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#012 デニッシュメアリー
しおりを挟む別れてください。
僕の彼女から送られて来たメッセージ。
バーカウンターに座っていた僕は、そのたった一言だけ送られてきた別れの言葉を見つめながら、もう片方の手に持っていたグラスを、ゆらり…ゆらり…と揺らした。
今日は、僕らが付き合って4年目の記念日。
今夜は、このバーで一緒に飲む約束をしていた。
しかし、彼女は時間になってもやってこなかった。僕から彼女に何度連絡しても返事はかえってこず、やっと来たと思った返事がこれだ。
こっちから連絡しようにも、既にブロックされたようで、何もしようがない。
とはいえ、別に今更連絡しようとも思っていなかった。
僕にはわかる。彼女は、きっと今頃他の男と会っているのだろう。
それに対して怒りもない。
なぜかというと、僕は彼女がもう随分前から浮気をしていることを知っていたし、それを咎めようとも思っていなかったからだ。
彼女の浮気が発覚したのは1年前。
彼女と僕の共通の友人から、僕へと連絡が来た。
彼女が他の男とホテルに入っていくのを見た……と。
最初は驚いた。しかし疑いはしなかった。
嘘であってくれ。なんて、これっぽっちも思わなかったんだ。
仕方ない。ただそれだけだ。
ちょうどあの頃は、仕事で忙しいことを理由にしてほとんど家に帰っていなかったし、寂しい思いをさせていたんだろう。
彼女は、その寂しさを埋めようとしたんだ。
勿論。浮気をされたことで傷ついていないと言えば、嘘になる。
でも、僕には彼女を責めることは出来なかった。
彼女もまた、僕に何も言わなかった。
僕達はいつもと同じように、会えば互いを強く抱きしめ、口付け、長い夜を共にした。
例え偽物の愛だとしても、幸せな時間だった。
彼女に触れられる度、彼女を手離したくないと思った。
きっと僕は、心のどこかで期待をしていたんだ。
彼女が、僕をまだ愛してくれていると。
だからこそ、またこのバーに2人で来れると思っていた。
2人の思い出がたくさん残るこのバーで、今日という日を過ごしたかった。
しかし、それは叶わなかった。
こんな自分が惨めで情けない。
もう彼女に愛して貰えないとわかりながらも、ここで一人彼女を待ち続けている自分が、本当に惨めだ。
どうせ待っていても誰も来やしない。
このまま帰ろう。そう思いながらも、僕はこの席を立てずにいる。
「……失礼致します」
頭から降ってきた声と共に、カウンターを挟んだ向こう側から、グラスが差し出される。
顔を上げると、そこには若いバーテンダーがいた。
「お客様に、ある方からカクテルをお出しするよう頼まれていましたので……」
僕の目の前にはカクテルが置かれている。
綺麗な赤色をしたカクテルだった。
「……ある方って、誰です」
僕の問いに、バーテンダーは少し困った顔をしたが、すぐにその口を開いた。
「……これまでずっと、お客様の隣に座っていらっしゃった方です」
彼の言葉にハッとする。
このカクテルは、彼女からなのだ……と。
今日僕の隣に来ることはなかった、あの愛しい彼女からのものなのだと。
「これは、何ていうカクテルですか?」
「デニッシュメアリーというカクテルです。あの方からは、意味も調べて欲しいと伝言を預かっております」
バーテンダーはそれだけ言うと、他のお客の方へと歩いていった。
カクテルに意味なんてあるのか。そう思いながらも、自分のスマホで「デニッシュメアリー 意味」と調べる。
「……そうか、そうだったのか……」
画面を見つめる自分の目頭が熱くなるのがわかった。
あぁ、僕はなんてやつなんだ。
彼女をこんな気持ちにさせていたことに気が付かなかったなんて。
彼女の浮気を受け入れたような顔をして、自分はまだ愛されているのかもなんて思い込んで、彼女の本心に目を向けることさえしていなかったなんて。
「……すまない、」
こんなこと、彼女がいない場所で言ったって仕方ない。今更何を言ったって遅いんだ。
もう何もかもが遅かった。遅すぎたんだ。
今の僕は、彼女が離れていったしまったことがこんなにも怖いと感じているのに。
僕は、まだ彼女を愛しているのに。
彼女の温もりは、今だってこの体に染み込んでいるのに。
この気持ちは、簡単には忘れられないというのに。
どうして。どうして気づけなかったんだ。
……どうして今になって気づくんだ。
もうどんなに願っても、彼女は帰ってこないのに。
目からこぼれた涙が、グラスの中に落ちる。
涙は、彼女から僕へ渡された最後の言葉の中へ溶けていった。
ー完ー
今回のカクテル 「デニッシュメアリー」
アクアビット、トマトジュース、ウスターソース、セロリソルトを使って作られる、綺麗な赤色をしたカクテル。
度数は低いが、口当たりはやや辛口。
お好みでレモンを絞ると、レモンの爽やかな風味と、コクのあるトマトの風味が楽しめる。
意味は 「あなたの心が見えない」
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