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「先生には青を題材に絵を描いてほしいの」
画家の男は、小奇麗な妙齢の婦人の言葉に頭をひねった。
画家は、彼女とは初対面であった。個展の類に来たとも思えないし、インスタをするようにも思えない。だのに、彼女は何の予告もなしにアトリエの扉をコンコンと叩いて、畳敷きの一室の小さな座椅子にちょこんと座っている。
どこかで画家の作品の値打ちを見たのだろうか、彼女は普段より少し大きめの値段を提示した。画家の男は、どうにも引くに引けなくなっていた。面白い依頼だとも思ったのだ。
「青と言われましても。具体的にはどういったものを描けばいいですか?空とか、海とか。それかええと、ブルーベリーとか」
画家の問いかけに婦人は緩やかに笑うだけで、確かな答えを何一つ言おうとしない。
代わりに口から出たのは、かの大画家の名前だった。
「ピカソの『青の時代』と聞いて、先生は何を思い浮かべる?」
「陰鬱で、重苦しくて、寂しい感覚になりますね」
自分で言っていて、どうにも凡庸な表現だと画家は苦笑した。そんなことは今まで大量の評論家が手を変え表現を変えて言ってきた。だが、一応自分も、同じ画業を生業にして10年は経つ身という自負がある。このままでは恰好がつかない。ゆえに、あえて一言付け足すことにした。
「まさしく、『青ざめた色』と言いますか」
依頼人は深く頷いた。
「『青ざめた』、ね。いいじゃない」
どうやら的を外れてはいなかったらしいと、画家は内心胸をなでおろす。
「ピカソは青に悲しみを見出して、それを濁さずにキャンバスに落とし込んだ。私は先生が青に何を見出すのかに興味があるの」
そう言われると、急に自分がピカソと比肩する大画家のように思われるではないか。恐縮で背筋が伸びる。客観的な評価としてそんなわけもないのだが、どうやら依頼人の中ではそう言うことになっているらしい。
***
「そりゃ変な依頼だね」
ここは、都内のタワーではないマンションのベランダ。画家のアトリエとは程遠い、生活感と清潔感の支配する空間だ。この空間の真なる支配者たる画家の妻は洗濯物を干しながら、壁に向かって逆立ちをする画家を見やる。画家は思索に詰まると逆立ちをする癖があった。曰く、頭に血が巡って『なんかいい』のだという。
「何か見えた?」
「あー・・・ジーパンって青いよねー」
画家は妻の履いているスキニージーンズのことを考えていた。ぴちっとしていて、無駄な肉のない下半身のラインがくっきり出るそのズボンが、画家は好きだった。
「すけべめ」
画家の妻は揶揄うように笑うと、画家の体を支えている二つの腕はへにゃりと曲がり、まるで平仮名の「の」の字のように画家は崩れ落ちた。別に画家がいやらしい視線を送っているわけではないことを画家の妻は知っている。単に人体の造形としての美しさに目が行っているだけ。なのに夫はそのことを気付かれまいと必死で、なんならバレちゃあいないと思っているのがどうにも愛おしくて、結婚したのだ。
恥ずかしかったのか、壁に頭をもたれて「ノ」の字になっている夫に、画家の妻は言った。
「普通はこの青空に目が行くんじゃないの~?ほら、雲一つない快晴だよ?」
「……何もない空は僕には描けないよ。っていうか、空は描くものじゃないから」
ふてくされた声で画家は言う。そのままずるずると「ノ」の字が「へ」の字になったところで、パチンと妻は柏手を打った。
「じゃ、外に行こ?探そうよ、描ける青」
洗濯籠を部屋の隅に置くと、画家の妻は言った。経験上、画家は部屋の中で頭を捻ったところで、インスピレーションは生まれないタイプなのだ。そんな大天才なら山の中に引っ込んでいればいい。彼の創作に必要な種は市井の誰にとっても身近な経験の中にあり、実際それをクライアントは望んでいることが多いのだ。
もにょもにょとした動きで着替えた夫の背を押しながら、マンションの外に出る。
外は9月。夏ももう終わろう頃合いのはずなのだが、じりじりと照り付ける太陽の日差しの厳しさといったら衰え知らずの百万馬力。妻に言われるがまま被った麦わら帽子に感謝するばかりだ。その妻はを言うと日焼け止めも塗らずにきゃぴきゃぴと少女のように足早に歩いていく。
その先にあるのは、海だ。画家の妻が今住んでいるマンションを決めた理由がまさにこれだった。
「海だよ、海!やった~!」
白い浜辺などではなくコンクリートで舗装した無骨な海岸に、およそ綺麗とは言えない色をした海水。
遠くには工業地帯の煙突が立ち並ぶというのに、妻は一年中飽きもせずに、海だ海だとはしゃぐのだ。
こういう時、決まって画家は言うことにしている。
「よかったねぇ」
妻は頷くと、石を拾っては海へと水切りの要領で放り投げる。静かな水面に波紋がぴちゃぴちゃと広がる。手持ち無沙汰になった画家も同じように石を投げてみるのだが、跳ねることなくドボンと無粋な音を立てるだけだ。
妻はそれを見て笑いながら、画家の背を叩いた。画家はムキになって何度か試すのだが、平らな石を選んでいるのにどうしてもうまくいかない。妻はまるで裏拳を放る様にして石を投げながら、画家を振り返る。
「海の青って言うのも無難かな?」
「僕が描いたんじゃ池の水と変わらないよ」
「そっかな~」
点々と水面に広がっていく円を見ながら、画家は諦めたように言った。
存分に海を満喫したらしい妻は、ついでに買い物を済ませようという魂胆らしい。
この暑さ、一度部屋に戻れば外に出るのも億劫になるのは間違いない。しかし冷蔵庫の中身は心もとなかった記憶がほんのりとある。夕餉のためにも二人は少し歩いたところにある商店街まで歩いていくことになった。
「ブルーノマーズは?」「青くないでしょ」
「サムライブルーは?」「サッカー好きそうには見えなかったけど」
「ブルーベリーは?」「流石に怒られるって」
などと話していると、中学生の集団とすれ違った。どうやら流行りのバンドの話で盛り上がっている彼らの湿った頭髪からは、汗とは違うツンとした臭いが鼻に抜けた。画家は猫のように鼻をひくつかせる。
「ありゃプール帰りか」
「そう言えば今年は行かなかったね~、プール」
「今年『も』、だよ」
画家の言葉に妻はケタケタと笑った。近くに市民プールがあるのは知っているし、決して金槌ではないのだが、どうにもお互い水着と言うのが小恥ずかしい性分なのだ。
「新しい水着を見せびらかしたりする気持ちが知れん」
「ほぼ裸じゃんってね」
こうして笑い合うくらいでちょうどいい。そんなことを考えているその時だった。妻は思いついたように声を上げた。
「そうだよ、プールだよ、プール!」
「青いもののこと?」
「そう、底が水色になってるじゃない」
画家は歩きながら腕組をして、一生懸命にイメージをした。
……なるほど、悪くはない発想だとは思う。プールの絵自体は画家も描けるし、プールに青いイメージがないと言ったら嘘になる。
だが、画家はそもそもプールが嫌いなのだ。ピカソは青の時代に母子像や盲人、乞食などの人物画を描いたが、何もそれらが嫌いになったからではない。青いからプールを描きました~などと言えば、あの妙齢の婦人に鼻で笑われてしまう気がした。もうひと捻り欲しい。
「なんか、プールに失礼じゃない?」
「うーん、名案だと思ったんだけどなぁ」
そう言って口をとがらせる妻。
「プールに思い入れも思い出も特にないし」
「ならあれは?」
続けて妻が指さす方には、商店街の入り口のモニュメントにもたれながらアイスを食べている高校生の男女がいた。画家は苦笑した。
「高校生を捕まえて青春だなんて、流石に僕の作風にそぐわないよ。僕よかよっぽどいい絵を掛けるイラストレーターの方がゴマンといるって」
「そこをあえてっていうチャレンジ精神だってば~。若い男女が今しかないときめいた瞬間を、一緒に過ごす甘酸っぱい時間だよ?腕が鳴らない?」
妻が言うのはもっともなのだが、画家自身びっくりするほど興味を惹かれないのだ。
思えば少年時代から絵を描き続けていた画家だったが、ブルーなピリオド的アオハルはなかった。常に意識していたのは同世代のライバルではなく遠く昔の異人たちのポートフォリオだったからだ。
「なんだかなぁ……僕にとっての青春って白黒だからさ」
「いやいや、女子高生の私がいたじゃん」
「よく言うよ、面識なかっただろ。付き合い始めたのは大人になってからじゃないか」
「バレたか」
妻は悪戯っぽく笑う。アーケードのおかげで日差しもないのにまぶしさに目をやられて、画家は麦わら帽子を手で直す。妻とこうして二人過ごす時間が画家は大好きだし、時折見せる少女然とした妻の顔にドキリとすることはあるのだが、それでも青春と言う感じはしない。この関係のことを、画家は内心で朱夏と表現していた。
「お、らっしゃい先生!」
気前のいい野太い声が、そんな画家にどさっと降り注ぐ。妻の言う買い物の目的地は魚屋だった。
ここでいう先生は画家に向けられたものではなく、料理学校の講師をしている妻に向けられたものだ。画家も小さく会釈をすると、魚屋の主人は「お、ハンバーグの旦那だ」と小さく反応する。気を抜くと肉ばかり買ってしまう画家の男は、この魚屋の店主とはほぼ初対面だ。だのになぜ自分がハンバーグが好物だと知っているのか。
「どうも~、暑い日が続きますね~」
などと答えながら、画家の私生活を言いふらしているであろう張本人は、赤や銀のまぶしい宝石たちを相手に品定めを始めている。これは時間がかかりそうだ。何せ素人の画家の男の目にさえも、今日の魚はどれもおいしそうに映るのだから。
画家の男は、思い切って魚屋の主人にも聞いてみることにした。
「青?」
「ええ、ちょっと題材を探してまして」
「それなら、これなんてどうですかい。旬にはちと早いですが、なかなかおいしそうでしょ?」
差し出されたものを見て、画家は妻と顔を見合わせる。どう見ても青くはない。
「今日は味噌煮でいい?」
妻の言葉に、画家は大きく頷いた。
***
「なるほど、これが先生の『青』……」
依頼人の婦人は壁にかけられた絵を見て、満足そうに唸っている。
それはどう見ても青くはないのだが、確かに夫人の心を打つに足るものだったようだ。
「確かにこれなら、白黒なのに青だわ」
その言葉を聞いて、画家は小さく微笑む。
キラリと銀に光るは、青花魚なる青魚。
掛け軸には、堂々見事な鯖の水墨画が描かれていた。
画家の男は、小奇麗な妙齢の婦人の言葉に頭をひねった。
画家は、彼女とは初対面であった。個展の類に来たとも思えないし、インスタをするようにも思えない。だのに、彼女は何の予告もなしにアトリエの扉をコンコンと叩いて、畳敷きの一室の小さな座椅子にちょこんと座っている。
どこかで画家の作品の値打ちを見たのだろうか、彼女は普段より少し大きめの値段を提示した。画家の男は、どうにも引くに引けなくなっていた。面白い依頼だとも思ったのだ。
「青と言われましても。具体的にはどういったものを描けばいいですか?空とか、海とか。それかええと、ブルーベリーとか」
画家の問いかけに婦人は緩やかに笑うだけで、確かな答えを何一つ言おうとしない。
代わりに口から出たのは、かの大画家の名前だった。
「ピカソの『青の時代』と聞いて、先生は何を思い浮かべる?」
「陰鬱で、重苦しくて、寂しい感覚になりますね」
自分で言っていて、どうにも凡庸な表現だと画家は苦笑した。そんなことは今まで大量の評論家が手を変え表現を変えて言ってきた。だが、一応自分も、同じ画業を生業にして10年は経つ身という自負がある。このままでは恰好がつかない。ゆえに、あえて一言付け足すことにした。
「まさしく、『青ざめた色』と言いますか」
依頼人は深く頷いた。
「『青ざめた』、ね。いいじゃない」
どうやら的を外れてはいなかったらしいと、画家は内心胸をなでおろす。
「ピカソは青に悲しみを見出して、それを濁さずにキャンバスに落とし込んだ。私は先生が青に何を見出すのかに興味があるの」
そう言われると、急に自分がピカソと比肩する大画家のように思われるではないか。恐縮で背筋が伸びる。客観的な評価としてそんなわけもないのだが、どうやら依頼人の中ではそう言うことになっているらしい。
***
「そりゃ変な依頼だね」
ここは、都内のタワーではないマンションのベランダ。画家のアトリエとは程遠い、生活感と清潔感の支配する空間だ。この空間の真なる支配者たる画家の妻は洗濯物を干しながら、壁に向かって逆立ちをする画家を見やる。画家は思索に詰まると逆立ちをする癖があった。曰く、頭に血が巡って『なんかいい』のだという。
「何か見えた?」
「あー・・・ジーパンって青いよねー」
画家は妻の履いているスキニージーンズのことを考えていた。ぴちっとしていて、無駄な肉のない下半身のラインがくっきり出るそのズボンが、画家は好きだった。
「すけべめ」
画家の妻は揶揄うように笑うと、画家の体を支えている二つの腕はへにゃりと曲がり、まるで平仮名の「の」の字のように画家は崩れ落ちた。別に画家がいやらしい視線を送っているわけではないことを画家の妻は知っている。単に人体の造形としての美しさに目が行っているだけ。なのに夫はそのことを気付かれまいと必死で、なんならバレちゃあいないと思っているのがどうにも愛おしくて、結婚したのだ。
恥ずかしかったのか、壁に頭をもたれて「ノ」の字になっている夫に、画家の妻は言った。
「普通はこの青空に目が行くんじゃないの~?ほら、雲一つない快晴だよ?」
「……何もない空は僕には描けないよ。っていうか、空は描くものじゃないから」
ふてくされた声で画家は言う。そのままずるずると「ノ」の字が「へ」の字になったところで、パチンと妻は柏手を打った。
「じゃ、外に行こ?探そうよ、描ける青」
洗濯籠を部屋の隅に置くと、画家の妻は言った。経験上、画家は部屋の中で頭を捻ったところで、インスピレーションは生まれないタイプなのだ。そんな大天才なら山の中に引っ込んでいればいい。彼の創作に必要な種は市井の誰にとっても身近な経験の中にあり、実際それをクライアントは望んでいることが多いのだ。
もにょもにょとした動きで着替えた夫の背を押しながら、マンションの外に出る。
外は9月。夏ももう終わろう頃合いのはずなのだが、じりじりと照り付ける太陽の日差しの厳しさといったら衰え知らずの百万馬力。妻に言われるがまま被った麦わら帽子に感謝するばかりだ。その妻はを言うと日焼け止めも塗らずにきゃぴきゃぴと少女のように足早に歩いていく。
その先にあるのは、海だ。画家の妻が今住んでいるマンションを決めた理由がまさにこれだった。
「海だよ、海!やった~!」
白い浜辺などではなくコンクリートで舗装した無骨な海岸に、およそ綺麗とは言えない色をした海水。
遠くには工業地帯の煙突が立ち並ぶというのに、妻は一年中飽きもせずに、海だ海だとはしゃぐのだ。
こういう時、決まって画家は言うことにしている。
「よかったねぇ」
妻は頷くと、石を拾っては海へと水切りの要領で放り投げる。静かな水面に波紋がぴちゃぴちゃと広がる。手持ち無沙汰になった画家も同じように石を投げてみるのだが、跳ねることなくドボンと無粋な音を立てるだけだ。
妻はそれを見て笑いながら、画家の背を叩いた。画家はムキになって何度か試すのだが、平らな石を選んでいるのにどうしてもうまくいかない。妻はまるで裏拳を放る様にして石を投げながら、画家を振り返る。
「海の青って言うのも無難かな?」
「僕が描いたんじゃ池の水と変わらないよ」
「そっかな~」
点々と水面に広がっていく円を見ながら、画家は諦めたように言った。
存分に海を満喫したらしい妻は、ついでに買い物を済ませようという魂胆らしい。
この暑さ、一度部屋に戻れば外に出るのも億劫になるのは間違いない。しかし冷蔵庫の中身は心もとなかった記憶がほんのりとある。夕餉のためにも二人は少し歩いたところにある商店街まで歩いていくことになった。
「ブルーノマーズは?」「青くないでしょ」
「サムライブルーは?」「サッカー好きそうには見えなかったけど」
「ブルーベリーは?」「流石に怒られるって」
などと話していると、中学生の集団とすれ違った。どうやら流行りのバンドの話で盛り上がっている彼らの湿った頭髪からは、汗とは違うツンとした臭いが鼻に抜けた。画家は猫のように鼻をひくつかせる。
「ありゃプール帰りか」
「そう言えば今年は行かなかったね~、プール」
「今年『も』、だよ」
画家の言葉に妻はケタケタと笑った。近くに市民プールがあるのは知っているし、決して金槌ではないのだが、どうにもお互い水着と言うのが小恥ずかしい性分なのだ。
「新しい水着を見せびらかしたりする気持ちが知れん」
「ほぼ裸じゃんってね」
こうして笑い合うくらいでちょうどいい。そんなことを考えているその時だった。妻は思いついたように声を上げた。
「そうだよ、プールだよ、プール!」
「青いもののこと?」
「そう、底が水色になってるじゃない」
画家は歩きながら腕組をして、一生懸命にイメージをした。
……なるほど、悪くはない発想だとは思う。プールの絵自体は画家も描けるし、プールに青いイメージがないと言ったら嘘になる。
だが、画家はそもそもプールが嫌いなのだ。ピカソは青の時代に母子像や盲人、乞食などの人物画を描いたが、何もそれらが嫌いになったからではない。青いからプールを描きました~などと言えば、あの妙齢の婦人に鼻で笑われてしまう気がした。もうひと捻り欲しい。
「なんか、プールに失礼じゃない?」
「うーん、名案だと思ったんだけどなぁ」
そう言って口をとがらせる妻。
「プールに思い入れも思い出も特にないし」
「ならあれは?」
続けて妻が指さす方には、商店街の入り口のモニュメントにもたれながらアイスを食べている高校生の男女がいた。画家は苦笑した。
「高校生を捕まえて青春だなんて、流石に僕の作風にそぐわないよ。僕よかよっぽどいい絵を掛けるイラストレーターの方がゴマンといるって」
「そこをあえてっていうチャレンジ精神だってば~。若い男女が今しかないときめいた瞬間を、一緒に過ごす甘酸っぱい時間だよ?腕が鳴らない?」
妻が言うのはもっともなのだが、画家自身びっくりするほど興味を惹かれないのだ。
思えば少年時代から絵を描き続けていた画家だったが、ブルーなピリオド的アオハルはなかった。常に意識していたのは同世代のライバルではなく遠く昔の異人たちのポートフォリオだったからだ。
「なんだかなぁ……僕にとっての青春って白黒だからさ」
「いやいや、女子高生の私がいたじゃん」
「よく言うよ、面識なかっただろ。付き合い始めたのは大人になってからじゃないか」
「バレたか」
妻は悪戯っぽく笑う。アーケードのおかげで日差しもないのにまぶしさに目をやられて、画家は麦わら帽子を手で直す。妻とこうして二人過ごす時間が画家は大好きだし、時折見せる少女然とした妻の顔にドキリとすることはあるのだが、それでも青春と言う感じはしない。この関係のことを、画家は内心で朱夏と表現していた。
「お、らっしゃい先生!」
気前のいい野太い声が、そんな画家にどさっと降り注ぐ。妻の言う買い物の目的地は魚屋だった。
ここでいう先生は画家に向けられたものではなく、料理学校の講師をしている妻に向けられたものだ。画家も小さく会釈をすると、魚屋の主人は「お、ハンバーグの旦那だ」と小さく反応する。気を抜くと肉ばかり買ってしまう画家の男は、この魚屋の店主とはほぼ初対面だ。だのになぜ自分がハンバーグが好物だと知っているのか。
「どうも~、暑い日が続きますね~」
などと答えながら、画家の私生活を言いふらしているであろう張本人は、赤や銀のまぶしい宝石たちを相手に品定めを始めている。これは時間がかかりそうだ。何せ素人の画家の男の目にさえも、今日の魚はどれもおいしそうに映るのだから。
画家の男は、思い切って魚屋の主人にも聞いてみることにした。
「青?」
「ええ、ちょっと題材を探してまして」
「それなら、これなんてどうですかい。旬にはちと早いですが、なかなかおいしそうでしょ?」
差し出されたものを見て、画家は妻と顔を見合わせる。どう見ても青くはない。
「今日は味噌煮でいい?」
妻の言葉に、画家は大きく頷いた。
***
「なるほど、これが先生の『青』……」
依頼人の婦人は壁にかけられた絵を見て、満足そうに唸っている。
それはどう見ても青くはないのだが、確かに夫人の心を打つに足るものだったようだ。
「確かにこれなら、白黒なのに青だわ」
その言葉を聞いて、画家は小さく微笑む。
キラリと銀に光るは、青花魚なる青魚。
掛け軸には、堂々見事な鯖の水墨画が描かれていた。
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