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Opportunity
しおりを挟む『せんせ』
訛ったような舌足らずの呼び声はもう聴こえない。
***
職員が行きかう廊下を、ゆっくりと歩く。
背後から自分の名を呼ばれ、青年は不機嫌そうな表情をして振り向いた。
「何だ」
「相変わらずおっかない顔してるな」
いつも調子がよい同僚は肩をすくめて、並んで歩き出す。
「午後のシフト変わってくれよ」
「またか」
呆れたような青年の声に、
「だって『白鳥』、俺が担当だと力任せに抵抗するし」
わざとらしい溜息をついて同僚は宙を仰ぎ見る。
そのままちらと無言で歩く青年を見て──にや、と嗤う。
「でもラング博士には従順だっていうじゃない」
「わざとらしい呼び方はよせ。博士号はとったばかりで全くの飾りに過ぎんし、ラボの一番底辺なのは自覚している」
冷静に言い放つ青年に同僚はしつこく食い下がる。
「気になるんだよ俺は。何で『白鳥』はお前にだけ懐くのか」
「別に懐かれてなどいない」
「気づいてないのか。『白鳥』がデータ採集のときにおとなしく従うのはお前だけだって、検査技師や看護師の間でもっぱらの噂なんだぜ」
「くだらん」
このしつこい同僚をどうやって振り切るか青年が思案し始めたところで、廊下の向こうから主任がのしのし歩いてきた。
「ラング博士」
「……はい」
「急で悪いが、午後のシフトを変わってほしい。709号室だ」
青年は沈黙したのち、冷静に抗議する。
「……何故ですか。我々は研修の身です。現在この棟にいる験体を一通り担当して、配置はそれからだと聞いていますが」
「そうだとも。それが当初の予定だった。だがどうやら『白鳥』は君には従順なようだ。だからぜひとも協力してほしい」
「──このラボではいちいち験体のご機嫌をとるのですか」
不機嫌に言い放つ青年に同僚が逆に慌てだす。
「お前、主任に何て口を」
「いいんだ。ラング博士の言うことはもっともだよ、シュタイン博士」
主任は大仰に肩をすくめる。
「だが、彼女はこのラボ最大の研究材料だ。その上彼女には時間がない。データは大量に必要だ。効率のためだよ、我慢してくれたまえ」
「わかりました」
「たのんだぞ。……シュタイン博士、君はこっちへ」
「はい。──じゃあな、ラング」
そのまま青年の横を主任は通り過ぎ、それを慌てて同僚が追っていく。
しばらくしてから、主任の大きな声が廊下の向こうから届く。
いや、誰にでもとりえはあるものだね。彼は協調性にとぼしいからどのように取り扱えばいいか悩んでいたところだが、『白鳥』を手なずけるとは。でも彼のどこを気に入ったのだろうね。
青年はエレベータの前で立ち止まる。すぐに到着を知らせる機械音が鳴り、彼は静かに開いた扉の中へ足を踏み出す。箱の中は彼一人だった。
「……くだらん」
いまいましそうに呟き、ガラス張りの壁の下方向に視線をやる。
花の季節は既に過ぎ、生えそろった芝が初夏の太陽を浴び光を跳ね返していた。
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