それなりに怖い話。

ねえ

ねえ

　女は古いアパートで独り暮らしをしていた。
　同じアパートに住む大家とも仲が良く、古くはあるが住み慣れたアパートだった。

　ある日、仕事帰りに、ねえ、とアパートの廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられる。
　女が振り向くとそこには誰もいない。

　女が向き直ると、再び女の後ろから、今日は刺身がいいわ、と中年女性のような声が聞こえて来る。

　女は怪訝そうな顔をして再度振り返るがやはり誰もいない。
　そもそも、ここは二階でアパートの共用部の廊下だ。
　どこか別の、誰かの話し声が聞こえて来ただけかもしれない。

　女はそう思うことにした。
　そして、一度自分の部屋に帰り、食べ物が何もなかったので夜遅くではあるが、女は買い物へと出かけた。
　近くに夜遅くまでやっているスーパーが近くにあるからだ。

　そこでなんとなく刺身を買う。
　半額のシールも張られていた、そう言った理由もあったが、あの声に影響されていたのかもしれない。

　次の日だ。
　その日も仕事が終わり、自分の部屋に向かう、アパートの共有部の廊下で声を掛けられる。
　刺身にしてくれありがとう、でも私の分は？　と声が聞こえて来る。
　女は振り返るが、やはりそこには誰もいない。

　流石に自分にかけられた言葉だと言うことは、女にも理解できる。
　だが、誰もいないのだ。
　女は気味悪いと思いつつも、自分の部屋へと急ぐ。

　そうするとまた声を掛けられる。
　ねえ、今日は揚げ物がいいわ、と。

　女は恐怖に駆られつつも、自分の部屋へと逃げ込み、部屋に鍵をかける。
　冷蔵庫には昨日買って来た揚げ物が確かにある。

　女はそれを電子レンジで温める。
　自分の分と、余分にもう一つ。

　そうしたほうが良い、なんとなく女にはそう思えたからだ。
　そして、揚げ物を自分のとは別に皿に乗せて、テーブルに置いて置いた。

　朝方、それを確認すると、揚げ物だけが消えていた。

　鍵を確認するが、開けられた形跡はない。
　ドアのチェーンもしっかりとかけられたままだ。
　もし鍵を持ってても、ドアチェーンまでは掛けられはしない。

　相手は人間ではない。
　女はこの時にそう確認していた。

　だから、女はその声になるべく従った。
　大したものは要求されない。
　晩御飯の献立が決められ、一品多く用意するだけで良い。

　それで、何かされないのなら、と女はこの声に従っていたのだ。

　だが、ある日、その声は、ねえ、今日は良いことがあったの。だから鰻が良いわ、と、言い出したのだ。
　アパートの共用部の廊下で女は立ち止まる。
　今から鰻を用意するのは無理だ。
　なので、女は恐る恐る答える。
　無理です、今からでは用意できません、と。
　今にしてみれば、だが、それがその声に初めて返事をしてしまったのだと、女も気づく。

　だが、返事は返ってこない。
　その代わり、アパートの階段を、ギギギッと音を立てて登る音が聞こえて来る。
　ギギギッ、ギギギッと木が軋むような音をさせて。

　女が、その音のなる方を、階段の方を見ると、それがいた。
　木の人形だ。
　マネキンのような、人間サイズの木製の人形で、ニスを塗られたような光沢のある表面をしている人形だ。
　それがアパートの階段を登って来たのだ。
　女は大きな悲鳴を上げて、自分の部屋に逃げ込み、ドアノブを抑える。

　しばらくしてから、ドアのチャイムが鳴り、ドアが叩かれる。
　そして、大家さんの声で、女の名を呼び、安否を確かめるような言葉がかけられる。

　女が安心し、玄関の戸を開けたときだ。
　そこにいたのは木製の人形だった。

　そこで女の意識が途切れる。

　次の日、大家が女を見つけたとき、女は玄関の戸を開けたまま倒れ込むように玄関で寝ていたという。
　大家は笑い話だと思っていたが、女は逃げるように引っ越ししていった。

　ねえ？　どこへ行ったの？