面倒な条件をふっかけられたりする。
スードである彼らが、人間に強気にでれるのは、買い取り行為が人間社会では違法行為である事を知っているからだ。
スード達も、なんとか這い上がろうと必死なのだ。
エイブラハムがチャンピオンのリアルチャクラ発動を断定的に予言したのには、理由がある。
チャンピオンには、挑戦者に対して相手の力量をはかるため5分以内の観察タイムが許されている。
しかし観察タイムを5分を過ぎても、積極的な攻撃にでなければ、戦闘意欲なしと見なされて、自動的にチャンピオンの資格を剥奪されてしまうのだ。
闇ファイトのチャンピオンとは、しぶとく戦いに勝ち残った者のことだけを言うのではない。
いかに「見世物」を、長く演じ続けられるかも含まれていたのだ。
その5分が迫りつつある。だが意外な事に、女性の顔のマスクを付けた挑戦者が善戦を続けているのだ。
アンジェラはスカジィの為に、試合が長く続いているように感じられているが、実質は5分を経過しつつあった。
アンジェラも焦り始めていた。
もし、父親のエイブラハムがチャンピオンを今夜買い取るなら、それは当然、アンジェラへの誕生祝いという形を取る筈だった。
一人前の豪族の子弟は、いずれ自分専用のスードを持つ、それが彼ら豪族達の暗黙のルールだったからだ。
トレーシー家の跡取りは、アンジェラ一人しかいない。
ここでスードを手に入れて、今度の豪族たちのパーティでそれをお披露目する。
つまり、それをもって正式に彼女は、豪族界にデビューするということだった。
それが、スード居住地区に訪れる前の、父親の勝手な押しつけの約束だった。
どの道、ヒューマンスード等押しつけられても、アンジェラはそれを相手にするつもりはなかったが、同じ押しつけられるなら、チャイナレディの方がまだましだと彼女は思い始めていた。
ただし、敗者になったチャイナレディを希望するためには、それ相応の理由を上げなければならない。
それが自分の性の嗜好に由縁するなど、この父には口が裂けても言えないと、アンジェラは考えていた。
「よし。組み合った。始めは力勝負だ。」
リング上では、お互いの指をガギッと組み合わせながら、腰を引いて力比べを始めた二人の男達がいる。
チャイナレディの背中に、思いがけない程大きな筋肉の束が隆起した。
彼の筋肉の隆起は、彼女がいる世界では決して見られない種類の優雅さを持っていた。
そしてその背中の上にあるチャイナレディのマスクに埋め込まれたうなじが恐ろしく官能的に見えた。
その瞬間、アンジェラは、何としてでも今夜、このヒューマンスードを手にいれようと決心した。
おそらくこのスードを逃しては、自分の好みに合うスードなど二度と出てこないだろうと思ったのだ。
仮設リングを取り囲む観客達の濁ったどよめきが、螺子の背中を打った。
嘲笑と羨望、見てはならぬ秘密を覗こうとする好奇心、リングに上がりスードの誇りを捨て去ろうとする者への蔑み。
ファイターのリアルチャクラが爆発する時には何時も、スードの観客達の心には、これらの気持ちが働く。
蜥蜴マスク男の握力と手首のスナップが高まってくる。
今までセーブされていた力を開放するといった類の、高まり具合ではない。
無段階に、人間の常識的な握力を遥かに超えて、その力は無制限に伸びて行くのだ。
螺子の目前に迫ったチャンピオンの蜥蜴マスクには、開口部が、鼻孔と口に薄いスリットしかなく、その為、マスク内部に隠された表情は何一つとして読み取れない。
しかしその薄いスリットの奥からチッという、苛立たしげな舌打ちの音が聞こえた。
予想に反して螺子が、チャンピオンの力の開放に屈しそうになかったからだ。
普通の相手なら、この時点でマットに膝を付いている。
マスクを螺子から引き剥す為には、組み込んだ両手のいずれかを離さなくてはならない。
そしてその後の戦いを有利に展開するためには、リアルチャクラによるスピード加速が必要だった。
このチャンピオンには、変態をせずに自分の動きを加速するスピードのリアルチャクラはなかった。
程度には個人差があるものの、スードが自分の深い階層のリアルチャクラを発火させるためには、人間の外見を捨てさらなければならない。
つまり彼らヒューマンスードは、超人化の度合いを高めようとすると変態が起こるのだ。
何故、そうなるのか?
人間とヒューマンスードの差別化の為だと言う説が優勢だが本当の理由は誰にも判らない。
兎に角、チャンピオンは、観客に己の変態をさらさなければならない羽目に陥っていた。
今までの相手には、その手前で勝ち続けてきたのにだ。
しかもチャンピョンが次ぎにやろうとするそれは、勝利を確定するために一気呵成にやる、攻めの変態ではないのだ。
見るモノが見れば、チャンピオンが窮して、変態に追い込まれた事は判る筈だった。
スード達には、仲間に変態を見せる事を恥とする本質がある。
人間なら決して変身はしないからだ。
そして彼らスードは、自分達の事を、誇りを持って「元は人間」だったと信じ込んでいたのだ。
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