少し不思議な日向くんと、一つ屋根の下で

星名柚花

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85:月が欲しいと泣く子ども(3)

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「悠紀くん、待って!! どうしたの!?」
 なんとか彼の背中を視界に捉え、私は息を切らせて叫んだ。

「保坂が特別校舎の階段を上ってるって!! 山神が!!」
 階段を駆け下り、一階の渡り廊下を駆け抜けながら悠紀くんが叫ぶ。

 化学室や調理室が入った特別校舎はこの学園で最も高い七階建ての建物だ。

 では保坂くんは、

 心臓がうるさいくらいに騒ぎ出し、手足の指先が冷たくなった。

 まさか、まさか。
 想像した最悪が現実になっていいはずがないのに、なんで、どうして。

 どんなに急いで走っても、走る速度は悠紀くんのほうが早い。
 特別校舎の階段を一段飛ばしで駆け上がる彼の背中が視界から消える。

 私はがむしゃらに階段を駆け上った。
 疲労で棒のようになった足を無理やり動かし、七階分の階段を上り切って、開けっ放しの扉の先へ飛び込む。

 果たしてそこに、保坂くんがいた。

 彼は屋上のフェンスの前に立ち、悠紀くんに右手首を掴まれている。

 教室からここまで全力疾走してきた悠紀くんは汗だくになり、身体を折り曲げ、肩で息をしていた。

 とにかく保坂くんは無事だ。
 私はへなへなとその場に座り込んだ。

 余力があれば私も悠紀くんの傍に行き、保坂くんと話をしたかったけれど、とても無理だ。
 いくら吸っても酸素が足りない。
 肋骨の内側で心臓は爆発するような激しい収縮を繰り返している。
 疲労困憊し、無理を強いた足は痺れ、もはや座って呼吸するだけで精いっぱいだった。

「……何なの。いきなり走ってきて、おれの手を掴んで。戸川も。何しに来たの、お前ら」

 明るい陽光が照らす保坂くんの表情は死んでいた。
 虚無を詰め込んだように空っぽだ。

「決まっ……てんだろ。お前の、自殺を、止めるために、来たんだ」
 荒れ狂う呼吸の狭間で、苦しげに悠紀くんが言う。

「なんで。邪魔するなよ。見ろよ、今日はこんなに天気がいい。雨上がりの清々しい青空だ。こんな良く晴れた青空の下、屋上から飛び降りたらきっととても気持ちがいい。なあ、天国にだって行けそうだろ?」
 保坂くんは虚無から一転して、それはそれは嬉しそうに笑い、左手を持ち上げ、手のひら全体で空を示した。

「行けない。お前はどこにも行けない、行ったら駄目だ。ちゃんと現実《ここ》で生きてくれ」
 保坂くんの手首を掴んだまま、悠紀くんは懇願した。

「嫌だよ。お前は自分を愛してくれる家族がいて、恋人がいて、幸せだから上から目線で生きろなんて言えるんだ。お前ほんと嫌い。大嫌い。ずっと不幸でいればよかったのに。お前の笑顔を見てると虫唾が走る。死にたくなるんだ」

 保坂くんは壊れた笑顔を浮かべている。
 ギリギリのところで保っていた精神の平衡が崩れてしまったかのようだ。

「なんでだよ。俺が嫌いならそれでいい、でも――」
「いいな、お前は。幸せになれて」
 保坂くんは悠紀くんの言葉に耳を貸さず、一瞬で笑顔を消した。

「おれは生きてて幸せだと思った試しがない。何もかもが苦痛で仕方なかった。こんなクソみたいな世界、もう一秒だっていたくない。だから天国に行くんだ。ああ、おれに天国は贅沢かな。なら行き先は地獄か。地獄でもいいんだ。ここより酷い地獄なんてあるわけない。もし死んで生まれ変わるとしたら、今度は絶対人間なんかになりたくない。そうだな、誰も辿り着けないような深海の底で独り静かに暮らす貝がいいな。一番いいのは生まれ変わりなんかせず、死んでそのまま消滅することだけど――なあ、いつまで掴んでるんだよ。離せよ」

 虚ろな表情でぶつぶつ呟いていた保坂くんは急に目の焦点を悠紀くんに合わせ、忌々しそうに吐き捨てた。
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