楡と葡萄

津蔵坂あけび

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過去

二匹の濡れ鼠

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 事件より十年前。弥兵衛が依光と出会ったときもひどく雨の降る日だった。

 弥兵衛は、農学に関する学術書に目を落としていた。が、外の雨音がどうもやかましく集中できない。雨音自体が耳に障るのもそうだが、このひどい雨音を聞いていると、自分が農家に貸している田畑は無事かと気が気でなくなってしまうのだった。たまらず、障子を開けると、窓の向こうに滝ができている。屋根に取り付けられた軒樋の許容を超えた水がしたたり落ちて、砂利を抉っていた。大工に頼んで鎖樋を一面にぶら下げてやろうか、などと弥兵衛は独り言ちてみるが、内心はそんな皮肉を言っている場合ではない。すぐさま二階へと上がる。
 弥兵衛の邸宅は小高い丘の上に建っているから、二階からは彼の持つ田畑を眺めることができる。その数はとても視界に収めきれないほどだ。だからと言ってこの土地が農耕に適した豊かなところかと言えば、とてもそうではない。この地域の気候は、年間を通して降雨・降雪が非常に多い。おびただしい降雪に毎年苦しめられることはもちろん、二三年に一度は川が氾濫して大洪水に見舞われる。気候が安定した地域では、実りが年に数度訪れる日本だが、その中でもこの地域は農家にはあまりにも厳しく、「三年一作」という言葉が通っているほどだ。
 弥兵衛自身は地主の子息であるため、衣食に不自由することはなかったが、常に農家の生活のことを憂いていた。

 窓から見える田畑には菅笠に蓑を着用した人影がぽつぽつと見える。西洋の文化が入って来て久しいが、農家の間では高価な合成繊維の合羽よりも伝統的な笠と蓑を着用する者が多い。皆が皆、自分の田畑を守るために溢れた水をあっちへやり、こっちへとやりとしている。その先にはこの雨の中で家に籠っている農家の田畑があるのだから、傍から見れば醜い落とし合いだ。そして、そのどちらの田畑も自分の貸した土地であるから、弥兵衛にしてみれば気分がいいものではない。

 貧すれば鈍するなどとは言うが――

 弥兵衛は大雨のたびに見るこの景色を嘆いていた。この厳しい気候を克服するか、ないしはそれに適応できるような作物はないか。弥兵衛の思案は尽きない。
 そろそろうっすらと髭が伸びてきた顎に手を添えて唸る。視界に映る田畑をくまなく見渡すことしばらく。ふと、弥兵衛の目に留まるものがあった。

 笠に蓑を被った一人の男が、逃げ惑う童を追い回しているではないか。状況の始終を把握しきるまでに弥兵衛は、一階に降り、合羽をおざなりに羽織って土間から駆け出した。
 ぬかるみが急ぐ脚を阻む。一歩、一歩踏み出すたびに、泥が跳ねて彼の袴を濡らす。しかし、そんなことは構うものか、と走った。追いついた先では、菅笠に蓑を被った男が熊手の柄でげしげしと童を突いている。童は雨具どころかまともな服すら着ておらず、泥にまみれた襤褸切れが肩に引っかかっている程度だ。そんなみすぼらしい童は、蹲って必死に何かを守っている。

「何をしている。相手は童だぞ」

 熊手を持つ男に呼びかけると、男は詫びるどころか「川上殿、聞いてくだせえ」と不平を述べ始めた。聞けば、この童は度々畑に入っては、実りの良し悪しに関わらず作物を盗んで行くのだという。

 だが、この童が衣食住に窮しているのは容易に想像できた。身寄りも誰もいない、明日をも知れぬごろつき。今まで生きて来られたのが不思議だといった具合。
 それでもこの土地の作物の貴重さを身に沁みて感じている男は、この童に同情など差し向けない。事情は分かった、この童にはきつくお灸を据えてやる、そう言うと男もすごすごと去って行った。

 あの男とて、童を殺しはしなかっただろうが、見てしまったからには庇うより他はあるまい。しかし、どうしたものか。

 今一度、まじまじと地面に転がる童の姿を見る。雨に打たれて蹲っている所をじろじろと見ているというのに、文句の一つも飛んで来ない。

「童よ。名は何と申す」

 弥兵衛の問いかけに童は答えず、ただ狼のような唸り声を返すのみだ。泥にまみれていて身体も痩せ細っていたため、その声色でかろうじて少年であると分かった。

「おのこであったか。父や母はいるか」

 少年は首を横にも縦にも振らない。弥兵衛は今自分が発している言葉が、少年に通じているのか、いささか不安になって来た。問答に答えもせず、盗んだ茄子に覆いかぶさって震える少年の様子は、人間よりもむしろ獣に近く見えた。

 はて――
 
 弥兵衛は困り果て、地面にしゃがみこんだ。
 言葉の通じぬこの少年にどうやったら警戒を解いてもらえるだろうか。説得は叶わないだろうが、このまま捨て置けば、きっとまた畑の物を盗み、農家に追い回されることだろう。それでは自分も先ほどの男に嘘をついたことになる。何よりも、少年が明日をも知れぬ身なのは変わりがないこと。ならば――と思いつくことはひとつのみだった。

 どうせ、袴は既に濡れている。ならば、合羽はくれてやろう。これで互いに濡れ鼠だ。

 ばさり、と少年に合羽を被せ、弥兵衛は雨の下に自らの身体を晒した。瞬く間に絹の袢纏はぐっしょりと濡れて、もとの白き色を失って鼠色に染まる。

 少年は、合羽の中から目を丸くして、弥兵衛の顔を上目遣いで覗き込んだ。

「童よ。お前は今日から、うちの小姓となれ」
 
 被せた合羽の上から、泥で固まった髪をわさわさと撫でた。
 その言葉の意味を少年が理解するとは考えにくかったが、伝わるものがあったのか、少年は唸る声を潜めた。そのまましばし、雨に打たれる二匹の濡れ鼠。やがて、片方がすり寄り、もう一方もそれを迎え入れた。

「いいか、童よ。お前には食う寝るところに住むところに困らせはせぬ。代わりに、うちは独り者には少しばかりか広すぎる故、いろいろと働いてもらう。うちに来たからには学も納めてもらう。辛いこともあるだろうが、うちに来た後悔だけはさせぬ。――分かったか」

 衣の裾から雨を滴らせながら丘を登っていく濡れ鼠が二匹。その向かう先には、二人のみすぼらしい姿とは不釣り合いな立派な屋敷があった。
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