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初めてのおつかい
しおりを挟む「暇すぎて死にそう!」
「そうか」
夜、アドルフが帰ってきて一緒にご飯を食べながら愚痴をこぼすと相槌だけで流されてしまった。
深刻な悩みなのに、もっと真剣に聞いて欲しい。
「私が暇で死んだらアドルフのせいだと思う」
「そうか」
「どうにかして」
「俺が退屈な男なのは今更どうにもならん」
「だから! アドルフが居ないから退屈なんだってば!」
身を乗り出して訴えると、アドルフは虚をつかれたように目を丸くする。しかしすぐに眉間をギュッと寄せて爪楊枝が挟めそうなほどの深い溝を作る。
「べつに俺が居ても面白くはないだろ」
「そんなことない。お話しできるしイジりがいがあるからとても楽しい」
「家主をイジるな」
「……知ってる? 私、最近暇すぎてひとりで家にいる時さ、扉の木の節に向かって喋ってる時あるんだよ」
神妙な声で寝室の扉を指差すと、アドルフもそちらに視線を向けた。
リビングの灯りが届き切らないぼんやりとした薄闇の中。扉のちょうど真ん中の木の板をじっと見ていると、節目の位置が目と鼻と口のように見えてくるのだ。
「トムって呼んでる。ヤバくない?」
「……」
アドルフが真顔で黙り込んだ。事態の重さをわかってくれた様だ。
「そういうわけで、昼間にやることがないのがいけないんだと思う。掃除も洗濯も料理も全部アドルフがやっちゃうしさあ」
掃除は私が昼間のうちにちゃんとしたって言っても、アドルフは何故か無言でやり直す。端っこの埃とか洗い残しとか、黙々とやられる。
本当は私の洗濯物の畳み方も気に入らないらしいけど、片眉をぴくりを上げるだけに留めているようだ。
歪だろうが畳んでありゃあいいでしょうが。死にゃしないんだから。
「あれもだめ、これだめって、何ならやっていいの?」
「お前が何なら出来るのか、俺が聞きたいくらいだ」
「なんでもできるよ!!」
「その自己評価の高さを信じて何度失敗したか……」
まかせて! とドンと胸を叩けば、アドルフが半目になって失礼なことを言う。
失敗ってなんだよ。嫌な言い方をするな。
少しだけ火事になりかけたり、掃除が適当だったり、洗おうとした生地を破ってしまったくらいじゃないか。のびしろって言えよ。
「せめて暇つぶしになるものが欲しい! それがダメならアドルフが留守の間に家事をするからね? いいの?」
「どんな脅し文句だよ」
「家を炭にされたいのか! 衣服を全てダメにされたいのか!」
「わかったわかった。それなら今度書籍でも買ってこよう」
諦めのため息と共に吐かれた答えは思惑通りで、私はしめしめとほくそ笑む。
「じゃあ、自分で選びたいから一緒に街へ連れてって!」
「ダメだ」
間髪入れずに断られた!
何度言えばわかるんだ、やれやれ、みたいに首を振るけど、私も何度も訴えてるのにアドルフはわかろうとしないじゃないか。こっちがやれやれだわ。
それでも私は街へ行くことを諦める気はない。
「少しは検討してよ! 本は好みが出るものなんだよ。アドルフの選ぶ本が私の好きなジャンルとは限らないんだからね」
「そうか。では、どんな書籍が欲しいのかを言え。それを買ってくれば文句はないだろう?」
ああ言えばこう言う。
アドルフも相当頑固で一歩も引く気がないらしい。
……まあいい。そんなこともあろうかと上手い返しを考えておいたのだ。こちらも外に出るために背に腹はかえられないので。
私のリクエスト、買えるものなら買ってみやがれってんだ。
「じゃあ、BLね」
「びーえる?」
「ぼーいずらぶだよ。あ、ちなみに不憫受けだからね! 最初はすっごい不幸で可哀想な受けが攻めと出会って逆転ハッピーエンドのやつ。攻めはイケオジのスパダリがいい」
「?? 何を言っているんだお前は」
わけがわからない、という困惑顔のアドルフを挑発するように鼻で笑う。
「えー、もしかして知らないの? 仕方ないなあ。その様子じゃ買えなさそうだし、やっぱり私も一緒に行……」
「いや、大丈夫だ。『びーえる』という本だな」
私の話を遮ってアドルフは自信満々に頷いた。書店員に聞けば済むと思っているのかもしれない。だがしかし、甘い!!
私がそんな簡単な宿題を出すわけがないでしょう!
「そう、BL。スパダリイケオジ攻めで不憫受けだよ」
「スパダリイケオジゼメデフビンウケ……? まるで呪文のようだ。呪物は購入に年齢規制があるが、巷ではそんなものが流行っているのか?」
「そうだよ。一部に絶大な人気のあるジャンルなの。それこそ呪いのようにハマったら抜けられないって。でも、アドルフは知らないんだよね? 大丈夫かなあ? 難しいなら無理しないでいいんだよ」
「子供じゃないんだ。買い物くらい大丈夫に決まっているだろう」
ムッと眉を寄せた生真面目なアドルフはメモを取り出して「ビーエル スパダリイケオジゼメデフビン……」とぶつぶつ言いながら書き記し始めた。す、すごくシュールな光景だな……。
本屋さんで見た目イケオジが『イケオジ攻めください』と言っている姿を想像すると、それはそれでちょっと…いや、かなり、見てみたい。
しかし、たとえ本の場所に辿り着いたとしても、きっと彼にはBL本を手に取ることはできないだろう。
世に腐男子なる方々がいることは知っているけど、アドルフがエロ本ひとつ所持していないとんでもない堅物であることは、この家のベッド下、書棚の裏までチェック済みの私が一番よくわかっている。
唯一ある書籍が小難しい歴史書と魔獣の生態図鑑ってどんな性癖だよと逆に心配になるほどだ。
しかも女は働かず家にいるものと思っている節もある、多様性全無視男でもある。
その辺は個人の価値観なので批判するつもりはないけれど、アドルフがエロ有りのBLを受け入れられるとは思えない。
それに、もし異世界にBLジャンル自体が無いとしても『自分で探す』という口実に繋がるのは変わらないのだ。
「わかった。アドルフがそこまで言うなら、期待して待ってるね」
それではよろしくお願いします、と殊勝に頭を下げると、「まかせておけ」という力強い返事が返ってきた。……なんだかちょっと心が痛い。
ちなみに、実は私自身、BL作品を読んだことがないのだが、カップリングなどの知識は元の世界でそのジャンルに命をかける会社の同僚がいたおかげである。
休憩室で顔を合わせると決まって彼女にとっての『癒し』を激推しされていた。
疲れた顔をした私を物陰に手招きし、声を潜めて『疲れなんて一発でぶっ飛ぶ』と怪しい薬のように勧めてきた日のことを昨日のように思い出すなあ。
忙しさに追われて終ぞ手にすることがなかったけれど、こんな所であの時のたわいもない雑談が活きてくるとは。
ありがとう、A子。
私、この世界で腐女子デビューするかもしれない。
※※※
次の日、街に出掛けたアドルフがものすごい顔色で帰ってきた。
青を通り越して白い。やつれさえ感じるのは気のせいではないだろう。
今日も今日とて先ん出て玄関の扉を「おかえり!」と元気よく開けてあげてもいつものお小言が飛んでこなかった。
私と一切目を合わさずに無言でズカズカと家の中に入ってきたかと思えば、リビングの椅子に座りテーブルに肘をついて両手で顔を覆ってしまった。
私は、静かに勝利を確信して片腕を天に突き上げた。
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