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蛇足
(26)夢の跡
しおりを挟む「ナッちゃん。私ね……幼い頃に、夢を見たの」
深呼吸と一緒に絞り出した声はひどく震えていた。
ミレーヌにとって、あの日の悪夢の話を誰かにするのは初めてで、罪を告白するような気持ちだった。
ナタリアは何も言わずに、怖気付いて唇を閉じかけたミレーヌの背中を隣でゆっくりと撫でてくれた。
彼女の薄くほっそりとした掌は暖かく、いつだってミレーヌを守ってくれる。
背中からその掌に『大丈夫』だと励まされているようで、ミレーヌはほっと息をついて再び口を開いた。
「……夢の中では私と母が、大人になったクラウドに伯爵家を追い出され、ひどい殺され方をして生涯を終えるの。それがとても衝撃的で目が覚めた後もただの夢だと片付けてしまうことができなかった。……だって、その頃の私達母子にはクラウドに疎まれて当然の理由があったから……」
ミレーヌは表情に暗い影を落とした。
ナタリアもミレーヌの家庭内の事情は知っている。
嫡男でありながらクラウドは義母から冷遇され続け、現在も関係は改善されることなく膠着状態であることは社交界では有名な話だ。しかし、義母だけならまだしもミレーヌまで疎まれて……という夢の内容は現実には起こり得ないと思われた。
不遇の少年時代のせいでクラウドの性格がひん曲がってしまったというのは否定しないが、そばにはいつもミレーヌが居て、ミレーヌは連れ子という微妙な立場でありながら義弟を庇い続けてきたのだ。
その結果、クラウドは周囲を憚ることなくミレーヌを溺愛している。誰がどう見ても『義弟』としてではない顔でミレーヌを囲い込み、常に蕩けた蜜のように甘ったるい瞳で彼女だけを見つめている。それはもう胸焼けしそうなほどに。
「そう……それほど残酷な夢を見てしまっては子供の頃なら怖かったでしょう。でも、あのクラウド様がミッちゃんを追い出すだなんて、現実では考えられないわね」
ナタリアは『あり得ない』と肩を竦めたけれど、ミレーヌは苦しげに眉を寄せ首を振った。
「私だって最近はあれは『夢』でしかないんだって思うようになっていたわ。クラウドは私を大切にしてくれていたし姉弟仲は良好だと信じていた。でも、先日…また見てしまったのよ。今度の夢は私が……私だけが、伯爵家を追い出される。そして、夢は現実になった」
「……ん?」
「クラウドから出て行くように言われて、やっぱり正夢になる運命だったんだって思ったの」
ミレーヌの言葉に、ナタリアが唖然と口を開いたまま固まった。そして、すぐにハッキリとした口調で否定した。
「いやいやいや、ミッちゃん、それは違うと思うのだけど。クラウド様がミッちゃんを手放す事は天地がひっくり返ろうとも絶対にないわ」
「でも実際に……」
「ない。アイツはたとえ生まれ変わっても変わらないって。あの執念深さは二、三回の転生じゃどうにもならない」
「そうね…クラウドにとって、そう簡単に許せる事ではなかったということなのよね」
いや違う、だからそうじゃない。
また斜め上に解釈された気がするが遠い目をしたミレーヌにナタリアの言葉はまるで聞こえていないようだった。
(まさか、この期に及んでミッちゃんは、子爵家に籍を移される理由をクラウド様に疎まれているからだと思っているの? そんな馬鹿な!)
思い込みが激しい上に深読みしすぎるのはミレーヌの悪い癖だ。
今まではそれでヤンデレを回避してきた言っても過言ではない奇跡の才能だが、現状においてはすれ違いを悪化させる要因でしかない。
(アイツはミッちゃんと私の昼間の数時間の外出さえ、いい顔をしなかった心の狭い男なのよ? むしろ本当にミッちゃんに出て行かれたら発狂するわよ! それはそれでちょっとザマアミロと思わなくもないけれど……)
ナタリアがクラウドからミレーヌの様子を見てきて欲しいと頼まれた際には、本当にミレーヌの身を案じているように見えた。
食事の有無や体調は侍女から報告を受けていても、ミレーヌが心の内を見せるのはきっとナタリアだけだとわかっていたのだろう。
ナタリアへの頼み事など不本意だと言わんばかりの態度で今の状況に陥った理由さえも教えてはくれなかったが、もしミレーヌを追い出すつもりならそんなことをするはずもない。
あの冷酷無慈悲な男なら相手の意思や願いを無視してとっくに引きずり出している。それこそミレーヌが幼い頃に見た悪夢のように。
(どう考えても、むしろ生涯ミッちゃんを手放さないために手を回しているとしか思えないのに、ミッちゃん自身の思考が何故か全くそこに辿り着こうとしないのはどうしてなのかしら……)
ナタリアがミレーヌの拗れた解釈をどう訂正したものかと思案していると、ミレーヌが今にも泣き出しそうな顔をして続けた。
「ナッちゃん、私は子供の頃に見た悪夢がずっと現実になるのではないかと恐れてきたの。だから、本当は自分が助かりたくてクラウドに接してきただけなの。クラウドに好かれれば、夢で見た未来が変えられるのではないかと思ったから……。そんな打算塗れの醜い心で平然と良い義姉の顔をしてきただなんて、最低よね。ずっと、クラウドにはお見通しだったのかもしれないわ」
瞳を潤ませて懺悔をするように憂いるミレーヌを見たナタリアは彼女を哀れに思った。
きっと、幼い頃にトラウマになるほど衝撃的な夢を見てしまったことはただのキッカケに過ぎない。
最初は確かに正夢になることを恐れて、母親の目を気にしながら恐る恐るクラウドに話しかけたのだろう。しかし、無邪気で素直な彼女がずっと相手を謀るようなことができるとも思えなかった。
そこには本当の心もあったはずだ。
ナタリアから見たミレーヌはクラウドを大切に思い、甘え、甘やかし、信頼していた。だからこそあのいけ好かないシスコンが爆誕したのだ。
「ねえ、ミッちゃん。貴女が保身のためだけに動いていたとは誰も思わないわ。そこには他の感情だってあったのでしょう?」
それが家族の親愛とか、友情に近いものだとしても。第一クラウドは、上辺の気持ちだけで絆される簡単な男ではないのだから。
そのつもりで言った言葉だったが、ミレーヌの顔は驚愕の色に染まっていく。
(あ、やば……)
その表情に、ナタリアは自分が余計な事を口走ったことを悟った。
「ナッちゃん……な、なぜ、それを……ルーカス様との話を、聞いていたの……?」
ミレーヌの口からクラウドへの想いをきちんと確認するはずだったのに、これではカフェでのルーカスとの会話を聞いていたこともバレてしまった。
困ったような苦笑を浮かべてミレーヌを見れば、ミレーヌは口元を戦慄かせていた。
「ち、違うの! それはルーカス様の誤解で、わた、私は、そんなこと……っ」
喉に言葉を詰まらせて、震える唇を片手で覆い隠したその顔は頬を染めるどころか血の気が引いて青白い。
想いはミレーヌの中に確かにあるはずなのに必死に否定しようとする姿は恋する乙女には程遠かった。
「っ、ごめんなさい……」
そして、まるで罪を認めるかのように弱々しく呟かれた言葉にナタリアの胸は締め付けられた。
「ミッちゃん……」
なんてことだ。
謝る必要なんてどこにもないのに、ミレーヌは自分の気持ちに罪悪感を抱いてしまっている。
もしかすると、クラウドからあれほど重い愛情と執着を見せつけられても、義姉として応えるわけにはいかないと無意識に心に蓋をして見ないフリを続けてきたのではないか。そうでなくては、あの異常なまでのスルースキルは説明がつかない。
それに気づいたナタリアの中で、クラウドへのよくわからない憤りが地獄谷のようにボコボコと湧き上がってきた。
(ちょっと……なにこれ。なぜミッちゃんが苦しんでいるの? 本来ミッちゃんはもっとまともな男性に穏やかに愛されて幸せになれる子なのに……。それもこれも全部、私の可愛い推しを誑かしたくせにいつまでもウダウダして押しが強いんだか弱いんだからわかんないあの野郎のせいじゃねぇか!!)
「ミッちゃん!!」
ナタリアは決意を表すように強く頷き、ミレーヌの両肩をガッシリと掴んだ。
その勢いにびっくりしたミレーヌが瞠目しているが、もう一秒たりとも親友を悩ませたくないナタリアはお構いなしに畳みかける。
「そこから先は、本人にぶっちゃけた方がいいわ! うん、それがいい。もうそれしかない」
「え」
「私はもう何も言わない。ミッちゃんはとっとと本音をぶつけてしまえばいいの。それでアイツを跪かせて靴を舐めさせたらいいわ!」
「なんの話?!」
「相手がアレじゃ否定したい気持ちも痛いほど分かるけれど貴女が悩む必要なんてこれっぽっちもないのよ! ごめんなさい、私がもっと早くミッちゃんの話を聞いて、ただ貴女の背中を押してあげれば良かったのに……っ! いいえ、まだ間に合うわね。全然余裕。どうせアイツは死んでも諦めないし……チッ!」
「あの…っ??(し、舌打ち?!)」
「つまりミッちゃんは、いろいろ悩んでここから出られなくなってしまったのよね? オーケーオーケー、すぐにあのポンコツ呼んでくるわ待ってて。それで秒で解決してみせるわ」
「え、ええええっ!? まっ、まって! ナッちゃん……! だめ、それは出来ないの!」
「できるできる」
「ざっ、雑……!? 無理よっ!」
本人に自分の気持ちが知られるだなんて、とんでもない! と、ミレーヌが涙目で訴えた。
自分がスッキリしたいというだけで行動に移す事はできない。
この想いは義弟を困らせ、アリアナを裏切り、ナタリアを不快にさせるものだ。誰も幸せにはなれないものだ。
今にも部屋から飛び出していきそうなナタリアの腕を掴んで必死に止める。
「違うの! 私は最後に、ナッちゃんに話を聞いて欲しかっただけなの! どうせ追い出されるんだもの、私、ここを出たらもう二度とクラウドに会わないわ!」
「ミッちゃん!?」
「この部屋でずっと考えていたことなの。やっと決心がついただけ。心配しないで。全てを無かったことにして、ちゃんと彼の前から姿を消そうと思っているから……」
ナタリアはミレーヌの突拍子もない宣言に頬を引きつらせた。ミレーヌが、まさかそんなことまで考えていたなんて思わなかったのだ。
クラウドの前から姿を消すなど不可能であることは一旦横に置いておくとして、ミレーヌがそこまで追い詰められていることが事実として突き付けられた気がした。
「それはだめよ、ミッちゃん。逃げても何も変わらないわ(だってたぶん逃げられないし)」
真剣な表情で首を振って言い含めるナタリアに、ミレーヌは潤んだ瞳の睫毛を震わせると、俯いてポツリと力無く言葉を零した。
「ごめんなさい。でも私、もう、逃げてしまいたいの……」
それは誰かのためじゃない。
身を引くなどという高潔で綺麗な感情からでも決してない。
自分を偽り気持ちを無かった事にして、良き小姑となってクラウドの側に居続けたとしても、それではいつかミレーヌの心が潰れてしまいそうだった。
心を擦り減らし嫉妬に苛まれて生きていくくらいならいっそ忘れてしまいたい。遠くに逃げてしまいたい。
(暫くはアムルートお兄様の元で働かせてもらうことになるかもしれないけれど、それで家事を覚えて生活する力をつけたら、手持ちのドレスや宝石を売って、街で慎ましく暮らすのもいいかもしれない……)
世間知らず故の恐ろしく前向きな箱入り娘ミレーヌが、悲観的な思いを吐露しながらもすでに街での新しい生活を頭の中で描き始めたときだった。
「……ミレーヌ、それは本気?」
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