楡と葡萄

津蔵坂あけび

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過去

見合い

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 このひどい雨の中、一人ならば風呂はやめておこうか。
 さっきまでは弥兵衛はそう思っていたが、今は薪をくべて、湯を沸かしている。もとより、二人仲良く泥まみれになったからには、湯を浴びなくては眠れもしない。

 トタン屋根から水が打たせ湯のごとく滴り落ちる音を背に聞きながら、煌々と燃える火を眺める。
 静かな日に湯を沸かし、ぱちりぱちりと弾ける音に聞き入るのが湯を沸かす際の愉しみだったのに。こうも雨音が五月蠅くては少しも聞こえない、と口をへの字に曲げる。しかし、妹の真美子も嫁ぎ、母も肺を患って入院してから、いささか広すぎると感じていたこの家に自分以外の誰かがいるというのは少し嬉しくもあった。とはいっても、今でも妹の真美子はよく家を訪ねて来るのだが。

 ――そろそろ頃合いか。膝をはらって立ち上がる。
 さて、土間に寝かせておいた少年は逃げだしてなどいやしないか。匿ったはいいものの逃げられたと言えば、厄介払いになる上に言い訳も立つかもしれないなどとろくでもないことを一瞬考える。が、連れ帰った少年は、土間に敷かれた筵の上ですうすうと寝息を立てていた。

 会ってそうも経っていないというのに、警戒を解くのが随分と早いものだ。私が人さらいだったらどうするつもりだ。少年が眠っているのをいいことに、弥兵衛は毒づく。
 床が汚れてしまわないように、浴室までの道のりを古新聞で覆う。家に迎え入れるにしても獣の臭気を放つ泥だらけの身体を洗ってやらないことには始まらない。少年は深く寝入っているようだったが、肩に少し触れただけでむくりと起き上がった。

「いいか。ここが今日からお前の家となるわけだが、まずは身体を洗ってもらう」

 弥兵衛がそう言って手を差し伸べると、少年は抵抗を示すことなく受け入れた。敷き詰めた新聞紙にべったりと泥でできた足跡が連なっていく。
 少年の肩に引っかかっていた申し訳程度の布切れを引っぺがし、裸になった身体に湯をかけていく。肩にかけられた湯は、身体から滴り落ちるころにはすっかり土色に色づいている。タイルには砂がこびりついて、弥兵衛の足の裏をざらざらとした感触が襲った。これでは風呂が終わる頃には、排水口が詰まってしまいそうだ。そう毒づく自分と、小ぎれいになっていく少年の身体を見ていて微笑ましく思う自分が、弥兵衛の中で同居する。
 ようやく見れるようになった少年の身体をまじまじと見る。年のころは、数え年で言えば七つぐらいか。痩せ細っていて骨が浮き出ているところを見ると、充分な栄養が取れておらず、発育が不十分であるとも考えられる。――とするともっと上なのか、八つか九つか。
 いったいどれ程の月日をこの少年は、独りきりで過ごしていたのだろう。そう思うと、弥兵衛は胸が痛んだ。

 少年から立ち昇っていた獣のような臭いも、石鹸で洗えば消えてなくなった。脂と泥で固まっていた髪も、手櫛を通せるようになった。ようやくこれで湯船に浸かっても湯が汚れないくらいにはなったか。弥兵衛は、先に湯船に入って、少年を手招きした。しかし少年は、湯気の立つ水面をじっと睨むばかり。

 この少年は、川や池で行水をするくらいでも贅沢といった暮らしをしていたのかも知れない。湯に慣れていないのも仕方ないか。

 弥兵衛が手を握ってやると、ようやく少年も恐る恐る湯に足を入れた。きゅうっと目を瞑るその仕草を見て、弥兵衛は自分が人と比べて熱い湯が好みであったことを思い出す。水を足してやった方が良いか。そう思ったが、少年が恍惚とした表情で湯に身体を沈めたのを見て、安心してゆっくりと浸かることにした。
 湯を満たした楠の浴槽が香っている。また今日は一段と良い香りだ。弥兵衛は、すうっと深く息をした。

 少年には、真美子が置いて行った襦袢を着せた。少々不格好ではあるが、寝苦しいことはないだろう。

「今日はもう疲れたろう」

 自分で言っておいて『今日は』というのは、少しおかしいかなんて思ってしまう。この少年は今日までずっと心が休まることなどなかったのではないか。
 返事をするまでもなく寝入った少年の髪を撫でながら、弥兵衛は眠りに落ちた。

     ***

 翌朝、空はすっかり晴れ上がった。
 昨日の雨の降り様も随分と久しいものであったが、今日の晴れ様も久しいものだ。日本海側では、からりとした晴れ模様というのは珍しい。燦燦と照り付ける陽の光を青々と茂る緑が跳ね返す。農家の菅笠は、昨日は雨よけだったが、今は日差しを避けるための物。田んぼに出ているのは、溢れる水を逃がすためではなく、稲の世話をするため。昨日の雨で弱ったり倒れたりした稲に頭を抱えている農家もいたが、昨日の眺めよりはまだ見れるものだった。
 随分な変わりようだな。弥兵衛は二階から外を眺め、茶を啜る。鼻に抜ける香に浸っていたところに、戸口を叩く音がした。
 こんな朝早くに来るのは郵便か。――玄関を開けると、恰幅の良い中年の配達員が立っていた。

「川上殿、おはようございます」

 手紙をいくつか受け取った後、弥兵衛は昨日のひどい雨のことなどの世間話を配達員と交わした。

「川上殿の母親が入院されている病院から、封筒が届いております」

 それを聞いた途端、弥兵衛は口をへの字に歪めた。

「また、縁談だろうな」
「父が早くに亡くなり、幼少のうちに家督を継いだ弥兵衛殿の身の上を案じての事でしょう」

 配達員が言うことは分かる。弥兵衛もそこまでは思い至っている。父が死んで家督を継いだのが、齢僅か七歳。それから学を修めるため上京。故郷に帰って来てからというもの、母親は縁談と跡取りのことばかり気にかけていた。

 配達員が去って行った後、封を開けると、やはり見合いの依頼状であった。相手の名は、大井紀子|《おおい のりこ》。大井家はもともと越後の武家で、昔は立派な地位であったが、今は落ちぶれてしまっているようだった。江戸中期から武家でありながら、町人よりも貧しい暮らしをしている浪人というものは多くいた。それから時が流れて、華族という身分が設けられても、生活が苦しくてそれを返上する例もあった。大井家も恐らくその一つだろう。上京して華族として都内で煌びやかに暮らす者の姿、その影ですごすごと故郷に戻る者の姿、その両方を東京で見て来た弥兵衛にとっては容易に想像できた。
 考えるまでもなく、財産が目当てだろう。という辟易をため息に忍ばせた。弥兵衛は、この手の思惑、、が汲み取れるような縁談は好みではなかった。

 そもそも没落した家系の一存を託されて、見知りもしない男の所に嫁がされるというその娘の境遇が不憫でならない。女だからといって、本人の意思を無視して家系を守る道具のように扱うなどというのは、淘汰されるべき古い考え方だ。

 ぶつぶつと心の中で文句を言いながら、居間のテーブルに見合いの依頼状を置いた。その手つきは決して乱暴というわけではないが、内心見合い相手に興味はないというのが見て取れるものであった。
 柱時計が午前七時を指している。そろそろ寝入っている少年を起こして来ようか。寝室へと向かう弥兵衛の足取りは、先ほど見合いの依頼状を受け取って居間に入るまでのそれとは、比べ物にならないほど軽やかなものであった。 
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