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【第二章】
三
しおりを挟むさらさらと雨が降っていた。
春も半ばを過ぎ、夏に近付こうとするこの季節、龍黎では雨が多くなる。といっても一日中降り続けることはあまりないので、せめて昼過ぎにはあがっていて欲しいなと願いながら、翠蘭は早餐をとっていた。
規則で、すべての料理は少しずつ残しておかなくてはならない。何ヵ月経っても慣れない規則だったから、翠蘭の目は自然、下げられる器を追いかけてしまう。
卓上に茶杯が置かれた。
「どうぞ」
柑華が差し出したそれに、翠蘭の顔に苦いものが浮かぶ。
後宮に上がるときに受けた身体検査で、肝が丈夫ではないと言われた。その薬なのだが、最初は口をつけることすらできなかったほどに不味い。最近は、一緒に辛みの強い菓子を出してもらっているので、なんとか飲むことができているが、
「これこそ残したいんだけどな」
と愚痴を言わずにはいられない。
ひと口でも残すとものすごい顔で睨まれるので、仕方なく飲んではいる。不本意とはいえ、衣食住に困らない生活をさせてもらっているのだ。このくらいは我慢しなければならない。が、
(せめて一日一回がいいよぅ)
正直泣きたくなる。朝晩の食事の後に飲まなければならないのは、辛い。
「今日は風雅をお教えいたします。一日も早くそれなりの詩を詠めるようになっていただきませんと」
口の中に残るざらつく不味さに顔を歪める翠蘭に、喬玉が告げる。風雅とは貴族の姫としての教養のひとつで、韻を踏んだ古語を並べて自分の心情を詩歌に詠むものだ。気分任せに適当に歌を歌うのは好きだけれど、七言の句を関連付けながら八つ並べなければならないなど細々とした規則だらけの風雅は、単語ひとつ考えるだけで頭が痛くなる。不味い薬を飲んでいるときには聞きたくない台詞だった。
黙り込んでいると、喬玉の視線が突き刺さってくる。
「―――判りました……」
もぞもぞと答えると、口の中の風味が鼻に抜けて、不味さがいっそう増してきて、自然眉間にしわが寄る。
「お返事はよろしいですが、ちゃんと詩に反映してもらいたいものですわね」
「すみません……」
「わたくしどもにお謝りになる必要はございませんと何度申し上げれば判っていただけるのですか」
「はぁ……。あ、いえ、はい」
結局また今回も、喬玉は盛大な溜息を落として部屋を出ていってしまった。口を濯いだ水を碗に吐き出すと、待っていた女官がそれを下げ、柑華とともにそのまま一礼していなくなってしまった。
雨音が、ひとりきりの房室に沁み渡る。
(雨じゃなかったら……)
いますぐにでも抜け出すのに。
郭風騎と名乗ったあの青年と、もう一度話をしたかった。彼の声を、また聞きたかった。
風騎は、とても話しやすかった。気負いもなにもなく、彩秋飯館で働いていたときのように自然と言葉が溢れていた。翠蘭の歌う適当なあの歌すら、莫迦にせず褒めてくれた。
さらさらと柔らかに降っていた雨が、いつの間にか音をたてて屋根を叩くようになっている。窓外の園林は雨の色に濡れ、空を見上げれば、暗い雲がずっと向こうの端にまで続いている。
今日は一日雨かもしれない。
ぼんやりとそう感じた。
さすがに雨の中、園林を歩くことはできない。
あのひとは、待っているだろうか。
―――結局この日は一日中雨に降られた。その翌日も、朝から雨が降りだして、やっとやんだのは日も暮れた頃だった。
あれから二日が経った。この日は曇ってはいたが雲の隙間は広く、青い空が顔を覗かせていた。
午前中は刺繍を教えられ、午後は香の講義。どちらもけっして翠蘭は良い生徒ではなかったけれど、これが終われば風騎に逢えるかもしれないという思いが、それまで以上に彼女を熱心にさせた。
長々とした講義が終わり、ふたりの侍女が退がっていく。女官の姿も見えなくなった頃あいをはかって、翠蘭は自室を出た。
下草が濡れているだろうから、裳や裙が濡れないよう、よりいっそう注意をしながらあの場所へ向かう。
気持ちがはやっている。桂池と呼ばれる池を過ぎるとき、飛び石に軽く足を滑らせた。転ぶことこそなかったが、急いている自分がなんだか可笑しかった。
紅い牆壁が現れる。築山をまわり、下草を気にしながら牆壁へと急ぐ。
すると、先日来たときにはなかったものが、牆壁の上に見えた。青い、小さなものが思い出すようにときおりそこで動いている。
「……鳥さんだ」
手のひらに乗るくらいの大きさだろうか、小さな青い鳥が、牆壁の瓦屋根にちょこんと留まっていた。
紅い牆壁と小鳥の青色に、翠蘭の胸は弾む。
「とりさん とりさん こんにちは~
雨の間は 雨宿り
やっとお外で 元気に遊ぶ
遊んで ほらほら 疲れたにゃー
にゃーにゃー 猫ちゃん やってくるぅ」
歌に被るようにして、笑い声があった。一瞬、心の臓がはねたが、すぐにそれが風騎のものだと気付く。
「風騎さま、ですよね?」
「歌わずにはいられない、というふうだね」
胸の底をくすぐられるような声だ。どうしようもないほどに、聞いていて心地のよい声。
「……やっぱり、風騎さまも呆れますよね」
「どうして?」
是、ではなく、問い返してくれたことが、嬉しい。
「何度も聞かされると、鬱陶しくなるんですって。老板からもよく言われました」
「老板? ああ、街にいたんだったね。どこかの店で働いていたの?」
「香江坊にある『彩秋飯館』ってところで給仕をしてました」
「元気いっぱいだったんだろうね。行ったことはないが、そなたが歌を歌っている様子が目に浮かぶよ」
「今度、機会がありましたら、お立ち寄りくださいませ。蘿蔔絲餅がお勧めなんです」
「蘿蔔絲餅?」
知らない単語を聞いたような声だった。
「丸いお餅の中に、細く切った蘿蔔を入れて焼いたものなんです。ああ、思い出しただけでお腹が空いちゃう。これを目当てに、他の街からやって来るお客さんもいるんですよ」
「そんなにも美味しいのか」
「はい! 大好物なんです、わたし」
「いつか行くことがあったら、そなたが元気にしていたと店主に伝えよう」
「―――ありがとうございます……!」
風騎は、翠蘭の心細さを感じ取っているのだろうか。ひとつひとつの言葉が優しくてたまらない。
「でも風騎さま。そう伝えてしまわれると、わたくしと言葉を交わしたと知られてしまいます」
「あ……、そうだった」
すっかり失念していたようだ。
くすくすと、つい笑い声が漏れてしまう。
風騎は、難関の科挙をくぐり抜けた〝官吏〟という遠い存在ではなく、街のみんなと全然変わらない気さくさがある。話していて、ものすごく楽だ。
この日も、翠蘭は風騎と話を続けていった。降りだした雨に話を切り上げ自室に戻ってみると、ほんの僅かな時間だとばかり思っていたのに、随分と時間が経っていた。
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