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幕間:クロヴィス
しおりを挟むしばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「警戒しているのか、していないのか。……先生は本当に不思議なひとだね」
机の上に山と積まれた書物。どれも東国関連ばかりだ。目を細めてそれらを眺めれば、何を調べていたか想像するのは容易い。けれど自分から口に出すことはしない。
先生が関心を持って追いかけてくれるのであれば、秘密は秘密のままにしておく方がいい。
目を覆っていた掌をそっと外すと、いつも強張っている顔が緩んでいた。眠っているときだけは幼く見えるその表情は、他の誰にも見せたくない。
体重をすべてこちらに預け、深い夢に沈んでいるその姿に、言葉にならない高揚感が胸を満たしていった。
事故とはいえ、肌を重ねた相手に何度もこんな姿を見せるなんて無防備にも程がある。寝るように仕向けたのは自分だけれど。思っていたよりも、気を許してくれているのだろうか。
そもそも、あれは事故なんかじゃなかったのに。
スヤスヤと穏やかな寝息が聞こえる。
確かにここに存在する、ずっと探していた半身。
顎に指を添え、その薄い唇に触れるように軽く口付ければ、かすかに身じろぎをした。
「……かわいい」
こんなにも近くにいるのに、まだ手に入らない。
けれど焦ってはだめだ。ゆっくりと、紅茶に落ちたシュガーが溶けていくように、少しずつ心をこちらに傾けてもらわなければ。
けれど思っていたよりも先生の壁は厚い。
〈ツガイ〉を申し込んでも断られるどころか、いつも「カナトが好きだから」と真顔で言い返される。確かにカナトは同級生の中でも特別で、誰からも好かれる良い生徒だ。テオや教師のヴァレンス先生をはじめ、好意を抱く者は数えきれない。
だから先生がカナトに好意を寄せるのも自然だ。けれど、先生がカナトを見る目は恋とは違う。あれは家族を見守るような、守るべき対象を見る眼差しだ。
旧校舎に閉じ込められたときも、怪我をしたときも、先生は真っ先にカナトに駆けつけていた。だがその態度は冷静で、あくまで大人や保護者としての対応。なのに彼を恋愛対象として見ているという、矛盾した言動と行動。だからこそ、先生の考えは読みづらい。何を考え、何を理由に動いているのかが掴めない。
ただ、肌やぬくもりを求めたときだけは違った。欲を絡みとって、手懐けるようにあやしてあげると、張り付けた薄い笑みが崩れる瞬間がある。その表情を引きずり出せたときの甘さに惹かれ、いつもつい意地悪をしてしまう。
前髪をさらりと指で遊びながら寝顔を見つめていると、ふと声をかけられた。
「あ、の……クロヴィスくん」
顔を上げれば、女子生徒がそこに立っていた。学園内の生徒の名前と顔は一通り記憶している。隣のクラスの、大人しい部類の女子生徒だ。彼女の視線は眠る先生へと注がれていた。
思わず、寝姿を見られたくなくて、先生の目をそっと掌で覆った。
「その、ヴァレンス先生、大丈夫かな?」
「ああ、大丈夫だよ。少し眠ってるだけ」
「そうなんだ、よかった……」
ただ心配して声をかけただけではなさそうだ。
視線が揺れ、言葉を探しているような表情。こういうのは、この学園に来てから幾度となく経験してきた。また恋だの愛だのの類だろう。向けられる好意をのらりくらりとかわすのは慣れているが、今は先生との時間を邪魔されたくない。
だが、彼女の次の一言で違和感に気づいた。
「最近の先生、無理してるようだから心配で……」
ぴくりと反応してしまう。
この女子生徒の視線は自分ではなく、ヴァレンス先生へと向けられていた。
「……そうだね。少し無理はしてるかもしれない」
「うん。この間の授業でもちょっと眠そうだったんだ……それで、わたし」
躊躇う口ぶりに、核心を投げてみる。
「ヴァレンス先生が、好きなのかい?」
その瞬間、彼女の頬がはっきりと赤く染まった。
なるほど。
ヴァレンス先生は生徒の間で決して評判が良いわけではないが、慕っている生徒はゼロではない。いつも塩対応だがこうみえて面倒見が良くて、知る人は知っている。彼女もまたそのひとりなのかもしれない。
「う、うん。でもクロヴィスくんみたいには、……わたし無理だから」
「無理?」
「その、食堂の……」
「ああ、あれか」
食堂での公開告白。
この学園の生徒たちの間であれば知らないものはいないほど有名になっている。留学生が教師に〈番〉を申し込んだのだと。それは瞬く間に広がり噂の玩具にされてはいたが、牽制の意味も含めての告白だったため、特段不自由はしていない。こうして堂々と寄り添って口説けるのもそのおかげだ。
「私は先生が無理してなければ、それでいいの」
彼女の純粋な心配に、少し驚いたように目を瞬く。
そのとき、だ。
「俺を抜きにして、何を喋っているんです」
寝起きの声が割って入る。
胸元に視線を落とせば、眠っていたはずの先生がゆっくりと身を起こしていた。
「せ、先生……!」
「起きたんだ? もっとゆっくりしていれば良かったのに」
先生の体温が遠のき、少しだけ寂しい気もした。
「頭の上で喋られたら誰だって起きますよ」
先生はちらりと女子生徒へ視線を向ける。
ああ、なんか嫌だな。一緒にいるのは僕なのに、その綺麗な赤い瞳に他の誰かが映るなんて。いっそのこと、誰の目にも触れない部屋に閉じ込めてしまいたい。
でもこんなことを口にすれば、きっと先生に警戒されてしまう。
だから僕は、人の良い生徒の笑顔を浮かべて、心の奥を見せないようにする。
「ああ、カナリアさんでしたか」
「は、はいっ。お休みのところすみません……!」
「気にしないでください。授業でわからないところがあったと、言っていましたね。今日は立て込んでいるのでまた後日でもいいですか」
「はい! また伺います……! お邪魔してすみませんでした!」
彼女は顔を真っ赤にして、慌ただしく立ち去ろうとする。
「あ、待ってください。カナリアさん。これ、いつもありがとうございます」
呼び止めた先生が、ローブの内側の胸ポケットから小さな包み紙を取り出した。
それを見た彼女はさらに顔を真っ赤にさせて何度も頭を下げたあと、逃げるように去って行った。
「……逃げられてしまいましたね」
「なに、それ」
先生の手にあるものをじっと見つめる。
カラフルな包み紙に包まれているのは、見覚えのあるものだった。以前、カナトからもらった砂糖菓子の類いだ。一般的に市販されている嗜好品のひとつだろう。
「お菓子ですよ。彼女のクラスで授業をするときにいつも教卓に置かれているんです。カナリアさんは隠していたようですが、余計なことをしましたかね」
先生の声音は、あくまで淡々としている。特別彼女に対して何か感情を抱いているわけではなさそうだ。
けれど、胸の奥がざわついた。
ヴァレンス先生の優しさは、自分だけが知る特別なものではないと分かっている。それでも目の前で、別の誰かも先生の魅力を知っている、その事実を見せつけられて、嫉妬心でどうにかなってしまいそうだった。
先生の細い腰に手を回して引き寄せ、首筋に顔を埋める。落ち着く心地の良い甘い香りに、前髪が乱れるのも気にせず、首筋にぐりぐりと頭を擦り寄せた。
「クロヴィス、くすぐったいです。何をしてるんですか」
「先生を独り占めしてる」
子どもっぽい仕草は、拗ねたように見えたかもしれない。
顔を上げて近くで見つめれば、眠気の残る赤い瞳が少し戸惑って揺れていた。
「……ね、キスしていい?」
答えを待つ間もなく、唇を塞ぐ。
少し抵抗されたけれど、力で抑えてしまえばすぐに流されてしまう。ほんと、こういうところも気を付けて欲しい。
「んっ、……っふ」
深く求めすぎない。けれど逃がしもしない。
触れ合うだけの口付けから、ほんの少し角度を変えて、何度も温もりを確かめる。呼吸を求めて開いた口にそっと舌を差し込んで、小さな口の中を、ぐるりと舌で舐めまわす。先生は上顎を舐められるのが弱点だ。敏感な所を唾液を絡ませながら擦り上げるたびに、びくりと肩がはねて、縋るようにぎゅっと胸元の服を掴んでくる手が愛おしい。
長いまつ毛が伏せられて、静かに受け入れてくれる。それだけで、胸がいっぱいになった。
離れたとき、わずかに赤く染まった頬と、乱れた呼吸。
いつもの大人びた表情が溶けた姿を引き出せたのが、なによりも嬉しかった。
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