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終幕へと 1
しおりを挟むパンッと乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。
頬に鋭い衝撃が走り、口の中にじんわりと鉄の味が広がる。
「お前は、自分が何をしたのかわかっているのか」
低く押し殺した父の声には、苛立ちと焦燥が入り混じっていた。
血のように濁った赤い瞳が、まっすぐにこちらを睨みつけている。
「……俺は、何もしていません」
唇の端からにじんだ血を、手の甲で静かに拭う。
叩かれた衝撃で横を向いていた顔を、ゆっくりと正面に戻した。
「……何だと」
「問われたので、正直に答えました。俺は、何もしていません」
父が、手元に置いておけと指示した人物からの〈番〉の申し出を、頑なに拒んだ。学園内に忍ばせた違法魔薬も裏ルートに流出することなく露見し、理事長の秘書だった男も捕まった。その始末に何度も父からの指示が来ていたが、俺はそれを無視し続けていた。
それだけではない。最終通告という形で無理やり招集をかけられ、こうしてここにいる以外、父の期待に添えるようなことは、何ひとつしていない。
それが事実だ。
「口答えするなッ」
再び振り下ろされた手。
叩かれるのはこれが初めてではない。子どものころから、父は気に入らないことがあればすぐに手をあげた。大人になってからは波風を立てぬよう立ち回ってきたが、今回は父の顔色を伺う気も起きなかった。
ただ、どこかで信じたかったのかもしれない。父が、怒鳴る以外の言葉を選んでくれることを。
だが、目の前の男は焦っている。
俺を思い通りに操れず、ヴァレンス家の悪事がどこから漏れ始めていることに気づいたのだろう。その結果の、やつ当たりだ。
追い詰められた人間の顔。怒りに見せかけた焦燥が、父の顔を歪ませている。
ヴァレンス家は、もう終わりだろう。
俺がテオに渡した内部告発文書。その裏づけとして調べ上げていた密告書が表に出れば、家の地位どころか、存在そのものが崩れ落ちる。
父は情報が漏れた出所を調べているが、まさか目の前にいる愚息に裏切られたとは思いもしないだろう。
「お前の育て方を間違ったようだ! 魔崩症の病すら克服できぬ軟弱ものが、命令ひとつも聞けぬとはッ!」
魔崩症。それが、俺を蝕んでいる病の名前だ。
これはヴァレンス家にとって唯一の汚点であり、公にはされていない秘密。生まれつきのもので、ごく稀にしか発症しない不治の病。患者はみな大人になる前にほとんどが命を落とす。そのため原因も治療法も、いまだ解明されていない。
人間の魔力は本来その身体におさまり、器の大きさに合わせて存在する。だが、俺の魔力は幼いころから限界を超えて溢れ出し、まるで内側から自分自身を壊すように暴れ続けてきた。怪我をしたわけでもないのに体中が傷だらけになり、溢れ出た魔力が血と混じって流れ落ちる。子どものころは、そんな日々を壮絶な痛みとともに生きてきた。
この病は、普通の〈番〉同士の関係なんかでは治せない。
今も俺の魔力は不安定なままだ。薬で抑え込むことでなんとか誤魔化しているが、年齢を重ねるにつれてその効果は薄れ、抑えがきかなくなっている。
やがて身体が耐え切れなくなったとき、そのとき俺は自分の魔力に呑み込まれて死ぬだろう。
それは、ティラン・ヴァレンスとして生まれた瞬間から決まっていた運命だ。
「お言葉ですが」
いつもは見つめられるだけで重圧に耐えきれない父の目を、まっすぐと見つめ返す。
こうして父と真正面から対峙するのは、これが初めてかもしれない。
「俺だって、こんな体質で生まれたくはありませんでした。母方に病の血はありません。息子が軟弱に生まれたのは、父上の方に問題があったのでは?」
「お前ッ、父親に向かってなんという口のきき方だ!」
怒鳴り声が部屋の壁に反響する。傍に控えていた執事の男もびくりと身体を震わせていた。
父は苛立ちを抑えきれず荒々しく椅子に腰を下ろすと、頭を抱えて大きく息を吐いた。
「……もういい、お前には失望した。出ていけ!」
重苦しい沈黙の中に、父の荒い息づかいだけが残る。
俺は目を伏せ、静かに一礼してから部屋をあとにした。
ぱたんと扉を閉めて、ふぅと深呼吸する。
思っていたより、子どもみたいな人だった。
あれほど恐ろしいと思っていたのに、自分の思い通りにならないと手をあげるなんて、駄々をこねる子どもと変わらない。
俺は、こんな人をずっと恐れていたのか。なんだか馬鹿らしい。そう思うと、拍子抜けして力が抜けた。
『そうだ――……あれ……幻獣を……』
そのとき、閉じた扉の向こうから声が漏れ聞こえてくる。
どうやら執事と話しているようだ。
『――れに、指示をしろ――……聖女――……どんな手を使って……』
全ては聞き取れなかったが、何かを命じているようだった。
「聖女って、カナトのことか……?」
学園内に聖女がいるかもしれないという情報は、教会が神託として発表して以来、すでに広く知られている。
だが父は、覚醒していないカナトが聖女本人であることをまだ知らないはずだ。けれど、あの学園であれほどの光魔法を扱えるのはカナトしかいない。もしかするともう目をつけられているのかもしれない。
聖女の力は、国内の勢力図をも塗り替える。
ティラン・ヴァレンス、本来の俺自身でさえ、その力を手に入れようとしていた。学園に幻獣を召喚し、聖女を攫おうとしたあの最後の事件も、そのせいで起きたもので――……はっとする。
もし、俺がその最後の事件を起こさなければ、代わりに誰が?
「……まずいな」
嫌な予感が背筋を走った。
こういうときの勘は、本当によく当たるんだ。
焦りに突き動かされるように、俺はその場を離れた。
* * *
様子がおかしいと気づいたのは、学園に戻ってすぐのことだった。
放課後、日が落ちかけた学園の中庭。
噴水や花壇があり、木々とベンチが並ぶ、いつもなら穏やかな空気の流れる場所だ。
だが今は、悲鳴と混乱に包まれていた。
学園の生徒たちを追い立てているのは、闇からにじみ出たような醜悪な幻獣の群れ。俺はその光景を、呆然と見つめていた。
「……ああ、手遅れか」
今日が、ティラン・ヴァレンスが断罪される原因となる、大事件の日だったのか。
何がいつどのように起こるかはループごとに微妙なズレがあり、今回ばかりは予測できなかった。
それに、俺はこの事件を起こすつもりなどなかった。
テオに渡した密告書だけで、全てを終わらせるつもりだったんだ。
けれど、そうもいかなくなってしまった。
ティラン・ヴァレンスは想いを拒んだカナトを自分のものにしようと、学園内に幻獣を召喚して攫おうとする。だが聖女に覚醒したカナトによって阻止され、捕まってしまう。そして投獄されたあとは、お決まりの自滅パターンだ。
そして本来なら、この幻獣の群れを召喚するのは俺の役目のはずだ。けれど俺は、今回は何もしていない。
視線を周りに走らせると、木陰に立つ男の影が目に入った。その見覚えのある背は、父の執事だった。俺よりも先に学園に来ていたらしい。
何も行動を起こさない俺に業を煮やした父が、またしても仕組んだのだろう。いけ好かないくそ親父だ。
「ヴァレンス先生!」
聞き慣れた声に、はっと顔を上げる。
振り返ると、カナトが中庭の中央に立ち、まっすぐと俺を見つめていた。
資料室の事件から、まだ数日しか経っていない。授業を休んでいると聞いていたが、姿を見るかぎり元気そうだ。
しかしそれにほっとする間もなく、空気がぴりっと張りつめた。
ふわりと風が吹き抜け、緊張が走る。
逃げ惑う生徒たちの悲鳴を背に、主人公と悪役が向かい合う。
この構図を俺は何度見てきただろう。
今回だけは、違うと思っていたのに。
この世界は決して逸脱を許さない。
必ず、正しい物語へと収束させるつもりらしい。
「……っはは」
自然と乾いた笑いが零れる。
どれだけ足掻こうとも結末は変わらないのだと、残酷に突きつけられているようだった。カナトは俺を選ばす、ティラン・ヴァレンスは死に、永遠にこのループから抜け出せない。その事実を。
「ぼく、先生に聞きたいことが! テオが、テオが先生のことを!」
本来であれば、黒魔術に手を染め幻獣を召喚した俺に「どうしてこんな酷いことをするんですか!」とカナトが止めに入る場面だ。台詞こそ少し違うが、その真剣な瞳に俺への疑念が宿っているのはあきらかだった。おそらく、テオに渡した密告書の内容を聞いたのだろう。
「……この状況で質問ですか? 逃げなくていいんですか? それとも、テオのことが心配で? 君たちはずいぶん仲がよろしいですからね。友人関係よりも、もっと特別な関係、みたいですし。妬けますね」
「せ、先生! 今はそんな話をしてる場合じゃ!」
「そんな話? 俺にとっては、大事な話なんですけどね」
「先生、ぼくの話を……!」
「君が俺を受け入れてくれていたら、こんなことにはならなかったでしょうに」
「どういう、こと……?」
ため息交じりに、諦めに似た笑みを浮かべる。
父の策略通りに進むのは癪に障るが、ここまで悪役としての立場をお膳立てされたのなら、最後までそれを演じよう。
聖女として覚醒するカナトが、この幻獣たちを浄化する。そのきっかけとなる役を今まで通り俺が果たせばいい。
俺は皮肉の意味も込めて、主人公に悪役らしく笑ってみせた。
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