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第二部
7
ノアが王宮へ連行されてから、数時間が経過した。
普段なら、レオはそのまま夢の海へと漕ぎ出し、夕食の時間まで惰眠を貪っているはずだった。
しかし、今日に限っては、そのアイスブルーの瞳に微かな決意の灯が宿っている。
「セバス。……少し、ノア兄様の書斎を見に行ってもいいかな」
レオが呼びかけると、壁際で気配を消していた老執事が、滑るように歩み寄った。
セバス――五十代後半の彼は、ロマンスグレーの髪を一筋の乱れもなく撫で付け、漆黒の燕尾服を隙なく着こなしている。
深く刻まれた目尻の皺は理知を感じさせ、琥珀色の瞳は主人の宝物であるレオの「一歩も歩きたくない」という無言の訴えを、瞬時に読み取った。
「承知いたしました、レオ様。では、失礼して」
セバスは、丁寧な手つきでレオの腰に腕を回すと、そのまま、慣れた所作でレオを自身の逞しい腕の上へと座らせる。
それは「抱っこ」というよりは、台座の上に据えられた至宝を運ぶような、恭しい動作だった。
レオはセバスのしっかりした胸板に体を預け、揺れ一つない安定した「移動」を享受しながら、長い廊下を進んでいった。
案内されたノアの書斎は、主の厳格な性格を映し出したかのような場所だった。
天井まで届く重厚な黒檀の書架には、古書が隙間なく並び、磨き抜かれた床には、落ち着いた色の絨毯が敷き詰められていた。
だが、部屋の中央に鎮座する巨大なマホガニーの机だけは、異様な光景を呈していた。
(……うわ。これ、前世で見た『炎上中のプロジェクトリーダーの机』そのものだ……)
積み上げられた報告書の束。
封を切られぬまま重ねられた親書。
ノアがどれほどハイスペックな男であろうとも、情報の整理が「紙ベース」かつ「属人的」であるこの世界の限界がそこにはあった。
複雑に絡み合った関税の計算、騎士団の兵站管理、そして地方領主たちからの陳情。
この世界には「検索」も「ソート」も存在しない。
情報はただ発生した順に積み上がり、ノアの貴重な脳のリソースを、瑣末な整理作業に浪費させていた。
「……まずは、この『情報の渋滞』を解消しないと。ノア兄様が、ただの『書類処理マシン』になっちゃう前にね……」
レオはデスクの引き出しから、本来は書物の栞として使われる、色とりどりの細長い革紙を取り出した。
レオは、決して書類の中身を深く読み込みはしなかった。
内容に踏み込めば「責任」が生じる。
それは怠惰な人生の天敵だ。
彼はただ、書類の冒頭と末尾にある日付、そして差出人の印章を素早く確認していった。
そして、それらを「今すぐ決断すべきもの」「数日中に確認すべきもの」「ただの報告(対応が必要ないもの)」の三段階に、独自の判断基準で色分けした革紙を挟んでいく。
(……隣国との関税案は、この三箇所の数字さえ合致してれば承認できるはず。……こっちの陳情書は、前のページの内容を繰り返してるだけ。……はい、これはゴミ箱行き、じゃなくて、保留……)
レオの白く細い指先が、流麗な動きで紙面を滑っていく。
内容に矛盾がある箇所には、小さく切った紙片に「不整合あり」とだけ記し、該当箇所がすぐに開けるようにインデックスとして貼り付けた。
さらに、複雑な関税の計算式が並ぶ書類には、前世で使い倒した表計算のロジックを応用し、ノアが「答えの妥当性」を一目で判断できるような比較表を、余白に美しく書き添えていく。
気が付けば、窓の外は夕闇に包まれ始めていた。
レオの作業が終わったデスクの上は、不思議な変化を遂げていた。
山のような書類は消えておらず、一見するとさらに紙片が増えたように見える。
しかし、その実、ノアが判断を下すための「思考の最短経路」が完璧に整備されていた。
「……ふぅ。……腰が、腰が死ぬ……!」
一仕事を終えたレオは、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
騎士団でも屈指の体躯を誇るノアに合わせて設えられた机と椅子は、華奢なレオにはあまりに大きすぎた。
セバスが気を利かせ、背中や腰に柔らかいクッションを幾重にも挟み込み、足元に足台を置くなどの工夫を凝らしてくれたものの、それでもデスクの天板は高く、ペンを走らせるだけでも無理な姿勢を強いられたのだ。
本来ならば、このまま書類を束ねて自室のベッドにでも持ち込み、寝転びながら作業をしたいところだった。
だが、公爵家の機密が詰まったこれらの書類を書斎から持ち出すことは、いかに婚約者といえども許されない。
自室という名の「聖域」でダラダラしながら仕事をするという淡い期待は、厳格な公爵邸のルールによって打ち砕かれていたのである。
結果として、レオは数時間もの間、不慣れな姿勢で机に向かい続けることになった。
「セバス……もう限界。お部屋に運んで。……あと、夕食は絶対に、咀嚼しなくていいポタージュがいいな……」
月明かりが差し込む無人の書斎。
そこには、主の帰還を待つ書類たちが、色鮮やかな導線を携えて静かに息を潜めていた。
それが、後に王国全体の業務を劇的に変える「業務改革」の始まりになるとは、この時のレオは、まだ夢にも思っていなかった。
普段なら、レオはそのまま夢の海へと漕ぎ出し、夕食の時間まで惰眠を貪っているはずだった。
しかし、今日に限っては、そのアイスブルーの瞳に微かな決意の灯が宿っている。
「セバス。……少し、ノア兄様の書斎を見に行ってもいいかな」
レオが呼びかけると、壁際で気配を消していた老執事が、滑るように歩み寄った。
セバス――五十代後半の彼は、ロマンスグレーの髪を一筋の乱れもなく撫で付け、漆黒の燕尾服を隙なく着こなしている。
深く刻まれた目尻の皺は理知を感じさせ、琥珀色の瞳は主人の宝物であるレオの「一歩も歩きたくない」という無言の訴えを、瞬時に読み取った。
「承知いたしました、レオ様。では、失礼して」
セバスは、丁寧な手つきでレオの腰に腕を回すと、そのまま、慣れた所作でレオを自身の逞しい腕の上へと座らせる。
それは「抱っこ」というよりは、台座の上に据えられた至宝を運ぶような、恭しい動作だった。
レオはセバスのしっかりした胸板に体を預け、揺れ一つない安定した「移動」を享受しながら、長い廊下を進んでいった。
案内されたノアの書斎は、主の厳格な性格を映し出したかのような場所だった。
天井まで届く重厚な黒檀の書架には、古書が隙間なく並び、磨き抜かれた床には、落ち着いた色の絨毯が敷き詰められていた。
だが、部屋の中央に鎮座する巨大なマホガニーの机だけは、異様な光景を呈していた。
(……うわ。これ、前世で見た『炎上中のプロジェクトリーダーの机』そのものだ……)
積み上げられた報告書の束。
封を切られぬまま重ねられた親書。
ノアがどれほどハイスペックな男であろうとも、情報の整理が「紙ベース」かつ「属人的」であるこの世界の限界がそこにはあった。
複雑に絡み合った関税の計算、騎士団の兵站管理、そして地方領主たちからの陳情。
この世界には「検索」も「ソート」も存在しない。
情報はただ発生した順に積み上がり、ノアの貴重な脳のリソースを、瑣末な整理作業に浪費させていた。
「……まずは、この『情報の渋滞』を解消しないと。ノア兄様が、ただの『書類処理マシン』になっちゃう前にね……」
レオはデスクの引き出しから、本来は書物の栞として使われる、色とりどりの細長い革紙を取り出した。
レオは、決して書類の中身を深く読み込みはしなかった。
内容に踏み込めば「責任」が生じる。
それは怠惰な人生の天敵だ。
彼はただ、書類の冒頭と末尾にある日付、そして差出人の印章を素早く確認していった。
そして、それらを「今すぐ決断すべきもの」「数日中に確認すべきもの」「ただの報告(対応が必要ないもの)」の三段階に、独自の判断基準で色分けした革紙を挟んでいく。
(……隣国との関税案は、この三箇所の数字さえ合致してれば承認できるはず。……こっちの陳情書は、前のページの内容を繰り返してるだけ。……はい、これはゴミ箱行き、じゃなくて、保留……)
レオの白く細い指先が、流麗な動きで紙面を滑っていく。
内容に矛盾がある箇所には、小さく切った紙片に「不整合あり」とだけ記し、該当箇所がすぐに開けるようにインデックスとして貼り付けた。
さらに、複雑な関税の計算式が並ぶ書類には、前世で使い倒した表計算のロジックを応用し、ノアが「答えの妥当性」を一目で判断できるような比較表を、余白に美しく書き添えていく。
気が付けば、窓の外は夕闇に包まれ始めていた。
レオの作業が終わったデスクの上は、不思議な変化を遂げていた。
山のような書類は消えておらず、一見するとさらに紙片が増えたように見える。
しかし、その実、ノアが判断を下すための「思考の最短経路」が完璧に整備されていた。
「……ふぅ。……腰が、腰が死ぬ……!」
一仕事を終えたレオは、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
騎士団でも屈指の体躯を誇るノアに合わせて設えられた机と椅子は、華奢なレオにはあまりに大きすぎた。
セバスが気を利かせ、背中や腰に柔らかいクッションを幾重にも挟み込み、足元に足台を置くなどの工夫を凝らしてくれたものの、それでもデスクの天板は高く、ペンを走らせるだけでも無理な姿勢を強いられたのだ。
本来ならば、このまま書類を束ねて自室のベッドにでも持ち込み、寝転びながら作業をしたいところだった。
だが、公爵家の機密が詰まったこれらの書類を書斎から持ち出すことは、いかに婚約者といえども許されない。
自室という名の「聖域」でダラダラしながら仕事をするという淡い期待は、厳格な公爵邸のルールによって打ち砕かれていたのである。
結果として、レオは数時間もの間、不慣れな姿勢で机に向かい続けることになった。
「セバス……もう限界。お部屋に運んで。……あと、夕食は絶対に、咀嚼しなくていいポタージュがいいな……」
月明かりが差し込む無人の書斎。
そこには、主の帰還を待つ書類たちが、色鮮やかな導線を携えて静かに息を潜めていた。
それが、後に王国全体の業務を劇的に変える「業務改革」の始まりになるとは、この時のレオは、まだ夢にも思っていなかった。
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