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君の笑顔 1
しおりを挟む父からの手紙を読み終え、しばらく無言で見つめてから、破り捨てた。
書かれていたのは、口に出すのも憚られるような非人道的な指示ばかりだった。
「はぁ……何であんなのが父親なんだか」
この学園に赴任してから、俺は何人かの顧客と接触してきた。だが、俺自身が裏の仕事に深く関わることは、ほとんどない。ヴァレンス家の者は他にも潜伏している。俺が動かなくても、他が動く仕組みになっている。
なんとなく、今ループではできるだけ悪行に手を染めたくないと思ってしまったんだ。
理由はうまく言葉にできない。ただこのループでは、同じ過ちを繰り返したくないと思った。それが弱さなのか、変化なのか、俺にもわからない。
以前の俺なら文句ひとついわずに、黙って従っていただろう。
自分の中で、何かが変わりはじめているのだろうか。
* * *
保健室で弱音を吐いたあの日から、クロヴィスは普段よりやけに俺を気にかけるようになった。あのとき口を滑らせたのは、やはり軽率だったのかもしれない。
「クロヴィス、まっ、……て」
更衣室の中を逃げ回っていたのも束の間、あっけなく腕を掴まれ、ガタンッと背中をロッカーに押しつけられた。
「やだ、待たない」
少しだけ不機嫌そうな低い声が上から落ちてくる。見上げると、息が触れるほどの距離に顔があった。その近さに、小さく喉が鳴る。
いつもは束ねている長い髪は解けていて、頬にかかるたびにくすぐったい。視界の端がその髪でふさがれて、目の前はクロヴィスの顔でいっぱいだった。
白銀の瞳が、まっすぐに俺を捉えて離さない。すっと細まり、縦に伸びた瞳孔がわずかに揺れていた。人のものではない視線に絡めとられ、逃げ場を失った獲物みたいに、思わず背筋がぞわりとした。
「先生は、僕を煽るのが好きみたいだね」
クロヴィスの指先がローブの隙間から滑り込み、シャツの上から肌の上を探るようになぞってくる。
右手は恋人みたいに指を絡められたままロッカーに押さえつけられて動けない。
もう片方の自由な手で、シャツの上をまさぐる動きを止めようとするけれど、びくともしない。逃げようとして踏み出した足も、いつの間にかクロヴィスの足に押さえつけられていた。
身動きのとれない体勢のまま、自然と呼吸だけが速くなっていく。
「煽るだなんて、そんなことしてません……っ」
「じゃあ、僕のいうこと、ちゃんと聞いてよ」
シャツのボタンを器用にも片手で外していく。ひとつ、またひとつ。するりと布の下に潜り込んだ手が、柔らかな肌を確かめるように、腹回りをねっとりと撫でていく。触れられたところからクロヴィスの高い体温がじんわりと広がって、気持ちいいって思ってしまった。
クロヴィスの触れ方はいつも強引なのに、どこか優しい。完全に逃げ場を奪うことはしない。ほんの少し、逃げられる隙を残したまま支配するような手つきだ。わざと、そうしているのが分かる。
意地悪だ。そんな手つきで優しさなんて見せられたら、余計に逆らえなくなる。
「どうする? 先生はいい子だから、ちゃんと聞いてくれるよね」
「んっ……それ、は、っぁ」
息を吸うたび、クロヴィスの匂いが肺の奥に入り込んでくる。ひどく甘くて、痺れそうになる。最初に会ったときに感じた、あの匂いと似ている。
だめだ、ダメだ。
そう思うのに、耳の中に熱い吐息を吹き込まれた瞬間、びくりと身体が震えて頭の中が真っ白になった。
その日、クロヴィスと偶然会ったのは、俺が他のクラスの授業を終えて中庭の外廊下を歩いていたときだった。
彼も魔術の実技授業を終え、着替えるために更衣室へと向かう途中だったらしい。
また誰かに呼び止められているようで、相変わらず人の良さそうな笑顔で対応していた。
話し相手は隣のクラスの少年だ。カナトほどの小柄な体格に、手が隠れるまでのぶかぶかの制服。加護欲のそそられる可愛らしい見た目の、俺とは正反対であろう少年。頬を染めて話しているあたり、クロヴィスのことが好きなのだろう。クロヴィスは、男女関係なくモテるからな。
そんなふたりを、中庭を隔てた反対側の外廊下から眺めていた。
お似合いだな、と素直に思った。
クロヴィスは、本来ならあのような可憐な存在と隣り合う方が似つかわしい。間違っても、こんな根暗な教師とは釣り合わない。天と地の差だ。
仲良く談笑するふたりを見て、陽の光の下で生きている人と、陰で生きる俺とでは、やはり生きる世界が違うのだと思い知らされる。クロヴィスが近くにいすぎて、最近はそれすら麻痺していたのかもしれない。
あんな綺麗な存在が俺を好きだなんて、いまだに信じられない。やっぱり、きっと何か裏があるんだろう。そう思わなければ、とてもじゃないが納得できなかった。
クロヴィスの青が溶けたような銀の長い髪はほどけていて、風に揺れるたびに光を反射していた。背も高く、そこにいるだけで彼は目立つ。どこか現実離れした美しさを持つ出で立ちに、純粋に綺麗だなと、遠くから眺めていた。
その姿に見惚れていたら、ふと白銀の視線がこちらを向く。俺に気づくと、ぱっと嬉しそうに笑いながら駆け寄ってきた。
さっきまで少年と話していたときの、人の良さそうな表情は消え、柔らかい笑みへと変わっている。その顔は、きっと俺の前でしか見せないものなんだろうな。
そんなふうに、少しだけ都合よく思ってしまった。
「ヴァレンス先生! 奇遇だね。あとで部屋に寄ろうとしてたんだ」
「……彼は、良かったんですか?」
向こうには、クロヴィスと喋っていた少年が不服そうな表情でこちらを見ている。少し睨まれた気がするのは気のせいだろうか。
「ただ話してただけだよ。……嫉妬した?」
「した、といったら、どうするんです」
さらりと返すと、クロヴィスは目を瞬かせて、口を小さく開いたまま固まる。
「……冗談です。君の思わせぶりな態度は身を滅ぼすこともありますよ。思春期の生徒の行動力はとんでもないですからね。くれぐれも、気をつけてください」
「びっくりした……でも、冗談だとしても嬉しいよ」
クロヴィスは、本当に俺に甘いな。
それから二言三言、他愛もない会話を交わしたあと、クロヴィスが俺の顔をじっと覗き込みながら「寝てる? ちゃんとご飯食べてる?」と怪訝そうに訊いてきた。
「君には関係ないでしょう」と返せば、彼はむっとした顔をしてそのまま俺の腕を掴み、更衣室の中へと引っ張り込んだ。
そしてお説教という名のじゃれあいに、発展してしまったのだ。
誰もいない更衣室の中。
他の生徒たちはすでに着替えを終えた後だった。けれど、いつ人が来るかも分からない緊張感に、必死にクロヴィスと距離をとろうとするけれど、できなかった。
そんな状況が、今だ。
「クロヴィスっ」
いつの間にかローブは肩から滑り落ち、シャツの前もはだけていた。クロヴィスは首筋から胸元にかけて、何度もキスを落としながら口を開く。
「先生がちゃんと寝て、ご飯を食べてくれるって約束してくれるのなら、やめてあげる」
「寝てますし、ご飯も食べてます……!」
「うそつき、ちゃんと寝てる人は、そんな眠そうな顔してないよ。それにきちんと食べてる人は、こんなに細くない」
腰のあたりを、きゅっと掴まれる。
確かに一般男性よりは細いかもしれない。けれど、夜更かしはたまにするが人並みには寝ているし、朝以外はちゃんと食べているつもりだ。たまに食事を抜くことはあっても、栄養失調なんてことはないはずだ。
「寝ないなら、体力使わせれば強制的に寝るよね」
「それを気絶っていうんですよ!」
「大丈夫、僕がちゃんと面倒みてあげるから」
くすりと笑った唇が、首筋に触れた。ちりっとした痛みと熱が走る。
ああ、まただ。さっきから痕を付けられている。
「誰か来たらどうするんですか……!」
胸元から顔を上げたクロヴィスは、悪戯を思いついた子どものように口角を上げた。その唇の隙間から、ほんの少しだけ牙が覗いている。
「先生は、人がいる方が興奮するでしょ」
その言葉に、旧校舎でのあの出来事を思い出して顔が一瞬にして熱くなった。
そんな俺の反応がよほど面白かったのか、クロヴィスは喉の奥で笑いながら、唇で鎖骨のあたりをなぞっていく。ちりっと、また熱さが走る。
温かい息が皮膚の上を滑るたびに背筋がぞくりと震えて、善くなってしまう。
こんなの、本当によくない。
よくないのに、クロヴィスと触れあっていると気持ち良すぎて、どうにかなってしまいそうになる。
クロヴィスの高い体温も、細長い指の動きも、からかうような優しい声も、全部が心地よすぎて、抵抗の意志を溶かされていく。このまま、また身体を許しそうになる。
クロヴィスの手が腰に触れ、するりとズボンの布の下にすべらせた。指先がその奥へ伸びかけた、そのとき。
「わぁ」
ガラリ、と開いた扉と共に、間の抜けた声が唐突に聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは猫耳と尻尾を持つ白衣姿の男、保健医のリチがいた。
いつもは目が見えないほど細い瞳が、今は目をまんまるに見開いて固まっている。ぴんと立ち上がった耳と尻尾が、驚きを物語っていた。
リチは、絡み合うような姿勢の俺とクロヴィスを交互に何度も見て、もう一度小さく「ワァ」と声を漏らす。
「……ごゆっくり……?」
「り、リチ先生っ!? ち、違っ……!」
助けを求めるように手を伸ばしたけれど、その手は静かに閉じられた扉に遮られた。
パタン、と軽い音が響く。
「見られたね」
「……っ、君のせいですよ!」
「でも先生、顔、真っ赤」
「うるさいっ」
クロヴィスは笑いながら、悪びれもせず俺の髪にキスを落とす。
俺は慌てて押しのけ、乱れた服を整えた。
「……はぁ、もういいです。はやく着替えなさい。次の授業に遅れますよ」
「昼休みだから時間には余裕はあるよ。もう少しゆっくりしていかない?」
ああ、そうだった。慌てすぎて授業の時間さえ頭から吹っ飛んでいた。
また伸びてきたクロヴィスの腕をさらりとかわすと、彼は不満そうに口を尖らせたが、最終的には素直に着替えを始めた。
俺はその間に更衣室を出て、ため息を吐く。
まさか本当に誰かが来るとは思わなかった。しかも教師の中では比較的仲の良い同僚に、あられもない絡み姿を見せてしまうなんて、羞恥心でしばらく顔の熱がおさまりそうになかった。
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